半兵衛のお墓参り




今さらながら明智光秀の謀反の真実を知りたいと思ったのがキッカケで 歴史が面白くて仕方ない

先の大河ドラマで オバサン世代に人気だという V6の岡田くんが演じた軍師・官兵衛の足跡を訪ねたいとの思いがつのり 幸いにも関西在住の花友さんの案内付きという機会に恵まれた

官兵衛が岡田くんだからか 岡田くんが官兵衛だからか あるいは戦国時代が面白いのか どれが本当の目的なのかは解らなくなってしまった歴史の旅
終わってみると 明智光秀でも官兵衛でも岡田くんでもなく 官兵衛と共に秀吉に仕えた 軍師・竹中半兵衛のお墓参りが出来たこと
今となっては 墓前に私が咲かせた花を供える青写真が頭を巡り 家を出るとき我が家の花を摘んで行かなかったことが悔やまれます 


歴史の旅の始まりは 夏日が予想された5月26日 9時過ぎ伊丹空港に到着
花友さんによる綿密な計画書に従って 最初の訪問地 賤ヶ岳古戦場へ

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リフトで6分 さらに杖が必要な坂道を330mほど登ったところの古戦場は 標高420mあまり

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山としては そう高くなくても 戦場として こんなところが戦いの場だったとは意外な感



ふたたびリフトで降りたころ正午を過ぎているにも関わらず 空腹を忘れて次の訪問地は 毛受兄弟の墓

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攻め寄る秀吉の大群に勝ち目はないと 討死を覚悟した柴田勝家に 「ここは殿が死ぬ場所ではない」 と 勝家の影武者になって秀吉軍と戦い 時間を稼いだ毛受兄弟 
涙を浮かべて毛受兄弟の申し出に従い 北ノ庄城に戻って お市と共に自害した勝家なわけだけど もしも もしも 勝家が城に戻らなかったとしたら お市さんは 3姉妹と共に生き延びることになったのかなぁ と 思ったり 
 

本日 最後の訪問地は 明智光秀の坂本城跡

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湖畔に建つ坂本城は 琵琶湖そのものが お濠だったという  


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信長に忠実な家臣だったはずの 明智光秀
本能寺の真実は 永遠に謎でしかないのでしょうか 
なぜ謀反が起こったか 
人間の 光秀の心の裏表を 私は知りたい




歴史の旅 2日目の初っぱなは 今回の旅で2番目の糧となった 花友さんの家で育つ生物たちとの対面
不覚にも写真を撮る余裕がなく 画像がないのが残念


平日とは言え シニアの姿すら見当たらない名所の駐車場に咲くタンポポ

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秀吉の本陣跡は けっこうな階段の後の山道が どこまで続くか不明なため 途中で引き換えし

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こんなところに史跡が? の田園地帯で ようやく見つけた標識に 竹中半兵衛の文字

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信長に仕える秀吉のもとで育まれた 官兵衛と半兵衛の友情
幽閉された官兵衛を信じる半兵衛の機転がなければ 官兵衛の嫡男・長政の命は絶たれていた
半兵衛の死後に 有岡城から助け出された官兵衛
悲し過ぎる ・・・

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できることなら もう一度 訪ねたい場所です



旅の最後は 官兵衛ゆかりの地


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きれいに整備されて おそらく 去年は訪問者で賑わったであろうことが伺える佇まい



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傍らの池というか 水溜まり状の水面に浮ぶハスにて遊ぶ ルリトンボ



お付き合い願った花友さんには運転を急がせてしまったけれど 無事に18時発の翼は 羽田へ向けて

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上昇から水平飛行となって 雲の他に見られるものの唯一つは さすが日本一の富士山


