るりとうわた色の空に

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気になる 明智光秀

歴史とは無縁の私が翻ったのは フッと本当の明智光秀を知りたいと思ったのがキッカケでした

とうぜん戦国時代を把握するのが前提となり 折りしもNHK大河ドラマの官兵衛は見逃せないところ

6月は 2週続きで土・日に家を空けたため 娘に録画を依頼したところ快く引き受けてくれたのでしたが
それを我が家のテレビで見るにはCDに移さなければならないところが 多忙らしい娘は なかなか その作業に手が回らないようす
7月に入っても未だ 2回分の放映を飛ばして見ていますが どうにか事の流れを把握できるのは ここのところNHKに限らず 各局の歴史番組に自ら好んで翻弄されているせいでしょうか


いよいよ次回の官兵衛は本能寺
私の明智光秀が スポットライトに浮かび上がります
今ここで 明智光秀が 「私の明智光秀」  となるところに 私の歴史嫌いは尋常でなかった事が裏付けられます

斑入りツユクサの花
DSCN2084.jpg

花が見せ所のメガネツユクサに対して 
濃い緑にクッキリと黄色いラインの葉が自慢の斑入りツユクサですが
よぉく見ると地味な花にも けっこう楽しめる面白さがあります


だれだったか 「部下を大切にする上司は出世しない」 という歴史家の言葉がありましたが 側室を持たず 娘たちをも溺愛した光秀は 政略結婚が当たり前の時代には生きにくい武将だったのでしょうか
信長を討ったら多数の味方が付くであろうという光秀の目論みは大きく外れ 娘ガラシャの嫁ぎ先である細川忠興までも去っていきました

確か 信長の死を知った直後 秀吉に 「今こそ 上様が天下を取るとき」 と促したのは 官兵衛でしたね

そして 毛利攻めのさなかに 安土城へと向かった多勢の秀吉軍と 強力な武将の居ない光秀軍による 山崎の戦い 

家族や家臣を大切にした光秀の天下は あっけなく終ってしまいました

身近な周囲のものを大切にするのは当たり前のことでも 天下の太平となると 上に立つ者には 仲間をも身内をも切り捨てるという 人としてはちょっと怖い潔さも必要なのでしょうか 

そんな事も考えたりして 次回の放映を楽しみにしています


 
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コメント

こんにちは。


明智光秀の奥方のひろ子さんは小さい頃の病で少し醜いところがあったとか、でもそんなことは気にならないと娶りました。生活が苦しい時は黒髪を売って支えたとか。

信長を討ったとき、光秀は近江を領地として坂本城を根拠に比叡山を睨んでいました。



織田信長は、元亀二年9月、三万の兵をもって比叡山全山を焼き討ちしたのち、延暦寺の監視と山麓一帯の支配を命じたのが明智光秀です。そのために明智光秀は坂本城を築城しました。元禄三年の記録では、元亀二年のところに「明智 坂本に城をかまえ、延暦寺の領土を知行する。山上の木まで切り取る」とあり、築城は元亀二年のうちにはじまっていました。たことになります。

このお城の特徴は、まず、城内に琵琶湖の水を引き入れた、いわゆる「水城形式」の城郭でした。光秀の茶の湯の師匠である大阪堺の津田宗及(つだそうぎゅう)が坂本城に招かれ茶会を催した時に「茶会のあと、城内から御座船に乗って安土城に向かった」とあります。城の外観は高層の大天主と小天主がそびえる豪壮さで、当時、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスは「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ、城である」と書いています。時期的には、坂本城は安土城より4年早く着工されていましたので、近世の城郭の先駆的な存在でもありました。光秀は、坂本城を拠点として信長の命により近江平定に奔走していましたが「本能寺の変」のあと「山崎の合戦」で光秀が敗れ、坂本城も落城しました。

落城後、信長の重臣たちは尾張清洲城に集まり、信長の領地分割、いわゆる知行割りが行われ、近江の滋賀と高島の二郡をもつ丹羽長秀が坂本城の城主となり、羽柴秀吉は山城をもつこととなりました。その清洲の会議では、秀吉を坂本城主にという声が多かったが、秀吉は「坂本城をもてば、天下を取りたいという野心があると思われる」ので、丹羽長秀に渡したともいわれています。それは、坂本城は「今道越」という京都への交通の要所に立地していたからともいえます。

しかし、天正十一年4月、秀吉が越前北庄で柴田勝家を破ると、丹羽長秀は、越前・若狭と加賀半島を与えられ、坂本城は、秀吉の家臣、杉原家次が入りました。しかし、家次狂気の風聞が伝わり、先の知行割りで瀬田城を与えられた浅野長吉に変わりました。そして、天正十二年に山門復興の許可がおりてからは、坂本城も延暦寺の監視のための役割もなくなったことと、秀吉が大坂城を築いたため東海道や淀川の陸運水運を通じて北陸と大阪を結びつけるうえで「大津」の重要性が高まり、歴史的な役割を大津城に譲ることとなりました。

そして、坂本城廃城後、城跡は整備され田畑や住宅地となり、有名なお城でしたが、その位置や規模などは不明で、幻の城となってしまいました。お城があったらしき場所には明智一族の墓と伝えられている明智塚が、今もねんごろに祀られています。また、琵琶湖の渇水時には、湖中に残る坂本城の石垣が現れます。




本能寺の後、細川忠興は玉を丹後半島へ幽閉しました。義父の申し出を断った
ものの妻のガラシャとの縁をきれなかったのです。この幽閉地は釣行の通り道
にあり何度か道草をしたこともありました。

2014.07.12   塩鉄   編集

明智光秀の身元調査、詳しいご報告をありがとうございます(笑)
照子さんは、「ヒロコ」と読むのですね。
その時代には、珍しい女性の名前ですね。

瀬田城、浅野長吉、と、またまた複雑な戦国時代らしく、新しい城と武将の出現でこんがらがりますが、たいへん面白く拝読しました。

本能寺のあと、光秀は信長の安土城を占拠したのではなかったでしたっけ?
今日(13日)の放映に釘付けになりそうです(笑)

>琵琶湖の渇水時には、湖中に残る坂本城の石垣が現れます。

神秘的ですね。
高松城の水攻めの際に築かれた土手のあとも、ところによって残っているそうですね。
いつか尋ねる場所のリストに書き込みましょう ^^

今年の兵庫県は注目の的ですね。
細川忠興の愛妻ぶりというか嫉妬でしょうか、愛され過ぎるのも嬉しくないですね(笑)
官兵衛の幽閉地、ガラシャの幽閉地、これもリストですね。

2014.07.13   ムギ   編集

こんにちは。

そうですね~明智光秀の話になると
本能寺の変 → 安土城 → 小栗栖 → 坂本城
こんなコ-スかな~♪

丹後半島の伊根の湾内にある青島という小島で
毎年釣りをするのが恒例でした。
お玉さんが幽閉された味土野は丹後半島の真ん中
あたりになります。

2014.07.14   えんてつ   編集

えんてつ さん

小栗栖から次ぎ次ぎググっていくと、怖いですね。
信長には恩がある光秀ですから、自業自得でしょうか。

もしも本能寺の変がなかったら、その後も今の日本も違っていたでしょうね。
どう違っていたか?
『影武者・織田信長』なんて小説もあったら面白そう。


歴史を学ぶには地理も大切ですね。
歴史と同じくらい地理も苦手ですが、歴女の次は地女を目指して ^^




2014.07.14   ムギ   編集


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