るりとうわた色の空に

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自慢 ・・・ (-_-;)


私のところにも サンタさんが来ました
もう何十年も続く恒例行事だから サンタさんもプレゼントを出し尽くしたらしく 去年は 「いじわるばあさん」 の漫画でした

今年は トートバックなら いくつあってもいいと思ったのか

DSCN3805.jpg


娘に サンタの現実を暴露してしまった あの年から 我が家には 子供たちが望む通りのプレゼントが そして私にはサプライズの品物が 必ず イブの翌朝に届く それは私の自慢でもあります 


取り巻きに ちやほやされたりするようなことはないけど
友達との誕生会とか 家族の記念日などで グルメな食事の機会は たまにある
ゴージャスとは言えないけれど 会いたい人や見てみたいもののところへ飛んでいく小さな旅は ちょくちょく
経済にゆとりはなくても 気持ちの上では 堅実に生活してきた心のゆとりはあると思いたい
職場の上司に むりやり出場させられた〇〇コンテストで決勝に残ったから もしかして私は綺麗なのかもしれないと思う
未練がましい別れた彼はいないけれど 過去に 未練がましい交際がなくもない


ブログを書くには ネタと言うものが必要なのだ 

だいたい自分のことをネットで大公開すること自体が 「私を見て 見て」 と言ってるようなもの
ブログを書くこと そのものが 世界中へ 己を自慢しているようなものだと 私には思える

それは 私のブログのことではないのかも知れないけれど
自慢だとか 気分が悪いとか言われたら 私がブログに書くネタは 何にもなくなる

公開している以上 どなたかの目には止まるわけで 読んでくださったあとで不快感が残ったら 悪いことしたなぁ ・・・  とは思う

でも 私は書くことが好きだから これからもまた 私の身の回りで起こった出来事を書いて 宇宙に自慢すると思う

春になったら いやと言うほど 私が咲かせた花の自慢がテンコ盛り になるに違いない

自分の思うことを自分のブログに書くのは自由だとしても 他人に関する ましてや批判的なことなら なおさら コメント欄を設けて欲しい

ブログ仲間との 楽しい出会いを目的としたSNSで コメント欄を閉じているブログが 私には不快 


いつも 裏表なく ありのままの気持ちが綴られているようで 時には吹き出してしまうほど楽しい お気に入りのブログだったけれど その発言を読んで 小心者の私は ドキドキした


いいね すごいね と言われたいのではない
大丈夫か と 慰めてほしくて 憂いを書いているのでもない

私が発信する相手は宇宙
宇宙は 私の喜びに いいね と
憂いには 慰めの気持ちを抱いてくれると思うから 


私には 心から許せる地球人がいないから 自慢をも 憂いをも ありのままに語れるのがブログなのです




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コメント

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2014.12.28      編集

ありがとうございます

鍵コメさん、メッセージを拝見しました。
嬉しかったです。
仰ること、よく解っているつもりです。


今では、どこの家庭にもある家電となったPCですが、私には、まだまだ不思議なネットなんですね。
にも拘らず、自分のことを世界に発信という大それたことをしているのですから、何かあるとドキドキです(^^;)

私のブログを、不快感なく読んでいただける方は、宇宙のように心が広く、大きい人だと思います。
前のブログでつまらないことに発展したので、それを知る方々に、私は嫌われていると思いますから。
でも、私は決して、他人を批判したり中傷したりはしていないです。
それを解ってくださるのが私にとって宇宙人。
あの方への不満を私のブログに便乗して、ストレス解消した方の今のお姿を拝見して、、あぁ、地球人だなぁ、と思います(≧▽≦)
そういう私も、隣人とは地球人かもしれません。

これからも宇宙へ自慢が続くと思いますが、笑ってお読みいただければ嬉しいです(*^-^*)



2014.12.28   麦   編集

歴女に贈る歴史夜話の目標は100話
それを今年の10月ごろに完遂させようというのが目論見だ。
ざっと計算すると、120日ほどの間に、残り70話をコメントすることになる。およそ3日に2話のペ-スになる。
麦さんからは、お好きにどうぞ~と広い心でOKをいただいている。
他の人なら、こんな風にはいかないと思う。
「ありがとさん」の気持ちを改めて歴女さんに送ります~♪

