るりとうわた色の空に

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礒田さ~ん 


必ず戻って来られることを前提として 今 もし行けるとしたら いつの時代?

➀ 幕末
② 戦国時代
③ 恐竜がいる時代

と トーク番組で問われた 歴史家 磯田道史さん

ご本人が答える前に 私が推理してみるに
まず恐竜がいる時代はないでしょう と ③は真っ先に消去
幕末か戦国時代か 決めかねるけど 磯田さんなら戦国時代かな

そして磯田さんは 
  
恐竜がいる時代に行ってもねぇ 恐竜と話せるわけではないし ・・・

うん うん
そして答えは

戦国時代

やったー!

私の推理が当たったことよりも 礒田さんの関心が戦国時代であると言うことが嬉しかったのだが その次の 「なぜ戦国時代?」 という問いに

天正10年 本能寺

との礒田さんの言葉は さらに私を喜ばせた


私が この歳になって日本の歴史に首を突っ込んだのは 明智光秀の謀反の訳を知りたかったからだ

近年になって長宗我部元親の手紙が見つかったり 別に黒幕がいたとか 山崎で命尽きたはずの光秀が実は落ち延びて僧になったとか まだまだ謎めいた結論に行きつきそうなんだけれど

それはそれで おいといて

あの偉大な歴史家 磯田さんと 
本能寺を攻めたのは赤穂浪士で 松の廊下事件に怒ったのは新撰組だと言いかねない歴史音痴の私とが 

なんと戦国時代に共通の思いを抱いているということに ほくそ笑んでしまうのであ~る


図書館で橋本左内について調べる
DSCN6343.jpg

アナログなコピペ法 (^-^;


大切なのは未来だ!
過ぎ去ったことを学び知ることに意味を感じず 
ほっとけほっとけ 538さん 江戸で開幕1603 と 受験のための暗記だけに留まった15歳

もし今 私が行けるとしたら あの教室の歴史の時間

戻って来られることが前提でなくても いいなぁ






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コメント

今晩は(^_^)
磯田さん…有名な歴史学者さんなんですね
歴史にうといので、存じあげませんでしたが、
麦さんの磯田さん〜に反応して調べました(≧∇≦)
龍馬伝なんて本も出していらっしゃる、、、
気になりますね
もし行けるとしたら、龍馬さんが活躍していた時代に行ってみたいかも…

2015.06.12   h.j   編集

おおっ、磯田さんと同じ焦点! こればっかしは素直におめでとうございます。

過去の歴史上の事件は後世それを眺める人の数だけ解釈があるということだと思います。

>大切なのは未来だ!
>過ぎ去ったことを学び知ることに意味を感じず 
そうなんですよね、過ぎたことをいまさら~と思いますよね。

でも、いつの時代の人々も多かれ少なかれ将来の不安と安定を思いながら生活をしていた。そしてその繋がりの最先端が現在だと考えると、多くの問題が時空を超えてくるのです。過去の事件に疑問が浮かぶのも当然ですよね。富というか国家の財産の帰着点の奪い合いとその実現の方策としてどういう方法でどういう制度をつくってきたか。そして人が人を倒す真の理由、そこにはアクシデントのようなこともある。経験値という言葉を聞きますが、歴史の意味はそういう点で財産だといえると思います。


まずは、麦流の歴史の眺め方ですよね。
相関図という言葉を耳にしましたが・・・・・
歴史のすべての場面は相関図なんだと思えてきます。

2015.06.12   えんてつ   編集

ありがとうございます

v-4 h.j さん

私も、最近になって知りました(*^-^*)
日本史に興味を持ってから何人かの歴史家を知りましたが、礒田さんは一番に大好きな歴史家です。

竜馬さんが活躍している時代ですか!
もし行ったら、松陰さんに、よろしくお伝えくださいね(^_^)/
いえ、やっぱり私も、あとから追いかけます!



