るりとうわた色の空に

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家にあるもの の 不思議


ご両親の遺影に供える花は できるだけ自分で咲かせたいという 花友さんがいました

いつでも 花屋さんに束ねられている仏花が手に入るけど 「自分で咲かせた花」 というところに ご両親を偲ぶ花友さんの思いがあるのでしょう

私にも その花友さんの言葉の意味は通じるところがあり いつのころからか 切り花に適した小菊を育てるようになりました


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暦の上では秋となったあとに雨が多く 残暑を知らぬまに秋の風を感じるようになって 1種2種と蕾が色を帯び 6種の内の4種が咲きそろいました


ちょうど伝えたい話もあったついでに 一昨年 お母様が天に召された友人にも 私が咲かせた小菊を届けたく メールしました

「今日の予定は? 何もなければ 我が家でお茶しませんか?」

急なメールにもかかわらず 何も予定はないとのことで 髪を切ったらしい ちょっとイメージチェンジの友が来宅


 家にあったものだけど  と 

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スパークリングワイン に 秋を装った和菓子の詰め合わせ 


約束なしでの急な誘いは 気を使わせないため という私の心積もりでもあったのだが なんで彼女の家にあるものは こんなにオシャレなのか不思議


私が 家にあるものを探せば 買い置きのティッシュとか 調味料とか ワンコのシーツとか

突然のお招きを受けて 手土産になりそうな品は 私の家の どこを探してもない  


彼女を招こうと思い たまたま名古屋出張ミヤゲのバンカク海老セン と 紅茶は家にあったにしても わざわざチーズケーキを準備した私なのだが

彼女の家に 何かの用事で私が突然に行くことがあったりして 「お茶して行かない?」 との言葉に甘えて上がりこむと いつでも喫茶店並みのオモテナシを賜るという 不思議な彼女の家なのです






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コメント

こんにちは(^_^)
小菊、、普段何気なく見ているので
6種と言われると
あらそんなにと感心してしまいます。

麦さんの気使いのまだ上をいく
お友達すごい、、。

我が家も買い置きの生活雑貨と
にゃん仔のゴハンは沢山ありますよ。
それこそ自慢できる位あります(笑)


バンカクの海老せん、我が家のはたらきさんが好きで、何処の御土産にもいつも海老せんと
決めているみたいです。
貰った方もたまには、、、と思ってるかもしれないですよね。


あらお友達の御土産に、ハロウィンのシールが
流石ですね。(*^_^*)

2015.10.30   h.j   編集

h.j さん


菊の種類は多いですが、我が家だけでも6種類(*^-^*)
あと2種類も、ぼちぼち咲きそうです。

さすが彼女の気配りですね。
見習わないとですが、とてもかないません(^^ゞ

自慢できるほどの買い置きですか~!
私も、自慢できますよ(^^ゞ

あぁ~、バンカクの海老せんは本場なんですね?
無難なお土産だと思います。
私は、次もまた海老せんをお願いしたいですよ。
海老せんでも、バンカクは格別ですから。

ハタラキさんが、出張から「トトロにオミヤゲ」と言って帰って来ました。
それで、トトロの好物だったことを思い出しました。
写真の前に、今も一枚、供えてあります。

ハロウィンのシール、お気付きでしたか(*^-^*)
いよいよ明日ですね~!


2015.10.30   麦   編集

麦さん、
舛添さん、辞めるんだったら何故もっとと言いたくなりますが、やれやれじゃないですか(笑)

いよいよ選挙ですが、一人区での野党共闘がぜんぶ成立して対決構図が鮮明になりました。

歴史夜話100まで、山のモミジが赤くなる頃には成し遂げたいものです。あっ、これは下心かもしれへん(笑)

では、まさに深夜の歴史夜話21です。


三面記事では売春とか買春とか、いかがわしい言葉が出てくる。日本では、1957年(昭和32年)の「売春防止法」をもって国営の岡場所、いわゆる遊郭は廃止され、そうした行為は犯罪となった。遊郭が大いに栄えた江戸時代には、一攫千金を狙う者にとっては魅力のある商売だったようである。

ひとつの文化的ジャンルが盛んになると細部に渡って多くの言葉が生まれる。遊郭の世界でも女郎、遊女、夜鷹、廓女、花魁、・・・などなど。当時の人々は今で言う人権意識などは無かったに等しい。なぜなら単に生きることで精一杯だったからだ。厳しい身分制度のもと、支配被支配の上に日常生活があった。そして何事もすべて下位の者の自己責任だった。そうした厳しい中で唯一頼りになるべきものは夫婦の情、親子の情、血族の情、友の情、だったようだ。

少し前まで国民の大多数が中流意識を持っていたが、いまは貧困という言葉が聞かれる。生命維持そのものが苦しくなったとき、生きるためには他人はおろか自分にも目をつぶるしかないということになる。この先どうなるのだろうか? 時計の針を戻して江戸時代のへんな逞しさに触れるのも一興だろう。

歴史夜話21
越前屋六左衛門は越前福井に生まれ、若いころに江戸に出てきた。
当時、江戸の町々には火災に備えて木戸番屋がもうけられており、ここに詰める男を番太郎(番太)と呼んだ。夜は火の用心の拍子木を打ちながら、町内を歩いた。

六左衛門はあちこちの番太郎をしながらコツコツと金をためた。ある程度の元手はできたが、堅気の商売を始めてもタカが知れている。手っ取り早く金を稼ぐには女郎屋がいいと思ったが、女郎の管理などは不慣れである。そこで、女郎上がりの女を女房にした。

「女郎を仕切るのは、おめえに任せるぜ。当分は、おめえも稼いでくれ」 そして、本所で二軒の局見世を開業した。局見世は、長屋形式の安価な女郎屋である。女房は自分も客を取りながら、抱えの女郎を働かせる。商売は順調だった。続いて、谷中に四六見世を開業した。四六見世とは、昼が六百文、夜が四百文の安価な女郎屋であるが、局見世よりは高級である。さらに、根津に六軒の局見世を開業し、勢いに乗って、吉原の経営難におちいっていた妓楼二軒を買い取った。ついに、吉原に進出を果たしたのである。

それまで商売一筋で、ほかのことには目も向けなかった六左衛門だが、吉原に妓楼を構えてからは気がゆるむようになった。自分が経営する谷中の女郎屋のお時という女郎に手をつけ、妾にして別宅に住まわせた。これに気づいた女房は嫉妬をむき出しにし、夫婦仲も冷たくなる。ついには、女房が寝付いてしまった。

1837年(天保8年)、女房は死んだ。死の直前、六左衛門を枕元に呼び、「これだけの身代ができたのは、夫婦ふたりで懸命に働いたからじゃないか。あたしなんぞは、客を取ることまでやったんだよ。そんなあたしを踏みつけにしてお時と一緒になることは、絶対に許さないよ。ほかの女と一緒になるのはかまわない」と言い残し、生き絶えた。

葬式がすむと、六左衛門はもう誰はばかる者もいないため、さっそく妾のお時を女房に迎えた。ところが、その夜から、谷中の越前屋に幽霊が出るという噂が広まった。前妻の怨念が幽霊になって現われたというのである。そこで、六左衛門はいったんお時を吉原の妓楼に住まわせ、自分は谷中の越前屋に住んだ。

天保12年2月14日、谷中に火事がおき、女郎屋はすべて焼失した。火事のあと、六左衛門はさっそく三軒の女郎屋の普請に取りかかったが、3月になると天保の改革にともなう岡場所の取り払いが始まった。幕府の姿勢は強硬であり、江戸中の岡場所はことごとく取り潰された。こうして、六左衛門が谷中と根津に所有していた女郎屋はすべて消滅した。ただし、六左衛門は吉原に妓楼を持っていたため、かろうじて女郎屋商売を続けることができた。その後、吉原の越前屋はそれなりに繁盛したという。 

2016.06.19   えんてつ   編集

えんてつ さん

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夜話を、
梅雨のさなかの、うす曇り朝、読ませて頂きました。
3回に亘った楠木正成が完結し、区切れ良く、20話からスタートですね。

どこに着地するか分からない夜話ですから、ブログに取り掛かる時間がない時には、着地点のURLを転送するのに手間取ることもありました。
それで、これからは、夜話の本文を記事にし、そこで続けて行こうと思います。

えんてつさんは、これまで通り、どこにでも自由に着地してくださいね。

2016.06.20   麦   編集

麦さん、こんにちは。

歴史夜話進むにしたがって麦さんのブログの読者がどんどん減少しているのではないかと心配しています。
早めに教えて下さいね。

35の後半を送る前に38を添付します。
35の下がうまく送れない場合は、「まぼろしの35」ということで、パスしたいと思います。

では、歴史夜話38です。


先日、わたしの居住地に近い神戸市北区で新名神高速の工事中の橋桁が落下するという事故がありました。河川に架かる橋は高度な建設技術を要する構造物で水流に対する強度と荷重に対する強度と材質の強度を上手く組み合わせる必要があります。これらを間違えると流出や崩落事故の発生する恐れがあります。江戸の文化文政の時代、橋の崩落で本邦最大の犠牲者をだした大事故がありました。

歴史夜話38
1698年(元禄11年)8月、江戸は隅田川にかかる永代橋が完成し開通しました。当時の永代橋は江戸随一の長さを誇り、富士山をはじめ眺望がよく、錦絵にも描かれる優美な橋でした。この橋は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、「永代橋」という名称は、幕府が末永く続くようにという願いを込めて名付けられました。

 橋の完成から109年後の1807年(文化4年)、夏のお祭りの日にこの橋が崩壊し多くの犠牲者がでるという大事故がありました。8月19日、深川・富岡八幡宮の大祭は、中止されてから11年ぶりに催されたため、多数の人出となっていました。この大祭は、神田祭や山王祭と並び称される有名なお祭りでした。

将軍家の子供達たちの乗った御座船が永代橋下を通過する間の通行止めが解除されると、一斉に群衆が橋を渡ろうと押し寄せました。この時、橋の中央付近が崩れ落ち、多くの人が隅田川に転落し、溺死者は440人(一説には1500人以上)という江戸始まって以来の大惨事となりました。原因は、人の重みに橋桁が耐えられなかったと推定されています。

犠牲者が増えた要因として崩落箇所が中央付近であったため、怒号も悲鳴も、はるか後方にうごめく大群衆の耳には届かず、つかえていた前が急になめらかに動きだしたのに勢いづいて、やみくもに寄せました。人の流れに押されるともう逃れることができません。後から次々落下してくる人体に、先に落ちた人たちはものは泥に埋まったと記録されています。
この犠牲者の霊を慰めるため、多くの浄財や寄進が集められ、当時、永代橋に近い深川寺町通りにあった海福寺に供養塔と石碑が建てられました。また平穏な時代の出来事だったこともあって文化面への影響も大きいものがありました。落語では粗忽者の武兵衛さんが水死者に間違えられ自分の遺体を確認に行くという「永代橋」の素材となっています。

2016.07.02   えんてつ   編集

えんてつ さん

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こちらへの貼り付けは、問題なかったようですね。
こちらには、21話もあるので、38話のみをコピーして転記しました。


>歴史夜話進むにしたがって麦さんのブログの読者がどんどん減少しているのではないかと心配しています。
早めに教えて下さいね。


どんどん減少するほどの読者数ではありませんので・・・。

2016.07.02   麦   編集

麦さん、安心しました。

なにせ一見、コメント覧が大混乱に見えますからね。
7月中旬以降、しばらくはコメント出来なさそうなのでいまのうちにコメントしておきます。


歴史夜話39は、千両箱の話です。

江戸の昔、歌舞伎の人気役者のことを「千両役者」と呼ぶことがありました。千両の価値が有る役者というか、千両儲ける役者というか・・・・とにかく千両というお金の価値は庶民からは程遠い金銭だったことは間違いありません。

歴史夜話39
時代劇によく使われる小道具に千両箱があります。 千両箱は文字通り、千両の銭貨を入れておく木製又は角を包帯という金属板で張った箱です。おおよそミカン箱を小さくした大きさで、箱のサイズは、幅約25cm、長さ約50cm、深さ約13cm、重さは約4kgありました。基本的に、この中に25両包みの小判が40個、合計1000両入れることができました。

ということで中身がキッチリ詰まった千両箱は、小判100枚(百両)はおよそ300匁、つまり1125gとされているから、千両箱の中身はその10倍で11250g(11kg強)になります。これに箱の重量を加えれば、13~14kgという重さになります。また、小判だけではなく二朱金(1/2両)を詰めたものもありました。一番重い千両箱は小判や金貨の種類によっては20kgほどありました。

その昔、テレビドラマで鼠小僧が活躍して千両箱を脇に抱えながら屋根の上を飛び移るシーンとかありましたが、実際に1000両分の小判の入った千両箱の重さは15kg前後ですから脇に抱えて走ったり飛んだりしながら逃亡するのは困難だったと思われます。

さて、1000両の価値とはいかほどなのでしょうか? 貨幣価値ですから時代とともに変化しますが、1818年から1830年の江戸文政年間の記録「文政年間漫録」によると、当時の1000両は、現在のお金に換算すると約1億3000万円に相当するそうです。

江戸時代の犯罪の概念では庶民に対しては「10両盗むと首が飛ぶ」と教えていたようなので、いまのお金で130万円が庶民の命の値段だったのかもしれません。とにかく現代でも「1億円プレーヤー」と言う言葉がありますからね、庶民には夢のような金額だったに違いありません。

そして大金持ちというか高額所得者の呼び方もありました。分限とか長者とかです。「銀五百貫目よりして、是を分限(ぶんげん)といへり。千貫目の上を長者とは云ふなり」と言われていました。ちなみに銀五百貫目は約6億円、銀千貫目は約12億円です。日本ではアベノミクスのお陰で、年間手取り一億円以上の所得の人が8000人ほどおられるそうです。果たしてアベノミクスの恩恵がいつ回ってくるのでしょうかwwwwww。

2016.07.02   えんてつ   編集

あっ、そうそう35の下の下に挑戦です。

歴史夜話35の下
妖刀村正に関わる事件簿
事件-1
 戦国時代の三河は東に上洛を狙う駿河の今川義元、西に尾張の織田信秀、国内は一向一揆が吹き荒れていた。その時、三河の山間僻地である松平郷よりあらわれ瞬時に岡崎を平定したのが松平二郎三郎清康(家康の祖父)だった。清康は知略・軍略共に優れ西三河の希望の星であったが、1535年(天文4年)12月5日、織田信秀(信長の親父)と対戦中の尾張の守山の陣で寝とぼけた家臣の阿部弥七郎正豊の為に切り殺された。このとき背後から清康は二尺七寸の村正で一刀の下に斬り倒され、清康は即死だった。しかし、ここで皆を驚かしたのは、阿部弥七郎は右肩から左脇に袈裟掛けに斬ったのだが、その鮮やかな切り口とその刀が村正であったという事だった。阿部弥七郎はそれまで一度も人を切ったことがなかったからだ。阿部弥七郎はその場で乱心者として植村新六郎栄安に斬り伏せられた。こうして中興の祖であった清康は僅か25才の若さで家臣の手に掛かって散っていった。この事件を「守山崩れ」という。この後も松平家(後の徳川家)には同じ様な事件が続き勢力拡大の絶好な機会を逸し、幼少の松千代(家康)にも苦難の時代が続く事になる。

事件-2
 家康の実父の広忠が1545年(天文14年)3月20日、譜代の臣である岩松八弥に脇差で太腿を刺された。岩松八弥は酒乱で有名だった。この時,広忠は昼寝中であったが,人の気配で目を開けた途端に太腿の辺りに痛みを感じて跳ね起きた。「曲者ダ!出会え」と大声で叫び追いかけたが足が効かず取り逃がしかけた、その時、植村新六郎栄安が運良く来合わせた。植村は主君の声に変事を察し、又も一刀のもとに八弥を斬り伏せ事なきを得た。この時に弥八はしたたか酩酊していた。本来,弥八は岩松弥八と称し徳川譜代の臣で片目が不自由だったが豪の者として知られ戦場では「片目が出た」と恐れられていた。彼が戦場で挙げた首の数はかなりの数であったが、何れも見事に掻き切ってあったという。それは全て村正の脇差を以ってした事であり広忠を刺したのもその「村正」の脇差だった。この時は命拾いをした広忠も薄命で4年後に24才の若さで死んだ。家康が8才の時である。

事件-3
 父無き家康は今川の人質となりそこで12年間を過ごす。駿河の宮ケ先にいた時に小刀で手に大怪我をする。この時の小柄も「村正」であった。

2016.07.02   えんてつ   編集

麦さん、

この続き、事件-6まであるんですが・・・・貼付け✖になりました。不正投稿だとかwwwwwwww

2016.07.02   えんてつ   編集

麦さん、こんばんは。

さて、
歴史夜話40は、記憶に新しいお話にしました。
歴史夜話35の不通の部分は別の方法で送ります。
よろしくご理解願います。

終戦から1年後の1946年(昭和21年)11月、息子の戦死公報が信じられない一人の母親が、息子の消息を尋ねるため、息子と戦地で部隊が一緒だった人々へあてた手紙がある。母の名前は、「つる」と言った。

なんと息子は昭和47年2月2日に、戦地から帰還、羽田空港のタラップを降りた。あれほど帰りたかった日本の地を踏みしめた時、最初に出た言葉は、「恥ずかしながら生き長らえて帰って参りました」だった。このニュースは現在ご年配の多くの人々が見聞きしたと思うが、今でも忘れられないシーンの1コマであった。

歴史夜話40
「前略御免下さいませ、突然では御座居ますがちょっとお尋ね致します。私は息子庄一を大宮島で戦死さしたものでございます。庄一と神谷さんとは満洲に居る時から同部隊であったとの事、隣村の助光の加藤高光さんに聞きました。戦死したものとあきらめてはをりますが、最後がどんな風だったか、もしご存じでしたらお世話ですがお知らせくださいませ、部隊名は、満洲国奉天省遼陽郵政局気付満洲303部隊土屋隊2ノ宮班横井庄一兵長。横須賀郵便局気付ウ102雷第3211部隊土屋隊横井庄一でございます。お忙しいところ誠に恐れ入りますが、親心をおくみ取り下さいまして一寸お知らせ下さいませんでせうか。切にお願い申し上げます。まづは乱筆にておねがいまで。 かしこ」

 黄色く変色した一枚の便箋に、薄くかすれた鉛筆書きの文字だったと言う。しかし、その文章からは子を思う母の気持が、痛いほど分かる。母「つる」さんは、息子の生存を信じて、「うちの子は生きちよる。ジャングルの中できっと生きちよる」と近所の人々に言い続けていた。そして、いつ復員してもいいように、二階の息子の部屋はそのままにしてあったと言う。しかし、息子の顔を見ることなく、昭和33年4月、69才でこの世を去っている。

1972年(昭和47年)は、 陸軍伍長「横井庄一」氏がグアム島へ上陸してから28年目、母「つる」さんの手紙から26年目、母が亡くなってから14年目のことだった。回想録によると、この年の1月、その日の夕方、横井さんは、いつものように川に魚採りカゴを仕掛けるために、洞穴を出た。足跡を残さないように川のふちを歩き、足下を注意しながら、草原の近道を通った。ふと、草むらを出たとたん、目の前に銃をかまえた現地人が立ちふさがっていた。無我夢中で飛びついて銃をひったくろうとするが、すぐに押し倒されてしまった。連行される間中、横井さんの脳裏をかけめぐるのは、「ついに殺される時がやってきた」という気持だけであったと記されている。

  日本国内では、グアム島のジャングルに潜伏していた日本兵士のニュースは大きな衝撃をもって迎えられた。 昭和47年2月2日に帰国後、母の死を聞いた横井さんは名古屋へ帰郷した際、実家へ戻るよりも先に母の眠る墓地に向い、墓の前で、あたりをはばかることなく、墓に額を押し付け号泣したと言う。

  横井さんは、帰国後9ヶ月して、お見合の席で出合った「美保子」さんとの運命の導きがあって結婚している。その後は、自身のグアムでのサバイバルについて全国各地で講演活動を続けた。そして1997年(平成9年)9月22日、急性心不全で死去されたのである、享年82であった。

横井さんは、講演活動を続けている時に、講演先で関係者から先にあげた母の手紙を譲り受けた。手紙を手にした横井さんは「神様が渡してくれたのかなあ」と両手でかみしめ、その手紙を大事そうに、仏壇の引き出しにしまったという。
 
回想録には、「海に足を入れても沈まないなら、日本へ歩いてでも帰りたかった」そして、母に合いたかったと故国の土を踏むことに恋い焦がれ、母との再会の日を夢見て日々のサバイバル生活を続けた。昭和19年、グアム島に配置された2万人の兵士達は空腹と激戦の中、同年8月玉砕する。そして、戦死広報が横井家にも届いた。しかし、故国を思い、母を思い、ジャングルの中で28年間も自然と闘い、文明と全くかけ離れた生活を続けた横井さんの生命力には、ただただ、感服する以外はない。母と子、戦争という行為の無残さははかり知れない。

2016.07.03   えんてつ   編集

えんてつ さん

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このニュースは、よく覚えています。
その後、もうお一人、別の理由で戦地にとどまり、老齢で帰国した日本人が居られましたね。

理由はどうあれ、戦争により、一度きりの充実した時期を、異国のジャングルで過ごさなければならなかった事情を考えさせられます。


先の夜話、日本刀など武器については、さらっと斜め読みした時点では関心がなかったのですが、よく読ませていただくと、武器にまつわる武将の面白いお話でした。
ありがとうございます。

35話の続きについて、追記不可能なのが残念です。

2016.07.04   麦   編集

麦さん、こんばんは。

夕立があってちょい涼しくなりました。

話は幕末に戻ります。
きょうの登場人物は、幕臣として生涯を通しました。
でも、今は忘れられた人になってしまいました。


幕末、薩長の動きに対して幕府はどういう対応をしたのか? 今で言えば藩主が国会議員とするなら、幕臣は役人ということになります。幕政の大きな動揺のなかで、幕府の財政を運用管理したのは、200年以上に渡って息づいてきた官僚機構でした。

小笠原長行は江戸幕府の長い歴史の中でただひとり藩主でない身分で老中になった人物です。長行は荒れ狂う幕末の時代、幕府の官僚機構をまとめて最後まで幕府の財政を支えました。

歴史夜話41
幕末時の幕府と朝廷の力関係を示す事件がありました。1863年(文久3年)3月4日、江戸幕府第14代征夷大将軍徳川家茂(とくがわ いえもち)が京都へ入りました。これは3代将軍家光以来、なんと230年ぶりの将軍上洛でした。そして、4日後の3月8日、孝明天皇の攘夷祈願を名目とした賀茂神社参拝があり、家茂は後見職の慶喜とともに随行しました。

これは徳川将軍家に対する朝廷の権威の回復をはっきり示す出来事でした。しかし、4月の岩清水八幡宮の行幸には将軍家茂の姿はなく、慶喜が名代で供奉しました。ところが、慶喜も途中で腹痛をうったえてお社のある男山には上らなかったのです。開国派の慶喜にとっては気の進まない参拝だったことがわかります。

 このころ京都はすでに尊攘派の勢力が圧倒していました。安政の大獄や和宮降嫁に加担した幕吏や公家の家臣らを狙った「天誅」と称した暗殺が横行していました。幕府は上洛中の将軍の身に危険がおよぶことを恐れて、家茂救出のため老中格・小笠原図書頭(長行)が英艦の援助を受けて千余の兵を率いて西上し、大阪に上陸しました。その後も幕府側はさらに兵員を満載した軍艦3隻を大阪湾に集結させました。

この小笠原長行の挙兵上京に公家や廷臣たちは驚愕し、これまで求めてきた将軍の滞京をあきらめざるを得ませんでした。結局、家茂は6月13日に大阪から順道丸(405トン)に乗込み、江戸に帰ってしまったのです。こうして将軍を朝廷のある京都に止め置き、江戸を留守にさせることによって朝廷の権威を世に知らしめようという目論見は挫折します。しかし、朝廷を怒らせた小笠原長行は罷免されます。

この軍事行動を指揮した小笠原長行は歴史的には忘れられた人物になっています。もちろん教科書に登場することもありません。

幕閣を補佐する立場にいた松平春嶽が、攘夷を実行しろという朝廷の恫喝におびえて、政権を投げ出して夜逃げ同様に国元に帰ってしまった以降、幕府には、その滅亡までの間、中心となって政権を担当する人がいなくなります。

幕政は安藤信正の失脚以降は水野忠精と板倉勝静が進めました。ところが、彼らは、無能、無難が売り物のような人物で、そのために長く政権の座に安住してしまいました。その昔は、歴史夜話にも登場した田沼意次のように政権の首座にないにも関わらず、賄賂政治とはいえ、実質的に政治を動かしていた人物がいたりしたのですが、この時代には、古参の老中の中にも、他の老中を束ねて、政治の中心として活動できるほどの、才能と人徳を兼ね備えた人物はいませんでした。重要な時期に、幕府という巨艦は舵取りを失っていました。

本来なら幕政の推進者は、将軍後見職であり、また14代将軍家茂の死後、最後の将軍となった一橋慶喜です。しかし慶喜は、彼自身がくるくると気分が変わり、それに応じて極端に行動に振幅がある人物でした。つまり、何かを言い出すことはできるのですが、自分自身の頭の中でそれに対する評価が変わると、その後始末は誰かがやってくれることを常に期待して、責任者の立場から逃げ出すという悪い癖がありました。したがって、政権の中心にあって、一定の方針の下に着実に行政活動を指揮監督し、必要に応じて自ら適切な行動をとる、ということはできませんでした。

 幕府にとって、ただ一つの救いは、これまで幕府行政を実際に取り仕切ってきた官僚達、具体的には勘定方と目付達は、依然としてやる気を失っていなかったという点です。彼らはこれまで築き上げられた官僚機構をフル活用して幕府の下支えをしたのです。

そして、この時期の幕府老中で、そうした下からの支援努力を集約して、幕府を助けようとして可能な限りの努力をし、最後には幕府そのものに殉じて滅びようとした人が一人だけいます。それが小笠原長行(ながみち)です。この時期、歴史家の目は薩長側に向けられています。そのため、その大きな活動にも関わらず、小笠原長行の名は、日本史の上ではほとんど知られていません。

では、小笠原長行何をしたのか! 攘夷という名のもとで各地で外国船や外国人を襲撃する事件が起こりました。そうした事件の解決交渉を担当し、必要な賠償金を工面したのです。幕府の役人として財政を担い、幕内はもちろん、海外勢から交渉相手として信用され認められた貴重な人物でした。

麦さん、小笠原長行という人は、藩主の生まれつきでありながら、よそからの養子が藩主となるという不運に育ちますが、最後には老中にまでなりました。本当の「幕末(幕府の終わり)」になって、突然登場した政治家です。その政治家としての短いながら華々しい活動の中で、たった2回だけ、出処進退を誤りました。幕府の運命がぎりぎりに迫り、徳川慶喜という実に気の変わりやすく、しかも家来に嘘を言って騙すようなことに全く良心の呵責を感じないという将軍を頂いて、事実上、ただ一人で徳川家の命運を担っていた時期における誤りだっただけに、それはそのまま幕府の滅亡に直結することとなりました。

2回の出処進退とは、前述の軍事行動、そして第二次長州征伐での戦線離脱でした。小笠原長行は明治24年に亡くなるその日まで、江戸幕府の家臣として生涯を閉じました。








2016.07.04   えんてつ   編集

麦さん、続いて42話目です。

ちょっと長くて恐縮です。
来週11日からしばらくコメントは中断します。

福地源一郎は幕末・明治の有名人です。
好きなことに打ち込んだら、だれも止めることができなかったと言われています。



長崎の出島で、15歳の少年が、オランダでは「新聞」というものが毎日発行されていて、人々に情報を伝えていると聞いた。そして自分もいつか「新聞」を発行しようと決意した。時は流れて夢が叶った1875年(明治8年)1月14日の新聞紙面で「ソサエテ-」を「社会」という言葉で掲載した。これが「社会」という日本語が使われた最初と言われている。

歴史夜話42
1885年(明治18年)ごろ、当時の各界を代表する人物の「日本十傑」として、第1位の人物は福沢諭吉でした。ついで第2位は福地源一郎(ふくちげんいちろう/福地桜痴・ふくちおうちとも呼ぶ)でした。福地は諭吉と並んで「天下の双福」と称された人物です。 幕末から明治、日本が大きく姿をかえた時代に異彩を放ち、新聞人、経済人、事業家、戯作者、小説家、政治家と多方面で活躍しました。

 福地桜痴は1841年(天保12年)、長崎の新石灰町(しんしっくいまち)で医師の父 苟庵(こうあん)、母 松子の間に長子として誕生しました。幼名を八十吉といい、小さいころから優秀で神童と呼ばれていました。15歳のときにオランダ通詞・名村八右衛門(なむらはちえもん)のもとで蘭学を学びました。名村は出島オランダ商館長が、幕府へ世界情勢を報告する「風説書(ふうせつがき)」の口授翻訳をする際に、桜痴を筆記者にしていました。

 1858年(安政5年)、18歳の桜痴は長崎を出て江戸へ向かいました。江戸では、父の旧知で英学者の森山栄之助からイギリス学を学びます。当時、江戸で英書を読むことができたのは、森山と中浜万次郎(ジョン万次郎)の二人だけだったといわれています。その森山の世話で桜痴は幕府につかえることになりました。

1861年(文久元年)、桜痴にヨーロッパへ使節派遣のチャンスが訪れます。出航する船には、福沢諭吉の姿もありました。 ロンドンで桜痴は新聞社を訪ね、記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにします、また、フランスでは歌劇や演劇の見物にも出かけています。このとき台詞や話の筋がまったくわからない桜痴ら使節の一行は居眠りに終始し、会場の嘲笑をかいます。あらかじめ話の筋を理解していれば退屈しないだろうと考えた桜痴は、英語とオランダ語のできる接待係に筋を聞き、それを使節にも伝え観劇することにしました。桜痴は次第に演劇に興味を覚え、シェイクスピアなどの戯曲を学びはじめます。これが後の演劇人 福地桜痴としての下地をつくっていくことになるのです。

1868年(明治元年)4月、江戸城引き渡しがあった年ですが、桜痴は「江湖新聞(こうこしんぶん)」を発行し、「政権はただ幕府から薩長に移動したにすぎない。これで維新の目的は果たされたといえるのか」と述べ、新政府側の怒りを買います。新聞は発禁処分となり、桜痴は逮捕されます。そして、木戸孝允のとり成しでなんとか無罪放免となりました。

じつはこれが明治時代初めての言論弾圧だったといわれています。この年、桜痴は職を辞して翻訳や執筆などで生計をたてるようになります。そして、翌年には日新舍という英語、フランス語を主とした洋学校を開校します。当時、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇の同人社とならんで東京の三大学塾と称されました。

この頃から桜痴は吉原通いに耽るようになります。桜痴の吉原好きは有名で、さと夫人との結婚式当夜も吉原に出かけ帰らなかったというエピソードもあります。なにしろ「桜痴」という号は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路(さくらじ)にちなんでつけたというほどの女好きでした。

1870年(明治3年)吉原友達の渋沢栄一の紹介で、伊藤博文と会った桜痴は意気投合し、すぐさま大蔵省御雇となり、伊藤にしたがって渡米、銀行や会社、国家会計、金融などの調査をしました。ちなみに、society=社会、bank=銀行の翻訳語をはじめて使用したのは桜痴といわれています。 帰国後は、大蔵省一等書記官となり、今度は岩倉具視にしたがってアメリカとヨーロッパへ渡ります。

そのころ国内では、征韓論で政府が分裂、渋沢栄一も大蔵省を去り、桜痴も政治家としての道をあきらめ大蔵省一等書記官を辞職、主筆として「東京日日新聞」にはいります。桜痴が34歳のときでした。 当時、日本の新聞記者の社会的立場は低く、大蔵省の役人から新聞記者への転職に、家族や友人など周りは反対します。桜痴は「おれが新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵をきりました。
 
桜痴は、自らの筆で社説を書き、それを新聞の目玉にしていました。社説を設けるという事は新聞がひとつの主張をもって世に訴えるという、新聞近代化の第一歩でもありました。「東京日日新聞」は好評で発行部数は上昇。1876年(明治9年)、桜痴は「東京日日新聞」の社長に就任します。

 1877年(明治10年)、西南の役がはじまり、桜痴は戦地で取材し新聞に掲載します。連日の現地報道に「東京日日新聞」の売り上げはさらに急上昇します。このとき桜痴は京都御所で明治天皇に戦況を言上することになります。明治天皇に2時間にもおよぶ報告を行い、金五十円と縮緬二反を下賜し、慰労の酒肴を頂戴しました。酒の飲めない桜痴もこのときばかりは、酒を飲み、のちに「酒を口にしたのは、後にも先にもそのときだけだった」とよく語ったといいます。

 その後、しばらく文化面で活躍、歌舞伎作者となります。そして1904年(明治37年)、日露戦争が開戦した年に、64歳で衆議院議員に当選します。しかし、まもなく病の床につき、1906年(明治39年)1月4日、66歳で亡くなりました。

 明治時代、官と民の間をいったりきたりしながら、西洋の文化を巧みに取り込み、政治、経済、文化、メディアなど多方面で近代化に影響を与えたのが福地桜痴でした。 そうしたことから桜痴には逸話がたくさん残されています。

エジソンの発明から間もない蓄音機に、はじめて肉声を吹き込んだ日本人は「東京日日新聞」社長時代の桜痴です。第一声は「こんな時代になると、新聞は困るぞ」でした。

ヴィクトリアン・サルドゥー書き下ろしの戯曲「ラ・トスカ」を観劇した桜痴は、1889年(明治22年)にこれを翻案し、落語の祖と言われる、三遊亭圓朝に情噺として世に送り出しました。

1901年(明治34年)2月の福澤諭吉の死によせて書いた記事「奮友福澤諭吉君を哭す」(日出國新聞 2月5日)は、桜痴の文章の中でも会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされた。

女遊び好きであり、吉原大門に「春夢正濃 満街櫻花 秋信先通 両通燈影」の揮毫をしています。

また、芸妓を落籍させて妾としていたが、やがて結核で死去した。看病中、彼女が懐中時計の蓋を開閉する際の音が好きだったため、時間の許す限り時計の開閉を続け、彼女が亡くなった際、枕元には蓋の壊れた懐中時計が、20個以上並んでいたという。

麦さん、桜痴は自分の興味の向くまま生きたが、恥も外聞もなく、ただ一途な豪快な人生だったように思います。

2016.07.04   えんてつ   編集

えんてつ さん

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こちらも夕立のあとで、涼しい夜になりました。
昨夜は、今年になって初めてクーラーを点けましたが、今日は扇風機も要らないくらいです。