では、続けましょう♪


夫婦はもともと他人どうし、片目をつむっても許されないのが浮気の虫。一旦ことが露見すると元の鞘に治まることは難しい。さて、このところの歴史夜話は怪物・鳥居耀蔵が登場が登場した。麦さんには馴染みがなかったようだが歴史の影の主役として「超」がつくほど有名な人物ではある。矢部定謙は耀蔵の陰謀で失脚し、抗議の絶食で病死した。矢部定謙の出した判決にはあっと言わせるものが残されている。

歴史夜話31
矢部定謙は大坂町奉行を務めているとき、名奉行とたたえられた。そして1841年(天保12年)には江戸町奉行に抜擢された。しかし、わずか在任八ヵ月で罷免された。この背景には、天保の改革を推進する老中水野忠邦との対立や、町奉行の座を狙う鳥居耀蔵の陰険な画策があった。

矢部定謙が江戸町奉行だったときのことである。本郷三丁目に久助という八百屋が住んでいた。 久助の女房が、近所に住む伝七という男と密通した。 女房の浮気を知った久助は、事を荒立てることなく、伝七に面会して、「あたくしはもう女房に未練はございません。もし女房がほしければ、差し上げましょう。それなりの挨拶をしていただければ、それでもう後腐れはございません。ただし、近所に住まわれてはあたくしも面目丸つぶれなので、引っ越してください」と、申し入れた。

伝七もこれを了承し、「肴代」として五両を久助に贈った。いわゆる慰謝料である。これで一件落着したかに思われたのだが、その後、伝七はいっこうに引っ越す気配がない。
それどころか、まるで久助をあざ笑うかのように、女房と酒を呑んで毎晩、大騒ぎをしている。久助はしばしば引っ越すよう申し入れたが、伝七はまったく取り合わない。

ついにたまりかねて、久助は町奉行所に訴え出た。訴えを取り上げた矢部は、さっそく伝七を奉行所に召喚した。ひととおり事情をたしかめた上で、糾問した。

「なぜ、当初の約束どおりに引っ越さぬのか」「あたくしも引っ越したいのは山々なのですが、引越しをする金がございません」「しからば、そのほうに引越料をくだし置くので、早々に引っ越せ」 そう命じるや、矢部は引越料として五貫文をあたえた。 伝七は他人の女房はもらうし、役所から引越料は支給されるはで大喜びである。

意気揚々と帰宅すると、なんと、わが家は封印されており、中に入ることもできない。驚いた伝七は、家主のもとに駆けつけた。家主とは、地所や家屋の所有者である。「いったい、どういうことですかい」「さきほど、お奉行所から命令があり、公儀より引越料をちょうだいした以上、伝七はすぐさま引っ越さねばならぬ。この家にはもはや住むことはあいならぬ。伝七の家財道具一式は久助にさげ渡せ」とのご沙汰です。気の毒ながら、おまえさんはお上からちょうだいした五貫文を持って、女房とふたり、着の身着のままで、どこへでも行ってください」 それまで有頂天になっていた伝七も、一転して途方に暮れた。

2016.06.29   えんてつ   編集

先日、上手く貼り付けられなくなって停滞した。
この際だからブログにペッタンコする方法から別の方法にしようと考えたりもした。

この麦さんのブログを楽しみにしておられる方からみれば、異常な姿に見えて、ご迷惑様だろうと思う。
ということで、今しばらく目を瞑っていただきたいとお願いします。


狐や狸に騙された~という伝説というか説話はけっこう多い。現代人は誰もそんなことは信じないが、人間がまだ生き物により近かった昔の人々は純朴で自然に畏敬の念を抱いていた。それは夜の暗さが生み出したとも言われている。明るすぎる夜が人間の繊細さを奪ってしまったのだろうか?