v-4 えんてつ さん

礒田さんと同じって、ほんとに、おめでたいことですよ(*´▽`*)

過ぎたことよりも、、、そのころは数学の方が面白かったのかもしれません。
礒田さんは、9歳の時に歴史!を感じたそうですが、そこから今に繋がってるって、すごいですよね。

フフフ、相関図、、、
えんてつさんも、私レベル?
それでは、みんなが困りますが、、、(^_^;)



2015.06.13   麦   編集

麦さん おはようさんです。

 歴史相聞は気温の上昇とともに息切れ状態になりつつありますが、このまま消滅しては寂しいので、大河ドラマをネタに歴史の流れを眺めてみましょう。ブログの古い記事にコメントするのはあとで混乱しそうな気がしますが、そのときだけ読み下すということで了解してくださいな。てか、たいしたことを書くわけではありませんので、メモ程度に考えて下さると嬉しいです。

もう二年前になりますが、会津を舞台にした大河ドラマ「八重の桜」は、京都で松平容保が活躍した時代で、今年の「花燃ゆ」とまったく同じ時期になる。当時、長州藩では、攘夷を唱える志士が跋扈し、朝廷でも破約攘夷論が台頭し、京都では天誅と称した殺傷事件が多発、破約攘夷論に反対する幕府寄りの公家らが襲われていました。

 幕府は、京都の治安を回復維持するために京都守護職という軍事職を新設し、23万石の会津藩主・松平容保に就任を依頼します。最初は京都所司代就任を固辞していた会津藩でしたが、一橋慶喜や、福井藩主・松平春嶽らに説得され、特に春嶽から、もし藩祖保科正之が存命なら必ず引き受けただろうと強く説得されます。容保は、婿養子だったこともあり、いっそう保科正之が遺した藩訓が重くのしかかりました。

そして会津藩は京都守護職を引き受けました。容保の弟の桑名藩主・松平定敬(さだあき)が京都所司代に就任。会津・桑名の軍事力で、京都の治安を回復する体制が整いました。それまで10万石クラスの譜代大名が任命される京都所司代でしたが、それではどうにもならなくなっていたのです。

 会津藩は、文久2年(1862)12月、藩士を京都守護職として入京します。文久3年3月には、将軍・徳川家茂の上洛に際して将軍を警護する名目で募集され京都に在留していた新選組へ、攘夷派の浪士の取り締まりと市中の警護を任せます。

翌文久3年(1863)8月、公武合体派の会津藩と薩摩藩が協力し、朝廷から攘夷派を一掃するクーデターを計画します。京都守護職・松平容保の了解のもと、会津藩の秋月悌次郎と薩摩藩の高崎正風が中川宮朝彦親王を訪れて計画を告げ、中川宮が8月16日に参内して天皇を説得、翌17日に天皇から中川宮に密命が下りました。会津藩と薩摩藩は、京都御所にあった9つの門(禁門)のうち堺町御門の警備を担当していた長州藩から警備の任を解き、京都からの退去を命じました。これが後世「八月十八日の政変、文久の政変」と呼ばれます。

 京都から退去した長州藩でしたが、復権の機を虎視眈々と狙い、藩士を多数、京都に潜入させます。新撰組が、長州の志士たちが京都を火の海にし、その混乱に乗じて孝明天皇を長州へ連行するという計画を察知し、会津藩も志士たちの捕縛を決意。元治元年(1864)6月、近藤勇率いる新撰組は、会合が行われていた池田屋を襲撃し、30人近くの命を奪いました。松下村塾で松陰から教えを受けた志士も命を落としました。

 長州藩はすぐに藩兵を出し、松平容保の討伐という名分で京都進入を決意。しかし、薩摩藩をはじめとする他藩は長州討伐でまとまり、8月に起きた京都での軍事衝突は、会津・薩摩の勝利に終わります。この事件は「禁門の変あるいは蛤御門の」と呼ばれています。このとき、会津藩は大砲を発砲し、折からの風にあおられ京都市中が火の海となり、約3万戸が焼失したといわれています。松下村塾の双璧といわれた久坂玄瑞も命を落とします。