2016.07.05   麦   編集

麦さん、こんにちは。

昨日、今日と、暑すぎですwwwwww。
投票日まであとひと頑張りです。


歴史夜話43を送ります。今回は女性のお話です。
彼女は自分の努力で歴史に残る人物になりましたが
女性としての幸せとは何なのか、気になるところです。



理系女子(リケジョ)という言葉がある。自然相手の物理化学が好きな女の子という意味合いだが、少子化になりつつあるなか、大学の理系学部では様々な施策を打ち出して、理系女子確保に努めているようだ。理系は文系と違って自然科学のなかの法則性を見つけ出す学問なので、自分のなかに湧き上がる疑問にひつこく拘る性格が必要だ。

リケジョが大学に入学すると、一般に学業成績が良好なだけでなく、何事にも熱心な人が多く、就職後もおしなべて評価が高いなど、大学にとってもメリットが多いそうだ。

しかし、明治維新のころは、文明が開花したとはいえ、おしなべて女性は家庭的であるべきという封建的気風が日本の風土だった。そうしたなかで、日本で最初に帝国大学に入学し、それも理系の学問に取り組み、大きな業績を残した女性がいる。理系女子の大先輩だといえるだろう。

歴史夜話43
丹下ウメは日本の女性として、初めて帝国大学に入学し、理学と農学の博士号を取得し、栄養学や生物化学の分野で世界的な功績を残した科学者です。ウメは日本の中でも特に男尊女卑の封建的考え方が強かった九州・薩摩に生まれましたが、その学問探求の生涯を薩摩の地で過ごしました。

1873年(明治6年)ウメは鹿児島城下金生町の富裕な商家に8人兄妹の7番目(三女)として生まれました。戸籍にある名前は「ムメ」になっているらしい。父は製糖業や塩業を営む一方、鹿児島市の初代収入役をつとめていました。

悲劇はウメが3歳のときに突然起きました。祇園祭の日、ままごとに熱中していたウメは、「御輿みこしが来た」という声に駆け出しましたが、滑って転んでしまいます。その拍子に手にもっていたままごとの竹箸で右目を突き刺してしまったのです。姉のハナの大声に気づいた母エダが急ぎ応急処置して病院に駆け込みましたが、ウメの右目は光が戻らず、失明してしまったのです。

 丹下家は教育熱心な家で、ウメの兄たちは東京帝国大学をはじめ、すべて高学歴であり、一歳上の姉・ハナもまた優秀で、両親はわざわざ上京させて、東京女子高等師範学校(小学師範科)に入学させています。ウメも頭の良い子でしたが、女の子らしい遊びはせずに、木の皮を煎じて薬のようなものを作ったり、草の葉や木の実などから赤や青の色素を取り出したりして遊んでいました。化学者の資質の片鱗へんりんだったのかもしれません。

ウメはわずか11歳で年長者を押しのけて師範学校にトップ合格しました。これには姉ハナの協力がありました。目にハンディを負った妹ウメを助けると心に決めて、ずっと勉強を見てくれた成果でした。1891年(明治24年)ウメは師範学校を首席で卒業し、地元の名山小学校に奉職し、その後、鹿児島市立技芸学校も含めて10年間、教職を務めました。

 しかし、ウメは勉学心、向上心を押さえきれず、もっと上の学校をめざしたいと心に秘めていました。ところが、そのころ、実家の事業が傾いて資産を失い、広大な土地や家屋も手放さなければならなくなっていたのです。学問で身を立てようと決意していたウメは前途がふさがれる思いを抱いて途方にくれました。

そんなとき、母方の親戚である前田正名(まさな)が久しぶりに帰鹿したのです。前田は優秀な農務官僚ながら、「布衣(ほい)の農相」とも呼ばれ、地方産業の育成、とくに農業振興に力を尽くした人物です。ウメは母に伴われて前田を訪ね、自分の将来について相談しました。前田は、すぐさまウメの勤務先などを調べて、その非凡な学歴と向学心を知ると、東京で女性の地位向上をめざして女子大を創設しようとしている成瀬仁蔵を紹介するとともに、学費と生活費の面倒もみてやることを約束しました。ウメが飛び上がらんばかりに喜んだのは無理もありません。ほどなくして、ウメに前田から手紙が来て、成瀬が創設した日本女子大学への入学許可を知らされました。ウメ28歳のときでした。

ウメは住み慣れた鹿児島から上京し、東京・目白台の日本女子大学・家政学部に入学しました。日本女子大学はこの年4月に開校したばかりで、さっそくウメは大学の創立者で校長でもある成瀬仁蔵から寮監を命じられます。これは前田正名と相談したうえでの学費軽減措置だったといわれています。

 ここで、ウメは運命的な出会い、というか理系女子(リケジョ)としての芽を出します。応用化学の教授・長井長義は薬化学の第一人者で、東京帝国大学の教授のかたわら、日本女子大学でも教鞭をとっていました。長井は難しい応用化学をわかりやすく講義してくれ、化学の実験で学生たちを驚かせていました。

 ウメは化学の面白さに夢中になりました。とくに実験が得意で、実験器具や薬品の扱いにすぐに手慣れて、その能力は学生たちのなかでずばぬけていました。そして授業が終わると、ウメは長井を質問攻めにしたのです。

 1904年(明治37年)日本女子大学を首席で卒業したウメは長井の助手となるかたわら、文部省の中等化学教員検定試験に女性として初めて合格しました。そして、ウメの向学心はますます大きくなりました。しかし、当時の帝国大学は旧制高等学校の卒業生しか受験資格がなく、事実上、女性には門戸が閉じられていました。そのなかで東北帝国大学だけが受験資格を緩めて、ウメのような中等教員検定試験合格者にも門戸を開いたのです。

1913年(大正2年)ウメは東北帝大を受験しました。その理科大学にウメとともに黒田チカ、牧田らくの三人の女性が合格します。この3人こそ、帝国大学に初めて入学した我が国の女性でした。そして、ここでも、ウメの実力は男子学生より抜きんでており、実験では主任教授の助手となり、あらゆる課目で成績優秀だったため、特待生となりました。

このころウメは恋をします。つねに片目という身体的負い目を抱えていましたが、ウメが恋した相手はウメと並ぶ成績優秀な同級生で、互いに好意を抱いて、二人で松島観光にも出かけたりしました。しかし、彼は悪性の肺炎にかかり、若くして病死してしまったのです。

 ウメはますます学問研究に没頭して、東北帝大をまた首席で卒業すると、大学院に進み、指導教授の真島利行博士のもとで柿渋の研究をしました。ウメの専門は今で言う有機化学と生物化学でしたが、その応用として栄養学の研究に取り組みたいと考えていました。そのころまだ日本には栄養学の専門家はいませんでした。

1921年(大正10年)ウメはアメリカ西海岸のスタンフォード大学に入学します。その後もコロンビア大学を経て、ジョンズ・ホプキンス大学で学び、同大学で「ステロール類のアロファン酸エステルの合成と性質」と題した学位論文により、1927年(昭和2年)理学博士の学位を授与されました。

 帰国は、母校の日本女子大学で生物化学の教授に就任し、同時に理化学研究所で鈴木梅太郎博士の下、ビタミンB2複合体の研究を行い、農学博士号も授与されました。ウメが世界に発表した論文は約30点に及び、その化学への貢献は高く評価されました。ウメは晩年、後輩の研究者のために私財を投じて「化学奨励金」を興しました。ウメの死後には、まな弟子の辻キヨが「丹下記念奨学金」を創設し、いまも研究者育成に役立っています。

鹿児島市金生町の界隈にウメの胸像と石碑があります。男尊女卑の封建的気風が強く、女性の社会進出の機会が少なかった当時に、生涯を学問研究にささげた、知的で向学心旺盛な女性がいたことはまさに歴史の救いです。

2016.07.06   えんてつ   編集

えんてつ さん

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こちらも青空です!
ブログに書きたい今日の出来事ですが、他に書きたいことがあるのでここで。
午前中のスーパーはクーラーが効いていて、買い物を終え外に出たら、ムンムン。
先ほどDocomoに行きましたところ、「室温は28℃に設定、クールビズ実施中。」と但し書きがありました。
屋内ですから、28℃でも日差しがないので暑くなく、外に出ても気温差がなくて快適でした。
スーパーは商品管理のためもあるでしょうけれど、Docomoさんのイメージ、抜群にアップです。


リケジョは、特定の女性を表す☆☆女、という表現法の元祖でしょうか。
私には、リケジョと聞くと、まず小保方晴子さんが思い浮かびます。
昨日、ウォーターサーバーの定期メンテナンスで、初めて女性がみえました。
社会進出に男女の差はなくなり、タクシーやバスのドライバーも女性が増えましたね。
今は、女性に限ることなく、幸せとは、一人一人それぞれに、納得できる生き方ではないかと。



2016.07.06   麦   編集

麦さん、こんばんは。

死にそうな一日でしたwwwww。


>「室温は28℃に設定、クールビズ実施中。」

これは日本国内の夏場の室内の省エネ温度管理の基準ですよ~♪


現代は、社会的には男も女も限りなく同一の方向に進んでいますが・・・

>幸せとは、一人一人それぞれに、納得できる生き方ではないかと。

そうなら良いのですが、果たしてそうなっているのでしょうか?

小保方さん、いまどうしてはるのでしょうね。
技術研究はそれぞれの段階で検討会や発表会があるはずですから、あそこまでいって虚偽内容だったなんて有り得ないと・・・今でも思います。


では、歴史夜話44です。

壊れた古いPCのハ-ドディスクのなかに、1999年のテレビ番組「俺流サラリーマン 河井継之助」を観た感想コメントが出てきた。幕末維新の主役が薩長側の視点であることが多いなかで河井継之助に焦点が当たるのは嬉しい、というようなことを書いていた。

河井継之助は越後長岡藩士である 。120石取りの中級武士の家に生まれたが、開明思想の持ち主で、藩主牧野忠恭(ただゆき)に見出されて、郡奉行、町奉行として藩政改革をおこなった。そして家老職に就任してからは富国強兵策を実施した。

戊辰戦争においては執政、軍事総督として藩論を局外中立に統一した。官軍に中立の嘆願書を提出するも拒否され、ついに奥羽越列藩同盟に参加する。その結果、北越の地で官軍と死闘を繰り広げる。しかし、長岡軍は河合の負傷により敗走、会津へと退却する。

歴史夜話44
河井継之助は直弼の安政の大獄以前から幕藩体制の限界を感じ、士農工商の身分制の崩壊を早くから察知していた。このころ、坂本竜馬は千葉道場の一介の剣術使いにすぎず、西郷隆盛は薩摩藩主島津斉彬の命により、一橋慶喜の将軍擁立運動の奔走に手一杯であった。この時期に江戸幕府の崩壊を予見していた者など皆無であろう。河井は迫る外圧に対し、従来の幕藩体制では対応できないことを優れた洞察力で見抜いていた。

しかし先の見えすぎる人は組織にはなじみにくい。まだ部屋住みの身でありながら、藩主牧野忠雅に抜擢されて役職についたが、藩の重役たちに疎まれて辞職を余儀なくされている。河井が再び藩に登用されるのは、時勢が風雲急を告げ、河井をおいて他に長岡藩の舵取りができない状態になってからであった。

1858年(安政6年)藩政から遠ざけられていた河井は、江戸や横浜、ついで西国を遊学している。西国遊学では佐賀藩の軍事工場を見学し、長崎の賑わいを見て、西南雄藩の台頭を予見している。時に井伊直弼が強権を発動し安政の大獄が行われ、幕府の権力が一時的に高まった頃のことである。

世情が乱れる中、幕府は長岡藩主牧野忠恭を老中に命じた。河井はこのような難局に老中職を勤めるというのは火中に栗を求めるようなもの、今は長岡藩を立て直すことが大事と説き、藩主に認められる。なんと河井が幕末の風雲にむけて行った最初の仕事が藩主の老中辞職運動であった。そして郡奉行、町奉行を歴任、思い切った藩政改革を断行し、遂に莫大な借金を返済し、余剰金10万両を貯蓄するに至る。

しかし、このころ時代は急展開し、幕府は長州征伐に失敗し、将軍家茂は急死、慶喜が将軍になったが政局は幕府に好転せず、ついに大政奉還して徳川幕府は崩壊した。これを見ていた河井は長岡藩の武装化を推進し、遂には最新兵器を保有して北越の小藩でありながら、薩長に劣らぬ兵力を保有する。

1868年(慶応4年)京都南郊で薩長軍と旧幕府軍が衝突する。この戦いを皮切りに戊辰戦争は始まり、内乱状態となる。江戸開城後は、薩長を主力とする官軍は会津征討に傾注のため北上、北越の地にも迫って来た。長岡藩はここで会津(奥羽列藩同盟)につくか、薩長につくか二者択一を迫られる。このころ河井は総大将というべき軍事総督の役職にあり、長岡藩を一身に背負う形になっていた。会津か、薩長か、河井は大きな決断を下さねばならなかった。

河井の決断は武装中立だった。つまり会津にも組せず、薩長にも組せず、長岡藩の藩境を守り、あわよくば会津、官軍の両方に入り仲介の労を取り内乱を終わらせようとするものであった。気宇壮大と言えば気宇壮大だが、長岡藩7万4千石でそのようなことができると本気で河井は思ったのであろうか?

1868年(慶応4年)5月2日、河井は長岡の南、小千谷に進出していた官軍に長岡藩局外中立の嘆願に赴く。世に言う「小千谷談判」である。談判の行われた場所は小千谷の市街地にある慈眼寺で、相手方は東山道軍軍監 岩村精一郎、この時23才の血気盛んな若者であった。

河合の嘆願書は・・・・長岡藩は、藩論を統一し、かつ会津、桑名、米沢の諸藩を説得して王師にさからわぬよう申し聞かせ、越後、奥羽の地に戦いのおこらぬように相努めるという趣旨であった。

これに対して岩村誠一郎は「嘆願書をさしだすことすら無礼であろう。すでにこれまでのあいだ一度でも朝命を奉じたことがあるか。誠意はどこにある。しかも時日をかせ、嘆願書を取り次げ、などとはなにごとであるか。その必要いささかもなし。この上はただ兵馬の間に相見えるだけだ」(司馬遼太郎「峠」)

会談はわずか30分あまりで決裂した。長岡藩の藩論は会談が決裂した以上、長岡藩は会津藩擁する奥羽列藩同盟に参加する。長岡に同調する越後諸藩を加えて「奥羽越列藩同盟」を結成した。ここに凄惨極まりない北越戦争の火蓋は切って落とされた。激論の中で、敗北必死とみた河井は長岡藩牧野家のために「わしの首に3万両をつけて降服せよ」と言ったという。

長岡軍と官軍との衝突は長岡と小千谷の間、信濃川を挟んでおこなわれた。戦局は長岡軍優勢に進み官軍は攻めあぐねていた。しかし、5月19日突如長岡城は官軍の奇襲をくらい、もろくも城は陥落する。しかし、城を失った長岡軍は北越平野を転戦し、各地で激戦を繰り広げる。そして、7月24日長岡の北、八丁沖とよばれる泥沼を通って長岡城を奇襲、これを奪還した。

しかし、これが長岡軍の最後の抵抗であった。 翌25日、前線で指揮をとっていた河井は左足に銃弾が命中して重傷する。そして29日には城を支えきれず落城した。長岡軍は会津めざして敗走を開始し、河井も担架に乗せられて会津目指して落ち延びた。 長岡から会津までは八十里峠越えの厳しい山道である。「八十里 こしぬけ武士の越すとうげ」・・・河井 自嘲の句が残されている。

河井が会津領只見塩沢村にたどり着いたのは8月11日である。会津まで河合をお供していた外山脩三という若い藩士に「武士の世はもう終る。このいくさが終われば、さっさと商人になりゃい。これからは商人の世よ」と諭したという。河井が死んだのは8月16日、享年42才であった。

2016.07.06   えんてつ   編集

えんてつ さん

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死にそうな一日、、、暑さのせいですね?
ほんとに、今日の暑さはニュースに聞く他人事ではなく、我が身に置き換えられます。


歴史夜話を読ませていただいては、そのお話が届いた意味を考えます。
43話は、

>女性としての幸せとは何なのか、気になるところです。

ですね?

私は、「今は、女性に限ることなく、幸せとは、一人一人それぞれに、納得できる生き方ではないかと。」

このように結論付けました。

>おしなべて女性は家庭的であるべきという封建的気風が日本の風土だった。

↑ この時代に、一般的な女性の幸せとは言えないリケジョと言う人生を選んだウメさん。
しかし、今なら、リケジョという選択、それは、その人なりに選択した、女性として幸せな生き方ではないかと思います。

>そうなら良いのですが、果たしてそうなっているのでしょうか?

男女ともに誰しもが、思い通りの幸せな人生を得られるとは限らないと思いますが、

えんてつさんの疑問は、何なのでしょう?

2016.07.07   麦   編集

麦さん、こんばんは。

きょうは2時間ほど街の中を歩いてビラ入れしたんですが、Tシャツ、汗を絞れそうなぐらいで、死にました(笑)

納得できる生き方をするのは難しくなりつつあるのではないかと・・・・


さて、次のお話は徳川四天王のその後です。



親の七光りという言葉があるが、ご先祖様の七光りという言葉は聞かない。けれども江戸幕府を開いた家康に仕えた徳川四天王は子孫に七光り以上の光を放ったようだ。徳川四天王とは、本多忠勝・井伊直政・酒井忠次・榊原康政の4名である。

1560年(永禄3年)榊原康政は13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。その後、三方原の戦い、長篠の戦い、高天神城攻撃、小牧・長久手の戦いなど数々の合戦に出陣して奮戦した。

歴史夜話45
榊原宗家8代目を継いだ榊原政岑(さかきばらまさみね)は榊原家の分家で千石の旗本の出身だった。

榊原康政は豊臣政権下の家康の関東移封のときに上野館林城主となり10万石を与えられて、事実上の大名となった。康政の後を康勝、忠次と継いで姫路15万石となる。さらに政房、政倫と継いだが政倫は襲封時わずか3歳であったために、枢要な姫路城主は無理ということで越後村上に移った。

そして次の政邦の時に村上からもとの姫路に復帰した。政邦は性格も温厚で、また誠忠の意欲が高く村上では領民に慕われ、姫路移封後も藩政の改革や民政の向上に励み、新田開発や寺社への寄進も積極的に行った。そのため領内はよく治まり、領民は善政を喜んだという。また、学問を好み文教の振興にも意を用いた。将軍吉宗も政邦の治世を多としたという。

1726年(享保11年)政邦は52歳で死去し、その跡を長子の政祐が継いだ。政祐も学問が好きで道徳を重んじ、謹厳実直であり、また孝心が厚かったという。しかし、政祐は病弱で、在封わずか6年、28歳で死去する。政祐には正室はおらず、子もなかった為に亡くなる前に、一族の旗本榊原勝治の二男政岑を養子にしていた。政岑は政祐の死により18歳で榊原家の8代目の当主となった。

榊原家はここまで比較的名君が多く、領内にも善政を布いてきたが、8代目の政岑は吉原で放蕩し、果ては高尾太夫を身請けして参勤交代にも同伴するなどの不行跡を咎められて隠居謹慎となり、本来なら改易となるところを先祖康政の功を持って特に許されて、越後高田への転封処分で家は存続した。まさにご先祖様の七光りだった。

1735年(享保20年)春、政岑は、陸奥白河藩主松平基知の養女久姫を正室に迎える。この年の秋には側室坂田氏が男子を生む、幼名を熊千代といい、これが後の九代目政永である。その2年後の1737年(元文2年)3月、正室久姫が女子を生んだが、産後に久姫は死去した。政岑はこの頃から吉原放蕩を始める。

政岑は将棋・三味線・浄瑠璃など芸事に通じており、能も好きでお抱えの能役者を置いていた。政岑が初めて吉原に連れ出したのは、この能役者だといわれている。おそらく池之端の中屋敷で養育されていた頃のことであろう。なにせ15万石の宗家を継いだのは政祐急逝と急養子によるものであったことで、政岑には帝王学の基礎ができていなかったのかもしれない。

政岑はもともと遊び好きであったようで、吉原に入り浸るようになる。このころ尾張藩主徳川宗春も吉原に繁く通っており、すぐに宗春と政岑は意気投合して二人で遊んだというのが通説になっている。政岑はどんどん派手になり、贅沢になっていく。将軍吉宗が木綿を着用しているのに絹を着て吉宗の前に出る。門番の当番の時に派手な衣服で出て、鷹狩りにいく吉宗を見送る。吉原では毎夜のように放蕩し散財する。 一方榊原家の財政は、凶作のうえに政岑の浪費もあって急速に悪化していく。それでも政岑は放蕩をやめない。

1741年(寛保元年)6月4日、政岑は吉原三浦屋の高尾太夫を2千5百両で落籍、身請けした。太夫とは幕府公認の遊郭である吉原の最高級の遊女で、歌、踊り、三味線などの遊芸のほかに茶道、香合、花道、和歌、俳句、碁、将棋なども出来き、源氏物語を読み、かなりの教養も身につけていた。高尾というのは三浦屋の太夫名で、政岑が落籍した高尾は7代目で1734年(享保19年)に太夫となっていた。

政岑は披露の際にも3千両の大金を投じて吉原の遊女を総揚げにし、さらに高尾が吉原を出て屋敷に移る日には藩士を迎えに行かせ、行列を組んでいる。高尾は正妻の扱いを受け、参勤交代で帰国の際にも姫路に伴い、姫路城内西の丸に住まわせた。また、政岑は高尾だけではなく京都島原の遊女を2人、有馬の遊女の3人を身請けしている。そして領地の姫路でも酒宴に耽り、重臣たちの意見も聞き入れなかった。

こうした行状を見かねた重臣たちも放置していたわけではなかった。1734年(享保19年)4月には、太田原儀兵衛が諫書を出していた。儀兵衛は1729年(享保14年)に城代にまでなった人物であり、諫書を提出して城下の屋敷を立退いたあと行方不明となった。

将軍吉宗は政岑を隠居させた。そして榊原の家督はわずか7歳の嫡子政永が継承し、寛保元年11月に温暖な姫路から越後高田15万石に転封となる。本来なら改易のところ、先祖康政の功によって転封処分で済んだのだった。

このころ政岑の遊興の借金は30万両に達していた。そのうえ、高田入封直後に、大雪や洪水に見舞われ、1751年(宝暦元年)には大地震、凶作と災害が続き、財政は窮乏の一途を辿った。 政岑のつけは大きく藩政に響いたのである。

政岑は、吉宗の命によって高田への道中の籠に綱をかけて罪人扱いされた。そして高田に移って、約1年後の1743年(寛保3年)2月17日に29歳で病没した。江戸幕府はその墓もなお綱で覆ったという。

2016.07.07   えんてつ   編集

えんてつ さん

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ご苦労の結果が表れたとしても、死んでは報われませんね(笑)

>納得できる生き方をするのは難しくなりつつあるのではないかと・・・・

女性の立場へ、何か訴えたいことが、お有りと思ったのですが、そうではなかったのですね。


熟読するのに45話まで追いつかず、ともかくメクラ転記しました(-_-;)

2016.07.09   麦   編集

麦さん、おはようさん~♪

昨日は雨模様の中、お楽しみ大会という村の行事がありました。
きょうは朝から良いお天気で暑くなりそうです。

歴史といっても近代に近くなると現代との関連性から評価が定まっていないこともありますね。

7/11までに50話まで進めようと思っていましたが、残りは今日一日になりました。
麦さんのほうは慌てず急がず、ぼちぼち読んで下さいね。


歴史夜話46は、江戸時代の越後の国であった事件です。


1713年(正徳3年)春、越後新発田藩の大竹与茂七というひとりの名主(庄屋)が訴えられて獄門に処せられた。

大竹与茂七は新発田藩領の南蒲原郡中之島の名主(庄屋)を務めていたが農民に味方し、農民に代わって大勢の名主と一緒に役人と結託した横暴な大庄屋と交渉し、遂に裁判となり、歯を一本残らず抜くという残忍な拷問にも屈しなかった。しかし、大庄屋の指揮に従わず、百姓一揆を煽動したという濡れ衣を着せられて首を刎ねられました。後世になり、藩主はその行き過ぎを反省し、名誉回復をはかり、藩の功臣を祀る五十志霊神に合わせ祀りました。

農民たちの訴えをどこまで聞き入れるかということは、領地を治める藩主としては、最終的に幕府の意向に沿う形で収めることになってしまう。

歴史夜話46
1704年(宝永元年)6月、折からの大雨で信濃川、刈谷田川が氾濫し、新発田藩中之島地方では堤防決壊の危険が迫った。この状況に与茂七ら名主たちは大庄屋・儀兵衛と茂在衛門に出動を要請したが、儀兵衛は越後三条に出かけ留守、茂在衛門も病気で出動できなかった。

やむなく与茂七は現場の指図役となって緊急の処置として自分の山の木を切り出して堤防の補強を行った。そして、さらに足りない分を儀兵衛所有林、ついで藩有林の木を伐採して堤防を保護した。今で言うところの災害時の危機管理である。

大庄屋ら行政側の危機管理意識が欠如し、現場の判断で緊急対応したわけであった。現代なら行政の怠慢を責める大合唱となろうが、時は江戸時代である。そうはならなかった。無断で自分の山の木を切られた村の大庄屋・儀兵衛は与茂七を逆恨みし、村民から感謝される与茂七たちが面白くなく、役人に与茂七を藩林盗伐で、安左衛門を一揆徒党で訴えた。安左衛門は池之島村名主の息子で、儀兵衛の不在を怒って留守宅に押しかけて抗議したのである。この儀兵衛の訴えに藩では与茂七と安左衛門を取り調べたが、中之島地方の名主や組頭たちが連判してあの時、木を切って堤防の補強をしなければ、近隣の村は流されていたと釈明し、藩でもそれを入れて与茂七らの行動はやむを得ないものとして無罪放免となった。

これを契機にして、与茂七らと大庄屋・儀兵衛の間には大きな溝ができ、確執が続いて紛争が絶えなかった。どうも儀兵衛というのはあまり良い大庄屋ではなかったらしい。

1705年(宝永2年)から中之島村では連続の大凶作に襲われた。翌宝永3年、藩は幕府からの国役金を大庄屋・儀兵衛を通じて領内の村々に割り当てた。連年の水害で疲弊していた村々は、大庄屋に軽減を嘆願したが断られ、逆に年貢の取立ては厳重を極めた。与茂七は村人のために、大庄屋・儀兵衛から150両を借り受け、村人の救済に当てた。

1708年(宝永5年)、この年、豊作となったため、利息30両をつけて150両の借金は大庄屋・儀兵衛に返すことができた。ところが、その際に与茂七は証文を受け取っていなかった。翌年になって大庄屋・儀兵衛から借金を返せと迫られた与茂七は証文が手元にないことからどうすることもできず、新発田藩の奉行所に訴えられてしまった。

怒りに燃えた村人は大庄屋宅に押しかけ、最初は減免と猶予を申し出たが入れられず、ついに衝突して大立ち廻りとなった。当然大庄屋は徒党乱入として訴え、名主側も大庄屋の非違を訴えた。
1712年(正徳2年)11月の与茂七側の訴えは
(1)大庄屋が訳のわからない金を割りつけてきて百姓が困窮している
(2)百姓を動員して刈った萱を、一部は刈谷田川の堰に用いたが、残りはどうしたのかわからない
(3)大庄屋の生活が苦しいとして村から合力金百両を徴収したが大庄屋の生活は苦しくなく、合力金徴収はしないでほしい
(4)近年収納米を2、3千俵も売っている、江戸出入金差し引きのためと称しているが、大切な年貢米を売って何を企んでいるかわからないなど7項目の訴えをした。

この訴えに対して新発田藩では(1)大庄屋に落ち度はないが、(2)百姓の困窮については今後吟味し迷惑をかけないように命じる。(3)原告の徒党を組んでの騒動は法度に背くが慈悲をもって不問とする、という裁決をした。大庄屋にもまったくの落度がなかったのかといえば、それはあったのであろうし、与茂七側の言い分にも一理あったのであろう。まさしく白黒をつけずに双方の顔を立てた判決であった。

この判決の出たのは1713年(正徳3年)正月27日だったが、与茂七側は即座に第2回目の訴状を出した。今度の訴訟では・・・・・
(1)儀兵衛は刈谷田川大堰工事を粗雑に実施したのですぐに破損する、粗雑にしたのは儀兵衛の所有する田のある村に不都合であったからだ
(2)大庄屋は新発田への往来に陸路ではなく経費のかさむ舟を使い、その費用を村々に割り当てている、また城下での逗留費用の割り当ても多すぎるし、儀兵衛の妻のために長岡から医者を呼んだ送迎にも百姓を動員した
(3)大庄屋は百姓の願いに熱心に取り組まず、あまつさえ土木工事が多いために人足手伝いの赦免を願っても取り上げてくれない、また田畑の検分を行わず、普請の時も検分は役人まかせで自分で検分しない
(4)大庄屋は藩からの普請人足米の一部を渡さないほか、金銭関係に不埒な行為が多いなど7項目あった。

この内容は前回の訴えよりより感情的になり、エスカレートしている。藩側の穏便な判決に対して真っ向から挑戦した形になってしまったのだから、今度は藩もやさしくはなかった。訴状を受け入れたりしたらよりエスカレートするし、他の地域にも伝染する。さらに恐れたのは幕府への聞こえであろう。藩としても大庄屋側にたたざるをえなくなった。

 与茂七はことの成り行きについて説明したのだが、ことはもう大きくなり過ぎていた。大庄屋側についた奉行所の役人は、同年6月、与茂七ら5名は死罪、うち与茂七と脇川新田名主・善助は獄門となった。ことを急いだ藩は余り取り調べもせずに斬首の極刑を申し渡してしまった。

判決の日、白州に引き出された与茂七は、「梶弾右衛門、高田善兵衛、そんな役人ども、よく聞け。中之島組名主与茂七は、百姓衆の為生命を投げ打って正義を貫き通した。歯を抜こうが耳を切り落とそうがこの与茂七の魂を抜くことはできぬ。うぬらごとき、禄資人とは違うのだ。我、今ここに死すともこの恨み生き変わり死に変わって、七代七生まで祟るであろうぞ」と言い残し、新発田郊外の刑場で打ち首となった。このとき刑場に連れて行かれる与茂七を人々はなみだ橋で涙を流しながら見送ったという。

処刑の際に与茂七は「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負えど 清き心は 知る人ぞ知る」と辞世の句を詠んでいる。この一連の騒動の主人公であった与茂七は以後義民と讃えられたが、どこか現代にも通じるような騒動であった。

新発田藩では、与茂七が刑に処せられてまもなく、この件に関わった大庄屋や役人達が、次々と狂い死にし、続いて1719年(享保4年)には、新発田城下の町の大半が焼けるという大火事に見舞われた。与茂七の祟りではないかという噂が広がった。

2016.07.10   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-483

東西とも、昨日、今日と、お天気は同じだったようですね。
お楽しみ会は、雨ですと小規模になったでしょうか。
こちらも今日は晴れて暑かったです。

歴史小話は纏めてあるので、あとで読み返して楽しみますね。

このたびは改めて、楠木正成を復習しました。
典型的な右翼の原型、とでも言うのでしょうか。
面白かった、と言うには語弊がありますが、いいお話でした。

2016.07.10   麦   編集

麦さん、こんばんは。

間があきましたが、歴史夜話を再開しましょう。
ええっと、47回目からですね。
だんだん長くなってきているようですが、お許しくだされたし。




縄文時代の前の時代に日本列島には人類が住んでいたのだろうか? 今月のこと、草を束ねた舟で沖縄県の与那国島から西表島へ渡る実験が行われた。十分な道具もなかったとされるおよそ数万年前に、人類はどのようにして今の台湾から 沖縄に渡ったのか検証しようと、ガマという名前の草を乾燥させ、植物の つるで束ねる方法で舟を作り、外海を渡ることが可能なことが実証されました。

日本列島では、旧石器時代は今から16000年くらい前に終了し、それから縄文時代が始まる、では、いつごろから日本列島に人が住み着いたのかなど思いを巡らせると、ここがわたしたちの歴史の原点ではないかという思いにロマンに満ちてきます。

戦前、日本には旧石器時代はないと言われていました。また当時は学閥があって民間学者が旧石器時代の発見など発表すると、権威のある学者たちが、こぞってバカにし無視していました。今回の歴史夜話は日本における旧石器に関する悲しいお話です。

歴史夜話47
1949年に納豆の行商をしながら独学で考古学を研究していた相沢忠洋という人物が、群馬県の関東ローム層から黒曜石の尖頭器を発掘します。そして、この発見を考古学者に報告するも、相手にされず、詐欺師扱いされました。そんな中、話を聞いてくれる学者を尋ね歩いた相沢は、明治大学大学院生の芹沢長介と出会います。芹沢はこの重大発見を、同大学の杉原壮介助教授に報告しました。こうして、日本の旧石器時代の存在を証明されるに至ったのです。

相沢が発見した遺跡は岩宿遺跡と呼ばれ、今から35000年位前の旧石器後期にあたります。そうなると、それよりさらに古い時代の発見をと言う事になるのですが、旧石器の存在を学術的に証明した杉原氏も、日本における前期中期の旧石器時代は否定していました。

しかしこの岩宿での旧石器の新しい発見は疑いと嘲笑の対象となりました。なんせ、まだ神武東征を唱える戦前の皇国史観から抜け出したばかりの時代のこと、考古学はまだまだ新しい学問でした。また、考古学の特徴は他の分野と違い、在野のアマチュア研究家が多い世界もあり、証明もかなりの苦労と証拠を必要としました。事実、前中期の旧石器といわれるものは形も微妙で、「これ石器なんですか、普通の自然石じゃないですか?」と言うことだったのです。

ちなみに旧石器時代の分類は、前期旧石器は260万年前から30万年前まで、中期が30万年前から5万年前まで、後期は5万年前から1万年6千年前までとされています。前期旧石器時代ともなると、製作者は知的レベルも原人クラスです。そんな人類に器用な石器など出来そうもないと思われていました。

在野の考古学者の相沢忠洋を発見した芹沢長介は、明治大学を飛び出し、東北大学に所属を移し、古巣の明治大学と激しい対立関係に陥ります。目指すは日本における前期中期の旧石器の発見でした。そして平成元年、日本の考古学界に新しいページを記した相沢は62歳で亡くなります。

その後も芹沢長介率いる東北大学は旧石器の発掘に邁進します。しかし、日本の考古学は科学的と言うより、文学的、哲学的な要素が強いと言われています。欧州ではかなり科学的な研究方法が確立されていますが、これはキリスト教との歴史観の戦いの末、発達したものでした。日本は、戦争の敗北により皇国史観からあっさりと考え方が覆ったので結果、科学的な手法の確立が遅れていました。

相沢忠洋亡き後、在野の研究家、藤村新一なる人物が次々と旧石器の奇跡的な発掘をしました。宮城県の座散乱木遺跡(ざざらぎいせき)、高森遺跡、馬場壇遺跡、北海道の総進不動坂遺跡、そして埼玉県の小鹿坂遺跡は50万年前の北京原人にも匹敵する時代で、しかも住居跡まで発見したと発表されました。

