来年は見たい食用桃の花畑



何年か前に見た桃の花盛りを もう一度見たい という友が探してきたのは4月19日の日帰りバス旅行

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一か月遅れの桃の節句にしても4月3日だし 19日では遅いんじゃないかなと 申し込んだ時点での不安は大当たり
いつも癖のように口にする 「きれいなものを見るのが好き」 の彼女の無念さは 生活道路を走るバスの車窓からの 既にチラホラ緑色の芽になった桃の畑の広大さからも 想像に余りある

「やはり遅すぎたわね」 を繰り返しながら それでも 食用にしない方の桃の花は充分に楽しめました

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ツアーに組み込まれたハーブ園の 一本から数輪が咲くチューリップ

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そして背高ノッポのツツジも咲いていました

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つい先ごろ 花友さんのブログで 「ツツジ」 と紹介されていたのと同じ花 
子供のころから ツツジは枝が横に広がる低木のイメージで ゴールデン・ウィークの頃が見ごろという印象もあり 都内よりも寒い地域で すでに満開な事から疑問を抱いたばかり
「ほんとにツツジですか?」 
別の花の間違いじゃないか と疑ったことを反省 ・・・ 


お昼ごはんに美味しく頂いた ほうとうの汁の味
処により 土方歳三や信玄の文字にときめく なんちゃって歴女

来年は もう少し早く予定しようね と鬼の笑い声が聞こえそうな約束をして 山梨県 桃の里の旅も幕を閉じかけたところ 中央道に入って30分ほどの辺りからの渋滞により 5時間30分余りの車内缶詰

2~3時間は よくあることだけど この頃は行き届いたサービスエリアのトイレ状況も 長蛇の列という珍しい風景でした






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コメント

: こんばんは~(^^♪

こんばんは、麦さん。
いやはや…お疲れ様でした。
目的には間に合わず…帰りは渋滞…では、疲れが倍増でしたでしょうか!?

お写真の中の 枝垂れの『源平桃』懐かしく拝見しました。

実は、我が家のそれは…樹高4~5㍍まで育った数年前…
突然、立ち枯れして仕舞い…今は、我が庭には無いので…。また、欲しい木の一つです。

2015.04.20   てつ!   編集

てつ さん

ツアーの趣旨は適っていたのですが、果樹園の広大な桃の花が目的だったんですね。
反省会の遅い夕食で、ちょっと飲んだだけで、さすがに疲れていたのでしょう、ちょっとで大酔いでした(^^ゞ


源平桃が、立ち枯れしましたか。
4~5mまで育って、虫とか、なにか原因があるのでしょうけれど残念ですね。

私も3年ほど前のGWに、飯田の道の駅で2色の花が咲いている源平桃を持ち帰ったのですが、去年も今年も白だけが咲きました。
これも何か原因があるのでしょうけれど、
為す術もなく白花だけ楽しんでます(*^-^*)


2015.04.21   麦   編集

麦さん、こんばんは。

大楠公さんの歴史夜話18を飛び越して短めの19と20を送ります。なぜかっていうとキ-ボ-ドを打つのに大楠公さんは疲れが出る・・・長すぎて・・・なんです(笑)
でね、今日は短いお話をふたつです。



江戸時代、三代将軍家光の時代になるといわゆる生まれながらの将軍の時代になる。そして五代将軍綱吉の時代ともなると「戦(いくさ)」そのものが生活から遠のいた文治の時代となる。こうなると世を支配している武士階級は本来的な仕事がなくなる。ならば武士たちは日々何を生きがいに暮らしていたのだろうか?

こうした疑問は現代にも当てはまる。もっともらしい価値観は消え失せて、価値観の多様化や相違が生まれてくる。なんの定義もなしに言語が使われ、些細なことで命を掛け合う事件が起こる。

歴史夜話19
1818年( 文政元年)7月、日光街道の宿場でその事件は起きた。
相馬藩の家臣が供を従え、とある旅籠屋に草鞋を脱いだ。おくれて、会津藩の家臣も同じく供を従え、旅籠屋に着いた。旅籠屋の亭主はすでに部屋がふさがっているため、あとから着いた会津藩士にほかの旅籠屋を利用するよう頼んだ。