時間と興味との兼ね合いを天秤にかけて  姫路城を省いたことに やや心残りはあるものの さて次はと馳せる思いは 吉田松陰 



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コメント

おはようございます(^_^)
更新が無かったので
もしかしたらとおもってました

お天気に恵まれての歴史の旅
楽しまれた様ですね🎶

2015.05.30   h.j   編集

お疲れ様でしたね。

不思議、行くとこ行くと貸切りでしたね(笑)。
デジカメ忘れてサイテ-でしたがいろいろ麦さんの歴史解説を聞けて楽しかったです。


我が家のチビちゃん見ていただいて嬉しかったです。
麦さんの視力の良さに驚きましたよ~♪

2015.05.30   えんてつ   編集

v-22 h.j さん

ただいまです(^-^)

一日ずれていたら雨でしたね。
晴れ女なんですよv-278

オミヤゲ画像に、お気に入りはありましたでしょうか~?
フラッシュが壊れた古いカメラでの画像だから、、あんまり良いのはないですね。

沈む夕日を追加しました。浜松の上空あたりだと思います(*^-^*)



v-22 えんてつ さん

お疲れ様でした(^-^)

最近はデジカメは、どこに行くにも必需品となりました。
私の場合は、常にバッグに入っているんですよ。

妖しげな歴女の歴史解説も、たまには楽しめるかも(笑)

我が家も黒メダカが加わり賑やかになりました。
そろそろホテイソウを入れてあげないといけませんね(^^)v

2015.05.30   麦   編集

ここのところ歴史から離れていましたが、大河ドラマの舞台である長州が気になりますが・・・・


旅の途中で一度だけ西郷隆盛の話題が出ましたね。国内で大乱があり、それが収まると、余った軍事力をどこに使うかということが問題になる。朝鮮半島へ出兵しようという動きもこうした流れのなかで生まれてくる。でも、話題は、南州西郷隆盛が征韓論を主張して破れて鹿児島に帰って西南の役を起こして死んだとき、懐に大事な手紙をいれた入れ物をもっているのが見つかったお話でしたよね。

西郷隆盛が終生肌身離さず持っていた手紙の主は、福井藩藩士の橋本左内です。幕末の福井藩は松平春嶽が出て幕府に影響を与えましたが、そのもとは、肥後の横井小楠という人を福井に招いて得た知識の結果です。橋本左内は大河ドラマには登場しませんが、安政の大獄で刑死します。

幕府の権威が失われ、大名・公家から下級武士・浪人までを巻き込んで、この国の進むべき道を模索した時代、それが幕末という時代でした。この時期には、考え方の違いや権力争いにより全国各地で戦いが繰り広げられます。その犠牲の上に「明治」という新しい時代が開かれ、日本は近代国家への歩みを進めていきます。

幕末、福井藩16代藩主松平春嶽は、宇和島藩第8代藩主の伊達宗城、土佐藩第15代藩主の山内容堂、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬と並び称せられて幕末四賢公の一つとして活躍しました。手始めは、松平春嶽を中心として国政の立て直しに力を注ぎましたが、政治的立場としては幕府内改革ということでした。

嘉永 6 年(1853)ペリーが浦賀に来航し、アメリカ大統領からの開国を求める国書を幕
府に提出します。ペリーは翌年 1 月に再来し開国を要求、開国か鎖国かで国論は二つに割
。れますが、幕府は開国に踏み切り横浜で日米和親条約に調印しました。

ペリー来航を受けて、福井藩は品川御殿山の警固を命ぜられます。福井藩主松平春嶽は
米艦の動向をはじめとした情報収集を精力的に行い、西洋砲術を導入するなど軍備を強化
しました。また、春嶽と侍臣たちは他藩主や要人と意見を交わし、問題解決の道を模索しました。

禁門の変は蛤御門の変とも呼ばれます。文久 3 年(1863)の八月十八日の政変で、尊王攘夷派の長州藩(萩藩)は京都を追われますが、翌元治元年(1864)6 月、形勢挽回のた
めに京へ出兵しました。7 月 19 日、長州藩兵は公武合体派の会津・薩摩藩兵などと蛤御門(御所の西門の一つ)付近で交戦し、堺町御門付近を守衛していた福井藩兵も長州藩兵と激戦となりました。戦闘は 1 日で終結し、長州藩は多数の戦死者を出して敗走。同月 23 日に長州征討の勅命が出され、第一次長州戦争となりました。