藤村新一は、七十数カ所の遺跡で石器を発見するという「離れ業」をみせました。そしてついに「ゴッドハンド」と呼ばれるようになりました。この考古学界の新しいスーパースターにかつて相沢忠洋を発見し、日本考古学界の神様にまで上り詰めた芹沢長介がお墨付きを与えます。自分の研究し続けた前期旧石器時代の証明をしてくれる藤村新一を猫かわいがりしました。

いくらなんでも、1人でこれほど発見が集中するなんておかしい、遺物も旧石器なのに、明らかに新しい時代の石器に見えるなどと、異を唱えた学者もいましたが、なんと学界から締め出されてしまいました。「考古学の神様」芹沢さんが本物だというんだから本物だということでした。そして、東北大学文学部助手で芹沢の愛弟子だった岡村道雄が日本の旧石器時代をリ-ドするようになりました。

1999年のある日、藤村新一の石器発見に異を唱え、学界から締め出された竹岡俊哉と言う学者が、藤村の発掘手法に疑念があると毎日新聞に訴えました。竹岡氏は先進的な考古学の研究を身に着け、高い見識と技術を持ちながらも考古学界では異端とされていました。

そして2000年、上高森遺跡にて、ついに毎日新聞北海道支社のクルーが、石器を埋めている藤村のスクープに成功し、世間にねつ造が露見します。

こうして、70年万年前まで遡ったとされる日本の前期旧石器の発見は、すべて取り消され4万年ぐらいまでの後期旧石器までしか証明されないという事態になりました。当然のこと、教科書も全部書き換えられました。

毎日新聞が内偵していた「上高森遺跡」は、「ゴッドハンド」による捏造が発覚した遺跡ですが、何よりすごいのは捏造が発覚してから行われた再調査で、「第1次調査から、ねつ造が発覚した第6次調査にいたるまで、一貫してねつ造行為が行われたと考えられる」ことが判明しました。つまりここは遺跡ですらない普通の場所だったのです。

藤村新一は、1975年から25年間、偽の発掘を続けていました。しかし藤村は在野人であり発掘現場の一作業員であり、論文も読めないし石器の図面も書けなかった。25年間ほんとうに藤村一人で捏造が続けられたのだろうか。不思議なことは 25年間に160以上の発掘現場で、専門家である現場監督の誰ひとり藤村の捏造を見抜けなかったことだ。

日本に旧石器時代は存在しないと言われた時代、貧しく、学問的な裏付けのない若者の持ってきた石器を偏見なく旧石器時代の物だと確信し、みずみずしい感性で旧態依然とした考古学者を打ち負かしてきた異端の人が、こんどは権力者となり自らの都合の良い証拠しか認めず、かつての自分のように新しい異端に否定され、自らを汚す事はドラマとしては、良くあるお話かもしれません。

ポケモンGOが大流行とのこと、現実と虚構が実在していることを思えば、本物と偽物の差など取るに足らないと言えるのかもしれませんね。

2016.07.25   えんてつ   編集

えんてつ さん

お疲れ様でした。
直接な関わりはなくても、まだ気持ちは慌ただしいことかと思います。

e-496 歴史夜話の再開ですね。

ありがとうございます。
後ほど、又ゆっくり、楽しませていただきます(*^-^*)



2016.07.25   麦   編集

麦さん、こんにちは。

田んぼのホンモロコが群れで泳ぐようになりました。
ことしは鳥避け網を張ってあるので気持ちの上で余裕もあるのですが、稚魚の数は去年の半以下と少ないのが残念です。


歴史夜話はぼちぼち眺めて下さい。


さて49は飛ばして50回目です。



1575年(天正3年)本多作左衛門重次が、長篠の合戦の陣中から妻あてに書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は簡潔明瞭な手紙として有名になった。

歴史夜話50
本多作左衛門重次は1530年(亨禄3年)三河の国、上和田城の近くの宮地(現在岡崎市宮地町)に生まれた。幼名を八蔵、のち作十郎、作左衛門と称し、7歳の時から松平清康に仕え、以降広忠・家康と三代にわたって歴仕した。

1558年(永禄元年)家康17歳の寺部城攻めの時に、弟重玄とともに先鋒をつとめ重玄は戦死した。その後は家康とともに行動を共にし、家康を守り育てた人物だ。とくに戦場におけるずば抜けた戦いぶりから、人々は「鬼作左」、「鬼殿」と呼ぶようになった。

1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦いで、徳川軍は3万の武田軍によって左翼を破られ中央を崩され総崩れとなった。このとき作左衛門は身に数ヶ所の傷を受け身動きできないほどであったが、主君家康が死にもの狂いで退却するのを見ると、最後の力を振り絞って敵を倒し、騎馬一頭を奪い家康の後を追い、家康にふりかかる敵を倒しながら城に着き、家康の命を救ったことがある。また、高天神の戦い、長篠の戦い、蟹江城攻略でもそれぞれ多くの首を挙げた。

1590年(天正18年)3月20日、小田原征伐のため東下した豊臣秀吉は、徳川家康の居城である駿府城へと入った。この時、家康は長久保の陣より戻って対面した。このとき秀吉の家来が数多並ぶ中、本多作左衛門が家康の後ろから現れ、立ちはだかって大声で怒鳴った・・・・・・「藩翰譜」の記述によると

「やあ殿よ殿、あっぱれ不思議をなされることよ! 国をも保とうとする人が、我が城を明け渡してしかも人に貸すことがあるか、そのような気では、人に貸せと言われれば、北の方をもお貸しなさることでしょう」そう罵って帰っていった。

家康は唖然とする人々のほうを向いて言い訳をした。
「今の老人の言うことをお聞きに成られたでしょうが、あの老人は本多作左衛門重次といって、この家康の累代の家人であり、私が幼い頃より仕えている者です。彼は若い頃から弓矢打物を取っては人にも知られた者ですが、今では、ご覧になったように歳もいたく寄りまして、私も不憫に思っているのですが、天性わがままな根性の持ち主にて、他人を虫けらとも思わず、多くの人々が聞く所でも、あのように私を、事がましく言い立てるのです。ましてや私が彼とただ二人でうち向かった時、どんなことを言われているか!どうか想像して下さい。普段ならそれでも構わないのですが、どうしたわけか今日もあのような奇怪な振る舞いをしてしまうとは。これを人々がどのように思われるか、大変恥ずかしい事です。」

これに、その場の人々は・・・・・
「本多作左衛門の事、久しく聞き及んではいたが、実際に見たのは今が初めてだ。誠に聞きしに勝るものかな。あのような家臣がいるというのは、実に奥ゆかしいことだ。」そのように感じ入ったという。


1586年(天正14年)家康が秀吉の要請に応じて上洛の際、秀吉の母大政所が人質として岡崎に下向のとき、作左衛門は井伊直政と共に守護するが、居館の側に薪を積み、京都に変事が起れば、ただちに火をつける態勢をととのえ、大政所を虐待した。

1590年(天正18年)8月19日、秀吉が小田原へ向けて出陣ということで、駿府城で今宵一夜宿陣のため加藤遠江守を通じて三度呼んでも応じなかった。更に岡崎城でも秀吉への見参御免の事件などのため秀吉の激怒をかったと言われている。

秀吉から家康に作左衛門殺害の命があったが、家康は作左衛門を隠して病死したと報告し、上総国古井戸に閑居とした。家康は秀吉に遠慮して作左衛門に与えた知行は僅か三千石だったが、作左衛門は家康には一言も不平を言わなかった。自分のことを捨て、ひたすら君主家康のために尽くした作左衛門を当時の人々は三河武士の手本としてほめたたえた。

また家康も作左衛門の功を忘れはせず、1600年、関ヶ原の戦(に勝ち、自分が天下人となった時、作左衛門の子本多成重を越前丸岡城主として4万石を与え大名とした。

2016.07.26   えんてつ   編集

前後しますが、歴史夜話49を添付します~♪

子供の頃、大映の座頭市の大ファンだった。勝新太郎演じる座頭が悪者たちをすんごい居合い切りの殺陣でやっつける。いまから思うと身体にまつわる差別的な言葉が多くてそのままでは放映できない気がする。

歴史夜話49
座頭は、江戸期における盲人の階級の一つだった。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼称としても用いられた。そして、当時の盲人の最高位の官名は検校(けんぎょう)と呼ばれていた。

江戸時代、盲人の官位をつかさどり、その職業を保護する組合を「当道座」と呼んでいた。しかし、元々は平家琵琶を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来している。

古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、「平家物語」を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても、互助組織としても、彼らの座(組合)として機能していた。彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。

これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできたらしい。

そして、江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家として、また、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言われている。当道に対する保護は、明治元年(1868年)まで続いた。

盲人のなかには、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。勝海舟、男谷信友の曽祖父は米山検校と呼ばれて有名であったし、塙検校(保己一、はなわほきいち)は学者として活躍し『和学講談所』を設立。「群書類従」「続群書類従」の編者となった。

検校の権限は大きく、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。視覚障害は世襲とはほとんど関係なく、江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。1692年(元禄5年)関八州とその周辺の座頭を支配した機関として惣録役所が置かれ「惣録屋敷(そうろくやしき)」と呼ばれていた。

2016.07.26   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496  歴史夜話50まで届きました。

ゆっくりと熟読は老後の楽しみとなりそうに、貯まりました(^▽^;)

50話については、私にとって読み流せない部分ですが、、、
家康の側近で、本多と言えば正信の裏話かと思いましたが、正信でも忠勝でもないのですね。
本多作左衛門重次さん・・・!


2016.07.26   麦   編集

麦さん、こんにちは。

歴史夜話51を添付します。
昨夜は大きな地震があったようですが、こればっかしは、慣れっこだということにはならないでしょうね。

こちら、きょうも朝から真夏の太陽が輝いています。



人間に大事にされた動物が恩返しをする物語は各地に伝わっている。浦島さんや鶴さんやワン公の恩返しは全国的に広まっている。でも、実際にそういう事象を目の前にすることは有り得ないと思うのが普通だろう。

江戸時代はまだ人々のなかに死の怖れと生命への畏敬の念があった。それは科学的でない分だけ純粋だったように思う。

歴史夜話51
1816年( 文化10年)の晩春のことである。神田川のほとりに、福島屋清右衛門という魚屋が住んでいた。女房は、おいくといった。商売は繁盛していたが、商売道具や家財道具を鼠にかじられる被害に悩んでいた。そこで、猫を飼うことにした。

猫は「きじ」と名づけられ、夫婦ともどもわが子のように可愛がり、毎日、ウナギやカツオブシを食べさせるほどだった。女房のおいくは猫の背中をなでさすり、「これ、きじや、おまえは畜類といえども、人のことばはわかるであろう。あたしらは鼠に困っている。一匹残らず、鼠を退治しておくれよ」と、言い聞かせた。

きじは夫婦の願いがわかったのか、一匹、二匹と鼠を捕らえるようになった。そうするうち、清右衛門は持病が急に悪化して、寝付いてしまった。魚屋商売もできない。おいくは、きじに言い聞かせた。
「亭主が病気で商いもできず、もう、おまえにウナギもカツオブシも食べさせてあげることはできないよ。不憫だけど、どこへでも行くがいい」きじは意味がわかったのか、小さくニャアと鳴いた。まるで、名残を惜しむかのようだった。その晩から、きじの姿が消えた。

おいくは、病床の亭主にいきさつを述べ、「きじの行方が知れません」と、告げた。
清右衛門もしみじみと言った。「猫もちゃんとわかるものだな」。夫婦は姿を隠したきじが無事に生きていくことを願った。

そのまま、数日が過ぎた。ひょっこり、きじが戻ってきた。よく見ると、口に小判を一枚くわえているではないか。きじは夫婦の前に小判を置くと、まるで挨拶をするかのようにニャアと鳴き、しきりに尻尾を振った。夫婦は驚いた。これは他人の金だとは思ったものの、貧窮していたことから、つい小判を両替して、そのうちの二朱を生活費に使ってしまった。

その夜、ふたたびきじの姿が消えた。翌日、隣町の伊勢屋という商家にきじがはいりこみ、帳場に置いてあった小判一枚をくわえて逃げようとした。それを見た奉公人が、「この畜生め。きのうの小判も、この猫が盗んだに違いない」と、叫んで追いかける。ほかの奉公人も集まってきじをつかまえ、よってたかって殴り殺してしまった。

やがて、福島屋の猫が伊勢屋でぶち殺されたという噂が清右衛門の耳に届いた。これを聞いて、きじが伊勢屋から小判を盗んできたことを知った清右衛門は、病を押して隣町を訪ねた。

清右衛門は伊勢屋の番頭に面会するや、「小判を盗もうとしたのは、あたくしどもの猫に違いございません。じつは、さきに猫が持ち出した小判のうち、二朱は使ってしまいました。病気が治って働けるようになりましたら、必ず二朱はお返しします」と、使い残しの三分二朱を返却した。

あとで、番頭からいきさつを聞いた伊勢屋の主人は驚き、また感銘を受けた。「さてさて、そのきじという猫は畜生といえども、可愛がってくれた夫婦の恩を感じ、夫婦が困っているのを見て恩返しをしたのであろう。非業の死を遂げたのは不憫である」。そして、あらためて番頭に命じて、きじが盗もうとした小判と、清右衛門が返却してきた三分二朱を持って福島屋に行き、伝えさせた。

「知らなかったとはいえ、そこもとの猫を殺してしまいました。なにぶんご了見ください。きょうはお詫びにまいりました。この一両はそこもとの見舞いでございます。ご持参いただいた三分二朱もお返ししますので、これで猫を弔ってやってください」
その後、両国の回向院に猫の墓が建立された。

2016.07.28   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

猫にも小判の価値が解る、というお話ですね(*´▽`*)

小判の単位をググってみたら、武田信玄によるものとありました。

2016.07.28   麦   編集

麦さん、こんばんは。

猫に小判でしたね~♪ えっ、いやいや、猫が恩返ししたというお話です(笑)

このお話は「街談文々集要」という物語本に書いてあるのですが、ひとたび話が広まると伝説化してゆくことになるのしょうね。


このところブル-ベリ-が急に色づいて、鳥たちも偵察がてらに味見をしている様子です。

では、引き続いて52話目です。


歴史夜話も50の大台を超えました。歴史的事実を明確に残すためには永遠の命を持った人間が時の流れを見続けて記録し教授すれば良いことになります。でもそんな不老長寿なことは「夢の物語」です。

ところで京大の山中先生が見つけたIPS細胞を利用すれば自分の体の一部が壊れかけたときにIPS細胞で再生させることが理論的に可能になります。異常を起こした体の部品を順次再生させてゆけば永遠の命が実現できるかも知れません。もしかしてこの技術は秦の始皇帝が追い求めた不老不死の媚薬なのかも知れませんね。

いま地球上で一番長生きしている生命は何歳なのでしょうか?

歴史夜話52
この世には、人間の理解を超えた生物が数多く存在します。たとえば竹です。竹は地下茎で代々の竹を生み出します。竹は、1本生えていると必ず周りに同じ遺伝子を持つ竹が複数本生えています。見た目上は別々の竹でも根が一つだからです。だから、1本の竹が風で折れてしまったとしても、根が死んだわけではないので、またニョキニョキ新しい竹が生えてきます。

この竹のような原理で生命を維持している場合、竹林の全体の寿命が生命の長さ、すなわち寿命ということになります。いわゆる「クローン生物」です。現在、知られている中で一番長寿だとされている植物は「アメリカヤマナラシ」です。この植物は、なんと8万年前から生き続けていると言われています。

竹やアメリカヤマナラシのようなクローン生物は、次々に新しい茎を伸ばすので、「老化」という概念は当てはまりません。ということで、この種の植物はとんでもなく長生きしていることになるのです。いまアメリカヤマナラシの最大のものは広さ約42万平方メートル(東京ドーム10個分)で、総数4万7000本。総重量推定6615トンというビッグスケールです。

これが「不老不死だ!」と聞かされても、どこか合ってない気がしますよね(笑)。枯れ葉剤のような除草剤を全体に散布されたら枯れてしまうでしょう。山火事で燃え尽きてしまうかもしれません。そうなんです、事故やアクシデントで不老不死の生命は絶たれるのです。

ところで、生物の中には、ひとつの個体が老化して死にそうになると、その個体が突然赤ちゃんに逆戻りするものがいます。こんなすんごい技の持ち主は海の「ベニクラゲ」です。
ベニクラゲには、「ポリプ」と言われる人間で言う所の「赤ちゃん」でいる時期があります。この、ポリプという期間を経て、だんだんと成熟し、立派なベニクラゲになるのですが、なんと、ベニクラゲは寿命が近づくと、自分の体をまたポリプにまで、退行させることが出来るんです。人間で言うと、老人になってもまた自分の体を赤ちゃんの時にまで、戻すことができるという事です。

この場合も「不老不死」なんでしょうか? 運悪く魚のエサになって食べられてしまえばこの世から消滅です。では、何かのアクシデントに遭った場合に、体の一部でも残っていれば、そこから自己再生するという場合はどうでしょう。たとえばプラナリアと言えば、何回切っても死なないで、切れた体が新たな個体として生まれ変わる、不思議な生き物です。プラナリアは、ある程度まで成長すると分裂して、クローンを増やします。

麦さん、地球上にはすでに「不老不死」を実現している生物がいるのです! でも、ここで疑問です。寿命が無いのに何故、増えないのでしょう?

その答えは簡単です、アメリカヤマナラシもベニクラゲもプラナリアも、いまは子供たちも知っている「食物連鎖」という大きなサイクルに組み込まれているからです。つまり、いくら寿命が無いと言っても、捕食されてしまえば死んでしまいますし、汚染された環境にさらされれば、やっぱり死んでしまいます。

結論は、不老不死とは、あくまで「寿命が無い」という意味であり、死なないということでは無いということですね。たしかにアメリカヤマナラシを眺めると「クローン生物は優秀」と思われますが、同じDNA情報を持っているからこそ、たった一つの弱点で絶滅してしまう危険もあるのです。

例えば、現在あるバナナは種がありません。なので株分けによるクロ-ン栽培です。過去においてクローン栽培されていたグロスミッシェル品種のバナナは、たった一つのパナマ病という病気で、絶滅してしまいました。クローンであるからこそ、同じ伝染病や寄生虫の影響をモロに受け、種全体が危機に陥るのです。有性生殖の特徴はこうしたことから脱出できるということでしょうね。

さて、もし、完全なクローン人間が作れたとしても、後天的な物まではコピーできないので、全く同じ人間は作れないです。性格や見た目もそうですけど、血管の配置や指紋も後天的な物だと言われているので、いかに同じDNAを持ったクローン人間でも、指紋認証や静脈認証は破れないことになります。

2016.07.29   えんてつ   編集

えんてつ さん

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第52話は、つまり人間に不老長寿は有り得ず、クローン人間だって、指紋や血管は後天的なものだから、、、、ってことで。
あとは、iPS細胞で限りなく不老長寿に期待、と言うことでしょうか。
あっ!
山中教授は、iは小文字、PSは大文字で、iPS細胞と書くのが、お好きみたいですよ(*´▽`*)



2016.07.29   麦   編集

麦さん、こんばんは。

そうか、iPS細胞でしたか~意味も知らないで使って
いるからIPSになってしまうんでしょう。

話題百までまだまだ遠いのですが、9月の中頃には一時中断になるだろう7ということで、今のうちになるだけ前進させておきたいと思います。



では、さっそくながら53話です。



姪の結婚式が東京であったとき、わたしたち夫婦は、お江戸の花友さんに東京見物をさせていただいた。そのとき、江戸城跡地にある「松の廊下」にも案内していただいた。そこはもう建物は一つもなく芝生と石垣が点在していた。

播州赤穂の浅野家のご先祖は、豊臣政権を支えた重鎮の浅野長政にあたる。浅野長政は秀吉の奥方のねね(北政所)さんとは養父が同じという近しい間柄で、浅井長政攻めで頭角を表した。しかし、関ヶ原では徳川に付き大大名として取り扱われた。

浅野長矩と吉良義央の間柄は忠臣蔵として後世まで語り継がれることになったが、両家とも格式高い家柄であった。

歴史夜話53
播磨赤穂の浅野家は、広島藩浅野家の一族ではあるが、広島本藩から分知された家ではない。大名としての浅野家初代長政が隠居した際に、徳川家康は宗家とは別に長政に隠居領を与えた。これが播州浅野家へと発展した。

当時浅野宗家は紀伊和歌山37万石であり、のちに広島に移る。長政の隠居領はそれとはまったく関係なく常陸真壁に5万石が与えられた。この隠居領は長政の死後、その三男長重が継ぎ、常陸笠間、播磨赤穂と転封されて継がれた。その系統の四代目が内匠頭長矩(ながのり)である。

事件当時の赤穂藩は、この頃の小藩のほとんどがそうであったように財政が逼迫していて、その建て直しが急務であった。にもかかわらず、幕府は江戸市中の火消しや門番、各種普請の手伝い、朝鮮通信使や勅使の饗応役などの公役を各藩に課した。その内訳は 江戸城や将軍家関係の諸寺社、河川工事などの土木系の公役は比較的大きな藩に、火消しや門番、饗応役などは中小藩に課されることが多かった。

長矩が赤穂藩主になったのは1671年(寛文11年)であるが、1681年(天和元年)に神田橋御門の門番、16825年(天和2年)3月には朝鮮からの使節である朝鮮通信使饗応役を努めている。さらに1690年(元禄2年)には本所の火消し大名に任じられ、その後もしばしば火消し大名となり、1698年(元禄11年)に再び神田橋門番、1700年(元禄13年)には桜田門番となっている。

この間、注目すべきことには、浅野長矩は、1683年(天和3年)2月に勅使饗応役を努めていることである。勅使とは天皇のお使いで、この年3月に花山院定誠、千種有能が勅使として江戸に下向した際に、初めての勅使饗応役としてその接待にあたった。勅使の饗応はそれなりにノウハウがいるので指南役がつく。つまり先生である。指南役を務めるのは高家と呼ばれる家格のものから選ばれ、この時の指南役は後の事件のときと同じ吉良上野介義央であった。事件が二度目の饗応役のときに起こったのも謎といえば謎だろう。

高家は朝廷との連絡や儀典を担当することなどが主な役割であるために、教養がありかつ名門であることが条件であった。但し大名ではなく旗本であるので領地はせいぜい数千石止まり、吉良家も4千2百石であった。

吉良家は足利将軍家と極めて近い家柄だから、たいへんな名門であり、氏素性に関してだけいえば江戸期の大半の大名は言うに及ばず、将軍家ですら問題にならなかった。そのような家の当主である義央は、気位が高く悪役のイメージが強く、また浪費癖があったのも事実であったようだが、有能であり、吉良の領地三河幡豆郡では今も名君として評価が高い。天和3年の勅使饗応役が最初の二人の出会いであったが、この時長矩は何の問題もなく、無事に努めを果たしている。

1701年(元禄14年)2月、浅野長矩は二度目の勅使饗応役となる。3月に東山天皇の勅使柳原資廉と高野保春、霊元上皇の院使清閑寺煕定の江戸下向が決まり、勅使饗応役に長矩、院使饗応役には伊予吉田藩主伊達左京亮が任じられた。指南役は吉良上野介であった。このとき吉良は別の役目で上京中であり、2月末まで江戸にいなかった。そのために長矩は一人で勅使を迎える準備をするはめになった。この空白がのちの事件に影響したと見る説もある。

勅使、院使の一行は2月17日に京都を発ち、3月11日に江戸に到着し伝奏屋敷に入った。長矩も勅使、院使に紹介され饗応の任務が始まった。 翌12日勅使、院使は江戸城に入り将軍綱吉に勅宣、院宣を伝奏、さらに13日には将軍主催の猿楽が演じられて勅使、院使が鑑賞している。ここまでは何事もなく無事に進行した。 14日は、予定では勅使、院使が江戸城に入ると将軍綱吉が先に伝奏された勅宣、院宣に対しての奉答を行なうことになっていた。

その儀式の直前午前10時ごろというが、江戸城本丸松之大廊下で吉良上野介が旗本梶川与惣兵衛と立ったままで打ち合わせをしているところへ、突然長矩が「この間の遺恨覚えたるか」と叫び、吉良上野介に脇差で切りつけた。吉良は不意を討たれて額と背中を斬られるが梶川が長矩を押さえ、近くに居た高家の品川伊氏、畠山義寧らが吉良を運び去ったために刃傷は失敗に終わった。

長矩は身柄を拘束され目付多門伝八郎重共らの取調べを受けた。事件はすぐに綱吉にも報告された。綱吉は激怒したが、尊王心が厚い綱吉らしく儀式の場所を変更し、ほぼ予定通り式次第を進行させた。そして、午後1時ごろ長矩は奏者番田村右京大夫(陸奥一関藩主)邸へお預けとなった。

綱吉は大事な儀式を台無しにしたことで怒りが収まらなかった。じつは、綱吉は徳川十五代将軍の中で一、二を争うほどの秀才であり、尊王心も厚いが、癇癖症でもあった。綱吉は長矩の即日切腹、赤穂藩の取り潰しを即決した。これは異例のことである。殿中で刃傷に及んだとはいえ、仮にも5万石の大名である。目付多門伝八郎も取り調べの必要を訴えたが、綱吉は聞く耳を持たなかった。

長矩を預けられた田村右京大夫もまさか即日切腹になるとは思ってもいず、幽閉の準備をしている最中に上使が到着、長矩の切腹と改易を宣告する。午後5時ごろ田村邸において大目付庄田安利、目付多門伝八郎、同大久保権左衛門らの立会いで切腹して果てた。


なぜ刃傷に及んだのか~ 次回の歴史夜話54ではそれに触れてみよう。

2016.07.30   えんてつ   編集

えんてつ さん

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IPSでも良いのでしょうけれど、山中教授のユーモアセンスでしょうか(*´▽`*)

54話で、松の廊下の真実が暴かれるのですね。
陰湿なイジメではなかった?




2016.07.30   麦   編集

麦さん、こんにちは。

お江戸のお天気はどうですか~?
きょうは都知事選挙の投票日ですね。


では、歴史夜話54です。
さてさて、真実やいかに・・・・・



昭和36年の古い歌で真山一郎の名曲「刃傷松の廊下」というのがある。この歌の歌詞のなかに「君君たらずとも臣は臣」というのがある。これは簡単に言えば「主君が愚かでも臣は忠義を尽くすべし」ということで江戸時代の儒教精神のなかの「士道」の教えを表している。

江戸時代の儒学者であり軍学者でもあった山鹿素行は朱子学を批判して赤穂藩に預けられた。そこことから赤穂藩では山鹿素行の思想が浸透するということになった。大石内蔵助が吉良邸へ討ち入ったときに合図したのも山鹿流の陣太鼓だった。

歴史夜話54
浅野内匠頭長矩が刃傷に至った原因についてはいろいろといわれている。ただ後世伝わっているものは、赤穂浪士を美化する観点に立っているので吉良上野介を悪者にする流れになっている。

まず浅野家が吉良家に対しての贈答をケチったことから、吉良が長矩に意地悪をして饗応のノウハウを教えずに辱めたという説だ。大方の忠臣蔵ドラマの筋書きだにみられる。しかし、田沼意次の登場する話題でも書いたとおり、贈答はこの時代の当然の風習であり、浅野家が格段に落ちる贈答しか行なわなかったというのも考えにくい。ただし、吉良は強欲であったのも事実であり、そういう意味では浅野家の心使いが少なかったといえるのかもしれない(笑)。

また、饗応のノウハウについては、長矩は天和3年に一度饗応役を無事に努めているので、中身を全く知らぬはずはなく、万一、覚えていないにしても屋敷にはそのときの記録なども残っているはずで、調べれば済むことも多くノウハウを教えなかったからというのもおかしい。

次に赤穂で行なわれている塩田による塩の製法を吉良が知りたがったのに教えなかったことから対立したという説がある。赤穂は上質の塩の産地であったが、吉良も自領の三河で塩田をもっており、赤穂の塩の質の良さに驚いた吉良が塩の製法を教えて欲しいと迫ったということになっている。たしかに赤穂の塩は老中柳沢吉保を介して将軍綱吉の歯磨用焼塩を一生涯献納して将軍家御用立になって、江戸での販売許可を獲得していた。しかし、三河で塩田が盛んになるのはもっとのちのことで、このころは塩田はまだ細々としたものだった。

次に吉良が長矩の正室阿久里に横恋慕したとか、さらには吉良が浅野家秘蔵の茶器を望んだとかいう説もあるが、いずれにしろ長矩の取調べは行なわれず真相はわからない。ただ、長矩は生来短気な性格で、感情が激すると胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という病気を持っていたとされる。おそらく精神的な病気であり、ストレスがたまりやすい人間であった可能性がある。長矩の母方の叔父・内藤忠勝は1680年の四代将軍家綱葬儀中に永井尚長に
対して刃傷に及んで切腹・改易となっていることから長矩の奇行は母方の遺伝子だという説もある

この悲劇ドラマの藩主とされる長矩だが実際は暴君でもあったらしく、領民には重税を掛け、年貢も厳しく取り立てたために、お家断絶、長矩切腹の報が伝わると領民は喜び赤飯を炊いて祝ったという記録もある。もっとも財政難の赤穂藩のこと、ある程度の苛政は致し方がなかったかもしれない。しかし、ここまで嫌われていたということだと忠臣蔵のイメージとはかなりかけ離れる。

さらに現場における刃傷の際の長矩の手際の悪さもひどいものだ。脇差とは本来突くためのもので、体ごとぶつかっていくべきが、それを刀のように振り回したのだから討てるはずがない。


実は、長矩が松の廊下で吉良に切り付けた時、後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)という人物いるが、この事件の一部始終を書き残したものが「梶川氏筆記」として残されている。

重要な部分を抜き書きすると・・・・・
内匠殿がこちらに参られたので、「私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます」と申しました。内匠殿は「心得ました」と言って本座(所定の場所)に帰られました。

その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし、吉良殿に「その件について申し伝えるように」と話すと、吉良さんは「承知した」とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が「今日、御使の時間が早くなりました」と一言二言言ったところ、誰かが、吉良殿の後ろより「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて切り付けました。その太刀音は、強く聞こえましたが、後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ。

私たちも驚き、見ると、それは御馳走人の内匠頭殿でした。上野介殿は、「これは」と言って後の方へ振り向かれました所を、また、内匠頭は切り付けたので、上野介は私たちの方へ前に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られました。

上野介殿はそのままうつ向きに倒れられました。
吉良殿が倒れたことほんとうにびっくりした状態で、私と内匠頭との間は、二~三足ほどだったので組み付いたように覚えています。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめました。

内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
その時、内匠殿が言われるのは、「上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり」ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされていました。
刃傷事件のあった後なので、咳き込んで言われるので、ことのほか大声でした。高家衆はじめとり囲んで連れて行く途中、「もはや、事は済んだ。お黙りなされよ。あまり高い声では、如何かと思う」と言われると、その後は言わなくなりました。

この時のことを後に思い出して考えると、内匠殿の心中を察し入る(同情する)。吉良殿を討ち留めされなかったことは、さぞさぞ無念であったろうと思います。誠に思いもかけない急変だったので、前後の深い考えも及ばず、上のような取り扱い(抱き止め)をしたことは是非も(仕方が)ありませんでした。
とは言っても、これらのことは、一己(じぶんだけ)のことで、朋友への義のみです。上へ対してはかのような議論には及ばないのは勿論ですが、老婆心ながらあれこれと思いめぐらすことも多くあります。」

ということで、現場においても明確な理由は言わなかったようです。

次回の歴史夜話55は赤穂浪士の討ち入り現場を覗くことにしましょう。

2016.07.31   えんてつ   編集

えんてつ さん

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雨の噂もありましたが、傘の要らないニワカ雨程度で、投票率に影響はなかったようですね。
結果は、外出先にてスマホで知りました。


梶川与惣兵衛頼照氏による「梶川氏筆記」でも、明確な理由は分からないということですね。

このごろ、歴史に残るような凶悪事件がありますが、精神的な病によるものが多いことを、重ねて思わされます。

2016.08.01   麦   編集

麦さん、こんばんは。
都知事選は小池さんの圧勝でしたね。
首都の知事さんになったからは都民本位の行政に邁進して欲しいですね。

このところ4~5日ごとにブル-ベリ-を収穫していますが、なんとワン公たちも大好きなようで一緒に収穫しています。


では、歴史夜話55を送ります。


討ち入り当夜、浪士たちは「鎖帷子(くさりかたびら)」を着込んでいた。鎖帷子は小さな鎖が服に縫い付けてあるだけの薄い防具で、物理的に刃との接地面を増やすことで刀の衝撃を上手く吸収する構造になっていた。また、槍や刀などの武器も室内での立ち回りを考慮して短くこしらえていた。

そして、討ち入った47人中10人が50歳以上と年配者の多い浪士が、剣客が揃う吉良家の警備隊に太刀打ちするために、浪士達は「一向二裏(いっこうにうら)」という戦法で戦いました。一向二裏とは、三人一組で、一人が正面から戦っている隙に、残りの二人が背後に回り込んで攻撃するという戦法です。

歴史夜話55
赤穂浪士の討ち入りは1702年(元禄15年)12月14日だったが、これは陰暦で現在の太陽暦では1月30日に当たる。まさに厳冬期だった。

松の廊下の変事の江戸からの第一報は、元禄14年3月19日の早朝、大石内蔵助の屋敷に早駕籠が江戸から到着した。乗っていたのは早水藤左衛門と萱野三平。彼らが持ってきたのは江戸城中で殿様が傷害事件を起こしてしまったというニュースだった。その後続報を原惣右衛門と大石瀬左衛門が持ってきて、とにかくだしぬけに殿様切腹、家は断絶、城地没収、殿様の喧嘩相手はおとがめナシと聞いて、城内は悲憤慷慨となった。

とにかく赤穂の国元では最初状況がわからず、その後取り潰しの報が伝わると藩内は騒然となった。やがて続々と様子が伝わってくるに従って抗戦派と開城派に分かれた。広島の浅野宗家からは使者が来て穏便に城を開け渡すように言ってきたし、親戚筋の三次藩浅野家や大垣藩戸田家からも同様の使者が来た。

内蔵助はまず藩の資産を藩士達に分配するが、ここで不忠者はカネを持って城下を去る。そして300人以上いた家臣たちも最後の評定の時100人以下になっていた。ここで内蔵助は初めて自ら復讐のことを申し出たと言われている。

そして最後は筆頭家老大石内蔵助良雄の決断により開城となる。大石はこの時、お家再興を目指し、仇吉良上野介を討つとの方向で抗戦強硬派を説得し、起請文をしたため、一同これに血判の上赤穂城を明け渡しに同意した。やっとのことで無血開城にこぎつけた。