動物が神様の使いであるという発想は、自然界には神が棲んでいると信じる気持ちから生まれた気がする。特に狐は人の動きを観察するような行動をとる。

その昔、 江戸の町に多いものは「伊勢屋稲荷に犬のクソ」といわれた。伊勢屋という屋号の商家、稲荷社、それに昔も今も路上の犬の糞である。とくに稲荷社が多かったのは、江戸の人々の稲荷信仰がいかに盛んだったかを示している。

歴史夜話32
1698年( 元禄11年)のこと。江戸は堺町の饅頭屋に武士が現われ、饅頭を求めた。ふたつを食べ、「さてさて、うまい饅頭じゃ。これまで、こんなうまい饅頭を食べたことはない。これからは、ここの饅頭にしよう」と、いたく感激した様子で、代金として銀五匁を置いていった。饅頭屋の亭主は驚いた。「こんなにいただくわけにはまいりません」「かまわぬ。取っておけ。わしは浪人じゃ。そのかわり、金がないときはただで食わせてもらうぞ」 そう言って、帰っていった。

しばらくして、武士がふたたびやって来た。今度は饅頭を四つたべ、銀六匁を置いた。
饅頭屋の夫婦は武士のあまりの気前のよさに合点がいかない。「もしかしたら、大身のお武家ではあるまいか」、そこで、奉公人に命じて、武士の屋敷をたしかめさせようとした。

奉公人がそっとあとをつけると、武士は裏長屋にはいっていく。「ちと、雪隠を借りるぞ」
武士は長屋の共同便所で小用をする。そのとき、尻から狐の尻尾がちらりと見えた。 驚いた奉公人は店に駆け戻り、主人夫婦に報告した。「ご浪人ではございません。正真正銘のお稲荷さまです」「やはりそうだったか。このことは、誰にも言ってはならんぞ」、主人夫婦は狂喜した。

十日ほどして、武士が現われた。夫婦は武士を二階座敷に招き、さまざまな料理でもてなした。「お隠しになっても、あなたさまが稲荷さまであることは存じております。どうか、わが家がますます繁盛するようお願い申し上げます」「家を富貴にするには、加持をおこなわねばならぬ」「加持とはどのようなものでございますか」「たとえば、そのほうが百両所持しておれば、それを使い切ってもふたたび舞い戻るようにできる。ただし、加持をする金をまず水で清めたあと、杉原紙に包んで用意せよ。そうすれば、加持をしてやろう」「わかりました。つぎにいらっしゃるまでに準備しておきます」

数日後、武士が現われた。夫婦は三百両を杉原紙に包み、封印をして待っていた。武士は一室にこもり、加持をおこなった。四、五日後、どうしても金が必要になった夫婦は、神棚に置いていた包みを取り出し、封を切った。なんと、中身はすべて銅板だった。あとでこの武士は有名な詐欺師とわかった。

欲が深くなると常軌を逸することになる。お稲荷様はきっとどこかに存在するに違いない。 

2016.06.29   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-277

> およそ3日に2話のペ-スになる。

そういう計算になりますか(^▽^;)
となると、私が呟くペースを超えますね。
折々マイペースで、まとめさせていただきますね。

31話、32話、ともに人間が生きる上での常識を戒めるお話ですね。
ややこしい歴史上の人物と違って、分かりやすく楽しめました。



2016.06.29   麦   編集

麦さん、こんにちは。

歴史夜話はわたしには息抜きでもあります。
とはいえ、確かに貼り付けるスペ-スが足りなくなってくるでしょう。
何も考えることなくペッタンコしますから、あとは麦さんの整理の腕にお任せします。

投票日が過ぎればひとつの山を越えることになるので
一段とペ-スが上がるかもしれません。
あっ、11日の週間は投稿ゼロになるかもしれませんが・・・・


では、歴史夜話33です。

わたしは関西が発信元の花のSNSに参加していたことがありました。そこでは全国各地の花好きさんが集まっていました。お友達になると花の話題が中心とは言え親しくなるにつれ話題も広がってゆきました。わたしの育った湖国滋賀県には大百足の伝説がありました。ときは平安時代、その大百足は三上山(近江富士)を七回半まわって頭が瀬田の唐橋まで届くという怪物でした。

