るりとうわた色の空に

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寒いです


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今日の 最低気温と最高気温の予報
差が4度と言うのは 身に優しくて嬉しいけれど いよいよババシャツの出番となりました
半袖ですけどね

ヒートテックとか 最近の流行りもあるけど あえて躊躇うことなく ババシャツと言えるところに 若さを強調しているつもりの私が 本当に若い頃 タンクトップ型のシャツを着ることはあっても 防寒の肌シャツを身に着けることはありませんでした
しかし 老化は如実に体が反応して 数年前から もう ババシャツなしの冬は考えられません

背中を温めれば体中が暖かいという持論みたいなものがあって ベストを着ることも多い私
最近になって聞くところによると 心臓を温めれば寒くない という生態の理論もあるそうで スカーフを胸の辺りで結んでおけば 手足を厚着しなくても暖かいのだとか


サルビアディスカラーが 見事です

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育てるようになって 毎年 咲くには咲くのだけれど 花茎は いつも1本
それが このたびは 3本の花茎に つぼみも ズラ~と並びました
伸びた枝をカットするには惜しく 背丈を詰めるつもりで植え替えたのが良かったようです


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一輪が萎れ 花屋の売り場を退いて譲り受けたミニの胡蝶蘭も 我が家では まだまだ これからが花です







ムーちゃん 初めての遠出


先代のワンコは たまたま飼った時期に移動が多く 飛行機や車に乗り慣れていましたが 犬は耳が良いから乗り物に酔い易いと聞きます

それで ちょっと考えはしたものの 行楽の秋に土曜日のこと 4時出発で帰宅時刻は予想がつかないため 300kmの遠出に ムーちゃんを連れて行っちゃいました
日本語が解ればね
狭い車の中で何時間 もしかすると気持ち悪くなっちゃうかもしれないけど 一人で家にいるのと どっちが良いか 本人に選択してほしいところ

首都高から中央道へと 息子の運転 100km/h のオカゲと言って良いのか 3度の休憩を入れても5時間後に 目的地の中津川に到着
案ずるより産むが易くて サービスエリアのドッグランで遊んだり 車中では ロールパンを食べたり 私に抱かれっぱなしで 満足気なムーでした


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このたびの目的遂行に便乗しただけのムーちゃん
用事が済むまで 私と 秋深い中津川駅近くの公園で時間つぶし
日差しが まぶしかった?

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「飯田より松川産が美味しい」
という義母の言葉が根付き それを信じる我が家
帰りの中央道を松川で降りて 天使たちと約束しているリンゴ狩りの下見に


冬の果物なら ミカンより リンゴかな
海を知らない子が 鮭は切り身で泳いでいると思っているのも解る気がする私は 子供のころ 店頭に並んでいるリンゴしか知りませんでした

おとぎ話が潜んでいそうな 緑の中に赤い実がコラボする風景に 大人になっても誰しもが 心躍らせてしまうのではないかと思うのは 私だけでしょうか






5個 100円

先日の 奥多摩で むかしみち を歩いたときのこと 目的とは別に 思いがけない収穫がありました

長く 東京で暮らして来て 意外にも奧多摩で こんなに柚子が育てられているとは知らず
随所に柚子の木が植えられており ちょうど時期を迎えて 枝を たわませる黄色い実にビックリ

そして 奧多摩で暮らす方々のお人柄

車の旅では 諸所で見かける無人の八百屋
鍵がかけられ さらに移動不可能の塀や柱に  鎖で繋がれている料金箱が常の ご時世

ここでは < みんな100円> と記されたメモと 柚子やサトイモなどが 適量に詰められたビニール袋に紛れて 数個のコインが入っている小箱は 剥き出しのまま

その ほのぼのとした光景に誘われてか いつもは荷物を持つことを嫌い めったに オミヤゲなどの買い物はしない友が 珍しく2袋 私も 1袋 いただいて来ました

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新鮮な柚子が5個で100円


ブログに限らず 私が触れたくない話題の一つが お金の話
私が 好まない言葉の一つが 年金生活

生きて行くのに欠くことの出来ない お金
だからかな
お金の匂いは避けて 生きていたいのかもしれません

ご主人がリタイヤした友人と  電話で話すうちに 「 私も年金生活になり ・・・ 」 というセリフが出て来たので

私ね 年金生活 という言葉は 嫌いなの
よく 「 私は年金生活者だから 」 と言って オサイフの紐を固くする人がいるでしょう ?
年金生活を枕詞にして ケチをカモフラージュする お金の亡者さん ~