5月22日残務が終わった内蔵助はその後京都山科村に引っ越しした。 山科での内蔵助は高利貸しをしたり、伏見、墨染、撞木町で太夫、幇間に取り巻かれ遊興三昧をした。周囲は彼のそんな姿を見て「犬侍ちくしょう武士」とあだ名し、侮蔑した。しまいに内蔵助は「遊女を身請けするから」と言って妻のりくを離別し実家に返した。

石内蔵助の妻りくは但馬の生まれで、豊岡藩主京極家の筆頭家老石束家の娘ということで浅野家 取り潰し後、夫妻の長男 大石主税良金は内蔵助と共に吉良邸に討ち入りますが、幼い弟妹たちは りく に連れられて豊岡に戻ります。しかしこれは敵を欺く計略でした。


その後、内蔵助は二条寺町のほとり、二文字屋のお軽という娘を妾にする。千坂兵部が放った吉良上杉の間者も「妾まで置くようではもう大丈夫」と油断させました。しかし、敵の目をあざむくと同時に江戸にいる仲間達、特に急進派の堀部安兵衛たちをもいきりたたせることになりました。

このころ内蔵助のあだ名は「昼行灯(ひるあんどん)」だったらしい。現役のときは「ご城代」そして「ご家老」、浅野本家筋からは「くら殿」 と呼ばれていた。開城のころからは「太夫(たゆう)」「大府(たいふ)」「ご頭領」と呼ばれた。

城明け渡しがあんまり無抵抗ですんなりだったことや山科での廓通いが過ぎた頃になると事情を知る民衆も大石をもじって「かるいし」「はりぬきいし」そして「内蔵助ではのうて放蕩(どら)の助じゃ」とあだ名して、「赤穂じゃのうてあほう浪人、大石軽くハリヌキ石」だと揶揄された。

しかし、これまで殿様の後釜に引っ張り出そうとしていた弟君の大学が7月になって「広島の本家にお預け」と決定され、お家再興の望みが絶たれると内蔵助は、京都の円山に上京中の安兵衛たちも呼び、あらためて討ち入り決行をメンバーに告げる。(円山会議)

内蔵助は妓楼では「うきさま」「うきだいじんさま」、そして 絵を描いたりするときの雅号は「可笑」「眠牛」とか、とにかく池田久衛門を名乗って京都山科で隠れ住んでいた。11月に一度江戸下向して安兵衛たちと会い、暫定的に「殿の命日3月に決行」と取り決めたものの、翌・元禄15年、約束の期日が過ぎても内蔵助は動きません。

いよいよ10月7日、内蔵助は京都を出立、垣見五郎兵衛と名を変えて江戸に向け下向した。途中、川崎・平間村に到着し、同志が代わる代わる内蔵助を訪ねては密議を重ねた。この時は瀬尾孫左衛門の名を語っていた。とにかく大石内蔵助を名乗ることはなかった。

そして浅野長矩が切腹して1年半後、1702年(元禄15年)12月14日大石内蔵助と赤穂浪士の一行は江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、見事吉良上野介の首級を挙げて仇をとった。この仇討ちは義挙とされ、幕府も赤穂浪士の助命に動く。将軍綱吉ですら助命に傾いたという。しかし助命すれば先の切腹が間違いであるということになって、綱吉に傷がつくことや赤穂浪士の今後のことを考えて切腹の沙汰となった。

一方、刃傷のときは場所柄をわきまえて手向かいせずお咎めなしであった吉良側は改易となり、当主吉良義周は諏訪に流された。

なお、討ち入り参加した47名以外にも赤穂藩士は大勢いた。取り潰される前の赤穂藩には約3百名の家臣がいたとされるから、大半は討ち入りに参加しなかった。この不参加組はかなり悲惨であったという。武士の風上にも置けぬものとして幕末までその子孫は批判にさらされ、ほとんどのものが変名で暮らしたという。

また、広島の浅野宗家は当初係わり合いを恐れて赤穂の無血開城を進めたりしたが、討ち入り後は掌を返したように宣伝に努め、内蔵助の遺児大三郎良武を1千5百石で召抱えている。

また、この事件で浅野長矩の弟大学長広は閉門処分となったし、長矩の正室阿久里の実家三次藩浅野家も蟄居となった。それから吉良上野介の子綱憲が養子に行った米沢藩上杉家であるが、綱憲は吉良邸討ち入りの報に接すると直ちに助太刀を考えたらしい。大石内蔵助も上杉の助太刀を相当警戒していた。しかし実際には上杉の親戚筋の高家畠山義寧がこれを止めに入り、上杉の助太刀はかなわなかった。

映画やドラマでは内蔵助と家来達は威風堂々と派手な火事場装束を纏って吉良邸に討ち入ったことになっているが、本当は百全員がめだたないツギのあたった着物の大工・町人姿であり、討ち入りの後、泉岳寺へ向かう途中に住民が歓声を上げたなどというのも、当日は大名の登城日であり、それを避けて裏道を通って泉岳寺へ向かっている。江戸の町民は誰も見ていないのだ。

大石内蔵助の辞世
「あら楽し(楽や) 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」 享年45歳 。


最後に、浅野内匠頭の家臣は、主君が吉良を斬った理由について心当たりがあったのだろうか? 吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の手になる文書が今に残されている。

大石内蔵助たちが書いた口上書には、
「去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀につき、意趣を含み罷りあり、殿中に於いて、忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候・・・・」とあり、主君が吉良を斬りつけた理由については「何か我慢できないところがあったのか」と、やはり家臣ですら肝心なことがよくわかっていなかったようだ。

次回歴史夜話56は、萱野重実(かやのしげざね)を取り上げて忠臣蔵を卒業することにしよう。彼は、江戸で起こった返事を国元に最初に伝えた人物であったが、同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになり、1702年(元禄15年)1月14日、主君の月命日を自分の最期の日と決め、京都の山科の大石内蔵助に遺書を書き、その中で同志と共に約束をはたせぬ罪を詫び、かつ同志の奮起を祈る心を述べ自刃した。享年28歳だった。

2016.08.01   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

圧勝での当選は、意義が大きいですね。
一都民、期待してます。

あら、ぜいたくなワンちゃんですね~! (*'▽')


暑さ疲れか、加齢のせいか、最後まで読み終えないで目が閉じています(^▽^;)
思案の末、文字を大きくしたら読みやすくなったので設定を変更し、記事のほうも大きな文字にしました.

2016.08.02   麦   編集

麦さん、こんにちは。

歴史夜話から終日話へと変貌しつつありますが、100話のゴ-ルの信ぴょう性を保つためにも、心は大急ぎになってしまいます(笑)。そしてだんだんと麦さんのお好みから遠ざかるような内容になっている気がしています。

とにかく・・・・・歴史夜話56です。



関ヶ原から100年、元禄時代の武士たちはその時代の文化人となっていた。萱野三平重実は俳号を涓泉(けんせい)と言った。播州赤穂藩の武士で浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こしたとき江戸から赤穂へ第一報を伝えた人物だったが、討ち入りに加わることなく若くしてこの世を去った。

歴史夜話56
浅野長矩が事件を起こした日、菅野三平は、早水藤左衛門と共に主君の刃傷事件を赤穂に知らせる第一の使者となって、早駕籠に乗った。この早駕籠の使者というのは命懸けのものだった。乗り心地の良さなどはぜんぜん皆無であり、乗り手は振り落とされないように必死につかまっていなければならなかった。

実際、三平と早水は途中で数回、駕籠から振り落とされてしまったという。それでも、この報はすぐに赤穂に知らせなければならなかった。刃傷事件となれば、お家取り潰しという処分も可能性がある。主家がお家取り潰しなるということは、赤穂藩士全員が所領を召し上げられ、浪人に身を落とすことを意味していた。彼らは不眠不休で155里(約600km)の道のりを突っ走り、驚異的な早さで3月19日未明に赤穂に到着した。疲労困憊、息も絶え絶えの状態であったが、すぐに国家老(筆頭家老)・大石内蔵助良雄にこの凶報を伝えた。

早駕籠で赤穂へ急ぐ途中、西国街道沿いの三平の実家の前を通ると、そこで母の葬儀が行われているのを目にした。なんという不幸な偶然だった。三平は重大な任務の途中であった。主家を失う悲しみの報告の途上に、今度は母を失った悲しみを背負ってしまった。三平は「母をひと目遭ってから」という友の言葉に耳を貸さず、一路赤穂に向かった。母の死に際して心に悲しさを感じない、という者は一部の例外を除けばまずありえない。

旧西国街道は今はR171となっている。箕面市萱野3丁目のR171沿いに「萱野三平記念館・涓泉亭」という旧家を利用した記念館がある。萱野三平の父は江戸幕府旗本大島氏に仕えていたが、三平は12歳のとき父のすすめと大島氏の紹介で赤穂藩へ出仕した。

江戸も元禄期になると松尾芭蕉や井原西鶴に代表される著名な俳人が活躍した。東の芭蕉に対して、西の鬼貫と称される伊丹の上嶋鬼貫を始め、水田西吟、厚東休計、萱野一族でも三平の叔父の藤井家房、従兄弟の水仙堂蘭風(藤井光貞)、兄の萱野紅山(重通)、義兄の北河原好昌等が活躍した。

幼い頃から俳人に囲まれた育った三平は、12歳の時に父のすすめで赤穂藩へ仕官した。そして主君浅野内匠頭の参勤交代に同行し、江戸では、松尾芭蕉と親交が深かった水間沾徳の指導を受けていた。後年、討ち入りという勇ましい武士の姿の影に隠れているとはいえ、赤穂藩士の多くは俳人としても活躍していた。中でも子葉(大高源五)、竹平(神崎輿五郎)、涓泉の技倆(ぎりょう)は特に優れ、当時の俳諧人の間で広く認められていた。

1701年(元禄14年)3月14日の「江戸城松の廊下」での刃傷事件が、俳人「涓泉」として大成するはずであった三平の運命を変えてしまう。内匠頭の切腹、お家断絶、赤穂城明け渡しなど、厳しい幕府の処分を受けた後、三平は仇討ちの時を待つため、萱野の実家へ帰っていた。このとき三平の父は、赤穂浪人の立場をすてて旗本大島氏に仕えるように希望した。

元禄14年秋、三平のところへ大高源五が訪ねてきた。今は浪人の身となった三平と源五でしたが、一緒に、勝尾寺や箕面大滝で遊んだ後、桜塚(現、豊中市)に住む西吟や伊丹の鬼貫のもとを訪れるなど、俳人仲間を訪れました。もちろん源五が三平に会いに来た最大の理由は、仇討ちの急進派であった三平をなだめることでした。仲間と共に殿の無念を晴らすことが三平の生きがいでした。

ところが、源五と会ってわずか2~3か月後の元禄15年1月14日、三平は自宅長屋門の一室で27年の人生に自ら終止符を打ちました。仇討ちに反対し、武士として新たな出仕を願ごうた父重利に対する親孝行の思いと、主君浅野内匠頭への忠義や同志との絆の板挟みになったことが、その理由であったと伝えられている。

歴史に 「もしも」は禁物ですが、浪人となった27年の短い一生の間の、俳人として活躍した期間はさらに短いものでしたが、多くの優れた俳句を残した「涓泉」でした。元からの赤穂藩士の家柄でなかったことから父は他家への仕官を望んだのでしょう。しかし12歳で初めて藩士として仕えた初心は、藩主への忠誠であったことは事実でした。

後の人々は萱野三平のことを48番目の義士と呼びました。

萱野三平辞世の句 「晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り」 涓泉 享年28歳

2016.08.02   えんてつ   編集

えんてつ さん

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いよいよ56話で、目標の100話はゴールまでの頂上を越えましたね(*^-^*)

お送りくださるほうも、受け取るほうもマイペース(≧▽≦)

大きな文字でまとめてありますので、時間のある時、ゆっくりと読ませていただきますね。

2016.08.03   麦   編集

麦さん、こんにちは。 大きな文字はいいですね!

100話まであと44まで来ましたね。ということは、一日一話のペ-スであと44日・・・・9月16日頃ということになります。
ところで、9月中旬からしばらく歴史夜話から離れるので・・・・果たして微妙な流れです(笑)

では、歴史夜話57を送ります。



わたしは携帯電話を持っていないので、外出中は音信不通になる、重要なことはいちいち顔を合わさないと確認できない、あえて言えばアナログ人間だ。娘にいわすれば、いまどき信じがたい人間だということらしい。

江戸時代、庶民にとって長期の旅に出ることは半ば命懸けだった。旅先で不慮の事故に遭遇すると実家のほうに情報が伝わらないことが普通だった。それゆえ、いろんな不都合が発生した。

寛政年間の見聞を記録した「梅翁随筆」に登場する出来事をたどってみよう。

歴史夜話57
1798年(寛政10年)のこと、深川の材木商が大和地方を旅することになり、奉公人ひとりを供に従え、午の年の春なかば過ぎ、江戸を出立した。金沢八景、鎌倉、江の島に立ち寄ったあと、箱根にさしかかると、山道のかたわらの大きな石に、真っ裸の男が放心状態で座っている。

材木商は不審に思い、「いったい、どうなさったのですか」と尋ねた。男は答えて言った。「芝あたりの者でございますが、刻限を取り違えて、うっかり夜がふけてからこのあたりにさしかかったところ、四、五人の男に取り囲まれて、荷物から衣装からすべて奪われてしまいました。湯治にまいるところだったのですが、思わぬ災難にあってしまい、どういたらよいものか途方に暮れております」

材木商はいたく同情して、「旅は相身互いでございます。あたくしは大和廻りを志す者ですが、それも来世を願わんがため。人の災難を救うのも善根を積むことになります。予定の通り、このまま湯治に行くがよろしいでしょう」と、自分の着替えの衣類一式と、かなりの金額を渡した。

男は感激して、ぜひ住所と名前を教えてくれと願う。材木商もはじめは明らかにしようとしなかったが、男があまりに懇願するため、金を包んだ紙に住所と名前を書いてやった。
「後日、江戸に戻ってから、必ずお礼にうかがいます」何度も頭をさげたあと、男は材木商と別れて、温泉場に向かった。

ところが、宿に着いたその日の晩、男は頓死してしまった。 宿の者が遺体をあらためると、深川の住所と屋号を書いた紙が出てきた。そこで、宿では使いの者を江戸に派遣し、深川の材木商を訪ねさせた。主人が旅先で急死したという思いがけぬ知らせに、みな驚愕した。誰もが半信半疑だったが、ともかく、手代のひとりを箱根の温泉場に向かわせた。

手代が遺体をあらためたが、すでに仮埋葬されていたため顔などは腐敗が進んでいて見分けられない。ただ、身につけていた着物は主人の物に間違いなかった。「供の者がいたはずですが」「いえ、おひとりでしたよ」、手代は、その宿の者の答えに納得がいかなかったが、供の奉公人は逃げたのであろうと判断した。そこで、「あたくしどもの主人に間違いございません」と、身元を確認した。その地に遺体をあらためて本葬したあと、手代は形見の衣類などを持って、深川に戻った。

手代からいきさつを聞き、誰もが嘆き悲しんだが、とくに女房の悲しみはひとかたならず、出家して尼になると言い出した。そこで、親類縁者が集まって相談し、「子供は七歳の娘を頭に、男子はまだ幼い。このままでは、店の存続はおぼつかない。さいわい、筆頭の手代は実直者だ。手代を婿に迎え、子供の後見人とするのが家内繁盛のもといである」と、女房を説得した。ついに女房も、筆頭の手代を婿に迎えることを承知した。この婚姻は町内にも披露目がなされた。

いっぽう、大和を旅していた材木商はついでに四国、中国地方にも足をのばし、およそ百日を経て江戸に戻ってきた。すると、女房は自分が死んだものと思って、手代のひとりと再婚しているではないか。材木商は愕然とした。だが、いきさつを知るや、「これも前世の因縁であろうよ」と、いさぎよく隠居して身を引き、別宅で余生を送った。

2016.08.03   えんてつ   編集

えんてつ さん

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大きな文字で、いつでも読めるように転記してあります。
100話が目標? 目的? の ブログジャック (*^^*)
年中無休のブログですので、マイペースでどうぞ!

57話は、通信手段と材木商の心意気と、テーマが二つになりますね。

2016.08.04   麦   編集

麦さん、こんにちは。

きょうも暑いですwwwww

100話は目標です!
目的は秘密です(笑)


では、58話に進みましょう。


十代目金原亭馬生は、1928年(昭和3年)落語の名手といわれた古今亭志ん生の長男に生まれ、14歳で父の志ん生に入門、二ツ目・むかし家今松から出発し、古今亭志ん朝を経て、古今亭志ん橋で真打に昇進、1949年(昭和24年)10代目馬生を継いだ。俳句や書画を嗜む古典落語の正統派で、昭和53年から落語協会副会長を務めていたが、1982年、54歳で早逝した。

茗荷を食べると「もの忘れがひどくなる」という俗説から、茗荷は落語にも登場する。 むかし、 釈迦の弟子で禺鈍第一の周到槃特(しゅりはんどく)の塚から生えた草を鈍根草と名付けた。槃特は、自分の名も覚えられないで、その名を書き付けた物を荷(になって歩いたというので、名を荷う・・・つまり、名荷とは鈍根草のことだという。その後、名荷は茗荷になったとのことだ。

落語の始まりは戦国時代、武将の話し相手をしたり、世情や知識を教えた「御伽衆」が起源だという。

歴史夜話58
十代目金原亭馬生の噺(こばなし)に、「茗荷宿(みょうがやど)」というのがある。
 
飛脚が京都と江戸の間を月に三度往復するという凄腕(足)の者も居た。しかし、生身の人間だから間違いもあって、石につまずいて走れなくなってしまった。その上、雨も降ってきて次の宿までは行くことが困難であった。薬はあるから明日になれば治ってしまうのだがと、見回すと旅籠・茗荷屋と看板が掛かった家があった。ここ間宿(あいのしゅく)で一晩を過ごすことにした。

戸を叩くと、真っ暗な宿の中から、気のない返事が聞こえてきた。お客だと分かりガラリと態度が変わった。奥様も同じように最初は信じられなかった。すすぎ水で足を洗うと腫れた足が出てきた。持ち合わせの薬をドンブリから出して練ってもらって足首に手ぬぐいで縛った。風呂も入らないで、食事をしてすぐに寝るから、この挟み箱を預かって欲しいと言った。重いので聞くと50両が二つ入っているという。

飛脚は何でも食べるというので、物忘れがして100両忘れていったら良いとの思いで、屋号にちなんで茗荷をたらふく食べさせることにした。茗荷ならいくらでも生えているし、ダメで元々、食べてもらうことにした。

茗荷の漬け物から出して、美味と誉められた。味噌汁の具も茗荷、甘酒の中にも茗荷が刻んで入っている、飯の中に茗荷が入った茗荷ご飯、いくら茗荷が好きでもここまで来ると・・・。でも、たらふく食べて朝を迎えた。

 「おはようございます」、「おはよう。何だか朝からポ~っとしているんだ」、その言葉に喜ぶ親父。急いでいるから早く食事にしてくれと頼むと、茗荷の味噌汁から始まって全て茗荷料理。お客が出発だからと奥様をせき立てるとポ~っとしている、「だって、残り物の茗荷料理、勿体ないからみんな食べちゃったから」、「お前は食べなくても良いんだ」。

「新しいワラジも出しておきましたので、道中お気を付けて」、無事送り出した。案の定挟み箱を忘れていった。夫婦揃って喜んでいると、飛脚が戻ってきた。忘れ物の挟み箱を受け取ると一目散に走り去った。「何か忘れていった物は無いかね」、「あぁ、宿賃もらうのを忘れた」。

2016.08.04   えんてつ   編集

引き続いて、歴史夜話59を送ります。

この話は、実は20話あたりで登場する予定でしたが
失念していたものです。

愛媛県の松山は45歳のころにひと月ほど現地出張したことがありました。懐かしいところです。



現役時代に愛媛県松山市に何度か通ったことがある。もちろん仕事である。松山市には大きな繊維会社数社の工場があった。あるとき、先方の方から道後温泉を紹介されて立ち寄ったことがあった。

道後温泉は、その昔、足に傷を負った一羽の白鷺が、岩の間から湧き出ている温泉を見つけ、傷を癒やした事に由来している、と書かれている。そして、国主命が重病の少彦名命を入浴させたところ快癒し、「玉の石」の上で舞ったと伝えられている石がある。

歴史夜話59 
いまから約380年前の1635年(寛永12年)に、松山藩主となった松平定行は、道後温泉の施設充実に着手して、地方から来湯する僧侶や、婦人、庶民男子などが入浴出来るように浴槽を整備し、入浴料をとる管理方法で温泉経営を始めた。

この道後温泉は白鷺伝説から3000年の歴史があり、西の有馬温泉、東の草津温泉と共に日本三最古(名湯)温泉の一つと言われている。多くの偉人・文人墨客が来湯している。とくに俳人小林一茶は,2度にわたって伊予路を訪問し、「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉」という俳句を残しているが、のどかな道後の旅情がうかがえる一句である。

観光記事でよく登場する道後温泉本館は道後温泉のシンボルであり、1894年(明治27年)に建てられた。木造三層楼は、当時でも大変珍しい建築様式だったらしい。完成の翌年に松山中学(現松山東高校)へ赴任してきた文豪・夏目漱石も幾度となく通ったと言う。平成6年に,この本館が国の重要文化財に指定され,日本の貴重な建物となった。

松山市には温泉と並んで松山のお城がある。松山城の最初の創設は加藤嘉明である。嘉明は1563年(永禄6年)に三河国(今の愛知県)永良郷加気村に生れた。父広明は徳川譜代の武士であったが、嘉明が6才の時に美濃国(今の岐阜県)で死去している。その後、羽柴秀吉に見出されて秀吉の家臣となった。

20才の時に、賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人として武勲をたてた。その後、従五位下左馬介に補せられ、伊予国正木(伊予郡松前町)6万石の城主に封じられた。1592年(文禄)・1597年(慶長)の役には海を渡り、九鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し、その功によって10万石に加増された。

 そして、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった。そこで嘉明は1602年(慶長7年)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に「足立重信」を命じて地割を行ない工事に着手し、1603年(慶長8年)10月に嘉明は居住地を新城下に移し、初めて「松山城」という名称が披露公表された。

その後も工事は継続されたが、時間が掛かり、なんと24年後の1627年(寛永4年)になって完成した。当時の天守閣は五層で見事な偉観を誇ったと言うが、なんとその年に嘉明は会津へ転封された。嘉明の松山時代は25年におよんだ。

その後へは蒲生氏郷の孫の忠知が出羽国(山形県)の上の山城から入国し、二ノ丸の造築を完成したが、1634年(寛永11年)8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没した。嗣子がなかったので家は断絶となった。その後,1635年(寛永12年)7月伊勢国(三重県)桑名の城主「松平定行」が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至っている。

天守閣は1642年(寛永19年)に五層から三層に改築されたが、1784年(天明4年)元旦に落雷で焼失した。1820年(文政3年)から再建工事に着手し、35年の長き歳月を経て1854年(安政元年)に復興している。

 昭和に入り,小天守閣やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失したが,昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められた。「松山城」は海抜132mの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(堀の内)置く広大な規模を誇る。これは姫路城・和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城である。

 「松山城」は廃藩置県により兵部省の管轄となったが、城郭廃止の令により大蔵省の所管となり、大正12年、旧藩主久松平定謨氏より松山市に寄贈された。

2016.08.04   えんてつ   編集

えんてつ さん

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58話 茗荷の落語は、いつかどこかで聞いたことがあります。
忘れっぽいということは、よく言われますね。
試験のときには、母が茗荷を食べないように気遣っていたことが思い出されます。


59話 加藤嘉明とは清正のことかとググってみたら、7本槍には加藤が二人いるのですね。
賤ヶ岳の丘に、7本槍の旗が風に翻っていました。
一本一本、名前を確かめてくればよかったです!

2016.08.05   麦   編集

麦さん、こんにちは。

加藤さんは多いですよね(笑)

いよいよ歴史夜話も60話になりました~♪
60話目は長編なのであとでごゆっくり眺めてください。



賎が岳の戦いは以前に麦さんにお話した記憶がある。60話の節目は賎が岳山頂から景色を眺めながら~の気分で(笑)

天下分け目の戦いというと関ヶ原の合戦を思い浮かべる人が多いと思う。家康の視点からすれば関ヶ原はまさしく天下分け目だといえるだろう。そうした見方でいえば、秀吉にとって賎が岳の戦いは天下分け目の戦いだった。家康はそれなりの富も地位もあったが秀吉はそうではなかった。

賎が岳の戦いのあと秀吉は七本槍の手柄を褒賞した。秀吉はなぜこの9人のみに一番槍の感状と3千石の領地を与えたのであろうか。この9人の者は、ほとんど子飼いの小姓達で秀吉が日頃から目をかけ、将来股肱の臣としての大きな期待をかけていた者達ばかりである。この機会に戦功を顕彰すると共に、今後への激励でもあった。そして、その通りに賤が岳の合戦後これらの衆は戦功を競うようにして、秀吉のために働いた。

歴史夜話60
賎が岳にたなびいていた七本槍の旗に書かれていた武将たちは、その後の秀吉の時代と家康の時代を担った。

福島正則が秀吉からいただいた一番槍の感状は次のような賞状だった。
「今度三七殿(信孝)依謀濃州大垣令居陣処柴田修理亮至柳瀬表罷出候条為可及一戦一騎懸に馳向之処心懸深候て早懸付秀吉於眼前合一番槍其働無比類候条為褒美5千石宛行訖 弥向後奉公之依忠勤可遣領知者也仍如件  天正11年  6月5日   秀吉(判) 」

正則は七本槍中でも格別に5千石の恩賞を受けた、これはいろいろ異説があり正則は働いた場所が、賎が岳に至るまでの手柄が秀吉に認められたので、七本槍から除くべきであると説かれた資料もある。正則は賎が岳の戦いがはじまる前に軍法を破った罪で、刀・脇指を取り上げられ蟄居を命ぜられていたが、密かに隠出て槍を持って、目覚しい戦いぶりを見せた。秀吉も信長に仕えていた若き頃、同じような経験を持ち、叱られると思った所が信長に喜ばれた事があるので、それを思い表面では叱っていても心の中では喜んでいたのであろうと言われている。槍一本のみで戦ったので、他の七本槍の衆と同じように一番槍の賞を与えた。

正則のあげた首数のうち、大聖寺城主の拝郷五左衛門を討ち取ったのも福島正則という説もあり、拝郷を討ち取ったのは糟屋武則との説もあり明らかではない。福島正則5千石には、同じように槍をもって福島にも劣らぬ働きをした加藤清正らから大変不満の声が出た。正則は秀吉の伯母の子で秀吉と従兄弟に当たり、父は樋屋であった。


加藤清正は秀吉の出陣の下知下るや一番に賤ヶ岳を駆け下り、庭戸浜の上に立ちはだかる拝郷五左衛門に「一番槍」と叫びつつ突っ込んだが、五左衛門に馬上から払いのけられ、たじだじとよろめいたが、再び槍を持ち直し少し離れて、鉄砲に薬を詰めんとしていた拝郷五左衛門の鉄砲頭、礪波隼人を一突にしてその首を討ち取った。
 
清正に与えられた感状も、福島正則に与えられたものと全く同じ文面で、ただ5千石のところが3千石となっているだけである。清正の母は秀吉の母大政所と従姉妹で秀吉と清正は又従兄弟である。父は武士であったが戦いに傷つき武士をあきらめ鍛冶職をしていた。

清正は9歳の時伯父加藤喜左衛門に連れられ、秀吉の元に来た。喜左衛門は秀吉に清正を見合わせ、「甥だが台所に置いて飯食わせて給われ」といって置いていった。以来虎、虎と呼ばれ子供のない政所、ねねに可愛がられ成人した。

片桐且元は、拝郷五左衛門を討ち取ったといわれる。拝郷五左衛門は信長配下では剛勇をもって鳴らし、信長より大聖寺の城主に命じられていた。尾野呂浜近くで五左衛門を見つけた七本槍の面々群がって突きかかっていった加藤清正の槍は一撃ではね除けられ、続いて突いて出た、石川兵助は拝郷五左衛門の突き出す槍に突き伏せられてしまった。

七本槍の面々は、拝郷五左衛門に寄ってたかって右から左から正面からと突いて出る。五左衛門も右に左に払っていたが多勢にはかなわず、力尽きて遂に討たれた。七本槍の面々が一団となって突きかかかって行ったのであるから、誰の槍にかかったかは明確でなく、片桐且元に討たれたとも言われているが、いや福島正則だ、いや糟屋武則だと説はまちまちだ。

且元の一番槍の感状も清正らと同じ文面である。且元の父孫右衛門直貞は近江の出身で、浅井長政の家臣であった。須賀谷に屋敷を持ち且元も弟の貞隆もここで生れたが、片桐直貞は姉川合戦後浅井を見限り織田に寝返り、秀吉の配下になった。したがって且元も幼名を助作と呼ばれ、弟貞隆と共に子供の頃から秀吉に仕えていた。賤が岳の戦功をはじめ、その後の戦功により豊臣家の家老にまでなったが、方広寺の鐘銘問題などから徳川家康と淀君の中に挟まれ不幸な最後を遂げた。

脇坂安治は槍をもって群がる敵の中に飛び入り、十字の長柄の槍を縦横に振り廻し、賤が岳山頂から見ていた秀吉の目を見張らせたという。柴田勝家の城下福井県勝山市を訪ねると、勝政は脇坂安治の槍にかかって死んだという説が一般的である。

 一番槍の感状は他の者と同文である。脇坂安治は東浅井郡脇坂村(湖北町丁野)の出身で代々京極家に仕えていたが、父戦死後16歳の時信長に仕え、明智光秀の配下に置かれたが、更に信長より秀吉の配下に廻された。終身3万石程度の小大名に終わったが、最後は播州竜野城主となり、脇坂家は明治まで続いた。


糟屋武則は、清水谷近くで桜井佐吉が宿屋七左衛門と戦っていたが、佐吉次第に追い詰められ、あわや宿屋の槍に突かれようとした時、横から糟屋武則突いて出、桜井を助けて宿屋七左衛門を討ち取ったという。

秀吉の一番槍の感状の文面は同じだが、8月になって「播州賀古郡内2千石、河州河内郡内1千石、都合3千石事、目録別紙相副令扶助畢 永代全可領地候 如件 加須屋助右衛門殿」という書付を秀吉からもらっているので、領地は播磨、加古川で3千石を与えられた。関ヶ原の合戦の時は西軍についたため領地を没収されたが、子孫が江戸幕府に小禄で起用され、その時姓を糟屋と改めたので、賤が岳合戦の時の正しい姓は加須屋と書くのが正しい。


加藤左馬助嘉明は槍一本で功名をたててきた戦国武将で賤が岳合戦にも槍をもって功を立てた。しかし、具体的には誰の首を取ったというようなことは、どの資料にも出ていない。

秀吉一番槍の感状は他の者に同じである。嘉明は三河の長良に生れ、秀吉に使えたのは15歳の時であった。父加藤藤三之丞朝明は美濃斉藤氏に仕えていたが斉藤氏滅亡のあと、徳川氏に仕えたが、その後秀吉に仕えた。嘉明ははじめ秀吉の養子秀勝に配されたが許可なく勝手に抜け出し、秀吉の兵に混ざっていた。秀吉も仕方なく配下にした。以来秀吉の期待を裏切ることなく、秀吉の行く所必ず嘉明あって戦功を高めた。清正と同じ加藤なので何らか血縁的に関係があるのかと思う人もあるが全くの別人である。

平野遠江守長泰も賤ヶ岳で一番槍の賞を受けたとのみで、どのような働きをしたのかについては何の記録も残っていない。むしろ弟の長重の方の記録が残っている。盛政の軍散々に敗れ、今は防ぎようもなくなったとき、政盛配下の山路正国、浅井吉兵の二人は清水谷を余呉の方に落ちんとした。これを見つけた平野長泰、渡辺勘兵衛、浅井喜八郎らは、大音声にて「見知りたるぞ、返して勝負あれ」と叫ぶと山路ら「おぅー」と言って引き返してくる。

山路正国の一族は正国が盛政に通じた罪で全員捕らえられ、逆さつりにされ堂木山で殺されているので、恨み骨髄に徹し、弔い合戦とばかり、死を覚悟で縦横に斬りまくったので、秀吉方の兵どれだけを斬ったか数えられなかった。もはや首を取って手柄を立てる気もなく、恨みだけが一念で朝より手当り次第に斬ってきたのである。しかし、体は疲れはて今は歩くがやっとであった。そこを数人の者で突いて出たので、最後の力を振り絞って太刀に手をかけ、岩の上に足を踏ん張った途端、運悪くも谷下に逆落しに落ち、半死の状態の所を谷下にいた大塩金右衛門の手の者に首を取られた。

長泰も秀吉から同じ一番槍の賞状はもらったが、その後他の同輩は戦いの度に功をあげ10万石20万石と稼ぎを重ねていくのに、長泰だけは功もなく禄も5千石止まりで秀吉の最盛期にも加増されることはなかったので、賤ヶ岳の合戦は怪我の功名でなかったのかと悪口をいう人もある。

石川兵助は秀吉の旧臣で賤が岳合戦には秋田助右衛門と共に旗奉行を勤めていたが、加藤嘉明に思いをかけていたが、出陣に当り自分の冑を脱ぎ嘉明に着けてやったが、嘉明怒って冑を脱ぎ捨てたので、冑を着けずに槍を持って勇ましく一番に突いて出たはよいが、最初に余りに大物拝郷五左衛門を狙って「われこそ石川兵助尋常に勝負致さん」と突いて出たが、拝郷の敵ではなく、五左衛門の突き出した槍に左の目を突き刺され討死した。

秀吉哀れに思い、その勇を賞して一番槍の賞状を、弟長松を召出して1千石を与えた。したがって文面は3千石の所が千石となっており、宛名も石川長松殿となっている。兵助は前夜、福島正則と口論致し刺違えんという所までいったが、明日の戦いを前にして何事ぞと他の面々に諭され「明日は真先に功名立てん」と、福島正則の手前もありただ一人で真先に飛び出して行ってこの難にあった。

桜井佐吉ははじめは秀吉の小姓をしていたが、後、秀長の臣に廻された。佐久間盛政が中川清秀を討った時、木之本田上山の秀長の陣より、秀吉にこの事を知らせる早駆の飛脚として出されたのが、この佐吉であった。この時佐吉の馬は大垣についた時は倒れてしまったので、帰りは大垣から木之本まで本隊と共に素足で走り続けて帰ったという。秀吉はそれを聞いて早速秀吉の換え馬にしていた栗毛の名馬「菊額」を与えたという。

佐吉も他の七本槍の面々と共に賤ヶ岳を余呉湖畔に駆け降りたが、敵の大将らしい姿が川並側の山の中腹に見えたので、再び急斜面を駆け上がっていった。秀吉はじめ賤ヶ岳の上からは、何と無理な事をするものぞと同輩が見ていると、木陰に隠れていた敵から、さっと槍が突き出され佐吉の胸板を突き抜いたかに見えた。佐吉は馬から落ちると共に30mもあろうと思われる崖下に真っ逆様に落ちて頭蓋骨が割れたのか動かなくなった。