大百足は人々に災いをもたらしていましたが、一人の英雄が大百足を退治しました。この英雄は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)といい、別名を俵の藤太といいました。あるとき花のSNSで藤原秀郷の百足退治のことを書いたら、その藤原秀郷なら栃木県佐野市で神社に祀られていますよ~ということを教えてくれた人が現われた。その方は、ななちゃんという可愛いHNでその話題で盛り上がったのでした。

歴史夜話33
東京千代田区大手町といえば、日本を代表するビジネス街です。ここに祟り(たたり)が起きると言い伝えられている場所があります。その祟りをなす怨霊は、平安時代の武将・平将門という人物です。天皇に刃向った逆賊とされ討たれ、その将門の首がいまの大手町あたりに埋葬されたとされています。

関東大震災後、大蔵省の庁舎を再建する際に、関係者がつぎつぎと怪死したり、雷が落ちて庁舎の周りが全焼したり、また戦後、GHQが駐車場を造ろうとした際に、工事のブルドーザーの横転事故が発生したり、次々と起こる怪事件に、人々は将門の祟りではないかと言いました。

平安時代最大の反乱といえば「平将門の乱」でしょう。関東の一豪族に過ぎなかった将門が、どうして天皇家と対立したのでしょうか?茨城県坂東市に将門の木像が残されています。その姿は真一文字に結んだ口につりあがった目をして屈強な男であったことが伺えます。

将門は坂東八ヶ国のひとつ下総国の豪族で実力者でした。出生は定かではないものの、云い伝えでは桓武天皇の血を引く平氏一族の末裔とされています。父の平良持は武勇に優れ鎮守府将軍を務めていましたが、父の死後、一族に内紛が起きました。当時地方は朝廷から任命された国司と、豪族から選ばれた郡司によって治められていて二重支配の構造になっていました。

この時代、坂東の人たちは、国司による不当な税の取り立てに苦しんでいました。そんな中、937年11月に富士山が大噴火し、その翌年、大地震が坂東の地を襲いました。その結果、坂東地方は凶作と大飢饉が起きました。しかし、それでも国司たちは例年通りの税を取り立てたので農民たちは領地から逃げたり自ら死をえらんだりしました。

この時、平将門35歳、苦しむ民を目の当たりにして、自ら農民たちと農地を開拓して新しい土地を開発していきます。武士といえどほとんどが農業者であったのです。国司の圧政から逃れる方法はないものか? 938年2月、将門が拠点としていた下総国の隣国・武蔵国で前任の国司が辞めて次の国司が来る間に、朝廷から派遣された興世王と源経基が違法に税を徴収し暴挙を働きました。

それに対したのが武蔵の豪族の武蔵武芝(むさしのたけしば)で、興世王と一即触発の事態になりました。このとき将門は兵を出し武蔵の国に向かい、興世王を説得し、武芝と和解させます。しかし源経基はそうはいきませんでした。源経基は朝廷に「将門謀反」との告発をしたのです。朝廷は将門に召喚状を出しますが、自分の行いは正しいと自負する将門は、これを拒否します。

そのころ常陸国に略奪を繰り返す暴れ者豪族・藤原玄明がいました。国司からの再三の納税命令を拒否したので、お尋ね者となってしまいました。藤原玄明は逃亡の最中にも朝廷の蔵を襲ったりしていましたが、なんとそんな玄明が頼ったのが将門でした。

玄明を受け入れるということは、朝廷を敵に回すということになりますが、朝廷に刃向ってまで将門は玄明を迎え入れます。常陸国の国司から、速やかに玄明の身柄を引き渡すようにと幾度もの催促書状も無視します。939年11月、将門と常陸の朝廷軍との戦いが始まりました。将門は1000の兵を率いて常陸国へ、それを待ち受けていたのは、国司軍3000の兵でした。武勇に優れた将門軍は、常陸の兵士たちを破り、常陸国府を焼き討ちし、朝廷の権威の象徴・国印と倉のカギを奪い取りました。この行為は、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったという行為に他なりません。