こんな 私の < 年金生活吹聴論 > を聞いていて
「 あら ヤダ! あなたに そう思われるんなら もう年金生活 って言うの やめようっと ! 」 と 宣言する友は 会社役員を務められた ご主人がリタイヤして 家賃収入アリの 悠々自適

年金生活
それは その人その人 それぞれが生きてきた証し

堅実な働き蜂は もしもの時は残された家族が 路頭に迷わないように ・・・
めでたくリタイヤの時を迎えたなら それまでと変わらない生活を保てるように ・・・

そうして 老後の安定した生活が約束されるのだ

年金生活とは 貧相な生活の代名詞ではない



たまにはね
世間への愚痴とか 親戚 知友人との摩擦とか いろいろと 宇宙人に語り掛けたいときもある

むしろ 心のヒダを語りたくて始めた 私のブログ

まさか あれほど私を否定した人が わざわざ < 麦のブログ> を検索してまで 追いかけてくるとは 想像もしませんでしたからね

その人に 私の心のヒダを晒すなんて ぜったいに出来ない


ストーカーのような 足跡

いい加減にしてほしい ・・・




歴史問題  ラストスパート

なんちゃって歴女が 本物の歴女に成り得るでしょうか!
いよいよ ゴールのテープが見えてきました歴史問題 最後の10問です


問題八十一
>頼光の大江山の鬼・酒呑童子を退治したという活躍は世に鳴り響くことになりましたが、真実は何だったのでしょうか?

・ 鬼は架空の生き物ですから、武勇的人物像として鬼退治の話、ということですか?



問題九十一
 1608年近江国高島郡小川村に生まれる。名利を避け、清貧の中で求道生活を続けた高徳の人として広くその名を知られた。彼の教えは近隣の農民にも及び、その感化力に驚いた熊沢蕃山が入門を請うた。また老いた母のために職を辞し、母の喜びをわが喜びとした逸話は、近代になってからも孝の道徳をあらわす典型として、国定教科書に収められた。内村鑑三は日本史上最も理想的な教育者として『代表的日本人』の中でその求道生活を紹介した。さて、この日本陽明学派の祖といわれている人物とは?

・  中江 藤樹


問題九十二
貴族や皇族のためであった仏教を庶民に開いた人。1186年、京都大原勝林院での問答(談義)では、居ならぶ各宗の碩学を前にして、諸宗の法門、修行の方軌、得脱の有様についてのべ、さらにこれに対して浄土の法門こそ現今、万人に適したただ一つの教えであることを示した。
この大原談義において浄土門を示し知恵第一と称された人物はだれか?
また、この時、この人物に仕えていた人に蓮生という人がいたが、この人物の経歴は非常に有名である、これについて答えなさい。

・ 法然上人
・ 熊谷直実ですね?
平家に仕えていたが石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる
のちに出家して法然上人の門徒となり蓮生と号した


問題九十三
明治新政府時代の軍人の妻。名前を「七」といったが結婚に際して、「七」は八百屋お七を連想させるということで、「静子」に変名した。姑の寿子との折り合いが悪く、二人の男児が生まれたあとでついに別居した。明治45年7月30日の明治天皇の崩御のあと、9月13日の大喪の礼の当日、夫と共に自害・殉死した。この夫婦とは誰でしょう?

・ 乃木希典 静子


問題九十四
江戸城内での刃傷事件は元禄赤穂事件が有名だが、赤穂事件以外にも記録がある。1684年、淀川河川工事のいきさつから、ときの大老・堀田正俊を江戸城内で刺殺した大名とは誰でしょう?