 鎖国を国是としていた江戸幕府が外乱をきっかけとして動揺し、ついには新しい時代を生みだそうとする原動力は、若者たちの中に生じた新しい時代への夢でした。それは新しい価値観を感じる感性だと思います。70年前の戦争で日本が破れたときも、それをきっかけにアメリカ社会のような新しい豊かな時代への価値観が生まれたといえるでしょう。

 時代が変わろうとするとき、それが古いものから新しいものへ変わろうとするのであれば頷けるのですが、現状の日本政府のように、70年前の時代に戻そうとするのは、時代錯誤だと。あらら~最後は、安倍政権批判になってしまいました(笑)


 

2015.06.26   えんてつ   編集

こんばんは

えんてつ さん

<八重の桜>のヒロインは、綾瀬はるかさんでしたね。
始まってすぐのころ、何かで、「あの時代に、女性の鉄砲の名手は存在せず、、、ドラマは事実と異なる。」というようなことを見たか聞いたかしたのでしたが、本当のところはどうなのでしょう。

先週の<花燃ゆ>は、ちょうど池田屋事件でした。
拷問の場面は、橋本左内なんでしょうね。
新撰組は二手に分かれて探し回っていたので、実際には池田屋の場所は知られてなかった、という記述もありました。
歴史は不確かだから、歴史ファンの興味をそそるのですかね?
素人は事実を知りたくて、躍起になりますが(苦笑)

次回の<花燃ゆ>が、2倍、面白くなりそうな解説をありがとうございます。


ふふふ!
安倍さんですね、、、 
j子女史に、以下同文。
解るかなぁ~、、、、。

2015.06.27   麦   編集

麦さん、おはようさん♪

主人公の八重さんは、同志社大学を拓いた新島襄の奥さんになるので人物として良く知られて会津戦争での銃の腕前も本物だったようです。会津藩は朝敵とされ明治時代には青森下北半島へ移住させられた苦難の歴史が待ち構えていました。

幕末のドラマはこれからも目にする機会があると思います。そこでこうしたドラマを見るにつけて知っておくべき人物のひとりとして横井小楠という人を知りましょう。まえに麦さんのブログで書きかけていました。

横井小楠のこと

 幕末のドラマの登場人物は名の知れた人物が多いです。そうした幕末維新期に活躍した人物の中で、ほとんど忘れられている人がいる。その人は、熊本藩の横井小楠という人物。テレビの歴史ドラマで登場する場面を一度も見たことがない。

 横井小楠は幕末に名を挙げたほとんどの人たちに影響を与えた。というか小楠と交流のあった人物はいまから眺めると超一流だった。

 幕末の江戸幕府の重鎮だった勝海舟は「氷川清話」の中で、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」「横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果して西郷は出て来たワイ」と語っている。

 西郷南州(隆盛)は、「小楠が諸国遊歴した際、この人は将来の人材であると言った人で、その後、名を挙げなかった者はいなかった」と小楠の人物を見る眼を激賞している。

坂本龍馬は「小楠先生には、西郷や大久保たちがする芝居を見物されるとよいでしょう。大久保たちが行きづまったりしたら、その時、ちょいと指図してやって下さい」と小楠に語りあかしている。

吉田松陰は小楠を師と仰いでいました。「先生の東遊の節は、ぜひ萩に立寄って藩の君臣を指導してほしい」と懇請している。

高杉晋作も「小楠を長州藩の学頭兼兵制相談役に招きたい」と久坂玄瑞に相談している。

 幕末維新の英雄たる人たちが、こぞって小楠に一目を置き、龍馬、松陰、高杉に至っては師と仰いでいたのです。

坂本龍馬が作成した有名な「船中八策」と「新政府綱領八策」は、小楠が幕府に提出した「国是七条」と福井藩に提出した「国是十二条」をそれぞれ下敷きにしているし、また、由利公正が起草した「五か条の御誓文」にも、小楠の「国是十二条」の影響が色濃いのです。