「一国をとった罪は、軽くはない。それならばいっそのこと、坂東八カ国全てを手中に治めてみようではないか」「私は桓武天皇の子孫である、坂東をわが手に収め、全ての国司を京へ追い返してしまおう。」・・・将門がこう考えたのかどうかは不明ですが、常陸国の全権把握は朝廷に対する宣戦布告でした。

将門軍は坂東での独立政権樹立のために破竹の勢いで支配地を増やしてゆきました、そして、統治機構として、天皇の権限である除目で、兄弟や側近を勝手に国司に任命していきます。そして天皇を恐れぬふるまいをする将門に不思議な出来事が起きます。
八幡大菩薩に仕えるひとりの巫女が・・・「私は八幡大菩薩の使いである、天皇の位を平将門に授けよう」と神がかったのです。八幡大菩薩は天皇の祖とされる神のひとつで、当時民衆から厚い信仰を集めていました。その神から天皇に任命されたということになりました。

939年12月19日、将門みずからが親王であることを宣言します。新しい天皇となり、関東に独立国家を作ることを宣言します。このとき巫女は不思議なお告げをしました。「天皇の位は、菅原道真の霊魂が取り次ぐであろう」というのです。

親王の位を八幡大菩薩から取り次いだのは菅原道真の霊魂だという巫女のお告げ。これは将門が新たな天皇として立つために重要だったのは「菅原道真」ということになります。当時はまだ菅原道真の失脚事件からたいした時間が経ってはいなかったのです。道真は朝廷によって都を追放され、無念の死を遂げた人物です。そして道真の怨霊を朝廷や都人が恐れていることを利用したのでしょう。

将門は、朝廷に叛旗を振りかざし、坂東八カ国を占領し、朝廷の支配からの独立国家を作りました。朝廷は激しく動揺し、将門を潰すべく、前代未聞の作戦が立てられました。940年正月、時の朱雀天皇は、神仏に祈り悪を滅ぼす調伏を行います。「平将門なるものが、国主の位を奪おうと企んでおります。どうかこの難儀をお祓いください」なんと朝廷は、将門を呪い殺そうと、全国の寺社に祈祷をさせ「呪殺」を命じました。

この事態のなか、朝廷をさらに脅かす事件が起こります。瀬戸内での藤原純友の乱でした。
東からは将門、西からは純友、このままでは都が挟み撃ちになってしまうではないか。

東西で起きた反乱によって、朝廷は年賀の儀式を取りやめ、警備を強化します。そして連日、大臣らが宮殿に集まって話し合いが行われます。神頼みではなく、軍を持って戦うしかない。しかし、朝廷には軍はない、ここで朝廷は前代未聞の通達「太政官符」を出すことにします。

940年1月11日に出された太政官符は、それまでの朝廷の常識を覆えす内容でした。
「魁師を殺さば募るに朱紫の品」・・・魁師=将門を殺せば朱紫=貴族が着ることを許された衣の色を付けることができる・・・身分を問わず、貴族の位を与えるということです。
なんと将門を殺した人には破格の褒美、平民が貴族になれるという内容でした。貴族という身分は、代々世襲されてきた特権階級でした。将門を討てば誰でも貴族に・・・
この恩賞に、打倒将門の、気運が高まります。朝廷による将門征伐が始まりました。

それに応えて最初に兵を挙げたのは、常陸国の豪族・平貞盛でした。貞盛は、かつて内紛で将門に父を殺されて以来、機会を伺っていたのです。そしてもう一人は豪族・藤原秀郷です。秀郷は大ムカデを退治したという伝説の猛将でした。ふたりは組んで3000の兵を挙げます。

940年2月14日いよいよ決戦の日です。しかし貞盛秀郷連合軍3000に対し将門軍わずか400でした。将門は坂東八カ国を治めてはいましたが当時は兵農分離がされておらず、将門軍の兵士のほとんどが農民でした。丁度いまでいう3月ごろ、戦いは農民に戻らなければならない時期だったからです。