会津藩士は怒り出した。
「ここは会津藩の定宿ではないか。部屋がないのなら、相馬藩士を追い出せ」 相馬藩が外様で六万石であるのに対し、会津藩松平家は徳川一門で六十万石である。格上をカサに着てのごり押しだった。

亭主は困りきり、相馬藩士にほかの旅籠屋に移るよう頼んだ。相馬藩士は亭主の窮状を察し、無用の摩擦を避けるためもあって、黙ってほかの旅籠屋に移った。そのとき、あわてて移動したため、槍持の中間が部屋に槍を忘れてきてしまった。

槍持はもとの旅籠屋に槍を取り戻しに行った。事情を知るや、会津藩士は居丈高に槍持を追い返した。「武士たる者が大事の槍を忘れるということがあるか。それに、ここはすでに我らの城じゃ。槍を返すことはあいならぬ」。 むなしく帰ってきた槍持からいきさつを聞くと、相馬藩士は丁重な書状を書き、それを持たせてふたたび会津藩士のもとに行かせた。

書状を読んでも会津藩士は納得しない。しまいには、こう言い放った。「帰って主人に言え。槍持の首を持ってくれば、引き換えに槍を返してやるとな」 またもやむなしく戻ってきた槍持から事情を聞き、相馬藩士は心を決めた。「きさまも武家奉公の身。覚悟してくれ」「へい。もとはといえば、あたくしの粗忽からおこったこと。どうかあたくしの首と引き換えに槍を取り戻してください」 槍持は涙ながらに訴えた。

相馬藩士は槍持の首を刎ねると、生首を白木綿に包み、もとの旅籠屋に乗り込んだ。生首を見て、会津藩士は真っ青になった。即座に槍を返却したが、生首を受け取るのはこばんだ。 

歴史夜話20
1798年(寛政10年)5月16日の夕七ツ(午後4時)過ぎ、神田橋御門内にある豊前小倉藩小笠原家の上屋敷の前で、若い侍ふたりが斬り合いになった。 ひとりは十六、七歳くらい、もうひとりは二十歳くらいである。

初めのうちは、ふたりともかなり間合いを取り、お互いの刀の切っ先が一尺ばかりも離れていた。じりじりと進み、切っ先が触れ合うかと思うや、すぐに後ずさりして距離を取るという具合で、なかなか踏み込めない。

そうするうち、若い方の侍はいかにもひ弱そうだったが、案の定、肩のあたりを斬りつけられた。 すると、斬られたことで若い侍は逆に奮起したのか、自暴自棄になったのか、猛然と突進していく。年上のほうはタジタジとなり、ついに胸のあたりを突かれてしまった。しかし、若い方も脇の下を斬られた。

その後、おたがいに切り結んだが、決着はつかない。ふたりとも疲労と出血でフラフラになった。刀をふるっても力がはいらない。おたがいに、かすり傷をあたえ合うのみだった。
若い方が思い切って踏み込もうとしたが、足がもつれてその場に倒れてしまった。
好機と見て、年長のほうが上から刀を叩きつけようとしたが、その拍子に、やはり足がもつれて転倒してしまった。疲労困憊しているため、いったん倒れるともう立ちあがることができない。

肩で息をしながら、ようやく若い方が起きあがり、そばに歩み寄ると、剣先で相手の喉をつらぬいた。しかし、精も根も尽き果てたのか、そのままドサリと倒れ伏し、もう動けなかった。

徒目付が検使に来たときには、ふたりとも絶命していた。
ふたりはともに小倉藩士で、衆道(男色)関係のもつれから斬り合いになったのだという。 


いつの時代も、世の中が平和になると見えないものが見えてくる。

2016.06.08   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

楠木正成では、武将に城にと、名称の続出で頭が支離滅裂のところを、
ぐっと易しい歴史小話で、一休みですね。(*´▽`*)

言うことは大きくて中身のない会津藩士に対して、不言実行という熟語が思い出される相馬藩士でした。
不言実行?
ちょっと違いますね(^-^;

20話は、
衆道を検索したら、同性愛のことなんですね。
このようなことで命を落とし、19話の槍持さんの命と比べてしまいます。
何の教えかは分かりません(-_-;)


2016.06.08   麦   編集


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