長州戦争は、長州征討(征伐)とも呼ばれる幕府と長州藩の間の戦争です。第一次戦争は
元治元年の長州征討の勅命に端を発し、21 藩に出兵が命じられました。総督には前尾張藩主徳川慶勝、副将には福井藩主松平茂昭が任命され、福井藩兵は豊前小倉に滞陣しましたが、保守派に実権が移った長州藩は抗戦せずに幕府に降伏しました。第二次戦争は慶応元年(1865)の長州再征の勅命に始まり、32 藩が動員されました。翌年 6 月に戦闘が開始されましたが、戦況は幕府側に不利となり、将軍家茂の死によって休戦し、その後撤兵しました。このとき長州に勝利をもたらしたのは、薩摩藩との薩長同盟と高杉晋作の奇兵隊でした。

 薩摩藩と長州藩の繋がりは遠くは関ヶ原の敗北であり、近くは攘夷による外国との戦争での敗北でした。薩摩と長州は攘夷を捨てて尊皇倒幕へと進み、新しい国家体制を目指すということになりました。

慶応 4 年(1868年)1 月 3 日、京都の鳥羽・伏見で新政府軍と幕府軍が戦闘を開始し、新政府軍の勝利に終わりました。新政府軍は天皇から錦の御旗を授けられ官軍となり、会津藩を中心とした旧幕府軍は朝敵とされ追討の対象となりました。以後、旧幕府勢力や会津藩・庄内藩、奥羽越列藩同盟と新政府軍との戦いが約 1 年半に亘って続きました。戦いの始まった慶応 4 年の干支から「戊辰戦争」と呼ばれます。親藩の福井藩は反幕府勢力として新政府軍の一員として新潟から会津、庄内に出兵しました。





2015.06.09   えんてつ   編集

えんてつ さん

西郷隆盛=上野の森を犬を連れて散歩中の和服姿。
ですが、そんな穏やかな時を過ごした彼ではありませんでしたね。
吉田松陰にしろ西郷さんにしろ、何で、そんなに早く命を失わなければならなかったのか、悲しいですね。

城、戦、武将、戦国時代のややこしさとは違った込み具合に、私の頭は再び混乱しそうですが、、、(^▽^;)

幕末の相関図はいかに?
杉文から久坂の妻となった文の生涯は、最終的に小田村文なんですね。
怪しげな歴女・麦の出番です(*^▽^*)


2015.06.09   麦   編集

吉田松陰が獄にいるころ、高杉晋作が自分の生き様はどうあるべきか~、命の使いどころはどこですか~?ということを質問したことがありました。

この高杉の質問に松陰は丁寧に答えています。
さて、その答えはどういうことだったのでしょう?



あっ、そうそう
橋本左内のことについても調べてみて下さい。


もうじき池田屋事件が起こります。長州勢が京へ攻め上った理由のひとつは、池田屋事件の仇討ちでした。池田屋事件に関しては、古高俊太郎という人を調べてみてください。

2015.06.10   えんてつ   編集

えんてつ さん

>この高杉の質問に松陰は丁寧に答えています。
さて、その答えはどういうことだったのでしょう?

松陰先生のことですから答えは何となく掴めそうですが、獄にいるころに限定すると、歴史に残る決め台詞がありそうなので、あちこち飛んでみましたが・・・
正解は、解りません。
図書館で5~6冊の幕末、高杉晋作関係を紐解いてみても、解りません。
そこで、私なりに吉田松陰の生き様から、好きな言葉を選んでみました。

「死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。生きるとか死ぬとか…、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではありません。」