あっと叫んで見ている者皆固唾を飲み、佐吉は死んだものと思った。ところがしばらくすると、その佐吉がむくむくと起き上がってきた。見ると兜の前立は砕け、顔は擦り傷から血が出ているのに、槍を拾い上げ、今度は徒歩で腹ばいながら急坂を登って行った。登りつめた所で、木陰に向かって槍先が光ったと思うと、しばらくして先程の敵の首を槍先に突き刺し、賤ヶ岳の方に向かって振っていた。

秀吉は無論佐吉にも同じ一番槍の感状を与えた。太閤記などにはその功を賞して秀長は3万石、秀吉は2万石都合5万石が与えられたなどと書いてあるのは誤りで、他の七本槍の者同様に丹波で3千石を与えられた。

秀吉から一番槍の感状と3千石宛(福島正則のみ5千石)を与えられたのは以上9人で、ただ石川兵助のみが戦死のため、幼少の弟長松の名で千石となっている。秀吉の感状の文面も与えられた禄も同じで、甲乙何の差別もなく、秀吉が7人だけを特別扱った点はどこにも見当たらない。無論秀吉が七本槍などとは一言も言っていないのだ。

2016.08.05   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

秀吉個人にとっての天下分け目は、賎が岳の戦いなんですね。
残念ながら1代でしたね。

長くなりましたので、60話から新スレッドにしました。

2016.08.06   麦   編集

麦さん、こんにちは。

雨がぜんぜん降らないのでモロコの田んぼが水不足になってきましたよ(泣)

61話と62話は賎が岳に立ち寄ってみることにします。
そのあとは、戦国時代の各地の争いなどはどうかと・・・思います。



賎が岳の戦いでは、思いがけない流れで戦端が開かれることになった。その内容は柴田勝家が一番恐れ、秀吉が狙った流れだった。

歴史夜話61
賎が岳の戦いでは、双方とも長期戦を予想して、最低限の人員で陣を守る「永陣の構え」をとった。しかし、秀吉側の山路正国が柴田軍の佐久間政盛に寝返った事情から、政盛は大岩山の中川清秀の奇襲を決行した。もちろん柴田勝家の了解を得ての攻撃だった。

このころ、秀吉陣は兵を一番から14番隊までに編成して、順次柳ヶ瀬方面に進出させ陣地を築いていた。ここに登場する武将は当時いずれも名のある大名格の顔ぶれなので、麦さんも憶えておくと良い。ちなみに堀秀政はわたしの贔屓の武将で秀吉の小田原攻めのとき若くして陣中で亡くなった惜しい武将です。

一番  掘秀政、
二番  柴田伊賀守勝豊の家臣(山路正国、木下半右衛門、大鐘藤八郎)、
三番  木村小隼人重茲、堀尾茂助吉晴、
四番  前野勝右衛門尉長康、加藤作内光泰、浅野弥兵衛長政、一柳一助直末、
五番  生駒親正近世、黒田官兵衛孝高(小寺官兵衛)、明石与一、木下勘由左衛門尉利匡、大塩金右衛門尉正員、黒田甚六長基、山内猪右衛門一豊、
六番  三好孫七郎秀次、中村孫平治一氏、
七番  羽柴小市郎秀長、
八番  筒井順慶、
九番  赤松弥三郎広英、
十番  神子田半右衛門尉正治、
十一番 長岡与市郎忠興、高山右近長房、
十二番 羽柴御次丸秀勝、仙石権兵衛尉秀久、
十三番 中川清秀、
十四番 羽柴秀吉。

 平地戦では兵力に物を言わせ、秀吉の方が一歩長じていたが、山岳戦では勝家の方が一歩長じていた。勝家は隘路の山岳を十分に利用して、万全の構えをしていた。この構えは近代戦になってもよき参考とされ、旧陸軍等も研究の対象としていた。山中の至る所に鉄砲隊の陣が張られ、狭い谷間を攻め入る秀吉軍は格好の標的とされる。

秀吉もその点十分に心得ており、勝家軍を山中から平野へと誘き出さんとして、山に向かって一斉に鉄砲を撃たせて見たが、勝家のほうからは何の対応もなく、一兵も山を降りる者はなかった。秀吉軍が谷間に攻め入るのをじっと待っているようであった。


賎が岳における柴田方の兵力は、・・・・・
柴田勝家(北の庄城主57歳,)50万石
前田利長(府中城主) 3万石 不破勝光(府中城に同居)2万石
金森長近(大野城主60歳)3万石 原彦次郎(大野城に同居)2万石
柴田勝政(勝山城主)2万石
安井家清(足羽郡東郷城主)1万石
武藤助十郎(敦賀城主)5万石
佐久間盛政(尾山(金沢)城主30歳)29万石
徳山則秀(松任城主40歳)4万石
村上長頼(前田利家の家臣)7万石
拝郷五左衛門(大聖寺城主)4万石
前田利家(七尾城主46歳)19万石 長連竜(利家与力)3万石
佐々成政(富山城主45歳)36万石 神保氏春(成政与力)7万石
菊池武勝(阿尾城主)1万石

柴田郡所領合計178万石となる。1万石の領地から徴収可能の兵力は250人と言われているので、上記所領が集めえる兵力は44500人となる。更にこのとき柴田軍に協力可能の兵力があり、神戸信孝(岐阜城主26歳)58万石、滝川一益(桑名城主) 伊勢北部と尾張の一部 15万石となる。

羽柴秀吉軍の兵力は、さきほどの人員で合計146万石で、兵力36500人となります。


次回62話では、山路正国の寝返りと佐久間政盛の大岩山への奇襲を眺めることにしよう。

2016.08.06   えんてつ   編集

えんてつ さん

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この後も、晴れが続くようですね。
せめて夕立でもあれば、、、。

暑さに輪をかける、数字攻めの61話ですね~!(^^;)
賤ヶ岳の戦い、というと、、、
ナンチャッテ歴女には、前田利家の板挟みのほうが重要です(*´▽`*)

2016.08.06   麦   編集

麦さん、こんにちは。

きょうは午前中に村道の草刈りがありましたが、熱中症になりそうでした。

でも、夕方になると涼しくはなるので助かります。

麦さん、利家の板挟みになっているとは~笑。




清洲会議で主導権を得た秀吉は冬が到来すると北陸勢の動きが止まることを見抜いて、12月、清洲会議の領地分けを無視して、勝家の養子の勝豊が治める長浜城と織田信孝の岐阜城を攻め落とした。これに対して翌1583年(天正11年)正月、伊勢の滝川一益が反秀吉の兵をあげた。これに対して秀吉は2月に伊勢に向けて大軍を差し向けた。

北陸の雪解けを待ちかねたように1583年(天正11年)3月3日柴田勝家旗下の北陸軍が北庄を進発した、やがて勝家も北庄をたって近江伊香郡柳ケ瀬に本陣を構えた。すでに秀吉の大軍が伊勢の長島・桑名などの城に龍城する滝川一益に対する攻撃を開始していたからである。秀吉はかねてより勝家軍を阻止すべく羽柴秀長・堀秀政等の軍総勢を余呉湖周辺に配置していたが、勝家の出兵を聞くと滝川攻撃は信雄に委ね、3月17日近江に戻った。

その後、秀吉方の丹羽長秀が若狭口より敦賀に乱入するなど小競り合いがあったが、両軍にらみ合いのまま日を過ごし、戦は長期戦の様相になっていた。4月16日になり、織田家の足軽であった秀吉の下風につくことを潔しとしない信孝は、岐阜城で秀吉討伐の兵をあげた。

秀吉は翌4月17日20000の兵を率いて、織田信孝の挙兵した岐阜城に向かって出発した。出発に先立ち、安土に置いてあった信孝の人質、信孝の生母坂夫人と妹それに家臣岡本良勝、幸田彦右衛門尉両人の母親の4人の女たちを後手に縛り上げ、次々と斬り捨てたのであった。

歴史夜話62
1583年(天正11年)4月13日、勝豊配下の山路正国が佐久間盛政に寝返り秀吉軍の防備の弱点を告げた。山路正国は秀吉方の堂木砦を守備していたが、もとは柴田勝豊の配下にあった。秀吉が勝豊を降伏させる時は、秀吉に味方して、勝豊に降伏を説得した一人であったが、いよいよ勝家と対陣の時は最前線におかれ更に隣の神明山の砦には木村定重(小隼人)が監視の目を光らせているのを見ると、秀吉陣営の中では信頼のおかれていないのが不満であった。

勝家は、山路正国と親交をもっている宇野忠左衛門を密使として誘いをかけさせた。誘いの条件は「丸山城12万石」を与えるというものである。丸岡城は主君柴田勝豊の城で、長くこの城下に暮らしていたので懐かしい、目をつむれば城内の様子、城下の様子がありありと浮かんでくるのであった。自分があの城の主となれるのだと思うと、心よく柴田方の内通を約した。

秀吉が岐阜城の不審な動きを察知し出動の準備をしているとの知らせが入ると、正国は好期来たれと判断、日頃の計画を実行しようとした。それは同族・家族の脱出と寝返りを証明する手土産として秀吉軍の武将・木村小隼人の首だった。ところが、4月13日この寝返りが露見してしまった。慌てた正国は数人の部下と佐久間盛政の陣に走った。

秀吉は木村小隼人に正国の人質どもを逆さはりつけにさせた、7人の女、子供を柱に逆さに縛りつけ、老母より順に下から突き殺していったという。戦国の世は、武家一門に生れ、嫁いだというだけで、戦のなかでは、何の罪もない女、子供までが、地獄絵の如く殺されていったか知れない。 

山路正国の話は佐久間盛政の血を沸かすには十分であった。それは、秀吉は今長浜から岐阜に兵を進めており、木之本には本隊はいないこと、神明、堂木の砦は堅固で攻めるには困難である。その上木村小隼人は、内通の噂以来、予備隊として木之本方面にいた。蜂須賀家政を神明砦に入れ警備を厳重にしているので攻撃は不利である。それに比し、賤が岳、大岩山、岩崎山の砦は未だ土塁も固まらず、兵達も油断しているので攻め易い。大岩山の砦を落とせば、賤が岳、岩崎山は連絡を絶たれ孤立し、たやすく陥落するであろうということだった。

 これを聞いた盛政は、すぐに勝家の本陣に駆けつけた。そして山路正国の一件を報告し、直ちに大岩山砦の中川瀬兵衛清秀攻撃の許しを願い出た。しかし勝家の腰は重かった。敵の陣中深く攻め入ることは勝家の長い戦歴から見て最も危険な戦法であった。これは敵の包囲に落ちることは必至で、後方によほど信頼できる支援部隊が控えている時にのみ功を奏することができるものである。また秀吉の本隊が今日木之本にいなくとも、常識では考えられない神速で引き返してくることもある。ようやく永陣の構えができた時軽率な動きは慎まなければならないというのが勝家の意見であった。

軍議の結果、条件付でこれを許すことになった。その条件というのは、第一に後詰を十分にして、敵に退路を絶たれることなきようにすること、大岩山を落とし入れたら必ず、元の陣に退きさがることの二つの条件であった。盛政もそれに異存なく、直ちに主な武将たちが勝家の本陣に召しだされた。勝家より山路正国の伝えたことについて一応詳しく説明があり、続いて地図が広げられると、大岩山の攻撃について指示があり、


「これはあくまで大岩山攻略についてのみのことであれば、大岩山陥落後は直ちにそれぞれの陣地に退かれたい」

 盛政も最初から賤ヶ岳にとどまる気はなく、勝家の命に従い退くつもりでいたようである。大岩山攻撃の本隊は佐久間盛政を総大将として、此の下に徳山則秀、原彦次郎、不破勝光、拝郷五左衛門ら8000の兵がこれに従った。

 後詰として、東野山の堀秀政と中之郷方面の敵の抑えとして、勝家自身が7000の兵をもって今市の狐塚まで進出する。神明、堂木山の敵の抑えとしては前田利家、利長父子が2000の兵をもって、神明山と権現峠の間にある茂山に陣をおくこと、更に賤ヶ岳の敵の抑えとして柴田勝政が3000の兵をもって賤ヶ岳西の対山、飯ノ浦切通しの上に陣を取ることにした。

4月20日の午前1時を待って一斉に行動が開始された。8000の盛政軍を動かす奇襲作戦だったが、ほとんど計画通りにことが運んだ。地図を手に流れをたどると、ここはどうしたのだろうと疑問に思うところもあるが、もしかして、秀吉の大返しが不成功に終わっていれば、この奇襲が歴史に残ったことは間違いない。盛政の大部隊を安全に余呉湖畔に降ろしたこれらの行動はすべて夜の明けぬうちに、暗の中で行われたので、全員が余呉湖畔に出るまでは大変な苦労があっただろう。とくに柴田勝政の兵がどのようにして切り通しの上に出たか明らかでないが、ここは敵の陣の狭間になるところなので兵士たちはどういう心境だったのだろう。

佐久間盛政の奇襲をうけて油断していた中川清秀の大岩山砦は大混乱をした。たまりかねた清秀は、急使を賤ヶ岳の桑山重晴や岩崎山の高山右近に出し救援を求めたが、いずれからも救援は来なかった。その筈である。賤ヶ岳砦の桑山重晴も、岩崎山砦の高山右近も戦う意志は毛頭なかった。

山麓から余呉湖辺までは乱戦となり決戦が続いたが、砦の本丸に火がかかると、中川清秀本丸近くで最後まで防戦したが、先手はことごとく討死、清秀支配の名だたる射手熊田孫七、木戸口に立ち塞がり、寄せ来る敵を狙い撃ちにしていたが遂に矢種つき、大薙刀を振って討って出たがまもなく討死、熊田兵部も盛政めがけ突き進んだが忽ち敵の手にかかり討死する。清秀の弟の中川淵之助、清秀の鎧の袖に取りつき「もはや味方悉く討死、これ以上雑兵の手にかかるもどうかと思われる。ここは本丸に入りて心静かに自害なされよ」
と無理に本丸の中に圧し入れた。

奇襲が大成功した盛政は勝家との約束に従わず大岩山で夜を明かすことにした。これを知った勝家は大いに怒った。盛政が大岩山に駐屯したのは、美濃に出兵している秀吉がまだ引き返しては来ないだろうという情勢分析に基づいていたが、20日の昼過ぎ大岩山攻撃を知った秀吉は大垣城より52キロメートルの道程をわずか5時間で引き返すという信じがたい機動力を発揮し、翌21日午前2時より20000の軍を率いて盛政追撃戦に移った。

盛政はなんとか権現坂まで撤退し、また後世に賎ケ嶽の七本槍として知られるような秀吉軍の猛兵の追撃を受けた三左衛門勝政軍も大きな打撃を受けながら、盛政軍と合流しようとしていた。しかし昼前に盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家・利長父子が兵をまとめて戦場離脱を始め、次いで金森長近、不破勝光もまた戦場から遁走を始めた。

これを機に勝家軍は総崩れの状態となり、狐塚で堀秀政・羽柴秀長の軍と戦っていた勝家の回りの兵も減少し、秀吉軍に決戦を挑むこともできなくなっていた。そこで家臣の毛受勝照が勝家の金の御幣の馬標を受け取り、身代りとして奮戦している間に勝家は北庄へと落ちのびたのである。

2016.08.07   えんてつ   編集

えんてつ さん

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ニュースでは、室内で37歳の男性が熱中症とか。
自覚症状がなくても、起こり得るそうですから、
σ(^-^) 若くても、気を付けないといけませんね。


ポイントは、毛受勝照による勝家の身代わりだと思いますが、
本物の歴史好きにはたまらない、戦場の様子が一気に見渡せる62話ですね。

利家は、秀吉との親交もありましたし、賤ヶ岳の戦いの敗因は、利家の寝返りとする歴史の記述もありますよね。
秀吉と勝家の間で、利家が板挟みの賤ヶ岳の戦い、と認識していましたが。


2016.08.07   麦   編集

麦さん、こんにちは。

利家は優柔不断というか、子供のままで大人になったような武将のように思います。

>ポイントは、毛受勝照による勝家の身代わりだと思いますが、

戦国の香りぷんぷんです~♪




では、63話へ進みましょう。


社会人になりたての頃、釣りがご縁で本社にいた歴史好きの事務屋さんと知り合いになって色々な歴史本を貸してもらった。その人は歴史探索の同好会員でわたしもその一員に入れてもらった。

もしあなたが戦国時代に生きていたとしたら部下にしたい武将は誰ですか? という質問が毎年話題に出ていました。そんなとき、いつも支持が多いのが石田三成と真田昌幸でした。わたしは技術的な部署で仕事をしていましたが、三成のイメ-ジは事務屋の三成が技術開発部長として技術屋さんを切り回ししているようなことで、技術屋さんからそっぽを向かれてしまったように思っていました(笑)。

その頃、わたしは武田信玄のファンでした。で、わたしが部下にしたい武将として「曽根昌世」をあげたことがありました。

歴史夜話63
曽根昌世は、武田氏譜代家臣の曽根虎長の嫡子であったと推定されていますが、確かな史料はありません。生没年についても確かな史料はなく、その詳細は明らかではありません。真田昌幸らとともに武田信玄の奥近習の一人にその名があり、信玄子飼いの武将として、決して華々しい活躍は少ないものの、信玄・武田勝頼の軍略・領国支配を支えました。

そもそも曽根氏は、武田氏の祖武田信義の弟の厳尊が、八代郡曽根に拠り、曽根姓を称したことから始まったと考えられてします。曽根昌世はこの甲斐源氏曽根氏の流れを汲む人物であると伝えられています。

ただし、武田氏滅亡後、曽根昌世は武田旧臣の徳川家康帰順に際して、その起請文奉行として取りまとめを務める一方で、自身は武田氏親類衆として署名していることから、いつ何時か定かではありませんが、武田氏との血縁が曽根氏にはあったと考えられます。

曽根氏は、代々武田氏仕えた側近で、曽根昌世の祖父にあたる曽根縄長、父虎長ともに武田氏の重臣として、朱印状奉者も務めています。奉者とは、朱印状の発行責任者であり、武田氏譜代家臣や武田氏当主の直臣が務めています。そのことから、曽根氏が武田氏家臣の中でも、重要なポストを担っていたと思われます。

さて、曽根昌世ですが、三枝守友や真田昌幸らとともに、信玄の奥近習衆の一人として出仕し、永禄年間後期頃までに足軽大将衆に取り立てられたといわれています。

1565年(永禄8年)武田氏を襲った、信玄嫡子武田義信謀叛事件では、義信の乳人子(めのとご)であった昌世の嫡子曽根周防が信玄に成敗されたことにより、一時武田氏を離反しました。やがて、1569年(永禄12年)頃、信玄の要請に応え、再び武田氏に帰参しています。

曽根昌世は、武田二十四将にも挙げられることがありますが、目立った武勇は少ない武将です。それはすなわち、曽根昌世は合戦の折には、戦況を観察し味方の将兵に怠慢者はいないか、軍律違反を犯しているものはいないか、将兵達の挙げた手柄はどうであったかを記録する検使役(軍陣における監督者の立場の人物)を務めていたため、最前線で合戦に望むことが少なかったことが理由です。

唯一ともいえる目覚しい活躍は、1569年(永禄12年)相模国三増峠での北条氏との合戦でした(三増峠合戦)、こととき曽根昌世は検使役として参戦していました。武田軍が北条氏の本拠小田原城の包囲を解き、甲斐へと撤退している折に、武蔵国からの北条氏の援軍が武田軍を襲撃しました。

この際、武田軍の殿(しんがり)部隊を指揮していた浅利右馬助信種が討ち死すると、部隊は混乱に陥りました。検使役として戦場を見回っていた曽根昌世は、浅利信種に代わりただちに殿(しんがり)部隊を指揮し、北条軍の追撃を食い止めて、武田軍の甲斐帰国を成功させました。

また、甲陽軍鑑が伝えることによると、1570年(永禄13年)の駿河国花沢城攻めでは、三枝守友についで二番槍、同年9月の伊豆国韮山城攻めでは、真田昌幸とともに物見(戦況を観察し、敵方の動きや状況を見張り、適宜進言する役目)を務め、信玄からは「我が両眼の如き者」と評されました。

これらの功績により、駿河国興国寺城城代に任ぜられました。曽根昌世は、父虎長同様、信玄の竜朱印状奉者として十数点の竜朱印状が現在明らかとなっており、また一説には、曽根昌世は武田領周辺諸国の情報収集の役も務めていたといわれています。これらのことから推測するに、曽根昌世は興国寺城城代に任ぜられたというより、信玄の側近として、武田氏の軍略・領国支配を補佐していたと考えられます。

1573年(元亀4年)信玄が没すると、曽根昌世は後継の武田勝頼に仕えました。そして、1581年(天正9年)に勝頼が、これまで武田氏の本拠としていた躑躅ヶ崎館を廃して、新たに新府城建設に乗り出すと、曽根昌世は真田昌幸とともに縄張り(なわばり・・・城の曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう)を作ります。

1582年(天正10年)織田信忠、徳川家康による武田討伐の際には、時勢を読みいち早く徳川家康方へ帰順し、後に甲斐国領有権を徳川家康と北条氏政が争うと、武田旧臣を率いて徳川家康方として武功をあげたといわれています。そして、 武田の遺臣を、赤鬼こと「井伊直政」の部隊「赤備え」の再編成へと成功させています。

1590年(天正18年)羽柴秀吉がほぼ天下統一を成し遂げ、最後の抵抗勢力であった北条氏を小田原で滅ぼした小田原合戦後、曽根昌世は徳川氏から離れて、新たに蒲生氏郷に仕え、蒲生氏郷が会津へ転封になると、これに帯同して会津へと移りました。余談ですが、京に程近い伊勢を統括していた氏郷は、東北に飛ばされることを嘆き「天下人の夢が費えた」と涙したと言いました。

蒲生氏郷が会津転封後、本拠として、会津若松城の建設に乗り出すと、曽根昌世は縄張りを作成したといわれています。そのため、会津若松城には甲州流築城術が取り入れられています。曽根昌世は、馬場信春、春日虎綱、内藤昌秀、山県昌景、秋山信友といった歴戦の兵ほど武勇はないものの、観察力、洞察力に才があり、また築城術にも長けていた優秀な武将であったと評価できます。秀吉に仕えてからは、「大坂城」の縄張りにも貢献しています。

晩年には伊達政宗に招待されたことがありました。 政宗は武辺話を大層好み、自分の嫡子等に聞かせることで、成長を期待しました。曽根昌世の武辺話中に、嫡子がトイレに立ったため、政宗は激怒します。「尿を垂れても良いから、席を立つな!」と(笑)。

2016.08.08   えんてつ   編集

えんてつ さん

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歴史上の人物でも、戦国時代も現代も、人は人、ですね(*´▽`*)

いよいよ、こちらは夕方になっても風が生暖かいという気候になりました。
今日は、一日中、クーラー漬けでした (^-^;

2016.08.08   麦   編集

麦さん、おは~です♪

きょうは午前中に宣伝カ-を動かします。自動車の中のほうが涼しいのです。


では、歴史夜話64を送ります。



武田信玄は父・信虎を今川に追放して信濃の領主になった。その信玄がこんどは嫡子・義信の謀反に出会う。このとき、義信の側に付いたのは信濃の猛将のひとり飯富虎昌だった。信玄はこの苦難を無事に乗り越え戦国の雄となった。父と子、兄と弟の戦国物語があった。

歴史夜話64
信濃の武田信玄の物語は甲陽軍艦に依るところが多い。戦国の世に知られた「武田の赤備え騎馬軍団」の首領、飯富兵部少輔虎昌は、「甲山の猛虎」として恐れられ、豪勇、老練な荒武者であった。武田家譜代の重臣として板垣信方、甘利虎泰らとともに信虎、信玄の二代に渡って活躍し、数々の戦功をあげた宿将の一人である。

飯富の赤備えは日本における元祖赤備えである。彼の戦ぶりは、「火の玉が飛んでくるようである」といわれた。武田家滅亡後、家康は信玄の戦陣に臨む用兵術などを武田の遺臣達に言上させた。これが後に井伊家に伝承され、「井伊家天正記」として伝えられた。虎昌の武勇は弟昌景、井伊直政を経て今日まで伝わることになる。真田幸村の赤備えも祖父、父が武田家の重臣であることから、赤備えのルーツは武田信玄、それも元祖飯富虎昌にあるようだ。

1538年(天文7年)の元旦のこと。武田信虎の館に二人の息子の晴信、信繁が挨拶に来た。
信虎は杯を交わすにあたって、最初に渡したのは信繁の方へであった。これは信玄より弟を優遇すると見なされ、後継者として信繁を選んだことになる。正月12日、信虎は配下の武将、板垣と飯富虎昌に使者を立てて以下のように伝えた。「晴信は今川義元の後見で信濃守大膳大夫になれたのだから、今川のところに挨拶に行くのがよろしかろう」

晴信は「承知」とのみ答えた。これは明らかに晴信を追いだすための策略であった。しかし板垣、甘利、飯富は晴信を主君に擁することを決めていた。その後、信虎が駿河今川のもとに行くことになった。今川義元と晴信幽閉について談合するためである。信虎は甘利虎泰に晴信の監視を命じ自身は今川へ下っていった。

しかし、ここで待ち受けていたものは信虎にとって驚愕せざるを得なかった。息子を幽閉するつもりが自分が幽閉されてしまうのだから。晴信の用意周到さには勝てなかったのである。これ以後、飯富虎昌は、甘利虎泰、板垣信方らとともに武田家の石柱になる。

 青年国主信玄からも引き続いて北信地方の備えをゆだねられた虎昌は、小諸城を重要拠点てして佐久地方の守備にあたり、やがて信玄によって遠からず断行される東北信濃進攻の地場固めに専念、内山城(南佐久郡中込)も確保した。この地方の当面の敵は、北信の雄、村上義清であったが、合戦ではつねに戦陣を引き受け、村上、小笠原長清軍らを苦しめ、その豪勇ぶりは敵味方区別無く知れ渡っていた。

 武田家の信濃進出のなかで、虎昌の活躍は「甲山の猛虎」と恐れられた。村上義清、小笠原長時らはそうとうに苦汁をなめさせられた。注目すべきは虎昌が上杉謙信率いる 8000 の兵をたった 800 にて打ち破っていることである。これはまさに「甲山の猛虎」と異名された虎昌の武勇を象徴している。信玄は虎昌に元服近い嫡男太郎義信の守役を命じた。つまり、後継者の教育係りに任じられたわけで、武門にとってこれ以上の名誉はない。それほどに虎昌は信玄の信頼を得ていたわけである。

しかし十年後、義信に謀反をそそのかした張本人としてのレッテルを貼られてしまうことになる。1565年(永禄8年)10月、飯富昌景は兄の虎昌と信玄の嫡男・太郎義信の間に「信玄排斥の陰謀」があるのを察知した。「灯篭流しを見物する」と義信は言い、長坂源五郎、曽根周防などの面々が飯富邸に集まった。そして「主君信玄を謀殺し、義信を甲斐の守護にしよう」と謀議した。ふすま越しに昌景は聴き、「いかに兄といえども、御大将に弓引く謀反の企ては許すことは出来ない」と信玄に訴え出た。

この事件の背後には信州川中島合戦で越後の上杉謙信と決着を見た信玄が、上洛を意識して東海地方への本格的な進出を考え始めたのに起因する。今川攻めを画策しているのを知った嫡男・義信は猛反対した。義信の妻は今川氏真の妹であり、いかに弱体したとはいえ、今川を攻めることが若い義信には耐えられなかった。これにより信玄、義信の父子の対立が表面化した。さらに追い討ちをかけるように、弟勝頼の婦人に織田信長の血筋である遠山氏の娘を迎えることが決まった。信長は今川義元を討ち取った張本人である。


虎昌ら義信側近達が義信を新国主に擁立し信玄を謀殺しようと企てた陰謀が発覚、義信は総領の座から下ろされ東光寺に幽閉され、首謀者の虎昌ら主だったもの八十人が処刑、または追放された。昌景は「兄を裏切るより、子に裏切られる父の方が、はるかに心の傷は深い」と言ったと言われている。信玄も過去に父信虎を駿河に追放した経験がある。大儀すなわち、大きな目的のためには、肉親の情も時には断ち切る必要がある。

信玄の言う大儀が「国を守り領民を安んずる」ことであったのなら、昌景の大儀は「引き立ててくれた主君への忠誠と武田家を守る」ため、たとえ実の兄であっても肉親としての情に溺れてはならないということになる。信玄は心中の慟哭を押し殺してまで訴えでた昌景の忠誠を賞し、三百騎の侍大将に昇進するとともに、甲斐の名門山県氏の名跡を継がせた。

2016.08.09   えんてつ   編集

えんてつ さん

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福山へ出かけまして、戻ったら、今日は涼しい東京です。
このところ、歴史おはよう話 になりましたね(*´▽`*)

信玄の、親子三代による運命は、悲しいですね。

> 弟勝頼の婦人に織田信長の血筋である遠山氏の娘を迎えることが決まった。

↑ これはビックリでした。
政略結婚?
それでも長篠の戦は勃発するわけですね。

2016.08.11   麦   編集

麦さん、こんばんは。

あっ、飛行機の中で・・・落語? 小噺? おもろいわ~(関西弁)!

さて
今夜は正真正銘の歴史夜話・・・65話目です。
暑いし、お盆なので怪談ものにしようかと思いましたが、それは次回のお楽しみ(笑)




戦国の三大梟雄といえば、斉藤道三、松永久秀、宇喜多直家の三人を指します。

道三は一介の油売りから身を起こし、権謀術数を駆使して主家の土岐家から美濃一国を奪い取り国主となりました。美濃の蝮(マムシ)と呼ばれ、下克上によって成り上がった人物として名高い人物です。

直家が生まれた宇喜多家は、備前を治める浦上家の重臣として、暗殺、毒殺、乗っ取りなどあらゆる手段を尽くして、浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たしました。とても用心深い性格のため、つねに担当者を二人配置するなど常に万全の態勢を準備していました。そして、なりふり構わない策謀によって勢力を拡大した直家は毛利元就と手を結び、主君の浦上宗景を追放すると、備前・美作二国と備中の一部を手にする戦国大名に成り上がりました。

歴史夜話65
松永久秀は、和歌をたしなみ、茶の湯の道でも数多くの名物茶器を所持していた教養人でありながら、信長から「三悪をやってのけた物騒な老人」と家康へ紹介された人物です。三悪とは「将軍殺害・主君への謀反・奈良の大仏焼き払い」のことです。

1563年(永禄6年)正月11日、松永久秀は居城の多聞山城に新しく作った茶室で開庵記念の茶事を行いました。招かれた客人は成福院の住職・真名瀬道三・若狭屋宗可・松屋久政・竹内下総守秀勝の5名でした。このうち松屋久政は当時の茶会の様子を「松屋会記」に残しています。

九十九茄子の茶入、平蜘蛛の釜を使用した茶会は濃茶→薄茶→会席料理と進行し会席料理の品揃えは以下のようなものでありました。

「本膳 煮昆布 汁チサ 揉み瓜 牛蒡 飯 塩 山椒 箸の台に白い箸」 
「二之膳 蓮 独活 芹焼 汁、各々土器に 干瓢・漬け物 アツメ五黄 上に結び昆布
 ツクツクシ」
「三之膳 絵を書きて金の桶 宇治梅漬けて 亀足に刺して蒟蒻 金箔にて飾り 煎麩
 菓子は七種 結び昆布に作り花二種刺して青芽 美濃柿 慈姑 銀杏 焼栗 亀足刺して胡桃 楊梅」

(備考)
チサはチシャでレタスの仲間 芹焼は芹の炒め煮 土器(かわらけ)は、使い捨ての素焼きの器で当時最も清浄な器とされた アツメ五黄は棗(ナツメ)・牛黄 ツクツクシは土筆
亀足(きそく)は串焼き等の串の持ち手部分に紙を巻き、捻って留めたもの

松永久秀は三好家の重臣として知られている武将で、後に大和を治めた戦国大名でもありました。歴史上は織田信長と複数回争った事もあり、知名度の高い人物でもありますが、その出生については謎が多く、出身地についても「阿波」「播磨」「京西岡」「近江」など複数の説があります。

1540年、松永久秀は、三好長慶(みよしちょうけい)の祐筆(ゆうひつ)となり、後にその才を買われて長慶に代わって家政を取り仕切る重要な片腕として家臣に抜擢されます。その後の久秀は長慶の敵対勢力であった者達を次々と退け、長慶から高い信頼を得て、長慶の妻をも娶る事となります。

1559年には大和に入って信貴山城を本拠とし、その周辺を固めていき、大和を平定します。しかし、野心に満ちていた久秀はこれにとどまらず、長慶に安宅冬康(あたぎふゆやす)などを誅殺させるなどして、三好家最大の実力者にまで上り詰めます。

主君である長慶の死後は、時の将軍であった足利義輝を三好三人衆らと共に暗殺し、次の当主として三好義継(みよしよしつぐ)を担ぎ上げて畿内の実権を掌握しようと考えますが、足利義輝の弟であった義昭を奉じて織田信長が上洛すると、「名器・九十九髪茶入」、「名刀・吉兆の脇差」などを携えて降伏し、信長に臣従する事となります。

しかし、臣従の構えを見せながらも信長を出し抜くチャンスを伺っていた久秀は武田信玄の上洛が始まると、足利義昭の信長包囲網に参加し、信長に反旗を翻します。この信長包囲網は信玄の急死により、失敗に終わります。しかし、その後も久秀は上杉謙信に呼応するなどして信長と対立します。

居城である信貴山城を織田軍に攻められると、約ひと月の間、籠城し、勝ち目がない事を悟ると天守閣にて「名器・平蜘蛛茶釜」と共に爆死します。こうして、将軍を暗殺し、大仏殿を焼いた稀代の大悪党と呼ばれた梟雄・松永久秀はその生涯を閉じたのです。

2016.08.13   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

あらっ!
書き残すだけでなく、記事もお読みくださっているのですね(*´▽`*)
ありがとうございます。
おもしろさは、話術が半分ですね。


母は、レタスのことをタマチシャと言っていました。
なるほど、です。





2016.08.13   麦   編集

麦さん、こんばんは。

はいはい、記事は全部くまなく読ませていただいております。


では、歴史夜話66です。
一応、妖怪話ですが、涼しくなりそうな話ではありません(泣)




皿の枚数を数える怪談はけっこう多い。有名なのは、江戸の番町のお菊の井戸だろう。じつは近江国・彦根藩にも同じような話が伝わっている。ただし、現在は井戸は身近なものでなくなっているので、怪談としての迫力がなさそうだ。