新皇宣言からわずか2か月、あまりにもあっけない最期でした。将門の死と共に、坂東独立政権も消滅し、将門軍の残党たちには厳しい現実が待っていました。そして見事に将門を討ち取った藤原秀郷は、従四位下という待遇に、平貞盛は従五位上をもらいました。貞盛の子孫は後に平清盛を登場させます・・・将門の乱を鎮めたものが、武士の世を切り開いていくと言う皮肉が待っています。

討ち取られた将門の首は3か月後、秀郷によって都に持ち帰られ人々に晒されます。伝説によると晒された将門の首は、からからと笑ったあと、坂東へ飛び去ったと言われています。志半ばで無念と終った将門は、怨霊伝説として後世に蘇えります。

藤原秀郷は、藤原氏北家房前の子左大臣の魚名の子孫と伝えられています。秀郷は幼時京都の近郊近江の田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田秀郷ともいわれています。秀郷の在世当時の平安朝の中頃は、都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権を握っていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の土豪などが欲しいままに勢力を広げていたのです。927年(延長5年)秀郷は下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ将門と対峙することになったのでした。

2016.06.29   えんてつ   編集

麦さん、こんにちは。
きょうは午後13時から宣伝カ-を2時間運転します。宣伝カ-が当地に巡回して、次の地域へ行くまでの間だけの運転手です。一応選挙応援の腕章とか白手袋とか身なりのほうも選挙応援です(笑)。ここへ来て全国32の野党統一候補の皆さんの動向がきになります。全員当選して欲しいです。

ええっと、歴史夜話は歴史常話になっています。でももう今回で34話です。目標の三分の一まできましたよ~♪ 話の内容が飛びまくりなのは、気分次第ということの表れです。これは諦めて下さいませ、しゃあないです(笑)。ただひとつ、麦さんのブログの愛好家の方々がひとりふたりと去っていかれるのではないかということが心配です。

さて、戦においては武器がなくてはなりません。アメリカでは銃規制が問題になっていますが、歴史的に定着した武器は生活用品の一部となるため手放すことが難しいことになります。日本では日本刀がそれに当たるでしょう。ただアメリカの銃とちがうのは、武士のための必需品だったことです。34話は日本刀の話です。


日本伝来の武器といえば日本刀だろう。現代人には馴染みが無くなってしまったが、第二次世界大戦の終戦までは武器として現役だった。日本刀には美術品として国宝となったものがある。日本刀は所蔵・使用する人ではなく鍛えた人の名で通用するのが一般的である。

鎌倉時代末の日本刀の名工に貞宗という人がいた。貞宗の作刀は穏やかで気品の高い作風を示すものが多い。代表作は国宝に指定されている長刀短刀数点がある。そして注目すべきはその日本刀がどういう武将の手に渡って現代に伝わってきたかということだ。そこにもまた歴史物語が息づいている。

東京国立博物館に、亀甲貞宗(きっこうさだむね)という日本刀がある。 もちろん国宝になっている。

歴史夜話34
亀甲貞宗の造りは、長さが二尺三寸四分(70.9センチ)、反り八分(2.4センチ)で、無名の刀である。14世紀・・・鎌倉から南北朝のころ相州貞宗という刀鍛冶によって造られた。刃文は乱れ刃で、茎(なかご)に大磨上のあとに刻まれた亀甲菊花文様の彫物があるため、「亀甲貞宗」と称されている。

 作者の貞宗は通称を彦四郎といい、相模国(神奈川県)鎌倉の刀工正宗の実子あるいは養子といわれ、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した。作風は正宗に似ているが、正宗より整っていておだやかであるとされている。

では「亀甲貞宗」の持つ物語を眺めてみよう。

最初の所有者で記録があるのは最上義光である。その後、明智光秀所持となった。その後は徳川家に伝来して各地を渡り歩くことになる。

徳川家最初の所有者は、雲州松江藩の藩祖松平出羽守直政である。松平直政は結城秀康の三男である。出雲大社は、神紋として「二重亀甲に剣花菱(にじゅうきっこうにけんはなびし)」を使っており、この刀の号の由来となった「亀甲紋」はここから名付けられた。