・ 稲葉正休


問題九十五
徳島県出身、明治から昭和の婦人活動家。徳島の小学校などで代用教員をしていたが1909年上京した。病気の弟との貧困の中での生活苦から勤務先での社長のセクハラ行為を拒否できない状況を雑誌に投稿して議論となる。1914年12月号の雑誌「青鞜」は「生きるために女が自分の性を売ることは許されるのか」という、当時としてはショッキングな問いかけで始まる。このとき論戦を張った安田皐月には、生きるために女が自分の性を売ることがとうてい理解しがたいと主張した。安田皐月は日本女子大を卒業して、親の支援を得て独立した販売店を経営するという、当時としては進んだ女性でしたが、貧困の中で生きるために苦しんでいる女性が、自分と同じ『青鞜』の一員であることが許せなかったようだ。さて、この論争において「私たち女に財産と職業がない事は本当に忘れぬ事の出来ぬ災害である」と主張し、貧困の中を歩み、昭和の戦後の時代まで生き抜いたこの女性とは誰でしょう?

・ 生田花世


問題九十六
今年の夏は各地で豪雨水害が発生しました。近畿では、京都・福知山も被害があった地域でした。
さて、この福知山は城下町で知られていますが、江戸時代、ある魚をめぐって城主は自害、お家断絶という血生臭い事件が起こりました。さて何という魚をめぐる事件だったのでしょう?

・ 寒ブリ


問題九十七
幕末の思想家。
1854年、ペリ-が日米和親条約締結の為に再航した際に、金子重之輔と二人で伊豆下田港に停泊中のポ-ハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。のち自首し、下田で取調べを受けた後、江戸伝馬町の牢屋敷に送られたが、罪人として国元へ送られ野山獄で幽閉された。翌1855年放免となり出獄し塾を開いた。1858年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画するが藩により逮捕された。翌1859年、老中暗殺の企てが幕府に露見し安政の大獄に連座、幕府の命により江戸に護送され斬首された。享年30歳。
この思想家とは誰でしょう?

・ 吉田松陰


問題九十八
日本にそろばんが伝わったのは14世紀だといわれています。そして、そろばんの普及と共に計算技術も発達してゆきました。江戸時代の初めごろに、日常生活に必要な計算の方法を書いた参考書が編纂されました。そして、この本によって日本独自の数学である「和算」の基礎が築かれました。著名な和算学者の関孝和や貝原益軒もこの本を手に取りました。さて、この本の題名と著者は誰でしょう?

・ 塵劫記
・ 吉田光由


問題九十九
江戸時代、摂津の人。俗姓下川氏。若い時に真言宗の僧として高野山で修業し、大坂生玉の曼陀羅院住職となる。その間に、下河辺長流と出会い、学問的な示唆を受ける。その後は遍歴を重ねる。和泉国池田万町・伏屋重賢宅に仮寓し、古典を渉猟する。仏教書や和漢の古書に精通した学識で古典を研究し、「勢語臆断」、「古今余材抄」などの古典の注釈や、仮名遣い研究で優れた業績を残した。人となり清介、貧に安んじ、素に甘んじた人柄で、水戸徳川光圀の命で執筆した『万葉代匠記』(『万葉集』注釈書)は、実証的で緻密、しかも創見が多く、後世に大きな影響を与えた。「国学」は本書の成立を以て始まったとされる。この人物とは?