誤って奉公先の家宝の皿を割ってしまった使用人のお菊は、怒った主に手討になってしまい、その亡骸は井戸に捨てられます。それからと言うもの、丑三つ時になると、井戸からお菊の霊が現れて「い~ちまい、に~まい、さ~んまい」と数を数える声が聞こえて、9枚数え終わると、恨めしそうな声で「一枚足りない」と言いすすり泣く声が聞こえるようになるそうです。

そんな中で、全国で唯一お菊が割った皿が残っているのが彦根藩のお菊の物語です。

歴史夜話66
1664年(寛文4年)彦根藩の武士に500石取の重臣に孕石政之進という美男子がいました。政之進は、自分の屋敷に下働きに来ている足軽の娘お菊に恋をしていました。しかし、身分の差があり正式な結婚が認められませんでした。こうして政之進は身分に合った女性との婚約が決まりますが、お菊に対して「俺はお前しか見ていない」みたいなことを言います。お菊は政之進の本心を確かめようと、孕石家の家宝であった皿を割って政之進に自分と皿とどっちが大切なのかを尋ねました。

しかし、この皿は、彦根藩二代藩主・井伊直孝が徳川家康から褒美として受けた物を当時の孕石家当主・備前守秦時に分け与えた物でした。直孝に仕えた孕石家の祖先の孕石泰時は大坂の陣に出陣し奮戦のすえ戦死しますが、その武功によって直孝から孕石家に与えられた10枚の皿でした。

封建制度の強い当時としては藩主から賜ったものの代償に出来るものは他にはありません。政之進はお菊に「なぜ割った!」と問い詰め、真実を知り「誤って割ったのなら許せるだろうが、自分の勝手で皿一枚と拙者を秤に掛けられたのでは武士としての面目が立たない、成敗するしかない」と、その場で残りの皿の全てを割り、お菊を刀で斬り捨てました。

話は戻りますが、徳川家康がまだ幼い頃、人質として駿河今川家に置かれていました。この時に家康の隣に住んでいたのが孕石泰時の父親の元泰でした。元泰は家康を虐めて虐めて虐め続けます。こうしたことで、今川家が滅び家康が無事に国元に帰還しますが、孕石家は武田家に仕え武田家の城のひとつの高天神城に入ります。

この高天神城は天正9年3月に家康によって落とされ、その時に武田の家臣のほとんどを家康の配下として迎えるのですが、孕石元泰には切腹を申しつけたのです。ですから孕石家は家康に恨まれた存在だったのです。そんな家康が井伊家に与えた皿を孕石家が貰うのは、徳川に許されたという意味があったのです。

その後、残りの皿をすべて割って手討ちとなったお菊の遺体と共に実家に還されたのです。お皿は継ぎ合わされて幾つかの移転を経て彦根城近くの長久寺に移されました。当初9枚あったお皿は、大正展示の際に3枚が紛失し、今は6枚が残っています。

お菊の霊は孕石家の屋敷の井戸に、これから孵化しようとする蛾の幼虫がいたのでそれに乗り移り、蛾になって政之進に女性が近付こうとするとその邪魔をしました。政之進はお菊の愛の深さを知って屋敷にお稲荷様を作り、自分は出家してお菊の霊を弔うために全国を行脚し駿河で亡くなります。駿河には政之進が残した刀があるとも言われています。


2016.08.13   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

ただのブログジャック、ではありませんでしたか(^▽^;)

お菊さんの霊かどうかはともかく、蛾が飛んでいたか飛んでいなかったとしても、6枚のお皿は現実に残っているのですね。

2016.08.14   麦   編集

麦さん、こんばんは。

ぜんぜん怪談話になってませんね(泣)

お菊さんのお皿を見せて欲しいと事前に申し込めば見せてもらえるらしいです(怖)

お盆の間は怪談物にしようかと思いましたが、そういうセンスがなさそうなので・・・やめときます。

朝ドラはほとんど毎日見ていますよ(笑)




さて、歴史夜話です。


江戸時代は「天下太平の世」などといわれて、庶民は安穏に暮らしていたように思える。しかし、その半面、大江戸は「悪の華」咲く犯罪都市でもあった。むろん、当時の正確な犯罪統計があるわけではないから、どの程度の犯罪が発生していたかはわからない。

歴史夜話67
1816年(文化13年)に成立した「世事見聞録」には、当時の刑死者や牢死者の数を紹介しているところがある。それによると、江戸で御仕置となった死刑以上の者は年間で300人、牢死者は1000人以上となっている。また、縊死や身投げ、自殺、変死の者は1000人以上で、行き倒れも1000人以上いる。

大坂は死刑以上が年間100人で、牢死者は400人、変死者は200人ほどで、京都は死刑以上が約60人で、牢死者は約200人、変死者と行き倒れは300人となっている。また、東海道筋の変死者、行き倒れは1000人以上という。

この数字は「天下太平の世」といわれながらも、犯罪もかなり発生していたことをうかがわせる。「世事見聞録」は、つぎのように指摘している。 「罪人を捜し求めて一人一人を捕えるならば、たとえ数百軒の牢屋があっても足りないし、死刑以上の者が何千人となるか、計算するのはむずかしい。いまは目につく罪人だけを捕え、なるべく死刑を省略しても、いまの世の中、百人に九十九人までは罪科を逃れ、実際に御仕置を受けるのは百人に一人なのだ」と。

もしそうだとすれば、実際の犯罪件数は死刑者や牢死者といった数字の数百倍もいたことになる。実際、この江戸の犯罪に立ち向かったのは、町奉行をはじめ、与力や同心、岡っ引(目明し)といった人びとだった。では、江戸に警察官は何人いたのか? 江戸の町人は江戸中期、ざっと五、六十万人はいたのに、町奉行所の役人は北町奉行所、南町奉行所を合わせても三百五十人くらいだった。これだけの人数で江戸市中の治安を守り、あの手この手で犯罪捜査を行ない、罪人を捕縛したのである。

実際に現場で活躍した町方役人は、与力と同心だった。人数は時代によって異なるが、南北両町奉行所にそれぞれ与力25騎、同心は100人から120人がいた。与力の人数に「騎」を用いるのは「馬上の侍」、すなわち士官クラスの身分だからである。しかし、同心は「御徒」(徒歩で行動する侍)であり、身分は「足軽」でしかない。つまり、武士の最下位ということになる。


与力は200石以上で、奉行所に詰めて裁判記録を調べるとか、容疑者の犯罪事実を詮議し、自供させるといった仕事をした。むろん、江戸市中の見廻りという役目もある。同心は与力の下につく職で、30俵2人扶持だった。いまの警察官の働きをするのが、この同心だった。もっとも、実際に捕物にたずさわるのは「三廻同心」と呼ばれる役人たちで、1840年ごろの天保年間には南北両町奉行所を合わせて、犯罪の捜査や罪人の召し捕りにあたる「定廻」が9人、定廻を補佐する「臨時廻」が12人、つねに変装して市中を巡回する密偵役の「隠密廻」が4人で、あわせて25人体制だった。

三廻同心の筆頭は隠密廻で、とくに権威ある役人とみなされた。必要があれば、江戸市中から外に出て、相模(神奈川県)や下田(静岡県)などにも足をのばすほど行動範囲は広かった。

では、当時の大江戸の人口はどうだったか? 徳川家康が入府したころ、江戸はまだ小さな町にすぎず、家康が当初、ひきいた軍勢は約一万人程度だった。その後、職人や商人、人足などがやってきたがそれでも数万人程度です。江戸の町づくりが進み、じょじょに人口は増えていきました。江戸初期、日本に漂着したドン・ロドリゴの「日本見聞録」によると、1614年(慶長19年)ごろ、「江戸の人口は15万人」だったと書いています。

その後、1672年(寛文12年)ごろには約40万人、1695年(元禄8年)ごろには町方人口が約35万人、武家人口が約40万人、寺社人口は約5万人で、江戸の総人口は約80万人だったと推定されている。日本ではじめて全国的な人口調査が行なわれたのは、1721年(享保6年)のことですが、その結果、江戸の人口は501,394人であることがわかりました。しかし、、これは町奉行の支配地のため、武家や寺社人、出稼人などは含まれていません。

ということで、それらのすべてを加えると、江戸の人口は町方の約50万人、武家が約50万人、寺社その他が約10万人で、合計約110万人に達すると推定されています。当時、ヨーロッパ第一の大都市ロンドンが約70万人、パリが約50万人、ウィーンが約25万人のため、なんと江戸は世界最大の都市だったのです。

しかし、大江戸人口は大きな特徴がありました。それは女性にくらべて、圧倒的に男性が多いのです。享保6年の人口調査では、町方だけの資料ですが、男性が約323,000人なのに、女性は約178,000人でしかなかったのです。おおまかにいって、女性1人にたいして男性2人弱の割合です。こうした傾向になったのは、単身で奉公や出稼ぎにくる男性が多かったからです。これに武家人口を加えると、圧倒的に男性が多くなります。諸藩の江戸詰武士は、ほとんど単身者だし、幕臣の旗本や御家人の家臣にも単身者が多いのです。

こういうことで、大江戸は、世界一の大都市で、非常に女性の少ない町になったのでした。

2016.08.14   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

文字ですと、臨場感に欠けますよね。
お化け屋敷的お菊さんよりも、江戸の犯罪者や死人の話のほうが怪談話かも(*^^*)



2016.08.15   麦   編集

麦さん、こんばんは。

きょうは昼過ぎに広島方面へ嵐が去り、ほっとしたのですが
モロコの田んぼへ出かけてポンプで給水できる体制にしてきました。
こちらはまだまだ気になります。


あっ、100gパックの怖い話に身の毛が・・・・


歴史夜話68は前に登場した幕末の妖怪のころのことです。



武士の世界では、身内の者が殺害された時に仇討ち(敵討ち)をすることが認められていた。もっとも実現のためには役所に仇討の願書を出さないといけない。江戸も末期の頃に「護持院ケ原の敵討」という事件があった。敵討ちは武士道の精華とも理解されていたようだ。

事件は先に登場した妖怪・鳥居耀蔵の時代に起こった。天保の改革は老中水野忠邦が失脚することで終息し、水野の腹心として辣腕をふるった町奉行の鳥居耀蔵も罷免され、終身禁錮を言い渡された。鳥居耀蔵の現役時代の家来が仇とされた事件である。

歴史夜話68
鳥居耀蔵の家来に、本庄茂平治という男がいた。茂平治は「悪党」で、鳥居はそれを承知の上で、政敵を追い落とす工作などに利用していた。じつは本庄茂平治には暗い過去があった。茂平治は入門した剣術道場の師範である井上伝兵衛に、いかがわしい借金の取り立てを依頼した。ところが、伝兵衛はきっぱり断わると同時に、茂平治の行為をきびしく叱った。

これを根に持った茂平治はひそかに伝兵衛を付け狙い、1828年(天保9年)12月23日の夜、下谷の御成小路で突然斬りつけ、闇討ちにして殺害した。この日、伝兵衛は門人の家で酒を呑み、かなり酔ってひとりで夜道を歩いて帰るところだった。伝兵衛の横死を知り、実弟で伊予松山藩士の熊倉伝之丞と、その子の伝十郎は敵討ちを決意し、江戸に出た。

このことを知った茂平治は先手を打ち、人を使って熊倉伝之丞を謀殺した。結果、熊倉伝十郎にとっては、伯父と父を殺されたことになる。一方、伝兵衛の弟子のひとりに、小松典膳という浪人がいた。諸国武者修行の旅先で師匠の非業の死を知り、やはり敵討ちを決意して江戸に戻った。熊倉伝十郎と小松典膳は協力して調べを進め、本庄茂平治が怪しいと見当をつけたが、その行方が知れない。

天保の改革が終わったあと、鳥居耀蔵の悪事を暴く証人として、本庄茂平治も召し捕られた。取調べの過程で、茂平治は井上伝兵衛の闇討ちと熊倉伝之丞の謀殺も自供し、茂平治は遠島を言い渡された。これで犯人は茂平治であることが明らかになったのだが、熊倉伝十郎と小松典膳は牢内にいる人間には手を出せない。ふたりは地団太踏んで悔しがった。

たまたま小伝馬町の牢の近くで火事があり、囚人を解放する解き放ちがおこなわれた。解き放ちでは、いったん逃げても、期日までに牢に戻ってこなければならない。本庄茂平治は神妙に期日までに牢に戻ったことから、遠島から中追放に刑を軽減された。熊倉伝十郎と小松典膳にとって、ようやく仇討ちの機会がめぐってきたのだった。

敵討ちの願書はすでに役所に提出していたため、町奉行所の役人が内々で、茂平治が牢から出る日を熊倉と小松に知らせた。1846年(弘化3年)8月6日、本庄茂平治は牢を出た。
駕籠を雇い、江戸を離れようとしていた。じつは茂平治は長期の牢屋暮らしで体が衰弱して、ほとんど歩けない状態だったのだ。

駕籠が護持院ケ原まできたところで、熊倉伝十郎と小松典膳が声をかけ、茂平治を駕籠から引きずりおろした。茂平治は地面にへたり込み、動くこともままならない。そこを、ふたりがかりで殺害した。このとき、本庄茂平治四十五歳、熊倉伝十郎三十三歳、小松典膳四十七歳だった。町奉行所の役人の検使によると、本庄茂平治の体には、右脇腹に切り傷、右の喉に突き傷、左の耳の下に突き傷、胸の横に切り傷、左のあごにかすり傷、左の二の腕に突き傷、右の二の腕に切り傷、左の肩先に切り傷、左の腕に切り傷があったという。


2016.08.16   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

嵐は広島方面へ去りましたか!
それはそれで、このところ尾道に虜の私としては気になるところ、、、。


記憶にある鳥居耀蔵の名前ですが、、、詳しいことは、、、(^-^;

敵討ちの願書を出しさえすれば、役人も殺人の手助けをしたということですね。
現代でも、死刑という刑があるからには、分からなくもないですが。

2016.08.16   麦   編集

麦さん、こんばんは。

嵐が去る直前に、ばあばに迎えに来てくれる約束をしていたようです。

死刑を公権力が実施するのが現代ですが、江戸時代は恥をすすぐということで敵討ちは私刑でした。当然、返り討ちになることもありました。


ところで・・・
無銭飲食の最大のスケ-ルはどの程度の規模なのでしょうか?歴史夜話69は、江戸の吉原であった無銭飲食の話題です。



食い逃げとはいわゆる無銭飲食のことだが、食うという言葉には他にも深い意味があったようだ。たとえば「据え膳食わぬは男の恥」のように使われる。ただし、無銭飲食を決行するにはそれなりの度胸がいるものである。

歴史夜話69
吉原は幕府公認の遊廓だった。吉原で開業している遊郭が火事で全焼するなどして営業できなくなった場合、妓楼が再建されるまでの間、250日とか300日とか期限を区切って、浅草や深川などの料理屋、茶屋、商家、民家などを借りて臨時営業をすることが認められていた。これは「仮宅」と呼ばれていた。

1812年(文化9年)11月21日、吉原は火事で全焼し、浅草と深川の各地に仮宅ができた。翌文化10年5月のなかば、浅草の隅田川のほとりで仮宅営業していたある妓楼に、恰幅のよい男が登楼した。男は女郎と一緒の座敷に、芸者や幇間も多数呼び寄せ、ドンチャン騒ぎをした。

途中、男は「お針」を呼んで、懐中からずしりと重い包みを取り出し、「こんなものをふところに入れたまま酒を呑むのは無粋だ。あずかっておいてくれ」と手渡した。「お針」は、妓楼の裁縫や繕い物を引き受ける、いわゆる裁縫女のことである。大金を渡されたお針は驚き、とても自分が保管することはできないため、事情を話して、楼主にあずけた。

その後、身軽になった男は大いに呑み、陽気に騒いだ。しばらくして、川風に当たりたいと、庭伝いに隅田川のほとり向かった。あとから、女郎、芸者、幇間はもちろんのこと、遣手(やりて)や若い者などもぞろぞろ従う。遣手とは、遊女を監督する女性のことだ。

「ちょいと、泳ぐかな」男はその場に着物を脱ぎ捨て、ふんどしひとつの素っ裸になった。皆は口々に、「おやめなさいませ」と、止めようとした。「心配するな。俺は水練は達者じゃ。向こう岸に着いたら、すぐに戻ってくる」と言い捨て、じゃぶじゃぶと水のなかにはいっていった。抜き手を切って泳ぎ、やがて、その姿は闇に消えた。

その後、いつまで待っても男は戻ってこない。皆は心配になり、若い者が吾妻橋をとおって対岸に渡り、あたりをさがしまわったが、男の姿はどこにも見えなかった。楼主も心配になってきた。そこで、あずかっていた紙包みを開いてみたところ、中身は金ではなく、重さと形をそれらしく見せかけただけの代物だった。けっきょく、妓楼の大損となった。 

2016.08.16   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

もう一つ別の台風なのか、それにしては、、、(´△ `)?
どうも話が読めなかったのですが、
嵐は嵐でも、かわいい嵐ちゃんの進路だったのですね。

69話は、吉原で食い逃げの、分かりやすいお話ですね。
計画的な知能犯!

2016.08.17   麦   編集

麦さん、こんばんは。

昨日はまずまずの恵みの雨でしたが、池の水が回復するところまで行きませんでした。なので、ここしばらくはモロコにとっては水不足が続きます。

我が家を襲う嵐は、お正月とお盆にあわせて来襲します。嵐のあとはちと寂しいのですが、それよりもほっとする気持ちのほうが大きいかも~



では、歴史夜話70です。ちょいと今どきすぎる話題です。


1600年(慶長5年)7月18日、徳川方が守る伏見城を石田三成率いる西軍勢が攻撃をした。いわゆる関ヶ原の前哨戦である。この戦いは伏見城の落城により勝負は着いたが、少人数を残して城を守らせていた徳川家康からしてみれば想定内のことだった。この伏見城の戦いで守将鳥居元忠が討ち死にをしたことを知った家康は、上杉の会津討伐中の小山において軍議を開いた。

この時大半の武将は徳川方につくことになったが、小山から少し離れた犬伏というところで親子会議を開いていた真田家は親兄弟敵味方に別れる事により、真田家を守る事を決意する。そして上田城の攻防のなかで島田兵四郎の逸話も後世に伝わることになった。

歴史夜話70
西軍についた真田昌幸・幸村親子はすぐさま軍を上田に向け西に進軍した。そして東軍についた真田信幸はそのまま家康のもとに駆けつけ忠誠を誓った。昌幸はまず信幸の居城沼田城へ立ち寄り、あわよくば沼田城を乗っ取り合戦を有利にしようと考えた。昌幸は沼田城に開門をするように呼びかけたが、門はピクリとも動かない。

そして門の上に姿を表したのが信幸の正室小松姫だった。小松姫は何故義父上(昌幸)がここに居るのか?夫はいないのか?など聞き、門を開ける気配は全くなかった。そこで昌幸は沼田城乗っ取りを諦め、孫の信吉、信政と会わせて欲しいと頼む。小松姫は最初はこれを断りましたが、門の上から月明かりの下に2人を連れてきて昌幸と顔を合わせることを受け入れたのです。昌幸・幸村親子は1晩沼田城下の寺に宿を取り、翌早朝上田へ向け出発をした。その後に、小松姫は石田三成挙兵の知らせを知り、見事、夫信幸の名目を守ったのだった。

1600年(慶長5年)8月24日宇都宮を出発した秀忠軍は9月2日に小諸城に入城した。ここはまず昌幸を降伏させようと信幸と本田忠政(本多忠勝の嫡男)を使者に送り出し、9月3日に国分寺で秀忠と正幸との会見を提案した。この席に昌幸は頭を丸めて現れ、開城する旨を伝えた。ただし開城の準備をしたいので1・2日だけ準備をさせて欲しいと申し出た。これに忠政は喜んだが、信幸は父がこんなに簡単に降伏するとは思えないと感じたが、昌幸の言葉を秀忠に伝えた。

しかし、何時までたっても上田城は開城する気配を示しません。不審に思った秀忠は開城催促の使者を送ると驚きの返答が返ってきました。「戦の準備時間をいただきありがとうございます。既に籠城の準備は出来ましたのでいつでも攻めて開城させてください。」なんと、開城ではなく宣戦布告をされて戻ってきたのです。

これには秀忠も大激怒! 9月5日まず手始めに幸村が守る砥石城を信幸に攻略するように命じた。幸村は信幸が進軍して来たのを見て戦わず砥石城を明け渡し、上田城に戻ってきた。これにより信幸は兵力を失わず砥石城を攻略したことになる。実はこれは昌幸の考えで、信幸に砥石城攻略の手柄を立たせると同時に信幸を砥石城に封じるものだった。同じ真田の兵で同士打ちを避けるためだったが、もし信幸以外が攻め込んできた場合は叩きのめすように幸村に命じていた。

そして9月6日、徳川秀忠を総大将とする徳川軍主力部隊3万8千が上田城に立て籠った真田昌幸・幸村親子に対し攻撃命令を出した。このとき真田籠城軍はわずか2千~4千だったと言われている。

まず6日に秀忠は上田城外の染谷台に陣を敷き上田城を包囲した。秀忠は真田軍をおびき出すために実り始めた稲を刈り、慌てて出てきたところを叩く作戦をとった。しかし、これは昌幸によまれ、逆に挑発をされ徳川軍は上田城へ独断攻撃を仕掛けることになった。徳川軍は上田城深くまで攻め込んだ時に、真田軍の伏兵があちらこちらから襲いかかり大混乱に陥り、総崩れこそまぬがれたものの大損害を受けた。

こうした状況のなか徳川秀忠軍はなかなか攻撃をすることができなくなり、無駄に時間だけが過ぎていくことになった。そして秀忠に「家康が岐阜に入った」という知らせが届く。上田で足止めをしている間に決戦の日が刻一刻近づいていたのです。流石にこれに焦りを感じ秀忠は急いで関ヶ原へと向かいますが、道中の悪天候などによりなかなか軍を進める事ができず、9月15日の関ヶ原の戦いが終わってから4日後に家康のもとに到着をします。

この戦いにより真田の名はさらに高まる。これについて徳川方にとって不運だったのが前回の上田合戦の参加者が信幸を除いて秀忠軍に誰一人としていなかった事と、秀忠に家康が岐阜に到着したという使者が到着したのが9月9日とかなり遅れた事があげられる。さらには関ヶ原へ向かう際悪天候に見舞われ行軍がうまくいかなかった事など不運もあった。

昌幸と幸村は二度の上田合戦で勝利を収めましたが、関ヶ原の戦いで家康に敗れたため、敗将となった。まさに死罪とされるところ、信幸と小松姫の父本多忠勝の懇願により高野山に流罪になった。上田から高野山へ行く際、昌幸は「さてもさても口惜しきことかな。内府をこそ、このようにしてやろうと希うておったものを」とつぶやき涙を流したと言われている。


最後に、この戦いの時のあるエピソードです。
秀忠が冠が岳にいる先陣の石川康長、日根野吉明に連絡をするため島田兵四郎という者に伝令として出します。しかし、兵四郎は地理がよく分からず、不慣れなため敵の籠る上田城を通って行かなければ目的地に到達することができませんでした。このとき兵四郎がとった行動はなんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(秀忠)の家来の島田兵四郎という者です。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいきたく、どうか城内を通してくだされ」と叫びました。

味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話です。前代未聞の出来事だったため番兵たちは、真田昌幸に報告すると、「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けて敵の伝令を通すように指示しました。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言って冠が岳へ向かいました。

その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ。」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったといいます。

城内を一覧した兵四郎は礼を述べ、大手門を出て味方の陣に戻り、秀忠に復命した。道を借りる武士も武士なら、貸した大将も大将である。

2016.08.18   えんてつ   編集

えんてつ さん

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ホンモロコの住まいに、水道水というわけにいかないですよね。
北海道に大水をもたらす台風、、、うまくいかないですね。

かわいい嵐は、来るもよし、帰るもよし(*^▽^*)

歴史夜話70!
まさに今どき、ですね~!
それで、兵四郎は復命のレポートに、上田城内の見取り図を描いたかどうか。


2016.08.18   麦   編集

麦さん、こんばんは。

なかなかうまくはいきません。
賽の目と雨雲は意のままにはなりませぬ(笑)
池の水があるかぎりは大丈夫だと思います。
それでいまの池の水量は30%ぐらいです。

二度目の上田合戦では、秀忠は徳川本軍を率いていたことで関ヶ原の遅陣となっては、家康から勘当されてしまうことになりましたね。
兵四郎のレポ-ト役に立てて欲しかったです。



さて、71話は、二宮金次郎さん。薪を背負って歩きながら本を読むなんて親孝行というより危険行為だということのようですが、ついこの間までは日本の偉人のひとりでした。



御殿場村(現・静岡県御殿場市)は1615年(元和元年)徳川家康の旅宿として建てられた「御殿」を中心に作られた新しい町だったが、翌年家康の死によって御殿は一度も使われることなく終わった。この新しい町は付近の旧集落を再編成して移住政策でつくられた。

この新しい町を発展させたのは奥住新左衛門というひとりの浪人だった。この土地は、江戸時代には駿河国駿東郡鮎沢庄御厨領竈新田と呼ばれていた。新左衛門は信州真田氏の浪人であったがもとは越前浅井氏の家臣で、浅井氏滅亡後、真田氏に仕えたらしい。その後浪人して川中島付近に隠棲していた。

1837年(天保8年)この土地で「二宮尊徳」という啓蒙家が教訓を残した。少し前までは国内の多くの学校に二宮尊徳の像が立っていた。

歴史夜話71
竈新田完成の4年後の1642年(寛永19年)新左衛門は小田原城主の稲葉丹後守正勝に仕官した。この時新左衛門は自ら開発した竈新田を、そのまま所持地と認められ、稲葉氏の家臣となった。この土地は、1632年(寛永9年)領主忠長が家光によって改易され、小田原城主に封ぜられた稲葉丹後守正勝が、1万石の替地として支配するところとなっていた。

1837年(天保8年)春、稲葉氏の所領の御殿場御厨領において二宮尊徳が村人に話をした記録が残されている。

その内容は以下のとおり。

家を保つも身を治むるも、金銀のできるも、何の不思議はない。誠の一つをもって貫くのじゃ。誠は天の道、これを誠にするは人の道というものじゃ。粟を蒔けば粟が生え、麦を蒔けば麦が生え、米を蒔けば米が生え、皆その通りに性命を正しうする。これを天の道という。

それをおのれおのれが勝手に朝寝をしたり、遊んで食ったり、寝ていて食ったり、ぐたついて過ぎようとは、粟を蒔いても麦を蒔いても、米を取ろうとするようなもので、田にも畑にもろくろくな肥料もなさずにおいて、働かせようとするゆえ、去年のような凶作には人より先へ、食糧を天からお取り上げじゃ。これが粟を蒔いて粟が生えたのじゃ。田畑を飢えに及ばしたからおのれおのれも飢えに及ぶのじゃ。何の不思議はない。これが天の道じゃ。かように善悪ともに報うのじゃ。

さすれば飢えるともくたばるとも勝手次第にするがよい。平生田畑へ肥料をたんとやっておいた人は、去年も今年も食糧に差し支えはない。米を蒔いておいたから米が取れたのじゃ。皆々銘々精根次第の手細工じゃ。

それじゃによって、飢えるものは飢えても、くたばるものはくたばってもよけれども、同じ村に生まれて、同じお百姓同志なれば、同じ家内も同然のようなれば、家内の肉のけずれるのを見ていても済まぬによって、有る者はこの節融通してやるがよい。50年に1度のことなれば、この節、人の命の救い時じゃ。救うた者は忘れるがよし、救われた者は子々孫々まで忘れぬがよし。

また、御拝借5か年賦は、銘々その日その日の家業の外に、夜、縄なりワラジなり、または山付きならば定まりの外に朝起きして炭なり何なり、それぞれ得手得手の余業を励み勤めるなり。その上一統申し合わせ大倹約をいたし、また祭礼仏事等も、寺々への付け届け厚く相勤め、そのほか普請(ふしん)家作(かさく)・月待・日待・振舞いごと、その外何によらず、不用の事、不用の品を少分たりとも求めること一切慎むのじゃ。

このたび露命をつなぎし事を忘れずば、5年や10ヵ年は何でも勤まる倹約じゃ。この所をよくよく感心して、本心に立ち返り勤めさえすれば、何ほどの凶作でも、凶年もないが別に豊年もない。ぜんたい年々豊凶は6,7月より知れてあることじゃ。いよいよ今年5分6分、2分3分作の陽気と見えたら、それぞれの暮らしを付けねばならぬ。ことに去年のこの辺は、2分3分見定めても、それをうかうかと平年の7,8分の暮らしをしておるによって、さあ狂言が違うて来たのじゃ。

田畑の事ばかりじゃない、何事もこの通り、前々より商売が不景気なら、その通り不景気の暮らし方を付け、その時々を計って暮らせば間違いないのに、その振舞いが違うゆえ、凶作が来たらにわかに目が覚めたのじゃ。皆、天の思召(おぼしめ)しに背いたによって、かく難渋つかまつるのじゃ。

今日より天の言い付けどおりに守りさえすれば、返す返すも言う通り、粟を蒔けば粟が実り、米を蒔けば米が実り、善い種を蒔けば幸いが実り、悪い種を蒔けば害実るが、天の誠の道、これを誠にするは人の道なりとは報徳の事なり。

小人は小金ができると上を見はじめる。それよりだんだん奢りが始まり、衣食住、髪形、諸道具類、唐物(からもの:中国からの輸入品)、和物(わもの:京都西陣織など)を好み、遊芸、盤芸(碁・将棋)、茶の湯、俳諧、生け花・立花と、所々の遊客寄り集まり、それより家業は次第に不精(ぶしょう)になるほど、飲食をよくして色欲と、次第次第、貧乏不如意となるにしたがって、いよいよ奢りが強くなっては、人のいさめも聞かず、凶作が来ると人より先へ飢える。

その裏は小金ができるほど吝嗇になり、おのが勝手を好み、利欲が強く、人を見下げ、人は心柄じゃとおのが自慢し、小金ができるほど道を失う。それより貧乏人はおのれが不精(ぶしょう)、不始末、惰弱はいわず、人をそしり恨みて、小言が始まり、悪いたくみが次第につのり、押し借り打ちこわし、その小言が止むと色が悪くなり、いよいよ飢えに及ぶのじゃ。その時に至り後悔しても仕様がない。これから本心に立ち返り、家業を励むよりほかはない。福者のためには貧乏人が福の神じゃ。貧乏人が寄り集まりて、売ってはふやしてやり、買ってはふやしてやり、」つまるところは皆、福者の果報になるじゃによって、少しは借り倒されても、もらい倒されても了簡(りょうけん:勘弁)したがよい。

これが世界中金持ちばかりでは、売りに来る人も買いに来る人もないが、その時は田も畑も預ける人ばかりで作る人がなくては、その時は福者も金持ちも、貧乏人に引き換えて、渇命に及ばにゃならぬ。ここをよくよく考えてみれば、貧乏人じゃとても見捨てにはならぬ。また貧者も去年より引き続いて種々恵みをうけても、有る者は当たり前などと冥理(みょうり)を知らぬ大罰当たりのものもまれにはあるものじゃが、心得が悪いと貧する上にも、またまた子々孫々までも貧する種をまくじゃ。よって有り難いという事を少しも忘れてはすまぬ。貧者と福者とは話が違う。皆、耳にばかり聞かぬように、腹の中へ聞き込むがよい。

天照大神宮様は、田も畑も鍬も鎌も何もないところへ天降りましまして、ご丹誠遊ばされたのじゃ。それを今、望み次第に、田でも畑でも、鍬鎌でも諸道具でも、困らぬようにできているのじゃ。ただ誠の一つさえ取り失わねば何も不足を言うことはない。不足言うはおのれが皆嘘ばかりつくしておいたその報いじゃ。

2016.08.18   えんてつ   編集

麦さん、こんにちは。

こちらきょうもアツアツです。
歴史夜話も今日で72話まで進んできましたが、なんとか100話まで進めたいものです。

72話は、井伊家の縁の下を支えた武将のお話です。


1602年(慶長7年)2月1日、井伊直政は関ヶ原の合戦での過労と島津義弘軍の追撃で受けた鉄砲傷の破傷風が元で、43歳で死去した。このとき直政は家老の木俣守勝を枕頭に呼び後事について遺言した。「井伊家は徳川殿のお取り立てによって今日があることを忘れてはならぬ。徳川家へのご奉公第一につとめること、忠節一筋を心掛けよ。これは代々家を継ぐものに申し送って、違反の無いようにさせよ。また井伊家では将軍家やその一門など、権勢高い家とは婚姻を結ばないよう」であったと伝えられている。

歴史夜話72
井伊直政は関が原の合戦の功で近江佐和山18万石の大名となった。しかし、合戦で受けた傷がもとで藩主として国を治めることができなかった。彦根藩は直政の後を次男の万千代 (幼名・直継のちの直勝)が継ぐことになった。直勝は13歳だった。

このとき、家康は彦根藩筆頭家老の木俣守勝を幼主直勝の補佐役に命じた。この時期は彦根城築城も始まっており、木俣守勝は総奉行を務めていた。木俣は彦根藩の後継体制が整うと徳川家康を御礼に訪ねた。その時、家康は木俣をそば近くに召して、「佐和山城は東西南北の各地にわたり、諸国の押さえ足るべき要地であるから、ことさら重要視している。汝はいよいよ幼君を守護せよ。天下の大事はここにあるぞ」と告げた。

木俣守勝は、徳川家康が佐和山を重要視しているのかと、その守りを我が井伊家に託されていること、その責任の重大さに身を震わせて御前を退出したという。

木俣守勝は1555年(天文24年)三河に生まれ、父の代より徳川家康に仕えた三河譜代の家柄であったが、家族と仲違いをして、一時明智光秀に仕える。光秀配下で軍功があり、強制的に家康から帰参を命じられた。本能寺の変後の甲州平定において、守勝は北条との交渉の副使になった。このときの正使は直政である。守勝は年下の直政をよく補佐し、北条家との交渉をうまく進めた。

また1582年(天正10年)の本能寺の変では、家康の伊賀越えを警護した。また旧武田軍の武将をまとめて井伊直政付とし、直政を侍大将とする軍団を創った。このとき兵士のまとめ役として木俣が専任された。家康は、守勝が武田旧臣らを統率できると見込んで井伊直政隊の隊長とした。直政亡き後の彦根藩を支えたのは木俣守勝の力が大きい、隠れた名武将だろう。

2016.08.20   えんてつ   編集

えんてつ さん

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こちらは、昨日の、ほゞ晴れを挟んで、強い雨、弱い雨の繰り返し。
おかげで、ここ数日はクーラーなしで眠れています。

延び延びになっていた二宮金次郎さんですが、
おぉっ!
興味津々の72話、彦根城の井伊家ですね!