それほどの小楠が歴史の舞台に登場し得ない理由は、お酒が好きで度が過ぎて酒の上での失敗が多かったからだと言われています。お酒を飲んで時勢を大いに語るというのはある面理想的なのですが、身を滅ぼす理由にもなりうるということでしょう。明治新政府から招請されましたが明治2年にキリスト教を広めようとしているとして京都で暗殺されました。とにかく華々しい維新の群像たちの陰に隠れて目立ちませんが、その構想力、影響力からいえば、小楠こそ、まさしく「維新の青写真を描いた男」と呼ぶべき人物だと思います。

歴史旅のコメントで小楠の有名な詩歌を紹介しましたが、その意味を書き加えてみました。この詩は小楠のふたりの甥が勝海舟の弟子になっていたとき、米国への留学をすることになったときに与え贈ったものです。ときは日本が開国する二年前の慶応2年のことで、今年の大河ドラマでいえば久坂玄瑞が亡くなるころです。

堯舜(ぎょうしゅん)孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす。
何ぞ富国に止(とど)まらん、
何ぞ強兵に止(とど)まらん、
大義を四海に布(し)かんのみ。

だいたいの意味は・・・・・

東洋の思想を身につけ、西洋の技術を修得しよう
そして自分の国を豊かにしょうだとか、
強い兵を持つ国にしようかだけではなく、
世界の平和に貢献していけることが大事なのだ

麦さんも一度「横井小楠」を調べてみたらと思います。わたしもチャンスがあれば熊本へ出かけたいと思っています。

2015.06.27   えんてつ   編集

えんてつ さん

こんばんは

そうでしたか。
八重さんを調べもせずに、風評?の方を気にしていました(^_^;)
大河ドラマで取り上げられる八重さんのイメージに、違和感を持った人がいたのでしょうか、ね。


名前だけは、吉田松陰、高杉晋作、竜馬、西郷さん、、、歴史は知らなくても、存在は知っている人物ですが、
横井小楠も、佐久間象山に並ぶような、その時代に名を残すべき人物なんですね。

読ませていただいていくうちに、横井小楠も保科正之のように自分の功績を抹消したのかな?と思ったら、なんと酒癖でしたか、、、
私も気をつけないと、、、って、どっちみち名を残すことはない麦ですが、、、ぷぷ!

「横井小楠」 調べてみますね。
昔なら、何冊かの参考書を積みあげて、あちこちの記述を自分なりにノートに纏めては、勉強した実績と充実感みたいなものがあったように思いますが、今はウィキペディアで一目瞭然。
それが良いのかどうか、便利ではあるけれど、つまらないようでもあります。


2015.06.28   麦   編集

横井小楠と佐久間象山を比べるのは興味ありますが
横井小楠は熊本藩ではぜんぜん理解されず、他藩で名を上げたのでますます嫉妬の的になりました。
そのため地元の熊本ではいろいろ難癖をつけられては身を落としました。そして最後は武士の位をも奪われてしまいました。

佐久間象山は、名実ともに高名な知識人として知られていました。

佐久間象山も横井小楠もともに暗殺されたところは共通ですね。

2015.06.28   えんてつ   編集

えんてつ さん

いえいえ、横井小楠と佐久間象山を比べたのではないんです。
吉田松陰が師と仰いでいた横井小楠、ということですので、たしか佐久間象山も、その時代の彼らに尊敬されていた人だったな、と思いだした名前だったのです。

でも、暗殺されたところは共通でも、歴史に名を残す英雄としては、二人には、だいぶ開きがあるのですね。

今日は新撰組の特集を見ました。
この人が生きていたら、あの人が生きていたら、日本は違っていた、と、歴史番組で、よく聞きます。
戦国時代の天下取りにしても、幕末の思想の違いにしても、多くの偉大な命を失ったのは、日本の大きな損失ですね。