・ 契沖


問題百
1854年生まれ、佐賀県唐津出身の建築家。17歳の時に唐津藩の英語学校に入学、明治5年、上京(当時、唐津から東京までは、船を乗り継ぎ、開通したばかりの横浜~新橋は鉄道を利用し、それでも唐津から12日間もかかる旅だったそうです)。20歳の時、工部省工学寮第1回入学試験があり、やっとのことで末席、しかも再試験で合格します。当初、造船を志望しますが、教養課程終了後、造家科、今の建築学科に進みます。 明治10年、建築学科に英国から25歳の若さでジョサイア・コンドルが教授として着任します。 明治12年、末席で入学ながら、何と工部大学校を首席で卒業します。この頃、首席で卒業した者には官費で英国留学がご褒美としてありました。さらに帰国後には英国からの教授に替わり教官となって後輩の指導に励みました。
この建築家とは誰でしょう? また彼の建築物を三ヶ所あげなさい。

・ 辰野金吾
・ 日本銀行本店 東京駅 奈良ホテル



今回は けっこう自信があります。
さて 有終の美を飾ることができるでしょうか !





奥多摩の むかしみち

10月に計画した行楽が 2回も雨
めげることなく 11月3日に予定した山歩きが またも雨の予報という運の悪さを突きつけられては 何十年ぶりかで 「ボーリングに行ってみよう」 と開き直っていたところ 11月3日の特異日は例外なく 前々日になって晴れの予報

晴れ女の威力復活かと 奥多摩の むかしみち を歩いて来ました

6時に出発 途中で時間調整があり 奥多摩駅に到着したのが 9時過ぎ

駅から奥多摩湖まで バスだと 30分ほどのところを 片道だけ 標高300mの山中を抜ける むかしの道を歩くのが今回の目的
社交ダンスを趣味とする健脚の友は 山歩きは得意だけどPCとは縁がなく 携帯電話もガラケー
新聞や雑誌から情報を得ては 詳しい行程を私に依頼するのが 暗黙の お誘い

しかし このたびの 「むかしみち」 には PCでは得られなかった重要な情報が潜んでいました

バス時刻表を検索した結果の案は
駅から まず <むかしみち> を歩いて奥多摩湖に向かい 途中の適度な時刻と休憩所でお弁当にして 復路をバスで奥多摩駅に戻り 時間があれば駅前の温泉で疲れを癒す というもの

まだ低い太陽の光が射し始めた車内で 私の計画を告げると 往きをバスで 帰りに歩いたほうが賢明と彼女
それというのも  駅から奥多摩湖方面へは坂を上ることになり 往路を歩く場合は 所要時間を30分ほど長く見込まなければならないらしいと
別に急ぐ旅ではないけれど 上るよりは下るほうが 体力的に楽なわけで 急遽 私の案を変更し  駅について直ぐに ちょうど待機していた この時期の臨時バスにて奥多摩湖へ

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景観を邪魔する駐車場を背に 紅葉には少し早い奥多摩の自然を楽しみながら お茶で 一休みした後 10時30分に むかしみち歩きがスタート

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入口から 数mの上り坂を登り切ったあとは  結構な下りの急坂が続き その後は 出口近くまで 膝の負担が気にならない適度な角度の下り坂

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渡るときは3人以下で と看板にあった多摩川にかかる吊り橋より


駅に 帰り着いたのは15時過ぎで 2時間50分が基本の行程を 4時間30分かけて歩いた事になるけれど その内には  2度の休憩と 折々で写真撮影のために費やした時間が含まれていて おおよそ予想通りの所要時間
もし  逆のコースを辿っていたら さらに30分の超過となるわけです


何組かのグループと抜きつ抜かれつ 2度や3度目の遭遇には 「また お会いしましたね」  と交わす触れ合いも

その一方で 駅から歩く方を選択した方々とは 「こんにちは」 のひとことで すれ違います
緩やかとは言え  ひたすら続く上り坂を進んで来られた皆さん方は  後半にトドメかのごとく 決して短くはない急な坂道を克服しなければなりません

荒い息で挨拶を交わして過ぎ行くメンバーを見送っては 復路を歩く選択をした私たちの幸運を再確認

PCでは見つけられなかった情報が有り難かった とは言え 世の中の帳尻は合うようになっているはず
70才代と思われるオバアチャンのグループとも擦れ違いましたが  無事に登り終えて 辿りついた処には バスで到着したときに私たちが目にしたのとは比べ物にならないほど  清々しい奥多摩の大自然が広がっていたに違いありません