2016.08.20   麦   編集

麦さん、こんばんは。

レンゲショウマの蝋細工のような姿には惹きつけられますね♪

我家のレンゲショウマ、今年は水不足で立ち枯れ状態なんですよ。いま頑張って水遣りしてるんですが花はともかく復活を祈るばかりです。


さて、歴史夜話73話は特別篇ということでご了解願います。



日本国憲法は誰が書いたのか!? この議論は先の日中戦争や太平洋戦争が正義の戦争だったのか侵略戦争だったのかという論争にも関わってくる。自民党内の安倍一強体制は憲法9条を改正して、自衛隊を日本の正規軍にしようという企みを見せ隠してきましたが、改憲勢力が国会を牛耳ったことで表面上はト-ンダウンに見せかけて当面は国民懐柔路線へと切り替えたように見える。

いまアメリカでは次期大統領の候補者選びが終了して本選に向けての論戦のまっ最中です。そんななか、ジョセフ・バイデン米副大統領が8月15日、ペンシルベニア州スクラントンで開かれた民主党大統領候補のヒラリー・クリントン氏の集会に初めて参加した。そこで行った演説の中には日本にとって非常に重大な発言があった。

歴史夜話73
その重要な発言は対立候補であるドナルド・トランプ氏の発言内容に関連したものだった。共和党大統領候補のドナルド・トランプ氏はかつてインタビューの中で「日本が在日米軍駐留経費を全額負担しないと言うのであれば、日本は自力で国を守るべきだ。そのために核兵器を保有するというのであれば、それはそれで結構だ」といった趣旨のこと語った。

バイデン副大統領はこの発言に反論する形でこう発言した。「トランプ氏は、私たちが書いた日本の憲法で(日本は)核兵器保有国になれないことを理解していない」・・・・・・英語の原文では「Does he not understand we wrote Japan’s constitution to say they couldn’t be a nuclear power?」とあり、確かに、「私たち(米国)が書いた」と書かれていたのだ。政治集会での過激な発言?だとしても、現職の米国副大統領が「私たちが日本国憲法を書いた」と表現するのは極めて異例のことだ。

しかし、不思議なことに、インタ-ネットで流れてくるだけのニュ-スで、どの国内メディアも大きく取り上げることもなく、護憲派からの強い反発も、改憲派からの「やはり占領軍の押し付け憲法だった」といった類のコメントも出て来てはない。

安倍首相は右翼・日本会議のメンバ-で、言わずと知れた憲法改正論者である。安倍首相の根底には、日本の戦争放棄を謳った憲法9条の成立過程について、連合軍最高司令部(GHQ)から押し付けられたものであるとの認識がある。安倍首相は戦後生まれではあるが、憲法に関しては安倍首相の敬愛する祖父・岸信介元首相の強い影響が見られる。

岸信介氏は1948年12月に巣鴨刑務所から釈放されてから1953年4月に政界復帰するまでの期間、故郷・山口県田布施町に隠遁していたが、当時の後援会小冊子に「憲法は云ふまでもなく独立国の拠つて立つ根本法である。現行の憲法が占領下に於て時の占領軍の最高司令官から押し付けられたものであり、原文が英語で書かれた翻訳憲法であることは今日では公知の事実である。斯くの如き憲法を持つて居る独立国は古今東西に其の例を見ざるところである。」と書いている。

岸信介氏は政界復帰後の54年3月、当時の自由党内に発足した憲法調査意会の初代会長に就任するが、そのはるか前から「現行憲法はGHQの押し付け」という認識を抱いていたのは明らかで、そして、安倍首相はそれを確実に継承している。

しかし、安倍首相自身も安倍内閣の閣僚も今回のバイデン米副大統領の発言に我が意を得たりというコメントもなく談話のひとつも流れて来ないのは不思議なことだ。一体全体なぜなのか。

その理由があるとすれば・・・一つしか考えられない。先般流された天皇陛下の「お気持ち」表明に込められた生前退位の問題が、事実上の政治意味を持ったからだろう。いま我が意を得たりという改憲問題を天皇の生前退位問題よりも先んじて論ずれば国民の支持を失う危険があるという判断を安倍政権サイドの小姓たちが下したのだろう。

日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

2016.08.21   えんてつ   編集

えんてつ さん

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けなげで頼りなげに咲きながら、凛とした蝋細工のようなところが魅力なのかもしれませんね。
色も、いいと思います。

えんてつ邸の環境で、レンゲショウマを咲かせられなかったら、植物に携わる者の風上におけませんね(*´▽`*)


73話は号外ですね。
> 一体全体なぜなのか。
理由は一つ?
天皇のお言葉のビデオが公開されたのは、たしか8月8日でしたよね。
これは政府が決めた日時ですよね?
だとすると、その「理由は一つ」に矛盾すると思うのですが、、。
私が理解できてないのかもしれませんけど。

2016.08.21   麦   編集

麦さん、こんにちは。

ぜんぜん矛盾しません。
生前退位問題も改憲問題も8月に突然出てきた問題ではないからです。

天皇の生前退位は、どういう方法で意思表示するかということで数年前から検討されていたようです。
天皇は立法権がありませんから、法改正を伴うことを直接具体的に自ら主張することが出来ない。
難問といえば難問といえます。

そんな中で、選挙で改憲勢力が2/3を確保したということで、ここは一息ついて、まずは生前退位のほうをなんとかしようということでしょうね。

アメリカ副大統領の発言は、天皇の退位問題が片付いたらすぐに遡上にあがることは間違いないでしょう。

国民のなかに定着している現行憲法ですから基本的な部分を改正する必要なんかありません。時代を逆方向に動かす必要があるとは思えません。

追伸として・・・・
現行の日本国憲法は大日本国憲法の改正によって制定され天皇が公布しました。法政上そういう方法でしか新しい憲法を制定できなかったのです。

2016.08.21   えんてつ   編集

えんてつ さん

> 生前退位問題も改憲問題も8月に突然出てきた問題ではないからです。

ですよね。
その「理由は一つ」なのに、広島と長崎と、終戦記念日の8月の、8月8日だったのでしょう。
逆効果のように思うのですが、、、。

検索すると、えんてつさんのご意見と同じことが書かれていますね。

私が理解できてないと思うので、これを論じ合うと、終わりのないヤリトリになりそう(-_-;

これで終わりでよろしいです(^^ゞ

2016.08.21   麦   編集

麦さん、了解です。

東京は台風の真っ最中のようですが、被害など出ませんように・・・・

では歴史夜話74を送ります。


1862年(文久2年)3月23日、脱藩の決意を固めた龍馬は、酒をもって吉野の花見にと土佐高知神田の和霊神社に詣で、武運長久を祈願し水杯をもって、決別の覚悟を秘めたと伝承されている。

伊予宇和島藩の家老、山家(やんべ)公頼は通称・山家清兵衛と呼ばれていた。宇和島藩のお家騒動の渦中で命を落としたが「宇和島の菅公」とも云われ神様になった人物であった。

歴史夜話74
山家清兵衛の先祖は山形城主最上家の臣で最上義守の娘の義姫が伊達輝宗に嫁いだ時に清兵衛の父・公俊が付人として伊達家の臣となった。

1615年(元和元年)伊達政宗の長男(庶子)の伊達秀宗が、宇和島十万石に封じられた。その時、政宗が、家臣の中でも力量手腕の優れた「山家清兵衛公頼(やんべせえべえきんより)」を総奉行として藩政を委託した。清兵衛は藩の財政の立て直しに力を発揮し、宇和島藩は少しずつ豊かになっていくかのように思えた。
 
1619年(元和5年)幕府より大阪城石垣工事の命が下った。工事費用は、課役と言って宇和島藩で全て負担することになった。ようやく、藩の財政が落ち着きかけた時であり、この出費は頭の痛いものだった。このことがきっかけで、家老の桜田玄藩と山家清兵衛の各々のやり方が対立した。ついに桜田玄蕃は藩主秀宗に讒訴した。

1620年(元和6年)6月30日の夜、藩主伊達秀宗の意を受けた武士たちが山家邸を襲い、清兵衛を始め、二男、三男および縁故者までも殺害し、四男美濃(9歳)をも井戸に投げ入れて殺害した。更に清兵衛派の腹心・峯金三郎も殺害され、渡瀬太郎兵衛、小間木弥主膳らが逐電するという宇和島伊達騒動と呼ばれる事件が起こった。

ところが清兵衛を讒訴した桜田玄蕃は1632年(寛永9年)法事中に大風で落ちた本堂のハリで圧死、それ以後この事件に関与した者が相次いで海難や落雷で変死したため、人々は清兵衛の怨霊の祟りと恐れ、信ぜられるようになった。1653年(承応2年)藩主伊達秀宗はその霊を城北の地にまつり山頼和霊神社を建てて清兵衛を祀った。

仙台藩・四代伊達綱村の宇和島・二代伊達宗利宛の書状に「兼て及承候ハ、秀宗公山家清兵衛と申者御成敗(かねてうけたまわりおよびそうろうは、秀宗公山家清兵衛と申す者ご成敗)」とあり秀宗の密命により成敗されたことは明らかであり、父・政宗はその報告に激怒したという。

和霊神社は江戸中期から幕末・明治にかけ和霊信仰として流行して各地に伝播し、現在四国・中国地方瀬戸内海沿岸を中心に130社以上の和霊神社がある。

2016.08.21   えんてつ   編集

えんてつ さん

台風ですね。
午後は、二胡のレッスンで出かけなければなりませんが、どうなることやら、、、心配していてください(≧▽≦)


74話
> 1653年(承応2年)藩主伊達秀宗はその霊を城北の地にまつり山頼和霊神社を建てて清兵衛を祀った。

ということは、秀宗は、桜田玄蕃の訴えが虚言だということを解っていたのですね。

尾道の瀬戸内海に面する道路に沿って、神社の数が多いのに驚いたことがありました。
この和霊神社に関係しているのかもしれませんね。

2016.08.22   麦   編集

麦さん、こんにちは。

台風心配ですが~

あっ、このご時世、ぜひとも少子高齢化担当として腕を振るってほしいものです。

機動力旺盛な麦さんですから、次回の尾道では探索箇所がひとつ増えますね~♪



では、75話目です。このペ-スでは9月中旬までに100話は難しいかもしれません、諦めは早いほうなのでどってことありませんが、麦さんには申し訳ないので早めに謝っておこうかな~っと。



濃尾平野を流れる三大河川の木曽川・長良川・揖斐川は、江戸時代には乱流河川となっていて、現在の大垣市墨俣(すのまた)町より南の地域は、一本の川になっていた。このため大雨のたびに氾濫し、地域住民はこの自然の威力にただただ逃げまどうばかりでした。

江戸幕府は大名統治の一環としていわゆる多くの土木工事を命じて莫大な財性負担を課しました。なかでも薩摩藩は、外様藩であり、関ケ原の合戦では豊臣方に参戦するなど、幕府を脅かす南海の雄藩でした。

幕府は薩摩藩に、藩の財政力を弱めるため、大規模な治水工事を計画しその工事を命じました。この事業が、「宝暦(ほうれき)の治水工事(堤防や洗堰の建設)」と呼ばれるものです。この工事で薩摩藩は、30万両とも40万両(現在の金額にして 300億円以上)とも言われる大金と多くの犠牲者を出し、幕府役人の圧迫や病に苦しめられながら、血と涙と汗で見事に完成させました。 
 
この治水工事を総奉行として指揮した薩摩藩士・平田靭負(ひらたゆきえ)は、工事中に多くの死病者を出し、また多額の費用を費やした責任を負い、1755年(宝暦5年)5月25日、工事完成の翌日に割腹し果てました。時に52歳でした。この事実は幕府によって140数年間、闇に伏せられたままでしたが、1900年(明治33年)薩摩義士の偉業として明らかになりました。

歴史夜話75
「宝暦の治水工事」は地元の人々に多くの恩恵を与えました。宝暦治水工事が行われた当時、桑名郡戸津村(現在の桑名市)の代官職であった西田喜兵衛は、薩摩藩士に住居を宿所として提供するなど、協力を惜しまない人でした。西田家では、「薩摩のご恩、忘るべからず」ということを言い伝え、代々、宝暦治水の顕彰活動に尽力しました。

1753年(宝暦3年)、幕府から宝暦治水を命じられた薩摩藩では、この工事を引き受けるか否かで紛糾し幕府との開戦論議さえ起こりました。この時、家老であった平田靭負は「幕府と戦えば、薩摩は戦場となり、罪もない子どもや百姓までもが命を落とす。ならばこの治水事業を引き受け、異国といえど美濃の民百姓を救うことこそ、薩摩隼人の誉れを後世に知らしめ、御家安泰の基となろう」と、いきりたつ家臣を説得、幕命を受けることとなりました。

1754年(宝暦4年)1月、総奉行・平田靭負は947名の薩摩藩士を率いて故国を出立しました。途中大阪に立ち寄り当座の工事費数万両を調達した後、美濃の大牧村(現在の岐阜県養老町内)の鬼頭兵内宅を本小屋とし、同年2月より工事は始まりました。

しかし、美濃のように大河のない薩摩藩士にとって、目前を流れる木曽三川はまるで手に負えません。刀を持つ手を鍬にかえ、暴れ狂う濁流に向かったのでした。しかも、薩摩藩士を待ち受けていたのは幕府による冷遇でした。「食事は一汁一菜、酒や魚は一切禁止」という日常的なことから、町方請負禁止などの工事上の難題にいたるまで、さまざまな悪条件のもとで、工事は行われたのでした。

1755年(宝暦5年)二年余りかけて工事は完成しました。その成果は、幕臣からも賞賛を受けるほど、見事な出来栄えでした。しかし、工事では、薩摩藩士の死者87名、うち、自刃した者54名という犠牲者がでたこと、洪水による竣工部の被災などの苦労や、幕命による度重なる計画変更、追加工事などの過酷な条件を乗り越えての完成でした。

5月24日国元の藩主宛に工事がすべてとどこおりなく終わったことを報告する手紙を書き、その翌日未明、大牧村(現・養老町)の薩摩藩役館で自害しました。52歳でした。藩主への報告の手紙には、一切自分の苦労を書かず、工事完成の喜びだけを書いています。

辞世の句
「住みなれし里も今更名残にて 立ちぞわづらふ美濃の大牧」

1938年(昭和13年)平田靭負をはじめ工事中に亡くなった薩摩義士の人々は治水神社(現・海津町油島)に祭られました。

2016.08.22   えんてつ   編集

えんてつ さん

台風は通過したようで、雨も風もなく静かになりました。

涼しくなったら、尾道を、ゆっくり回るのもよいですね。

9月中旬までに100話の予定でしたか?
急ぐのは苦手ですので (-_-;)、、、
謝っていただくような、気になることはありません。


75話は、聞いたことのない薩摩藩士が登場しましたね。
のちには、篤姫も悲しまれたでしょうお話ですね。

2016.08.22   麦   編集

麦さん、こんばんは。

けっこう荒れたようですね。


尾道いいですね~♪

100話は一応わたしの目標であり、麦さんに約束の数字だと思っておりまする。


76話を送ります。しばらくキリシタンと鎖国の物語りをしたいと思います。



1549年(天文18年)8月15日、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来日した。ザビエルはマラッカで日本のことを薩摩武士のアンジロ-から聞き日本行きを決めた。アンジロ-は薩摩で殺人を犯してマラッカに潜行していた。

ザビエルに対面した島津貴久は南蛮貿易の利を考えて布教を許可した。しかし思惑通りに貿易船が来ないことから布教を禁止した。そこでザビエルは薩摩から京都に出て将軍に布教許可を得ようとする。しかし、京都は戦乱で荒廃しており、山口で布教し、次いで府内で布教を行った。

その後、ザビエルに続けとばかりに3人の布教者がやってくる。ガスパル・ビレラ、ルイス・フロイス、アレッサンドロ・ワリニャーニである。ビレラはイエズス会の生みの親であった。しかし京都で大道説教をして笑い者になって迫害されたが、三好長慶の目にとまって堺で布教し、堺を自由都市として評価した人物となる。

フロイスは信長と面会し質問攻めにされる。ここで信長は布教を公認し、京都に南蛮寺建設を許可する。後に「日本史」を著し、当時の日本の状況を知る好史料となっている。フロイスは信長を唯物論者と評価していた。

ワリニャーニはイタリア人で、長崎で布教して活字印刷術を伝える。これで聖書などを印刷し布教を行った。

歴史夜話76
織田信長が伴天連教(キリシタン)布教を公認すると、大名の中にも貿易の代償として領内での布教を許す者が続出する。そして更なる貿易利益の獲得を求めて自ら入信する大名も現れる。大村純忠、大友義鎮、有馬晴信である。大村 純忠は最初に洗礼を受けた大名で1580年(天正8年)、長崎をイエズス会 に寄進し「日本のマカオにしたい」といった。

大友義鎮は49歳で洗礼を受け、反対する妻を離婚した。洗礼名をドン・フランシスコと称した。国内での信者が増加すると各種の専門施設も建設された。有馬晴信はワリニャーニに日本最初のセミナリオ(布教のための神学校)を領地有馬に造らせた。コレジオは神父を養成する施設で府内に最初に建設された。神父は「Padre」が訛ってバテレ ンと呼ばれるが、日本人でバテレンになった者はいない。修道士はイルマンと呼び、日本人のイルマンはたくさん養成された。また南蛮寺という仏寺を教会にした施設も造られた。これは1552年の山口大道寺が最初で、1560年にはビレラが京都にも造った。

1582年(天正10年)大村、大友、有馬の3大名がワリニャーニの勧めで使節団をロ-マに派遣した。「天正遣欧使節」と呼ばれる使節団のメンバ-は、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、伊東マンショの4名で13~14歳だった。使節団はインドのゴア経由でリスボンに行き、1585年、グレゴリオ3世に面会、ローマ市民権を与えられた。しかし、1590年に帰国したときは秀吉の時代になっており伴天連禁止令が出ていた。不幸にも使節団は帰国と同時に犯罪者として束縛された。

その後、伊東マンショは病死。原マルチノは語学ができたので、一時秀吉に仕えて通訳や出版に従事したがマカオに追放される。千々石ミゲルはイルマン(修道士)になったが、改宗して大名に仕えた。中浦ジュリアンは布教して刑死した。

伴天連(キリシタン)は、民衆に対しては病気治しをおこなって信者を増やしたが、庶民的には仏教の一派と考えられていた面がある。1598年ごろには30 万人の信者を獲得したとの報告がある。その後増えて最大60万人とも言われている。

次回は、秀吉と家康の伴天連政策を眺めてみよう。

2016.08.23   えんてつ   編集

えんてつ さん

今回の台風は、意外なところに、けっこう被害をもたらしたようですね。
ここ周辺は免れました。

100話が目標とは伺っておりましたが、期限は、まだまだ先だと思っていました。
ま、どうぞ、ご自由に、、、(*´▽`*)

来た―!
カタカナ!
人も花も、カタカナの名前は覚えにくい・・・(-_-メ)



2016.08.24   麦   編集

麦さん、こんばんは。

可憐な山野草を目の前で咲かせることは、花咲か娘冥利に尽きると思います。

上からも下から観てもなほやまず ~ソバナ


期限がないと約束とは言えません。
約束でないときちんと守る意欲が低下しそうなもので・・・

カタカナ、しゃあないっです(笑)


ということで、今夜は77話です。
少し長いですが、許されたし・・・・・



1587年(天正15年)6月19日、時の関白・豊臣秀吉より伴天連追放令が出された。布教は拡大する一方であった伴天連教界にとって、それはまさに突然の出来事であった。

伴天連追放令の発布理由は、確かなことはわかっていない。おそらく秀吉の統一事業が完成に向かうにつれ、伴天連の結束力を驚異と感じるようになったのではないだろうか。一向一揆や国人一揆の団結力を目の当たりにしていた秀吉が、九州に来て伴天連の状況を把握して、伴天連が一向宗や国人以上の脅威となりうると感じたのであろう。

歴史夜話77
追放令に先立つこと2日、6月17日、日本準管区長コエリョを訪ねた高山右近は、先の秀吉による九州知行割りで、キリシタン大名が九州に集中する事となったことについて言いしれぬ不安を口に出していた。コエリョは九州の伴天連教界がさらに拡大すると楽観的であったが、右近は何か急変か迫害の予感を感じていたに違いない。

翌6月18日、秀吉から「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事」という一文から始まる朱印状が出される。「キリシタンになるかどうかは、その者の心次第である」と言った意味である。この朱印状の大体の内容は、伴天連の神社仏閣への破壊活動や、巡回布教を取り締まる、と言ったところであった。ところが翌6月19日に急遽出された伴天連追放令は、20日以内の外国人宣教師、日本人修道士の国外退去、布教禁止などを盛り込んだ、苛烈なものとなっていた。

おそらく6月18日の朱印状は、高山右近に棄教を命じたものだと考えられている。伴天連の大旦那と目されていた高山右近が棄教すれば、その団結力も大幅に減じる。また右近が棄教すればキリシタン大名の多くが棄教する、下層平民がキリシタンとなっても、そう恐れるものではない、これ以上拡大しなければよいのだ、との考えで朱印状は出されたのであろう。

しかし秀吉の思惑とは裏腹に、高山右近は棄教をかたくなに拒んだ。激怒した秀吉は高山右近をただちに改易した。右近の態度に伴天連への恐れを更に強くした秀吉は、伴天連追放令を発布した。その結果、イエズス会の教会、病院、学校など次々と破壊されていく事となり、長崎のイエズス会領も没収されることとなった。

これに対し、コエリョはとりあえず6ヶ月間船が出ないので、20日以内の国外退去は無理、と秀吉の使者に伝える。秀吉はこれを認め、平戸に船が出るまで宣教師が滞在する事を許した。ここで日本準管区長コエリョは会議を開き、死を賭して日本に残留することを決定し、日本教会は存続することになった。彼らは有馬・大村・天草のキリシタン領主の元に潜伏し、表だった積極的な布教活動は控えることになった。

こうして伴天連追放令は出されたのであるが、秀吉はポルトガル商船の来日まで禁止したわけでは無く、むしろこちらは歓迎していた。南蛮貿易によってもたらされる利益や物品は秀吉にとって大きな魅力であったからである。現実には、ポルトガル商船とキリスト教は深い結びつきがあったので、結局の所秀吉は、驚異を感じつつキリスト教を黙認せざるを得なかったのであった。しかしながら、おおっぴらな布教は出来なくなったので、以前ほどの布教拡大は難しくなっていったのである。

1590年(天正18年)、天正遣欧使節が帰還する。出発したとき少年であった彼らも若者となっていた。彼らは、ヨーロッパのどこででも歓迎を受け、ヨーロッパキリスト教世界のすごさを目の当たりにしてきた。また彼らがローマに与えた影響も大きく、日本ブームが各地で起こり、日本への布教熱は一気に燃え上がり、日本布教を行ったイエズス会の名を高めた。

秀吉に謁見した際、4人の遣欧使節達はクラヴォ、ハープ、リュート、レベックの合奏をおこない、秀吉はそれに聞き入り3度のアンコールを要求したという。秀吉は使節の一人、伊東マンショを召し抱えようとするが、マンショはこれを断る。その後、4人の天正遣欧使節はイエズス会に入会、日本教界のために働くこととなる。千々石ミゲル以外の三人は司祭となり布教に従事する。そして伊東マンショは病死、千々石ミゲルは棄教、原マルチノは追放、中浦ジュリアンは殉教、と日本キリシタンの歩む道を彼らも歩んでいった。

さて、こうした禁教令下にイエズス会士であるヴァリニャーノは、イエズス会巡察使としては日本に来ることが出来なかったので、インド副王の使節として来日した。秀吉に謁見し、禁教令撤廃という目的は果たすことは出来なかったが、ポルトガル貿易継続のために宣教師10人の長崎滞在を許可される。これをきっかけとして禁教令は骨抜きにされていくかと思われた。

しかし、ここでイエズス会とは異なる、新たな修道会フランシスコ会の来日によって、事件は起こる。

1587年、伴天連追放令は出されたが、南蛮貿易奨励のためには、ポルトガル商船と切っても切れない関係にあるイエズス会士をないがしろにするわけには行かなかった。追放令の建前上 いくつもの教会や施設が破壊されたが、ポルトガル人のためにと言う名目ですぐに再建される所もあった。

またこの頃、ポルトガル風の衣装やアクセサリーが流行、キリシタンでも無いのにオラショを唱える姿が見られたり、追放令を出した秀吉自身が、聚楽第でロザリオを身につけていたことが明らかとなっている。大っぴらな巡回布教は出来ずにいたが、九州地方では受洗者も増え続け、日本キリシタン教界は復活の兆しを見せていた。

そんな中1593年(天正20年)、フランシスコ会士がフィリピン総督使節として来日する。これは、秀吉がフィリピン征服のため、同地に朝貢を命じていたものの返答のための来日であった。この新たな修道会の来日から悲劇が起こる。

それまで日本布教はイエズス会の独占状態にあり、教皇からもその旨の勅書が出ていた。それを不服とするスペイン系修道会は、その勅書の取り消しを誓願し、また日本布教に熱い眼差しを向けていた。また日本からもフランシスコ会士を招聘する動きがあったという。ともあれフランシスコ会士達は、フィリピン総督使節と言う名目ではあるが来日した。そして京都で公然と布教を始めたのである。教会や病院を建て、布教に従事した。伴天連追放令下であることから、イエズス会は、あからさまな布教活動は控えるようにとの助言を出したが無視された。

その頃1596年(文禄5年)土佐浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が、台風のため漂着した。日本では、漂着した船の積み荷はその土地の領主の物、という慣習法があった為に、積み荷は長曽我部氏により没収され、秀吉にその旨を報告した。これに対し、この船の船長マティアス・デ・ランデーチョはこの暴挙に怒り、在京のフランシスコ会士を通じて秀吉に嘆願したが、すでに五奉行の増田長盛が積み荷引き取りの任を帯びていた。

増田長盛は浦戸へおもむきスペイン人航海士ランディアを尋問した。航海図を眺めて「スペイン人はいかにして、フィリピンやヌエバ・エスパーニャを奪ったのか」と聞くとランディアは、積荷の返却と長盛を威嚇する目的で、スペインの世界的覇業を語った。長盛が「その覇業のためには、まず宣教師が来なくてはならないだろう」と問うと、ランディアは、そうだ、と答えたと言う。

長盛は秀吉に「スペイン人は征服者であり、彼らはまず他国に修道者を入れ、その後に軍隊を入れ征服する、それを日本でもやろうとしているのだ」と報告したという・・・・これがサン・フェリペ号事件である。

この報告は秀吉を激怒させた。伴天連追放令発布の際、秀吉はキリシタンの結束も恐れていたが、宣教師の背後にいるスペイン、ポルトガルも恐れていた。その危惧が現実の報告となって耳に入ったのである。さらに自らも朝鮮征服を目論む征服者であったから、なおさらいらだち激怒したのであろう。

これが日本二十六聖人の殉教に繋がっていくことになる。次回78話は、この大規模なキリシタン弾圧事件に触れる。

2016.08.24   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-278

クーラーのない部屋の立食パーティーで、お寿司を食べながらワインをいただきました・・・って感じ・・・(≧▽≦)

暑い!
思考能力、ナシでーす!

2016.08.25   麦   編集

麦さん、こんばんは。

ぷぷぷぷ~~です(笑)

江戸時代の最大の基本政策というか国のかたちは鎖国でした。どういう訳で鎖国に至ったのかは、ひとつの流れがあったのです。

日本に仏教が伝来したときも大混乱がありましたが、キリスト教の伝来も同じように混乱が生じました。

きょうも死ぬほど暑い一日でした。日焼けで腕の皮がむけて哀れなことになっています。


歴史夜話は、今しばらくキリシタン弾圧の物語になります。思考力が蘇った頃に眺めてください。




増田長盛の報告に怒った秀吉は、日本征服の先兵たる宣教師とキリシタンの撲滅に動き出す。折しも、フィリピン総督使節として来日し、布教しないことを条件に京都に住まわしていたフランシスコ会士達が、公然と布教に従事していた。秀吉はこれを強く非難し、大坂・京都にいた宣教師達の逮捕を命じた。

逮捕に際して、石田三成や小西行長らは逮捕者を最小限にとどめ、イエズス会の中心人物は逮捕をまぬがれるように配慮した。その結果、1596年(文禄5年)12月9日、6人の外国人フランシスコ会士、18人の日本人のフランシスコ会修道士、同宿が逮捕された。同宿とは、宣教師に同行し世話をする人達で、伝道士と呼ばれることもあった。これら24名の伴天連たちは秀吉から過酷な弾圧を受けた。

逮捕された24人の伴天連たちは1597年(慶長2年)1月、京都・一条戻り橋で全員、左耳や鼻を切り落とされると、血に染まった傷口を覆う間もなく、市中を引き回された。そこで秀吉から下ったのは処刑の命令だった。しかも、刑場は850キロ先の長崎の西坂で、刑場まで歩くという過酷ものだった。

歴史夜話78
1597年(慶長2年)1月3日、一条戻り橋で左耳や鼻を切り落とされた24人は牛の荷車で引き回された。当時、長引く戦乱のため崩壊寸前だった京都で人の集まる町は、現在の今出川通周辺の「上京」と四条通周辺の「下京」で、両町を結ぶ道は室町通しかないという有様だった。受刑者を引き回す8台の荷車は列をなして一条通を東へ向かい、室町通から南下したのち西海へと旅立った。

途中の西宮あたりで、宣教師のオルガンチノから24人の道中の世話をまかされた京都のペトロ助四郎とフランシスコ吉ら2人が続けざまに受刑者の列に加えられるよう願い出る。フランシスコ吉は京都のフランシスコ修道院近くに住み、事件後もみずから磔刑を志願していたが、加わることができなかったので、行列が休息する一行の中に飛び込み、バプチスタの足に泣いてすがりつき、列に加わったという。

ここで26人となった受刑者は19日には現在の岡山市から三原へと進み、22日に広島市に入っている。三原では14歳のトマス小崎が城の牢内で、伊勢で暮らす母親に信仰を捨てないよう求めた手紙を書いている。この手紙は母に渡ることはなく、同じく捕らえられて処刑された父親・ミゲルの襟元から血の付いたかたちで見つかり、その訳本がローマに保管されている。

 28日、下関に着いた26人は船で九州・小倉に渡ると唐津、武雄、嬉野(うれしの)を通り、長崎・彼杵(そのぎ)に到着したのが2月4日午後で、目的地の西坂は目の前に広がる大村湾の対岸にあった。舟で対岸に着いたのが午後11時ごろだったため、舟で一夜を過ごし、刑場に着いたのは5日午前9時半ごろであった。この時、混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにもかかわらず、4千人以上もの信者がまわりを取り囲んでいた。

ルイス・フロイスの記述によると、刑場には他の罪人の十字架も数本立っていた。すでに26人の十字架を立てるための穴も用意され、穴の前には十字架が1本ずつ置かれていたという。到着するなり刑は執行された。縄は刑場内で解かれるが、今度は横たわる十字架上に鉄枷(かせ)で手足を、縄で首と胴を固定したあと十字架の下部を穴の中に落とすように入れて一斉に立てられると、周囲からは悲鳴にも似た叫び声が起こったという。

整然と一列に並んだ十字架の両端には4人の執行人が槍を持って立っていた。2人一組で左右から両脇のしたを突き刺す。槍の先が心臓を貫くため、ほとんどがひと突きで息絶えるが、すぐに死ねない場合は絶命するまで何度も刺したようだ。パウロ三木は説教者にふさわしく、絶命するまで周囲の人たちにキリスト教を信仰するよう大声で説いたと記録されている。26人の中には12歳のルドビゴ茨木をはじめ、4人の十代の少年も含まれていた。遺体は一ヶ月以上、磔のままさらされた。

この処刑の翌月、再び伴天連追放令が発布され、宣教師達は次々と国外追放された。赴任したばかりの初代日本司教マルティンスも長崎居住を諦め、マカオへ去った。教会の破壊も相次ぎ、再び日本キリシタン教界に危機が訪れる。ところが1598年(慶長3年)9月18日、太閤秀吉が死去し、キリシタン教界にまたも転機が訪れることになる。

こうした状況下、巡察使ヴァリニャーノが日本へ派遣された。彼の仕事は、布教活動が公に再開されるだろうことを見越した、布教体制の再建にあった。

1599年(慶長4年)2月から10月までのわずか9ヶ月間にキリスト教への改宗者が、4万人にもおよんだ。これには石田三成がヴァリニャーノにイエズス会士を保護することを約束したことや、徳川家康がフランシスコ会士ヘスースを江戸に呼び、江戸滞在と一般市民への布教を約束したことが大きく影響していた。

石田三成はキリシタン大名小西行長を味方に引き入れるため、伴天連教界の保護を約束する。しかし三成と行長は、関ヶ原合戦にて家康に破れる。小西行長はキリシタンであったので、切腹でなく斬首を死に方として選んだという。ともあれ伴天連教界は、保護の約束と大旦那とを失ったのであった。かくして、天下の趨勢は徳川家に固まり、その後の伴天連教界は家康の手に握られることになったのである。


2016.08.25   えんてつ   編集

麦さん、おはようさんです。

きょうはこれから地域訪問、でも押し売りではありません。


前回は、秀吉のキリシタン迫害を話題にしましたが、こういう話題はやめときましょうか? 厳然とした歴史的事実なのですが、歴女にも好みがあるでしょうし(笑)
江戸時代になると、さらに過酷なことにwwww。


ちなみに、追伸として・・・・


1597年に秀吉の命令で長崎の西坂の丘で殉教した26人は、1862年に、ローマ教皇庁によって聖人となった。このことを禁教下の日本では知る由もなかったが、日本二十六聖人の殉教のニュースは、事件直後からすでに世界中に伝わっていた。

1865年、日本二十六聖人が処刑された西坂の丘に向かって日本二十六聖人のための教会が建てられた。後世、この聖堂は大浦天主堂と呼ばれるようになるが、正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」という。

聖地長崎では江戸時代を通じて迫害に耐えたキリシタンが隠れ住んでいたが、明治の幕開けとなってキリスト教関係者らは、殉教地への教会堂建設は日本の潜伏キリシタンを見つけ出すメッセージと考えたようだ。

第二次世界大戦では、キリスト教徒の聖地である大浦天主堂から5kmの地点に原爆が投下されたが、アメリカのキリスト教徒たちは、この地域に江戸時代を通じて迫害に耐えた信者が居ることを知らなかったのだから、何をかいわんや、です。

2016.08.26   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-278

暑い日が続きますね。
今日は、特に出かける用事がないので、クーラーに浸りPC前です(*´▽`*)

えぇっと!
私のブログは、誹謗中傷以外は、なんの制約もない、宇宙を浮遊するゴミ箱ですので、、、。
好みでないものは、ナナメヨミするだけのこと(^-^;
ナナメヨミが、ご不満でしたら、ご自由にどうぞ、としか、、、。

過酷なことは、今に始まったことではないですしね。
しかし、秀吉君は、亡くなる寸前まで、自己中に多くの命を奪ったものですね。

最近、高山右近が、バチカンから何やら認定されたというニュースがありましたね。
日本二十六聖人に並ぶものかと思いましたが、検索してみると、聖人に次ぐ「福者」とありました。