その後一時的に徳川家を離れて奥州窪田二万石の土方家に伝わります。しかし1684年(貞享元年)伊賀守雄隆のとき後嗣をめぐる御家騒動で断絶し、本刀も売りに出され、本阿弥光甫から南部藩御用人赤沢某が買い、南部信濃守行信へ献上された。1698年(元禄11年)、将軍家に金二百枚と同時に献上する日本刀を探していた尾張徳川家がこの刀を買い求め、返礼として「道誉一文字」と「綾小路行光」の短刀が贈られている。そして同じ元禄11年3月18日、将軍綱吉が尾張家に御成の際に、宗瑞正宗の短刀とともに「亀甲貞宗」は尾張徳川家から将軍綱吉に献上された。

将軍家では、これを代々世子に譲っており、鞘書に「宝暦十二年午年十一月遡月 御七夜御祝儀之時 浚明院様ヨリ孝恭院様江被進 亀甲貞宗御刀 代金三百枚 長貳尺参寸四分半」とある。浚明院は徳川家治(10代徳川将軍)、孝恭院は徳川家基(家治の長男。夭折)のことで、長男誕生のときに譲ったことがわかる。

1704年(宝永元年)12月5日、綱吉が家宣に贈与している。 1724年(享保9年)12月朔日、吉宗が長子長福丸に「家重」の名を与えた時に贈与している。1740年(元文5年)12月15日、家重が長子竹千代に「家治」の名を与えた時に贈与し、1762年(宝暦12年)11月朔日、家治が長子竹千代(家基、早世)の七夜祝としてこの刀を贈与した。

こうして代々将軍家に伝えられて徳川家の家宝となった。維新後は徳川公爵所持となり、昭和11年5月6日に重要美術品(旧国宝)に指定された。徳川家は1868年(慶応4年)徳川慶喜から家督を継いだ徳川家達が徳川宗家十六代目となった。

第二次世界大戦後は徳川家を出て愛刀家渡邊三郎氏の所蔵となった。1965年5月29日に国宝指定され子息の渡邊誠一郎氏より東京国立博物館へ寄贈された。このように「亀甲貞宗」時代の名刀としてその価値を発揮してきた。

今、日本には「天下五剣(てんがごけん)」と呼ばれる名刀がある。数ある日本刀の中で室町時代頃より特に名刀といわれた5振の名物の総称だ。日本刀の良さは、見た目や切れ味を基準にしたものと、その刀の由緒伝来を基準にしたものがある。「童子切安綱」、「三日月宗近」、「大典太光世」、「鬼丸国綱」、「数珠丸恒次」この五振りの天下の名剣は、それぞれに非常に面白い逸話などがある。

童子切安綱
童子切安綱(どうじぎりやすつな)刃長79.9cm・反り2.7cm・銘「安綱」。作者・安綱(やすつな、生没年未詳)は、平安時代中期の伯耆国大原の刀工で大原安綱とも言う。作られた年代は、日本の刀が直刀から反りのある日本刀(湾刀)に移行する平安時代中期と推定されている。童子切安綱の物々しい名前の由来は、酒呑童子なる鬼を源頼光がこの太刀を使い退治したことからつけられた。 ちなみにこの童子切安綱、過去に試し斬りされたことがあり、そのときは六つ胴の切れ味を誇ったということだ。日本刀の切れ味は、人間の死体を積み重ねてひと振りで何人分の胴体を切断できるかというのが基準だ。

鬼丸国綱
鬼丸国綱(おにまるくにつな)は皇室御物となっている日本刀です。京の粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作。刃長78.2cm、反り3.2cm。歴史上、鬼を切ったのは童子切安綱とこの刀です。鬼丸国綱の有名な話はこの刀の持ち主だった北条時政が病に倒れたときの話です。天下を平定した鎌倉幕府の初代執権であった時政はあるときから夢に鬼が出てくるようになり、病に倒れました。 いろいろ手を尽くして鬼を払おうとするがうまくいかず、逆にひどくなる一方でした。そんなある夜、時政の刀が夢のなかで老人の姿で出てきて「自分は太刀国綱である ところが汚れた人の手に握られたため錆びてしまい鞘から抜け出せないので早く妖怪を退治したければ早く自分の錆を拭い去ってくれ」と告げたのです。翌日、刀を清めさせ、抜き身で部屋に立てかけておいた刀はひとりでに倒れました。そのとき、この刀は部屋にあった火鉢を支えている小鬼の像の首を落としました。それ以来、時政の病は快方に向かいこの太刀を鬼丸と名付けたと言われています。