まだまだ現役


友から電話
何十歳かの手習いで始めた 押し花を額縁に収めて絵画を象る趣味の技が上達し いよいよ 一般に お披露目する運びとなったそうで 「見に来て~!」  と

息子の幼稚園時代のママ友3人 子育てが終わった後は 大人だけでの行楽や茶会を楽しんだ日々も それぞれに 退職した配偶者やら お嫁さん 孫ちゃんと関わる時間に占められ 久しぶりの受話器から届く声が懐かしく思えるほど 

これまで 制作過程の作品を見せられたり いえ 見せてもらったり
押し花用の花の収集に協力する私の陰で いえ 表で メキメキと腕を磨いた彼女たちの初舞台

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あれは何年前になるでしょう
たしかTさんが 仕事を辞めるのをキッカケに入門する際 さほど関心が持てずイチ抜けした私でしたが 
このたび 3連休を通して開催される初日の午前中に 受付を担当した二人が お客様名簿への記名を促したり 来場者の体験コーナーで かいがいしく補佐する姿は  とても若々しく目に映り 私も仲間入りすれば良かったかなという思いがよぎったのでした
今からでも遅くないというHさんの下心か 担当する受付の終了時刻が迫るのも お構いなしで 半ば強引な指導の上 初体験させられた 私の処女作

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来場者へプレゼントとして頂いた 出展者の作品と並べてみて どちらが私の腕前か 見分けがつかないような気も

これを言うと Tさんは むくれるんだけれど この類の手芸は 基本を教われば 早いうちに おおよその完成品に行きつき あとは向上しながらの作品が溜まる一方というのが難アリ
そしてまた生きた花をペチャンコにして 別のものを作り上げてしまうことに馴染めない私がイチ抜けした訳は 私の中で いまだ健在と認識した次第

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花の選択肢 配色 配置 など 個性溢れる作品を満喫させていただいたあと 会場の近くで 久しぶりにランチを楽しみながらの話題は 以前と異なり リタイヤ後のライフスタイルで盛り上がり
Tさんは ツアーでフランスに旅したりと 二人しての楽しみはあるものの ご主人のお付き合いで行動範囲が広がるため 自由時間を奪われることが 多いらしい

では 趣味は仕事のような 我が家のハタラキバチさんには もう少し単独で お好きな仕事を楽しんでいただきましょう





歴史問題も 追い込みです

いよいよ 80台に昇りつめた 歴史問題
一問だけ オマケがありましたが 他は難題が予想された割に 意外にも早く回答に行きつきました


問題八十一
武士が台頭してくると、ときにユニ-クというか怪物のような逸話を生む武将がでてくる。いつの時代も英雄の登場や新記録の誕生は人々を興奮させてきた。さて、そのような武士たちの夢というか権威は、「昇殿」でした。今でも皇居での園遊会に呼ばれることは名誉なことになっている。そしてまた武士にとって最高の任務は「朝家の守護」でした。
では、問題です。後世の「今昔物語」「御伽草子」などの読物に妖怪退治の専門家、ヒーロ-として登場するウルトラマンのような武将とは誰でしょう?

・ 源頼光


問題八十二
源平合戦を描いた平家物語の有名な伝説の場面。
治承・寿永の乱(源平合戦)の屋島の戦いにて負けて追い詰められた平氏方は軍船に女房を乗せて扇の的を掲げ、射落としてみよと源氏へけしかけた。そして、源義経は味方に射落とすように命じた。
このとき、 源義経に命じられ、およそ72m先にある海上の揺れる船の上に掲げられた扇の的を見事射抜き、ときに源平両軍は、歓声を上げて褒め讃えたという伝説の武将とは誰でしょう?

