るりとうわた色の空に

このブログのリンク&ブックマーク そして書かれた内容の持ち出しは コメント欄を含めて禁止です


キョウヨウ  キョウイク  



豊富であるに越したことはない 教養 教育

読めば キョウヨウ キョウイク 漢字で書けば  今日用 今日行く  

今日 用事があり 今日 行くところがある

パロディーめいた こんな金言が シニア層に浸透して久しい

今日 行くところも 今日 するべき用事もない生活にならないように との教訓を頂いたシニアですが
最近のシニアは キョウヨウ キョウイク  どころか キョウカクのにも忙しい

キョウカク 

今日書く 

ネットを知り ブログを覚えて 毎日 行くところと する用事と 今日も書くことに追われるシニア


今日 私が書くのは 
歴史ヒストリアによる最新情報から やっぱり好きになれない石田三成のこと

天下分け目の関ヶ原のあと 戦国時代最後の戦いとなった大坂の陣

高野の山中で謹慎中の真田幸村については まあ許せるとしても

 
なんちゃっての歴史音痴には認識度の薄い 信長 秀吉 家康 に並ぶ 戦国時代を語るに欠かせない長曾我部元親と言う武将は けっこうなイケメンだったそうな

兄・信親が戦死し 家督を継いだのちに 京都で寺子屋の師匠をしながら穏やかに暮らしていた元親の四男・盛親
一時は家康に謝罪を申し入れしたこともある盛親に使いを送り 西軍に引き入れた秀頼

秀頼とは言うものの あれこれ企てたのは三成に違いない ・・・ 


DSCN4129.jpg
ベランダより 今朝の夜明け前 



さて キョウ イクところは ボーリング場

何十年ぶりに面白さが蘇り ここのところ嵌ってます

 



スポンサーサイト

<< 遅刻するマナー  TopPage  家康・秀忠が毛利・島津を滅ぼしていたら江戸幕府は討幕の憂き目をみることはなかったか >>

コメント

こんにちは

キョウヨウ キョウイク 面白いですね。
>今日 用事があり 今日 行くところがある
健康な証拠でもあり、大切な事のように思います。

「ヒストリア」は私も大好きで毎週見ています。
昨日も見ました~。
戦国時代って・・・って考えさせられます。

2015.01.29   きょんきょん   編集

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2015.01.29      編集

きょんきょん さん

教養・教育を、今日用、今日行く、と、どなたか上手く読み替えたものですね。
毎日、体を動かして健康に! ということですね。

昨夜の「ヒストリア」、ご覧になりましたか(*^-^*)
私も気が付くと見ていますが、昨夜は前半を見逃してしまいました。
今夜は、サブタイトルに、織田信長はなぜ比叡山を焼いたのか、とあったフォト番組を見てました。
フォトがメインで、焼き討ちの真相は、よく分かりませんでした(^^ゞ

戦国時代ですね、、、。
知れば知るほど、今では有り得ない歴史ですね。

2015.01.29   麦   編集

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2015.01.29      編集

こんにちは。

こちら朝から雨雨雨 関東は雪空とか・・・



あははっははは~ なかなかセンスある読み替え!


おっ、きょうみ たのは四国ですな(苦)。


長宗我部元親は信長の死と深く関わりがあったという
かなり信憑性のある説があるんですよ。

では、また後程~

2015.01.30   えんてつ   編集

本能寺の変は、長宗我部元親と関連があるという説

信長は、東方から西進してきて、まずは京都を中心とした畿内と中国地方の制圧平定に主眼があり四国と九州は二の次だと考えていたのではないかと思います。四国を平定して戦国大名の覇者のひとりに数えられた長宗我部元親は、明智光秀や斎藤利三と親しい関係だったので信長も大きな干渉はしなかった。ただ信長が畿内を制圧すると元親の牽制役を光秀から秀吉に入れ替えたために元親も危機意識が芽生えたようです。そして対立関係が大きくなりました。

昨年6月岡山市で、元親が四国の領土をめぐり、本能寺の変の前に織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかりました。しかし、信長は当時、秀吉に四国攻めの準備をさせていました。元親と関係の深い明智光秀が恭順の意を示した元親を攻めようとする信長を止めようと動く中で本能寺の変を起こしたとする・・・・「本能寺の変・四国説」の論者たちの声が大きくなりました。