2015.06.28   麦   編集

おはようさん~♪

新選組の若者たちも全国各地から集まった人たちでしたね。
ただ身分的には低かったので有力大名の元に仕えて名を上げようということだった。

世が乱れるとさらに多くの価値観が生まれてくる。そして衝突する。優秀な人材が命を落とす
ことになりますが、防ぎようが無かったかといえば何か手段があったと・・・後世から眺めると見えてくることがありますよね。

豊臣秀吉が天下人となったとき、大阪城で賎がだけで戦った武将たちが集まると、昔話に興じることが多かったのです。話題は人の評価が多かったようで、思い出は人を通して浮かんでくるということかな~。

2015.06.29   えんてつ   編集

こんにちは

はじめまして!あるブログを拝見していたら、このブログに出会いました。私もブログを開設しています。「鬼藤千春の小説・短歌」で検索できます。一度訪問してみて下さい。よろしくお願い致します。

2015.06.29   鬼藤千春の小説・短歌   編集

えんてつ さん

果てしなく長い歴史の中で、たった400年の間に価値観は大きく変わりましたね。
つい200年前のこととは、あらためて思うと信じがたいことです。

大阪城で井戸端会議ですか~!(笑)
おぉ、話題は人の評価。
仲間に入りたかったですね~。


2015.06.30   麦   編集

鬼頭千春 さん

ご紹介、ありがとうございます。
時間のある時、訪問させていただきます。

2015.06.30   麦   編集

麦さん、こんばんは。

てか深夜ですが・・・・

薩長同盟のメモを貼り付けます。江戸幕府を倒した具体的な力です。



江戸幕府の終焉・・・薩長同盟

 今週の花燃ゆでは、禁門の変に揺れ動く長州藩の姿が浮かび上がっています。しかし、長州藩はこの苦難を乗り越えて倒幕の一方の旗頭となるのです。

禁門の変で敗北し、幕府と対立していた長州藩内では幕府恭順の保守派が台頭し、これまで幕府相手にことを起こしてきた幕府への反対勢力を処罰するという藩論でまとまりを見せていました。幕府は長州許すまじということで薩摩藩を中心とした軍勢を長州に出陣させました。その結果として長州藩内は幕府への恭順派が反幕派の重臣たちを処刑しました。しかし、こうした保守派の弾圧に対抗すべく高杉晋作らも挙兵し、幅を利かせていた保守派も混乱して大きな内訌戦(うちわもめ)を生じさせました。

 しかし、藩内をまとめたとはいえ長州は幕府に反抗する力がないので、ひたすら恭順する対応をとりました。このときの長州藩内は長州藩滅亡か存続かを大前提に方針が戦わされたことはいうまでもありません。秀忠や家光の時代ならやすやすと幕府側から改易などの処分ができたであろうことはいうまでもありません。幕府軍が引き上げたあとも凄惨な主導権争いとなりました。

そんなとき幕府はまたもや諸藩に対し、長州再征の準備を進めるよう命じたのです。長州が恭順の意を示しているにもかかわらず、このような幕府の方針に対し、諸藩のなかには長州再征伐に藩論がまとまらないところが出ていました。とくに薩摩藩の実力者である西郷は大きな憤りを感じ、「長州再征は幕府と長州の私闘であるため、出兵は拒否する」という方針で藩論をまとめました。これには土佐藩の動きが大きな鍵となっています。

 土佐藩では、開国がなされた状況でこれから日本が立ち行くためには、もはや江戸幕府の体制では難しく、幕府を倒してあたらしい体制を築くべきだという勢力が台頭していました。しかし、そのためには、まず西洋式軍隊を構築する必要があるということで、藩の財政強化策とあわせて、坂本龍馬らに武器の輸入を含めた海運業を許していました。