>橋本左内のことについても調べてみて下さい。

PCの検索も便利ですけど、図書館の調べものデスクで何冊かの本を渡り歩きながら纏めるのも懐かしく、解りやすいですね。

福井・松平慶永の家来。
紀州派に対する一橋派で、「内政改革をきっちりとやってこそ、外交ができる。」とし、「内閣形成」に尽力。
その構想が広く受け入れられ、大名たちが大きく動き始めた。
しかし、大老に松平慶永を推す佐内を、家定は一蹴し、堀田正篤や、水戸嫌いの大奥? らに吹き込まれて井伊直弼が就任。
安政の大獄で、吉田松陰より20日早く処刑される。
そして井伊直弼への反発が高まり、桜田門外の変の引き金の一つとなる。

西郷隆盛の竹馬の友は、大久保利通ですよね。
大久保利通からの手紙を懐に、という記憶もありますが、正解は橋本佐内の手紙でしたか。



>池田屋事件に関しては、古高俊太郎という人を調べてみてください。

古高俊太郎=拷問 の印象。 
梅田雲浜に弟子入り。
情報活動と武器調達にあたったが、新撰組に踏み込まれ捕縛される。
ここに記しがたいほどの厳しい拷問に耐えきれず自白に追い込まれ、池田屋事件が起きた、とされている、、、が、
新撰組は二手に分かれて会合場所を探し回っているので、場所は特定できてなかった?

その後、投獄され、36歳で斬首。


2015.06.11   麦   編集

お疲れ様です~♪

いろいろ調べていただきましたね。

正解ですね!
野山獄にいたころに高杉から質問を受けましたが、しっかりとしたまとまりのある答えをしていませんでした。打首になる少し前に高杉に回答の手紙を書きました。

自分の生き様と重ね合わせた決死の回答だったと思います。高杉もよくそれに答えたと思います。ほんとに日本が倒れるかどうかの瀬戸際だという危機感が若者たちを支配していました。

橋本左内は15歳で自分のために「啓発録」を書きました。そして10年後に読み返してさらに奮発しました。西郷さんとの最初の出会いの場面は有名な話です。左内が刑死したとき重要な幕臣であった水野忠徳は「井伊大老が橋本左内を殺したる一事、以て徳川を亡ぼすに足れり」と述べていたという記録があります。

左内の生地は福井市の足羽川にかかる「九十九橋」(つくも橋)の近くにあり、また彼の名をつけた左内町には左内公園があります。福井の子供たちは、先生から「啓発録」の五箇条を教えてもらいます。戊辰戦争では、福井藩は親藩でありながら新政府軍につきました。こうした福井藩の流れは横井小楠という熊本藩の人物の影響が大きいです。

横井小楠の詩としてあまりにも有名なのが以下の詩歌です。
 堯舜(ぎょうしゅん)孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす。
 何ぞ富国に止(とど)まらん、何ぞ強兵に止(とど)まらん、
 大義を四海に布(し)かんのみ。
 心に逆うこと有るも人を尤(とが)むること勿(な)かれ。
 人を尤(とが)むれば徳を損す。
 為さんと欲する所有るも心を正にする(な)かれ。
 心を正にすれば事は破る。
 君子の道は身を修むるに在り。



西郷さんが夢やぶれて鹿児島で囚われの身となり僧の月照と心中したころに左内は死罪になりましたが、西郷さんだけが助かったことがその後の薩摩、ひいては日本の進路にとって幸いであったというしかありません。

古高俊太郎は、わたしの故郷の滋賀県守山市の人です。俊太郎道という名前のついた道が通学路でした。中学のころ古高俊太郎が土方の拷問に耐えかねて白状して池田屋事件が起こったことを知って何だか恥ずかしいというか残念な気がしたものです。

2015.06.11   えんてつ   編集

えんてつ さん

正解でしたか!
おおよそ松陰の生き方が纏められている言葉ですよね。

愛国心に溢れた多くの命が、若くして奪われた悲しい時代ですね。


明智光秀の末裔のかたも、「初対面で自己紹介の時、明智と名乗るのが恥ずかしかった。」と言われてました(*^-^*)
しかし土方の拷問は、想像を絶するものですね。
自白しないことには耐えられなかったのでしょう。

えんてつさんの、中学生のころから故郷を愛する気持ちも偉大ですね。


2015.06.12   麦   編集


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