2016.08.26   麦   編集

麦さん、こんにちは。

昨日は午後から夜半にかけて雨が降りました。
一時期はけっこう強い降りで嬉しかったです。
まさに天の助け、いや、天の恵みです~♪


宇宙を浮遊するゴミ箱ならば、そうとうデカいのでしょうね(笑)

高山右近は日本に未練がなくなって海外に出たのかな~と思うんですが・・・・

キリシタン関係の物語は、79話から85話まで一気に投げ売りということで、タテヨコナナメお好きなようにしてください。

2016.08.27   えんてつ   編集

歴史夜話79
家康は、立場上「秀吉の伴天連追放令」を尊重して貿易の相手国には宣教師の日本入国禁止を通達していた。しかし、国内でのキリスト教布教をなかば黙認していた。家康がそうした便宜を図っていた理由はただ一つ、通商貿易のためだけであった。そのことは、家康が江戸に呼び寄せたフランシスコ会士が、スペイン船の関東入港の便宜を図れなかったことで、日本人への布教を禁じ、キリシタンや宣教師への貸家禁止をも命じたことがあったからだ。

関ヶ原で主だったキリシタン大名が西軍についたことで、関ヶ原以降、表面上は10年ほど平穏に時が流れた。しかし、何かきっかけがあれば、大規模な禁教令が施行されるであろう事は大いにありえた。家康もまた一向宗徒などの一揆の恐ろしさを体感していたからだ。が、しかし、見た目上、江戸幕府の天下統一による平和実現の中で、キリシタン教界は順調に教勢を伸ばし、北は蝦夷の地まで布教の手が伸びていた。

1610年(慶長15年)デウス号事件と呼ばれる出来事が起こる。 キリシタン大名の有馬晴信が、マカオで家臣を殺された事の報復にポルトガル商船ノッサ・セニョーラ・デ・デウス号を焼沈させた。この事件の結果、ポルトガル船が2年の間来航せず、また、秀吉の頃からポルトガル商人との仲介を務め、家康の信任も厚かった通詞ジョアン・ロドリゲス神父もマカオに追放された。キリスト教布教のための幕府への重要な窓口役だったロドリゲス神父を失うことは、キリシタン教界にとって大きな痛手であった。

そして特筆すべきは、この頃オランダ商船が初来着し、宣教師を介さない貿易の可能性への幕府の期待感も生まれることとなった。

そうしたなか、1612年(慶長17年)、岡本大八事件が起こる。岡本大八はキリシタンであり、主君の幕臣・本多正純を通じて、キリシタン教界に便宜を与えてきた。この岡本大八と有馬晴信との間に所領問題による贈収賄事件が起こる。幕藩封建体制の根幹たる所領問題で、このような不正行為が行われ、またその当事者が二人ともキリシタンであったことで、家康は禁教令施行を決意した。ちなみに虚偽を暴かれた大八は火刑に処され、有馬晴信は謀反の嫌疑をかけられ改易され賜死した。

幕府の家臣団のなかに伴天連の勢力が浸透していることで、家康は禁教令施行を決意した。家康は、まず駿府の家臣団を検問し、キリシタンである者を検挙し、信仰を捨てない者を改易処分とした。そしてまず天領である京都・江戸・駿府に禁教令を布告した。キリシタン寺院の破壊を命じ、布教を禁じたのである。この禁教令によって江戸・京都の教会の破壊が行われ、武士のみならず一般庶民もキリスト教信仰が禁止された。

また改易されたキリシタン武士の抱え置きを禁止する旨を、全国の大名、畿内の社寺、京都・長崎のキリシタン教界に通達された。1612年(慶長17年)9月には、関東の幕領に対し、キリシタン禁制を含む禁令五箇条が発令される。これにより翌1613年、江戸の鳥越で、浅草の小屋にいた22人のキリシタンが殉教する。病人達を収容した病院のような物であった。

またこの時期、徳川幕府の幕藩体制の体制固めは大詰めを迎えつつあった。そのために反幕勢力の豊臣氏打倒が急がれていた。 関ヶ原の戦いの後、改易された多数のキリシタン武士達が、キリシタンに好意的な大坂方に仕官していること、キリシタンの大旦那・高山右近が加賀前田氏の元で重職を担いつつあったことが、家康の注目するところであった。キリシタン勢力と大坂・豊臣氏とが結びつくことを恐れていた。

1614年(慶長18年)12月、臨済宗の僧、金地院崇伝(こんちいんすうでん)起草による「伴天連追放文」が日本国中の人間が知るべき掟として公布された。いわゆる「慶長の禁教令」である。「日本は神国であり吉利支丹の教えは正宗なる神仏を惑わす邪宗である。吉利支丹国の者は日本に商船を来航させ、財貨をもたらすためだけでなく、邪法を広めて正宗を混乱させ、日本の政治を改変しようとしている、これは大きな禍の兆しである」といった内容だった。

2016.08.27   えんてつ   編集

伴天連追放が始まると1614年2月には京都から宣教師が去り、長崎へと護送されていった。4月京都に残り棄教を拒んだキリシタン達71名が奥州は津軽へ流罪となった。九州へ宣教師追放と教会破却のため伏見城番山口直友が派遣され、各地で宣教師や日本人信徒を摘発し、11月6日には高山右近の一族をマニラに追放し、長崎の11の教会を焼却した。その後有馬地方にも赴き、キリシタンの摘発と棄教を迫り、従わぬ者は処刑した。慶長禁教令による迫害はこれが最初の出来事だった。

こうして豊臣を滅ぼし、キリシタンを幕内から一掃して江戸幕府の基礎固めに奔走した家康も1616年に死去する。あとを継いだ秀忠は家康の引いたレ-ルを生真面目に爆走する。キリシタンへの対応も熾烈を極めることになる。秀忠の対応策は次回80話で。

歴史夜話80
「慶長の禁教令」の結果、多くの宣教師達が国外追放されたが、どの修道会も日本キリシタンを見捨てたわけではなかった。日本に居残り潜伏してキリシタン教界を維持しようとする者、追放されたが再度日本に潜入して布教しようとする者もまた多かった。 彼らもまた、迫害の嵐にさらされ、次々と殉教していった。

1616年(元和2年)大御所家康が死去し、権力は将軍秀忠に集中する。家康の作った幕藩体制の基礎を固めに入った秀忠はキリスト教禁制も強化していく。「伴天連宗門御制禁奉書(元和禁教令)」を発し、日本の万民にキリスト教を厳禁し、外国商船の入港を平戸・長崎の二港に限定した。

九州・大村領に追放されたはずの宣教師がいる、との情報がはいると秀忠は領主大村純頼を叱責する。純頼は自らキリシタンであったにもかかわらず、棄教し、宣教師検索に乗り出す。その結果、4人の宣教師と2人の宿主のキリシタンが斬首された。この後、殉教事件が続くことになる。

秀忠時代の大きな殉教事件としては、1619年京都大殉教52人(火あぶり刑)、1622年長崎大殉教55人(火あぶり刑)、1623年江戸大殉教50人(火あぶり刑)、1624年東北大殉教109人殉教、1624年平戸大殉教38人殉教、 と際限がない。新井白石の「西洋紀聞」付録によると、殉教者の数は20~30万人にのぼったとなっている。

こうした事情から、幕府は、切支丹撲滅を徹底するため、従来の方針を変更する・・・・物語は81話に続く


2016.08.27   えんてつ   編集

歴史夜話81
幕府は、最初こそキリシタンを次々と殉教させていったが、崇拝の対象となる栄光の殉教者を作ることを良とせず、拷問により棄教を迫ることに方針を切り替えた。これによりさらなる悲劇が生まれていくこととなる。その最大のものは、数々の拷問手段が生み出されたことだ。

1609年日本に到着したフェレイラは、他の宣教師と同じように熱心に布教活動を行った。1614年の宣教師追放の折には、日本に残り宣教活動を継続する事になった。その後フェレイラは日本準管区長として、潜伏司祭達の柱として活躍する。そんな彼も1633年ついに捕らえられることとなった。キリシタン教界は彼が殉教するものと信じて疑わなかった。

フェレイラは、元天正遣欧使節のひとりだった中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処される。穴吊りは、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものであった。そのやり方は、吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにし、頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜くなど、そう簡単に死なないようにし、穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神をさいなんだ。半日に及ぶ拷問の末、中浦ジュリアンは棄教せず殉死したが、フェレイラは転んだ。その棄教の時、吐いた言葉は「南無阿弥陀仏」であったと言われている。

幕府は家康の祖法を守るため、仏教中心の思想統制を行っていた。キリスト教否定のために仏教を用いるのが幕府のやり方であった。穴吊りで意識が朦朧とした者に刑吏が「念仏を唱えよ」と迫るのである。これが遠く異郷の地で布教する神父たちにとって、殉教ではなく、棄教し、転びキリシタンに成り下がることが、どれほどの精神的苦痛を与えたかは計り知れない。

転んだフェレイラを待っていたのは、さらなる生き地獄であった。江戸の小日向にある宗門改方・井上筑後守政重の下屋敷(通称切支丹屋敷)で通詞として余生を送ることとなった。フェレイラは 沢野忠庵という日本名をつけられ、日本人の妻を強制的に与えられた。そして屋敷に送られてくる捕らえられたキリシタンに棄教をすすめ、宣教師との通訳を務めた。 彼は1650年長崎で死亡、戒名をつけられ仏教徒として葬られた。

棄教を迫るための拷問は、どれも凄惨を極めるものであった。「火あぶり」は、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける。苦しみを長引かせ、信仰を捨てさせるため、薪は柱から離してとろ火で焼いた。背教したければ逃げ出せるよう、くくる縄は弱く縛ってあったという。また「簑踊り」という火刑は、手足を縛り簑を着せ、火をつける、と言うものであった。苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いた。「雲仙地獄責め」というのは、雲仙の硫黄沸き立つ熱湯を、柄杓に入れて少しずつかける、という熱湯責めであり、気絶したり死にそうになったら手当てして同じ拷問を繰り返したという。「竹鋸引き」というのは、路傍の柱にキリシタンを括りつけ、首に刀傷を付けておく。そばに竹鋸を置いておき、通行人にそれを引かせた。竹鋸のため切れが悪く、苦しみが長引いた。他にも、「木馬責め」、「切・支・丹の焼印押し」、「穴吊り」、など苦しみが長くなかなか死なないような拷問が数多く採用された。

これらの拷問を考え出したのは、島原領主松倉重政、唐津領主寺沢広高、長崎奉行竹中重義らであった。彼らの非人道的な拷問はキリシタンに反感を買わせ、過酷な重税による圧政は農民達に反感を買わせた。

2016.08.27   えんてつ   編集

名誉ある「殉教」をさせないで「棄教」を迫り、転びキリシタンに成り下げるような残酷な拷問が行われたのは、キリシタン達の心を砕き殉教の栄光を味わわせない事、凄惨な拷問を見せ他のキリシタンに棄教させることがねらいであった。この方法は、戦前に共産主義者や自由主義者が拷問により、自らの信念を棄てさせ「転向」を迫まったやり方にそっくりである。

歴史夜話82
またキリシタンは邪教であるから、どんな残酷な処刑も当然、というキリシタン邪教観を民衆に植え付けようとしたのである。そして幕藩体制固めのための神仏中心の思想統制と、鎖国の口実作りに、キリシタン禁制は大いに役立った。

幕府はキリシタンへの弾圧を強化する一方、段々と鎖国体制を固めていく。 日本人の海外渡航・出入国禁止、海外船の入港制限、外国人の日本国内移動禁止、混血児追放、などが段階的に押し進められていった。そして1639年(寛永16年)のポルトガル船来航全面禁止で鎖国体制は完成する。この事態を打破しようとやって来たポルトガルの使者船に対し、乗組員を処刑、船を焼却したことから、その体制の厳しさがわかる。日本の周りは監視船が巡回し、外国船渡来に目を光らせ、発見すれば攻撃も辞さなかった。

1614年の禁教令から1644年までの30年間で、密入国しようとした宣教師は100名以上にのぼった。彼らは、キリシタン禁制がゆるく、流刑にあったキリシタンも多くいた東北地方などで布教を行っていた。1629年までにフランシスコ会は東北で26000人の信者を獲得した、と自認しているし、1626年までにイエズス会も20000人以上の受洗者を獲得している。しかしそれも禁教令が強化されていく中、迫害は厳しく、殉教者、棄教者が次第と増えていった。

1638年(寛永15年)イエズス会士で日本巡察使に任命されたアントニオ・ルビノは、転んだ(棄教した)フェレイラを立ち返らせようと、日本潜入を計画し二つの宣教隊を組織した。ルビノを含む宣教師5人と小者4人の一行(ルビノ第一隊)は、1642年マニラを出発したが、薩摩の下甑に着いたとたん捕縛され、長崎で全員が穴吊り刑で殉教した。

一年後、日本管区長ペドロ・マルケスを頭とし、ジュゼッペ・キャラ神父を含む十人の一行(ルビノ第二隊)は、筑前の大島で捕らえられ、江戸の切支丹屋敷に護送される。ここで彼らは立ち返らそうとしたフェレイラこと沢野忠庵に会っている。こちらは十人そろって棄教するはめになった。彼らはフェレイラと同じく、日本名を与えられ、妻を強制的に娶らされ、小日向の屋敷で生涯を送ることとなった。キャラは岡本三右衛門と名付けられ、フェレイラと同じ宗門改方となり余生を過ごした。 十人の宣教師が全員棄教し、日本人にならされ、念仏を唱え、死して戒名をつけられた。

皮肉にも棄教した十人は、長生きしてしまった。キャラはこの小日向の屋敷で42年間過ごし、84歳で死亡した。他にも80歳前後まで生きた者が3人もいた。潜入当時21歳であった同宿トナトは、78歳、1700年まで生きた。人生の三分の二以上を切支丹屋敷という名の生き地獄で過ごしたのである。

2016.08.27   えんてつ   編集

歴史夜話83
こうした弾圧政策の結果、1643年から1708年のジョヴァンニ・シドッティ宣教師までの65年の間、日本への宣教師潜入は途絶えた。この間、有名なキリシタン一揆と言われる島原の乱が起こる。

過去、島原は有馬晴信、天草は小西行長というキリシタン大名の領地であったため、領民もキリシタンが多かった。しかし関ヶ原役と岡本大八事件を通して、この大旦那たちは失われ、かわりに赴任した領主、松倉氏と寺沢氏はキリシタンを過酷に弾圧した。

原の古城に立て籠もった一揆勢に対して、九州諸藩からも幕府軍への援軍が到着するが、城を落とすことが出来ない。幕府は上使松平信綱を派遣して事に当たるが、それでも落城しなかった。幕府軍の総勢は12万人余であった。松平信綱はオランダ商館に、原城砲撃の命を下した。オランダ商館は「オランダ人忠節」を実行し、海上から.原城に砲撃を加え、その見返りとして、ポルトガル船の日本からの締め出しを計ったのである。この大乱の成り行きは全国を駆けめぐり、九州や東北諸藩に一揆を警戒するよう、幕府が呼びかけている。

1638年(寛永15年)4月、幕藩連合軍の一斉攻撃により原城は落城した。老若男女の別無く、皆殺しとなった。一揆勢の中にはキリシタンは多かったが、武器を持って戦った為に殉教とは見なされず、列聖も列福もされていない。

幕府は島原の大乱を大いにキリシタン一揆であると宣伝した。キリシタンが国を奪おうと乱を起こしたのであり、キリスト教は国憂であり邪教であるとの観念を国民に植え付けていった。崇伝起草の家康の祖法を証明する絶好の機会であった。これを名目とし、幕府はポルトガル船の全面来航禁止を実施、キリシタン改めの制度を整備していく。

日本のキリシタン達は禁教法制度の中、身動きできなくなり、また国外から宣教師もやって来ない状況下におかれた。彼らは信仰を持ちつつ潜伏しひたすら夜明けを待つしか無くなったのである。

では次回84話は、潜伏しているキリシタンへの弾圧政策を覗いてみよう。

2016.08.27   えんてつ   編集

1638年(寛永15年)の島原の乱をきっかけとし、全国的に宗門改め制度が確立した。その確立に力を注いだのが、1640年に初代宗門改方に就任した大目付井上筑後守政重であった。国民は必ずどこかの仏寺に属さなければならないという宗門改め制度は戸籍の役目もするようになり、その蟻の這い出る隙も無いと言われたキリシタン検索制度を築き上げていく。

歴史夜話84
隠れたキリシタンを見つけ出す手段として取られた方法は徐々に工夫というか巧妙になる。

「懸賞訴人の高札」・・・・キリシタンを見つけた者に懸賞金を与える制度である。最初は伴天連のみ銀30枚であったが、1633年には伴天連・銀100枚、1638年には、伴天連・銀200枚、修道士100枚、宗門の者30~50枚となり、その後も増え続けた。1682年には伴天連・銀500枚、修道士300枚、宗門者100枚、そして立ち返り者300枚となった。立ち返り者とは、いったん転んだが立ち返って再度キリシタンとなった者のことで、罪は重かった。

「五人組連座制」・・・・元々は、年貢徴収のための連帯責任制度だったが、キリシタン検索・摘発にも利用された。相互監視と密告のため利用され、組外から訴えられキリシタンが見つかれば、その五人組だけでなく周辺の家々とその一族も罰せられた。

「寺請制度」・・・・住民はどこかの仏寺の檀徒にならなければならず、それが毎年調べられ、宗門改帳とか、宗旨人別帳とか言われるものに記載されるようになった。これは絵踏の時の台帳ともなった。また旅行するときの往来手形にも仏寺の檀徒であることの証明が必要であった。

「絵踏」・・・・ 1631年に雲仙地獄で行われたのが最初と言われる有名な制度である。キリストやマリアの像を踏ませて、キリシタンで無いことを証明させるのである。 最初は転びキリシタンに転びの証明として、または転ばせるために行われたが、次第にキリシタン摘発の手段となっていった。絵踏の効果は、踏んだことでもうキリシタンに立ち返ることが出来ないと言う失望感を与え立ち返りを防ぐことにあった。長崎では1657年から1858年までの200年間続けられた。

「類族帳」・・・・転んだキリシタンを監視する制度。転びキリシタン本人、転び前に出生した類族、転び後に出生した類族に分け、死骸の吟味などを行い類族帳に記載し、年2回提出する。生死・結婚・離婚・転居・改名など男子は6代、女子は3代先までの一族が監視されることとなった。 1687年に始まったこの制度をもって、幕府の宗門改制度は完成する。

「転び証文」・・・・ 絵踏や拷問で転んだキリシタンたちは、キリシタンに立ち返らないことを誓約した文書を書かねばならなかった。これを転び証文と言い、南蛮誓詞と日本誓詞の二種類があった。 南蛮誓詞には、デウス、サンタ・マリア、アンジョ(天使)、ベアト(福者、聖人)にかけて再びキリスト教に立ち返らない、と自らが棄てた神に誓約する事を書き、日本誓詞には、梵天、帝釈天など日本六十余州の大小神祇にキリスト教を棄てたことを誓わねばならない。 信じていた神にその神を棄て去ったことを誓い、信じたくない神に今まで信じた神を棄てたことを誓わせた、いかに幕府がキリシタンを憎み、精神的弾圧をかけ、さらに立ち返らせないようにしたかがわかる。

しかしこの凄まじいキリシタン検索制度の中でも、転んだふりをして信仰を持続させた、キリシタン達がいた。潜伏キリシタンと呼ばれる人達である。潜伏キリシタン達は、洗礼の仕方、オラショを唱えることを伝承し、キリシタン遺物や聖画像を大切に伝え、殉教地や教会跡に密かに祭った。キリシタンの祝日にはオラショを唱え、信仰を伝えていった。しかし初代の潜伏キリシタン達はともかく、司祭や修道士に会ったこともない者たちの代に変わり、相変わらず潜伏したままでは、その信仰の伝承は難しく、次第に隠れ蓑の仏教や神道、民間信仰が混ざり合った一種特殊な宗教へと変容していった。

2016.08.27   えんてつ   編集

在野のキリシタン達は潜伏し、「いつか海の向こうから司教がやってくる」事を信じて祈り続けたのであった。しかし、潜伏したとはいえ、幕府のキリシタン検索は厳しく、各地で潜伏キリシタンが発見されたり、発見されそうになったりしていた。これを「崩れ」という。「崩れ」が起こると根絶やしが原則だった。

歴史夜話85
最初の「崩れ」は、潜入宣教師もなくなり、キリシタンの殉教事件もほぼ無くなった1657年に起こった。場所は、九州・大村藩だった。かつてキリシタン大名大村純忠によりキリスト教信仰が栄えた土地で、その子純頼の背教で迫害は起こったものの、なお多くのキリシタン達が潜伏生活を続けていた。 結局、総計608人の人間が捕らえられ、その内411人が転ばず斬罪となった。捕らえられた牢で病死した者78人、永牢の者20人、無関係又は転んで赦免された者99人であった。永牢の者の内には11歳で牢に入れられ、75歳で死亡と、64年間牢で過ごすという、文字通りの永牢となった者もいた。

1660~62年にかけて豊後地方でも「崩れ」が起こる。220人が捕らえられ、57人が死罪、牢死者59人、江戸送り3人、永牢者36人、赦免者65人であった。続いて1660年代には、「尾張・美濃崩れ」がおこる。キリシタンを保護していた織田信長の領域であったこの地方は布教も盛んで、九州に次いで多くのキリシタンがいた。まず尾張で、江戸の旗本の密告によってキリシタンが発覚、200余人が捕らえられ斬罪に処せられる。首を切り落とされた胴体は、試し切りのために藩士に配られた。老中には生きたままのキリシタンが試し物として差し出されたという。同じ頃、美濃の笠松でもキリシタン数十人が磔刑となった。木曽川堤の殉教地は今でも大臼塚と呼ばれている。

尾張藩山澄淡路守は老中に呼び出されキリシタンについて詰問を受ける。これを期に尾張藩ではキリシタン殲滅を図り、次々とキリシタンを捕らえ、斬首、磔刑にし、結局、約3000人の殉教者を出すこととなった。彼らもまた、試し物として死体が足軽以上の藩士に配られたという。

1791年には、長崎浦上村で「崩れ」が起こる。この村では江戸通期で計四回の崩れが起こっている。1805年には天草で「崩れ」が起こる。この頃には切支丹禁令の高札が掲げられているとは言え、捕らえる方も、切支丹とは何?といった感じであり、キリシタン政策の制度も風化しつつあった。

さて、このような迫害の嵐が吹き荒れる中、1643年のルビノ第二隊以来、宣教師の潜入は無かった。しかし彼らは日本の信徒達を見捨てたのかと言うと、そうではなく、何度も日本渡航を試みていた。ローマ教会は日本に司教、大司教を赴任させようと、何度も派遣するがその計画はいずれも頓挫した。日本の外国船排除の姿勢がいかに強硬だったかわかる。
そんな中、1708年にただ一人日本にたどり着いた宣教師がいた。

宣教師ジョバンニ・バッティスタ・シドッティは、少年の頃日本に関心を持ち、日本布教を夢見ていた。鎖国を国是とした日本は入国出来る状態ではなかったが、一隻のポルトガル船が彼の熱意に負け、日本近海に接近したのである。こうして夢見た日本にやって来た彼だったが、直ちに捕らえられ長崎に送られる。この時、彼を取り調べることになったのは、時の宰相・新井白石であった。その審問の内容が「西洋紀聞」として残されることになる。西洋の知識がまた別のところで価値を持つようになる。

これでキリシタンの物語はお仕舞いで、戦国武将のほうへ眼を向けよう。

2016.08.27   えんてつ   編集

えんてつ さん


そちらも雨でしたか。
こちらも今日は、降ったり止んだりで、猛暑は一休みです。


e-496
まとめて届いたので、とりあえず転記を始めたのですが、、、(^-^;
前置きの部分と本文が、、、なぜかどこかで前後してしまいました、、、。
区切りが解らなくなったので、(≧▽≦)
78話以降は白紙に戻して、79話から新しいスレッドにしますね。


2016.08.27   麦   編集

疑問が判明

昨日の疑問

78話までのスレッドに続き、79話を添付していたところが、どうしても順番通りにならず四苦八苦した昨夜でした。

何度やり直しても、おかしいので、納得できず、
順序が逆になるので不本意でしたが、コメント欄を、そのままコピーして、新たなスレッドに転記して読ませていただき、やっと昨夜の疑問が解決しました。

いつもは、第何話の前にあるプロローグですよね、、、
しかし第80話では、79話のエピローグが80話のプロローグとして記されて、次回ではなく、そのまま80話が続いているのですね。

(-_-メ)

2016.08.28   麦   編集

麦さん、こんにちは。

まとめて下さりありがとうございます。

せっかくですのでこの話題について最後にコメントさしてもらいます。



1708年(宝永5年)8月、シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、サムライの格好に変装して単身で屋久島へ上陸しますが、言葉が通じないのですぐに捕まりました。しかし、幸運かどうかは別にして新井白石の尋問を受けることができたのです。

将軍家最高顧問であった新井白石はシドッティの人格と学識の高さに感銘を受け敬意を持って接しました。「凡そ其人、博聞強記にして、彼方多学の人と聞えて、天文地理の事に至りては、企及ぶべしとも覚えず (その人は多くの知識をもって、またそれが多方面に及んでいた、とくに天文学と地誌についてはわたしは足元にも及ばないほどだった)」

またシドッティも白石を信頼し、白石のことを「五百年の間に一人ほど、世界の中に此の如き人の生れ出づるものなり(こういう素晴らしい人は、世界で500年に一度生まれるかどうかでしょう)」と評しました。

 白石はシドッティの処分として、上策「国外追放」中策「拘禁継続」下策「処刑」という考えを提案します。幕府は「中策」を実施しました。

白石の主張です。「かれ蛮夷の俗に生れそだつ、其習其性となり、其法の邪なるをしらずして、其国の主と其法の師との命をうけて、身をすていのちをかへりみず、六十余歳の老婆ならびに年老たる姉と兄とにいきながらわかれて、万里の外に使として六年がうち険阻艱難(けんそかんなん)をへてこゝに来れる事、其志のごときは尤あはれむべし。君のために、師のために、一旦に命をすつる事は有べし。六年の月日、万里の波濤をしのぎしは難きに似たり。臣又、仰を蒙(こう)り、かれと覿面(てきめん)する事己に二度、其人番夷にして其ムシ番夷なれば、道徳のごときは論ずるに及ばず。されど其志の堅きありさまをみるに、かれがために心を動かさゞる事あたはず。しかるを、我国法を守りてこれを誅せられん事は、其罪に非ざるに似て古先聖王の道に遠かるべし」・・・・・シドッティがキリシタンであるのは生まれた国の習わしであって、命を顧みず、老齢の親や兄弟と別れて、6年の困難を乗り越えて日本にやってきた志は立派なことだ。国のため、学問のために命をかけることは意義のあることだ。生まれた国が違っていれば道徳や考え方も違って当たり前だ。わたしはこれで二度ほど尋問したが、彼のその志の堅さに心を動かさない人はいないだろう。そして本人の罪ではないのに国法だからといって処刑してしまうのは古来より統治者が行うべきことではない」

1712年(正徳2年)10月、将軍家宣が病死しました。これに合わせて新井白石は政治の中枢から遠ざかることになりました。シドッティが拘禁されてから4年後のことでした。この翌年、シドッティの世話役の老夫婦に洗礼を授けたことで牢屋にいれられついに獄死することになりました。

2016.08.28   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

どこに落ちるか解らない歴史夜話ですから(*´▽`*)
20話づつ、まとめていますが、このところ、この記事に限っていますね。

これは、第86話ということでなく、これまでの追記ですね。
85話の続きに転記しますね。


2016.08.29   麦   編集

麦さん、こんばんは。いろいろありがとうございます~♪

話題を戦国時代に戻しましょう(笑)。

足利8代将軍義政は、妻の日野富子との間に子供ができなかったことや政事よりも文芸ごとに熱を入れようと、弟ですでに出家していた足利義視を還俗させて将軍位を譲ろうとした。ところが、そのうちに富子との間に息子の足利義尚が誕生してしまった。当然のことながら、日野富子は次の将軍は我が息子と考えた。足利義視のほうは兄義政のもと将軍職を継ぐ気でいた。こうした状況の中、義政は決断を下せずにいた。夫婦、親子、兄弟が絡んだ骨肉の争いになった。

義尚と義視はお互いに有力な味方を得ようと争いになった。そしてその争いが有力守護家内の内部争いを誘発して、都を二分した勢力争いとなった。

足利義政、足利義視側・・・・細川勝元、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、赤松政則、京極氏など
足利義尚側・・・山名宗全、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など

細川勝元は、本陣を京都室町の幕府将軍の屋敷である「花の御所」におき、山名宗全は、花の屋敷よりも西側にある自分の屋敷を本陣としたことから、その位置関係より「東軍」「西軍」と呼ばれていた。

結局、室町幕府の権威は地に落ちる。さらに、地方では守護の家臣である守護代や、地元の国人たちが着実に力をつけ、中には守護を追い出すような例も出てきた。こうして、応仁の乱となり、戦国時代とも呼ばれる騒乱の時代へと突入することになった。

こうした争いなか、全国各地で下校上や成り上がりで国取りをする者が現れる。

北条早雲は超有名な成り上がり戦国大名ですが、国取りの最初は「伊豆討入り」という物語から始まった。

歴史夜話86
戦国の幕開けといえば北条早雲! 北条早雲は、一介の素浪人から、一躍関東を制覇する一大大名にのし上がった国盗りの盟主だ。そして、その国盗りには、いつも巧妙な謀計が用いられた。その手始めが1491年(延徳3年)からの「伊豆の横領」だろう。

当時、伊豆で最大の勢力を誇っていたのは堀越公方であった。堀越公方というのは、本来は鎌倉府のトップとして鎌倉公方になるべく、将軍足利義政の弟の政知が関東に下ってきたのだが、鎌倉に入ることができず、手前の伊豆の堀越(現在の静岡県田方郡韮山町)に居を定めたため、まわりから堀越公方の名でよばれていた。

初代堀越公方足利政知には3人の男子がいた。長男が茶々丸(ちゃちゃまる)、二男が潤童子(じゅんどうじ)、三男が清晃(せいこう)である。茶々丸だけが先妻の子で、あと2人は後妻の円満院の子だった。円満院はわが子潤童子を後継にしたいため、先妻の子茶々丸をささいな罪で牢に入れてしまう。

1491年(延徳3年)4月、足利政知が病死したとき、そのどさくさにまぎれ、茶々丸が牢から脱出し、円満院と潤童子を殺し、自分が二代目堀越公方になることを宣言した。ところが、茶々丸と先代の堀越公方の重臣たちとの間はしっくりいっていなかった。早雲はそのあたりの情報をつかんだ。「北條五代記」によると早雲自ら老人になりすまし、修善寺の湯につかりながら、伊豆の情報収集をしたというのである。そして、こうして得た情報から、早雲は堀越公方の内紛を知る。

1493年(明応2年)興国寺城で作戦を練り、今川氏親、さらに葛山氏からも兵を借り、500ほどの兵で堀越御所を夜襲した。茶々丸はそこで討たれたとも、近くの守山に逃れ、そこで自刃したとも、さらには落ちのびたともいわれる。しかし、その時点で堀越公方の政治生命が絶たれたことはまちがいない。

伊豆を討ち取った早雲は、伊豆の国中に「風病」が蔓延しているのをみて、薬を取りよせて治療させたり、年貢をそれまでの五公五民から四公六民に軽減した。つまり民に目を配るということをやってのけた。「民政」に意を用いたことで領地は治まり、堀越御所の近くに新たに城を築き、そこを居城として移った。これが韮山城である。実に鮮やかな国盗りだった。

早雲の前半生は謎に包まれているが、若い頃は伊勢新九郎盛時と称し、35歳の時に6人の浪人仲間と東国へ武者修行に出かけた。旅立ちの時、この仲間は神水を飲み交わし「もしも将来この中の一人が大名になった暁には他の6人は家来になって助け、主君となった者も6人を取り立てる」と誓い合ったといわれている。

早雲の出世のきっかけは、姉の嫁ぎ先であった今川家中の内紛を平定させたことだった。この功績により、早雲は富士群下方荘十三郷と興国寺城を得る。浪人仲間は約束通り、早雲のもとに集結し、御家老衆となった。仲間の力を得て、ここから早雲の国盗りの野望は燃え盛っていく。

その最初が伊豆だった。まず湯治という触れ込みで修善寺温泉に逗留し、そこに伊豆の木こり達を呼んでは話を聞き、伊豆四郡の地理から内情まで、つぶさに調べ上げていった。

堀越公方を攻め滅ぼしたあとは伊豆周辺の伊東氏の婿・狩野介をはじめ、名の聞こえた武士を次々に攻め落とした。最後に関戸播磨守・吉信の深根(下田市)の居城を打ち破った時は、城に籠った者は、女、子供、法師に至るまですべて首を刎ね、その首を城の周りにかけさせた。その徹底したやり方に領民は震え上がったことはいうまでもない。

2016.08.30   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

1400年代末、戦国時代の幕開けのおはなしですね。
出だしの堀越氏と足利政知氏で、壁にぶち当たりましたが、(^-^;
堀越は、地名ですね。

>下校上や成り上がりで国取りをする者

たぶん、下克上かと、、、
ここは、たまたまでしたが、前後から判断できますね(^^ゞ

私には誤字脱字のチェックや修正は無理があると思いますので、すべて本文のまま記録しますね。

2016.08.31   麦   編集

麦さん、おはようさん。
今朝は、めちゃ涼しい朝です。気温は19℃でした。
黒柿は多産生ですから、麦さん向きだと思います。
今年から倍々ゲ-ムでなると思います。

うちの黒柿も半分以上摘果しました。なりすぎると枝が折れてしまいます。


あっ、大きな間違いでしたね。ほんとに情けないです。下克上が正解です。

ほんとに・・・
いろいろお手間をとらせて申し訳けないです。
てか、基本は麦さんひとりを相手にしているので・・・
そうそう、ここへ、87話以降の続きをペッタンコして良いのでしょうか?

2016.08.31   えんてつ   編集

えんてつ さん

こちらも、北のほうは大変な様子ですが、30℃程度の残暑でホッとしています。

(*^^*)記事も読んでいただけたのですね。
鉢ですからねぇ、倍々は無理かもしれません。

下克上で正解ですね。
こういうとき、なんでこうなったかを解明するのが楽しいんですよ。
この場合、GEKOKUと打ったのは良かったけれど、後ろのKを打つ指が逸れたのですね。

誤字があっても、それが誤字なのか気付かないことのほうが多いので、鬼の首を取ったみたいな訂正は控えておきます( *´艸`)

いただくコメントに要求するのもなんですが、
スクロールが大変なので、できれば別のところが良いと思います。

2016.08.31   麦   編集


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