元親は、秀吉の九州征伐に出陣し、島津義弘・家久勢と戦い緒戦で嫡男の信親を討たれました。この結果、長宗我部家では後継をめぐって内紛が起こりました。盛親はまだ少年で傲慢で人望が薄かったが、大男で剛毅な風貌や性格が似ている元親の後押しで兄たちを抑えて家督を継ぎました。

盛親は、関ヶ原の戦では東軍に組もうとしましたが戦場へ向かう動きが遅く近江水口で西軍勢に行き先を阻まれ、意に背いて西軍側につきました。が結局関ヶ原では一戦も交えず戦線離脱して土佐に逃げ帰りました。そして、後々、四国稀代の奸臣と呼ばれる久武親直の讒言を受け入れて兄の津野親忠を殺害しました。これが災いして家康に兄殺しを咎められてお家断絶となり盛親は罪人として京都で蟄居となりました。

大阪の陣では、盛親はお家再興を願う家臣たちも勢ぞろいして城内最大の勢力を誇り主力部隊となりました。1615年5月の夏の陣では八尾方面で奮戦しましたが、徳川有利の戦況をみて再起を図るべく大阪城を脱出しました。

さて、相聞20
 その後の長宗我部盛親はどういう末路を辿りましたか?



 三成は家康に歯向かったことで、ホント人気がありませんね。わたしも滋賀県人でなければ三成が嫌いになったと思います。家康と比べると人生経験の幅が大違いですからやむを得ない評価だと思います。

2015.01.30   えんてつ   編集

えんてつ さん

雪は、お昼頃がピークで、薄い雪化粧を楽しみましたが、夕方には溶けてしまいました。
この程度なら、雨よりも雪が良いですね。


本能寺については、何人かの黒幕が取り沙汰されるようですが、長宗我部元親も、ですか!
手紙の発見、となると信憑性が高そうですね。


相聞19
・松陰が松下村塾で若者を教えた期間 2年弱
・松下村塾の双璧とは、久坂玄瑞、高杉晋作

相聞20
① 大阪の陣の後、豊臣秀頼に荷担していたという無実の罪で、他の長宗我部一族共々処刑される。

② 大坂城に帰還したのち、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残して逃亡。
蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に捕らえられる。
見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。
京都の六条河原で斬首され、三条河原に晒された。
享年41。
「戦に負けて捕らわれることは恥としないが、かくも卑陋な物を食わせるとは無礼な奴。早く首を刎ねよ。」
「死に及んで、いささかも怯じたる気配なし。」などの言葉を残しており、最後まで大名としての矜持を捨てなかった。

③ 若狭の本願寺系の末寺で僧侶になり、一婦人とともに余生を過ごした。

さて、どれが正解でしょう? 


三成くん、、、すっかり悪役ですね(^▽^;)
ドラマでは、好感度の高いタレントさんが演じることが多いので、歴史上は悪人ではないのかな、と思うこともあります。
大谷吉継との関係も素敵ですしね。
「軍師・官兵衛」での役回りが、イメージダウンでしたね。


2015.01.31   麦   編集

麦さん、こんにちは。

後藤さん、お気の毒な事態になりました。
日本政府が最大限の努力をしたのか・・・
どういう経過を辿ったのか知りたいです。

安倍首相は、海外での発言について気遣いをしてほしい。テロリストを挑発するような不用意な発言をしないようにするのは、取り巻きさんたちの仕事かと思います。


テロリストとを許さない、テロリストと戦うというのは、どういう行動をすることなのか
きちんと日本国民に説明してほしい。




相聞19
・松陰が松下村塾で若者を教えた期間 2年弱
・松下村塾の双璧とは、久坂玄瑞、高杉晋作

松陰は犯罪者として幽閉されていましたが、近親者を相手に講義を行いました。この噂が広まると講義を聴きたいと言う人が増えて松下村塾を継いで講義をすることになりました。この幽閉期間と松下村塾での講義をあわせて二年あまりでした。
松下村塾の双璧のうち、高杉晋作は長州藩と幕府との戦争に勝利し、倒幕の旗揚げとなったことで有名になりましたが、久坂玄瑞は長州藩の内訌戦の結果、京都で亡くなってしまいました。松陰の妹の文さんは久坂玄瑞と結婚しました(玄瑞18歳、文15歳)。

