るりとうわた色の空に

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価値観の違いで 涙


世にホームビデオカメラが出回り始めた昭和の終わりのころ テレビ局の撮影スタッフ並みの大きな機器を肩にかけて そのころ暮らしていた手賀沼周辺の撮影に興じたりしていた 我が配偶者 

精密機械相手の職業柄 いや 機械が好きだから この職業に就いたわけで 新開発の機器には すぐ飛びつくのだ

一方の私はと言えば 家電は簡単に機能さえ果たせばOK

そんな私が 頻繁に写真を撮るようになったのは ブログを書くようになってという カメラ歴が浅い割には 5台目のカメラが私の手元にやって来た

これまでのカメラは 諭吉さん一人か二人のレベル
音痴ゆえか機器への愛着が乏しくて 手にしたカメラを よく落としては買い替えたり修理に出したり

このたびは フラッシュの不具合で3度目の修理に出そうとしていた矢先のこと 4日連休となった最後の休みの日のハタラキバチさん 曰く

「カメラ 買いに行くよ」  

フラッシュだけだから修理すれば良い という私の思惑は却下
確かに 修理するにも諭吉さん一人では足りないので  ま! いいか  と 銀座のオオキナカメラ店へ行ったとさ


写ればいいんです
画像が鮮明だとか 画素数だとかについては どうでもいいんです

そう主張する私の声など お構いなしで
それぞれのメーカー専門の担当者さんと あれやこれやカメラ談義を楽しむ機械好き

結果 これが良い と選択したのは あの一眼レフ っていうやつ

えぇ~!

こんな大きいの 私は持ち歩けない ・・・ 涙 

100歩譲って ほぼデジカメサイズで一眼レフの親戚みたいのに妥協した 


さて
試しにシャッターを押してみたら チャチャチャと連写するし 接写で花のメシベを撮りたくても いつまでもピントが合わないし ・・・ 涙 



DSCN5983.jpg 

今までのカメラで


DSC00027.jpg

新しいカメラで

絶対に こっちの方が綺麗な色に写っていると 大満足の機械好き

どっちの空も綺麗な色に思えるから どっちでも いや 今までのカメラで充分に満足の私


この機械好きさんは とりたててカメラの趣味はなく 日常で写真を撮ることは ほとんどない
つまりは 私のカメラが壊れたのをラッキーとばかり 新しい機器を買いたいだけでしょ!


DSCN5988.jpg



取説を読み始めた機械音痴は 知らないカタカナの言葉の羅列に 涙 ・・・








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コメント

麦さん、こんにちは。

モロコの田んぼを覗きに行ったら雨が降り始めたので退散した次第です。

歴史夜話は思いつきということで、今回はかなり近代ものです。

1925年(大正14年)大日本帝国は「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」という内容の法律「治安維持法」を成立させた。この法律は共産主義運動の取締りを目的に制定され、条文のごとく資本主義と天皇主権に反対する運動を取り締まる法律だった。しかし、最終的には、戦争完遂の柱のひとつとなり宗教弾圧や、民主主義的運動の弾圧にも適用された。

1928年(昭和3年)になって、「治安維持法」の改正が行われようとした。改正内容は「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑としたことだった。

ところが、この法案は審議が浅く年度末には廃案になりそうな流れでした。しかし、1929年(昭和4年)3月5日、与党政友会の動議により衆議院で強行採決され、十分に討論されないまま可決された。この年は中国の満州鉄道で爆発事件が起きた。満州鉄道というのは、日露戦争によりロシアから日本が権利を奪取したものだった。それが、何者かによって爆破されてしまった。
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 当時、満州駐在の日本陸軍(関東軍)は、これを中国軍の仕業であるとし満州全域を占領した。満州事変と呼ばれるこの満州鉄道爆破事件、実は日本の陸軍の自作自演だった。


歴史夜話9
山本宣治(やまもとせんじ)は、1889年(明治22年)5月、父・山本亀松と、妻・多年の裕福な家庭の長男として京都で生まれた。しかし生まれつき虚弱だったため、中学を中退せざるをえなかった。亀吉は息子のために京都宇治に園芸場を開き花つくりをさせた。

1907年(明治40年)宣治は一人カナダへ渡り園芸の勉強しながら現地の小中学校へ通う。1912年(大正元年)、帰国、同志社普通部4年に入学する。1914年(大正3年)、丸上千代と結婚。1915年(大正4年)、長男英治が誕生する。同年、第三高等学校二部に入学。1917年、28歳の時に東京帝国大学理学部動物学科に入学。1920年(大正9年)、卒業。妻子を持ちながらの勉学だった。

その後、生物学者、性科学者として京都大学・同志社大学などで教える。時代は産めよ増やせよの世の中でしたが母体保護と産児制限運動を提唱、また労働者の啓蒙運動や侵略戦争反対の政治運動を行い、 結果1924年(大正13年)京都大学を追放される。1928年(昭和3年)、第一回普通総選挙に京都2区より労農党から立候補して当選する。山宣という愛称で呼ばれていた。

代議士となった山本宣治は、治安維持法改正に反対するため1929年(昭和4年)3月5日、衆議院で反対討論を行う予定でしたが、その日、与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決されました。そして、その日の夜、右翼団体である「七生義団」の黒田保久二に刺殺されました。

国家が戦時体制に邁進するなか、治安維持法改悪にただ一人反対し、「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・・」と奮闘しました。この原稿は、長野県の上田市・別所村の農民組合主催の講演会のもので殺害される4日前のことでした。花を愛したひ弱で頑固な少年の39歳の生涯でした。

郷里宇治では、農民たちが墓標にこの演説文を刻んでその死を悼みました。しかし、これを許さぬ警察は碑文をセメントで塗りつぶしました。そして夜の間にまた碑文が農民により彫り起こされるということが1945年(昭和20年)まで繰り返し続きました。今の平和な時代に戦争反対を訴えることは比較的容易いことですが、こうした歴史の上にいることも思い返す必要があるでしょう。

2016.05.16   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-483

こちらも、明日は弱い雨になるようです。
メダカには、何も影響ありません(笑)

そうでしたか、、、という言葉しか出てこないですね。
幕末も。
いまでこそ死刑は凶悪犯に限りますが、思想の違いで命を落とさざるを得ない時代の理不尽さ。

睡魔も襲ってきて、きちんと理解できていないかもしれません。
歴史としては、あまり人気のない時代(*´▽`*)
しかし、あとでまた読み返したい、興味深い部部のある お話です。


2016.05.17   麦   編集


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