 坂本龍馬を中心とする土佐藩藩士は、倒幕勢力として、長州藩と薩摩藩が手を結ぶ必要があると考えていました。しかし、八月十八日の政変と禁門の変で二度までも京を追い出され、政治の中枢からはじき出された長州にとっては、反対勢力の主軸だった薩摩や会津への憎しみは相当なものでした。長州藩士たちは草履の裏側に「薩賊会奸」と書いた紙を貼り付け、それを踏みにじって歩いていたと言われています。

ところが、長州も薩摩も倒幕という点では共通点がありました。それはまず関ヶ原での雪辱を晴らすことでした。その一方で長州は幕府に対する多額の賠償金のほか武器の購入が禁止されていて武器が不足していました。一方、薩摩はイギリス艦隊との戦争のあとイギリスと友好関係を築くのに成功していました。また琉球地域との交易で多額の利益を得ていました。

 土佐藩の中岡慎太郎は長州藩のリーダー的存在であった桂小五郎(後の木戸孝允)に対し、薩長融和に向けての説得を開始しました。また土佐藩の土方楠左衛門は薩摩憎しで凝り固まっている長州藩諸隊の幹部の説得を始め、坂本龍馬は西郷を始めとする薩摩藩の重臣らに対し、薩長同盟の必要性を説いたのです。

 長州にとっても、幕府の再征が目前に迫った現在の状況を考えると、薩摩との同盟は「渡りに船」だったのですが、これまでの経緯を考えると、薩摩へのわだかまりがどうしても拭えません。八月十八日の政変や蛤御門の変での経験が、長州藩をして薩摩藩との同盟について、二の足を踏ませたのです。

 いま窮地に立っているのは長州藩ということで、坂本らは、薩摩藩から長州藩に同盟を申し出るという形こそが最善と考えて、薩摩藩の西郷隆盛の説得に臨みました。坂本は西郷に対して言いました。「西郷さん、桂はあっしにこう言いよりました。長州藩が滅亡すれども、薩摩がその後を継いでくれれば本望であると。ここはお互いの面子を捨て、薩摩から長州に同盟を申し込んでくれんか。これは長州藩のために頼むがじゃない。今後の日本の将来を考えてのことぜよ」 こうして、慶応2年(1866年)1月20日、坂本龍馬立会いの元で、「薩長同盟」が締結されたのです。

その後第二次長州征伐が行われますが、高杉率いる長州軍は薩摩名義で購入した武器の威力を遺憾なく発揮し大勝利をあげました。地方の一藩である長州が幕府を打ち破ったのです。そして時代は急速に動き始め、日本は明治維新のときを迎えることになります。

薩長同盟は、幕府の執拗な長州征伐が後押したとも考えられます。坂本龍馬に先見の明があったのも事実でしょう。多くの要因が結ばれてあたらしい歴史の幕が開く

2015.07.12   えんてつ   編集

えんてつ さん

ありがとうございます。

あらためて、ゆっくり読ませていただきますね。

2015.07.12   麦   編集

えんてつ さん

「花燃ゆ」は、久坂の妻・文にスポットが当てられているので、今週の回は薩長同盟の本質とは外れていましたね。
何で、桂が逃げ回っているのか解りませんでした。

社会科の授業では、よく耳にした薩長同盟の裏に、
竜馬の西郷さんに対する
「西郷さん、桂はあっしにこう言いよりました。長州藩が滅亡すれども、薩摩がその後を継いでくれれば本望であると。ここはお互いの面子を捨て、薩摩から長州に同盟を申し込んでくれんか。これは長州藩のために頼むがじゃない。今後の日本の将来を考えてのことぜよ」
こんな素晴らしい提案があったのですね。
こんどは竜馬に v-432 v-343 の麦でごわす。

次回の「花燃ゆ」を解りやすく見られそうです (^^)v


2015.07.13   麦   編集


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