三日月宗近
三日月宗近(みかづきむねちか)刃長80.0cm、反り2.7cm。平安時代の刀工、三条宗近の作で天下五剣の中でも最も美しいとも評され、「名物中の名物」とも呼び慣わされた。将軍家の秘蔵の名刀として継承され、1565年(永禄8年)松永久秀と三好三人衆が二条御所を襲撃して将軍足利義輝を殺害した(永禄の変)際には義輝はこの三日月宗近を振るって奮戦したと伝えられている。変の後に戦利品として三好政康の手に渡ったとされ、政康から豊臣秀吉に献上された後、豊臣秀吉の正室高台院(寧子)が所持し、その後遺品として徳川秀忠に贈られ以来、徳川将軍家の所蔵となっている。

大典太光世
大典太光世(おおてんたみつよ)は、刃長66.1cm、先身幅2.5cm、元身幅3.5cm、反り2.7cm平安時代後期の筑後の刀工・典太光世の作。豊臣秀吉が伏見城に宿泊したときである。前田利家たちが話をしていると誰かが怪談話を始めた。「千畳敷の間の廊下を歩いていると刀の鞘をつかまれて進めなくなる」。利家はその話を笑い飛ばし、自分がいって確かめると言い出した。その証拠に廊下の端に他の大名の扇子を置いてくると話が決まったところで利家は秀吉に呼び出される。 その話を聞いた秀吉は利家の勇気に感服し大典太を持たせたのである。利家は難なく千畳敷の間の廊下を渡りきり、証拠の扇子を置いた。秀吉は褒美として大典太を利家に授けた。現在、前田育徳会所蔵となっている。

数珠丸恒次
数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)刃長81.1cm、反り3.0cm 平安時代の刀工、青江恒次の作である。日蓮上人が信者から守り刀として献上され、この刀の魅力にとりつかれた日蓮が数珠を付けて魔よけに使っていたことからこの名が付いた。日蓮没後は他の遺品とともに身延山久遠寺に保管されていましたが享保年間に行方不明となってしまいました。そして1920年ごろ宮内省刀剣御用掛の杉原祥造が再発見しました。 杉原氏の主張によると ある華族の所蔵品の競売にかけられた物件の中から発見したとされています。杉原氏は久遠寺に返納しようとしたが交渉がまとまらず杉原邸の近所にあった本興寺に寄進され現在に至っています。

いつも長くて、長すぎですかね~?

2016.06.30   えんてつ   編集

えんてつ さん

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2時間の運転、お疲れ様です。
大変だと思いますが、張り合いもあることですね。
歴史夜話で息抜きができましたら、それもまた良しと思います。

いえいえ~、ブログのスペースは問題ありません、が、問題はペースです。
スタートは、1週間に1話と言うことでしたので、、、、、
3日に2話のペ-ス
となりますと、、、 (^▽^;)

2~3日に1度の私の呟きが、ブログの更新ペースですので、
それで、
歴史夜話の方は、私のペースで、まとめて転記いたします、と言うことで、よろしくお願いします。

公開のブログですので、コメント欄への書き込みについては、
何も、ご心配は不要ですよ(*^-^*)


>いつも長くて、長すぎですかね~?

関心のない内容ですと、最初から最後まで把握するのは難しくなりますね。
だからと言って、簡潔に省くと、さらに解りにくくなりますよね、、、(-_-;)

33話の、平将門については探ってみたいと思いますが、
34話の日本刀など武器については、今のところ関心がないので、いつか読み返すときのために歴史夜話として、まとめておきますね。

2016.06.30   麦   編集


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