明治維新の後、西郷さんは、久坂玄瑞について「今、俺が少しばかりの手柄があったからといって皆にチヤホヤされるのは、冷汗が出るような気がする。もし藤田東湖先生や、久坂玄瑞、その他の諸先輩が生きておられたなら、とうてい、その末席にも出られたものではないさ。ああいう先輩方が早く死なれたために、俺のような者が偉そうに言われるのは、恥ずかしゅうてならぬよ」(大西郷遺訓)。

相聞20
① 大阪の陣の後、豊臣秀頼に荷担していたという無実の罪で、他の長宗我部一族共々処刑される。

② 大坂城に帰還したのち、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残して逃亡。
蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に捕らえられる。
見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。
京都の六条河原で斬首され、三条河原に晒された。
享年41。
「戦に負けて捕らわれることは恥としないが、かくも卑陋な物を食わせるとは無礼な奴。早く首を刎ねよ。」
「死に及んで、いささかも怯じたる気配なし。」などの言葉を残しており、最後まで大名としての矜持を捨てなかった。

③ 若狭の本願寺系の末寺で僧侶になり、一婦人とともに余生を過ごした。

さて、どれが正解でしょう? 

秀頼の要請にこたえて大阪城に入り家康に対峙したので処刑は致し方なかったと思います。


三成くんは悪役で名を残していますが、主君を裏切らないことの価値が見直されるような時代が来れば評価も上がる時が来ると思います。戦国に似合わない人物だと言えるのかも知れません。



日本はいま1000兆円を超える借金があり、利子を含めると秒単位で借金が雪だるま式に増えています。借金を返済する方法は基本的に一括返済とか月賦とかいろんな方法がありますが、日本政府は、借金を返す資金繰りが立たないために自転車操業をしています。国のやることなので民法の介在するところではありませんが、自転車操業は原資のないような場合には犯罪に近い行為だと言えます。基本は借金が返せるような国に早く造り変えることが肝要です。また国内的には、貨幣価値を引き下げて借金の価値を下げる手法や、ダイナミックに借金を棒引きする徳政令のような方法などもあるようです。

 さて江戸時代にも幕府の財政が傾いて問題になったことが何度かありました。そんなとき、お金を使う場面では倹約始末をして出費を減らし、よく働き、生産量を増やして税収入を増やす緊縮政策がとられました。世を支配していた武士階級は生産活動をせずに税としての米を収奪するだけの寄生階級だったので、農民の生産活動を盛んにするため商業や工業を支援して農地を増やす必要がありました。

 八代将軍徳川吉宗は「享保の改革」で有名です。吉宗は、質素倹約を基本方針として幕府財政を立て直したことで名を残しました。しかし、この吉宗の改革に正面から逆らった人物がいました。この人は、御三家尾張藩の藩主徳川宗春で、行き過ぎた倹約は庶民を苦しめることになる、規制を増やしても違反する者が増えるだけの結果になる、という考え方で領国を収めました。しかし、吉宗がこのような宗春の動きを許すはずはなく、宗春が江戸へ出府のときに藩内でク-デタ-を起こさせて宗春を無理やり蟄居させました。

さて、相聞21
徳川宗春の考えは当時の江戸幕府首脳には信じがたいものでした。果たして宗春はどんなことをしたのでしょうか、調べてみましょう。

2015.02.01   えんてつ   編集

えんてつ さん

日本は、戦争のない平和な国のはずですが、今日は悲しい日曜日になりましたね。

19問、20問、共に大正解と言うわけにはいかなかったですね、残念!

それでは、相聞21
じっくり調べることにしましょう。


2015.02.01   麦   編集


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

トラックバックURL
http://maririn620.blog.fc2.com/tb.php/114-83f08e57




Copyright ©るりとうわた色の空に. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha.

FC2Ad