・ 那須与一


問題八十三
御醍醐天皇の皇子。世が世なら天皇の皇子として何不自由のない生活を送れるはずだったが、時は南北朝時代で皇子が身を置く南朝方は劣勢にあった。皇子は各地を流転し、南朝方の勢力を挽回するべく奮闘、生涯を戦乱の中に身を置くことを余儀なくされた。しかし、状況悪化のなか、それまで皇子に媚びいっていた連中が次々と皇子のそばから離反した。
そうした状況で皇子が謳った和歌がいまに伝わっている・・・・
偽りの 言の葉にのみ ききなれて 人のまことぞ なき世なりける
さて、この皇子とは?

・ 宗良親王


問題八十四
「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」

 出家した人たち、自分は世捨て人だといいながら、それでも悟りとか救いとかいろいろ求めたりしているから本当は世捨て人だとは言えないな、世を捨てられずでも生きなければならない人こそ世を捨てているのだと思う・・・・・さて若くして出家したこの歌の作者は誰でしょう?

・ 西行法師


問題八十五
紀元前219年、中国は秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団の先導者とは誰でしょう? 彼が行きついたとされる場所はどこでしょう? そして彼の目的は達せられたのでしょうか?

・ 徐福
・ 富士山
・ 仙薬が見つかったかは不明。
  始皇帝が命じたのは不老不死の仙薬探しでも、実は亡命が目的だったわけで、2度と秦に戻らなかったことから、徐福本人の目的は達成した?


問題八十六
江戸時代、品川の漁民は、徳川家康から将軍家に毎日新鮮な魚を献上することを命じられ ました。そのため、漁民たちはいつでも新鮮な魚を献上できるように、 魚を生かしておく「生簀(いけす)」を考え出しました。そのとき生簀を囲う柵(ひび)として使用した竹笹にあるものが付着していました。この発見をヒントに浅草の弥平という人物が養殖をはじめました。当初、江戸幕府はこれを保護し江戸漁民の独占漁業としました。この海産物とは何でしょう?

・ 海苔


問題八十七
源平一の谷の戦いで、副大将として東の前衛基地であった生田の森の守りを固めていた。しかし源氏の激しい攻撃に総崩れになった平家の軍勢は退却を余儀なくされました。そんなときに味方の船に乗り退却しようとしましたが、須磨寺の近くで馬を射られ生け捕りになりました。その後、鎌倉に引き渡されましたが、その器量に源頼朝は感心し厚遇されたと言われている平家の武将とは誰でしょう?

・ 平重衡


問題八十八
豊臣家の跡継ぎとして秀吉から関白職を譲られて豊臣二世となったが、秀頼誕生後に謀反の疑いをかけられ伏見城から高野山へ追放され、1595年に自刃。妻子一族三十九名は京都三条河原に集められ、そこで処刑された。この人物は誰でしょう? また秀吉とはどういう関係だったのでしょう?

・ 豊臣秀次
・ 甥 


問題八十九
ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

現代にも伝わる名うてのプレイボ-イであり、また超一流の歌人でもあった。享年55歳、当時としては決して短命とはいえませんが、死を自分のこととして捉えることは死の直前までできなかったようです。この「ついに行く」で始まる辞世で有名なこの中世の人物とは誰でしょう?

・ 存原業平   私は、原業平の印象が強いです


問題九十
江戸幕末は敵味方とも動乱のなかでさまようという時代でもあった。そのなかでも、みずからを正規の江戸討幕軍と信じながら、行軍途中で偽官軍とされる事件があった。
1868年1月8日に近江国松尾山の金剛輪寺において結成された。隊長は相楽総三で、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主としていた。隊は一番隊、二番隊、三番隊で構成されていた。
部隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら行軍したが、なぜか新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。同年2月部隊は信濃国へ進み、2月6日には中山道と甲州街道の分岐点である下諏訪宿を拠点とし、碓氷峠を占拠して北陸雄藩と江戸の連絡を遮断すること計画した。

しかし、新政府の本体東山道軍は信濃各藩に先方部隊の捕縛の命令を下した。これに及んで、部隊は崩壊した。そして、1868年3月3日、下諏訪宿の外れで隊長の相楽総三ら8名が処刑された。この相楽総三を隊長とする部隊は何と呼ばれていたでしょう?

・ 赤報隊








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