るりとうわた色の空に

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喧嘩をしない夫婦の関係


生まれ変わっても この人と結婚したい と思っているようでもなく 時には価値観の違いで困ることもあるらしい娘なのだが 夫婦喧嘩をしたことがないという

人一倍アウトドア派である父親主権の家庭で ガサツに育った娘と 家族間でも お風呂上りはもちろん 日常で互いに着替えをする姿も見たことがないという環境のなかで 穏やかに育った婿である 

一緒に暮らしてみなければ分からないことは いくらでもある
リンゴは赤いのが一般的だとして もしも青リンゴしか知らない人がいたとしたら リンゴは赤いことが正しいとは限らないと考える娘は 婿クンと リンゴの色で対立することはしないってことらしい


葉を摘まんで 舌に乗せてみる

DSCN8381.jpg

ステビア


「朝から喧嘩しちゃったわよ」 と ランチしながら いまだに怒りが収まらない様子の茶飲み友

リタイア後の自由な時を過ごす ご主人が 朝から家を出て行き しばらくして どこにいるのか確かめるべく電話したら 「どこどこで行き付けのスナックのママに会い 一緒に喫茶店でモーニング」 だと
疑う関係ではないから どうでもよいのだけれど 「私とは 一緒に喫茶店でコーヒーを飲むこともない」 ということが友の不満らしい
つまり たまには喫茶店でコーヒーという 恋人同士のような時を過ごしたい ということ
私の場合 時にはオシャレなお店で優雅なひとときを持ちたいとは思うけれど 別に夫と一緒でなくてもよい

そこで 「仲がいいのね」 と言うと 「なんで? 朝っぱら喧嘩したのよ!」 と不満顔

喧嘩しない = 仲が良い
喧嘩する = 仲が悪い

この方程式は成り立たない と 私は思っている

言わないほうが良いという友人のアドバイスに従わず ハタラキバチさんのストレス解消という楽しい料理作りのあと シンクに山積みとなる油まみれのフライパンや鍋の苦情を 相手が不快になると知りつつ 思い切って口にしたのでしたが

「はい はい あなたのおっしゃる通りです」 と従順に言われて どうも納得できずにいる私

だからと言って 喧嘩をしない娘夫婦が 仲が悪いってことでもないんだけどね






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コメント

こんにちは(=^ェ^=)
ステビアの葉っぱ甘かったですか?

ハタラキバチさんの方が一枚上手の
タヌキさん、、て事でしょうか(笑)

料理作りがストレス解消のご主人と
その後の散らかった片ずけ物をする人の
ストレス。

主婦として毎日食事を作る身として
片ずけもして当然と思いますが
どうなんでしょうかね〜〜

我が家も喧嘩はしませんが
仲が良い訳ではありません。@ 'ェ' @

2015.12.16   h.j   編集

h.j さん

v-209
ステビアの葉、甘かった! ですよ~!
もっと茂ったら、紅茶に入れてみましょうか v(^^*)


この蜂さん、もともとタヌキなんですけどね(*´▽`*)
私は、後片付けは苦にならないので、シンクに積まないで、そのままにしておいてくれたほうが有難いってことを伝えたのですが、ちゃんと聞き入れてくれたのかどうかが問題です。

喧嘩をしない夫婦は、価値観が同じだから、ということもありますね。
ふふふ~(*^-^*)
喧嘩はしませんが、仲が良いわけではありません、けれども、仲が悪くもありません、、、ということでしょう?

我が家は、喧嘩するほどの元気もなくなった?(≧▽≦)

2015.12.16   麦   編集

 江戸幕末維新、多くの若者が命を投げ出して国の行く末を案じて動乱の中に命を投げ出した。命は地球よりも重い大切なものとしている現代では、なぜそんなに若くしてと無残に思う事がある。江戸末期といえども権力は江戸幕府が握っていたので武力による倒幕運動は今で言うテロ行為だったが、尊王攘夷運動そのものは、体制内の議論だったので全国各地の藩内で議論が起こっていた。

テレビドラマの中では、薩長と幕府の争いばかりがイメージされがちだが、実に、全国各藩の内部で嵐のように吹き荒れていたムーブメントだった。その薩長とて一枚岩ではなかった。薩摩藩では島津久光が伏見寺田屋で尊攘激派の藩士を上意討ちした。長州藩では、椋梨藤太らの俗論派と高杉晋作らの正義派の主導権争いがあり、双方に犠牲者が出ている。さらには、御三家の水戸藩でさえ激しい内部抗争があった。

前回は、譜代彦根藩の井伊直弼が登場し彦根藩の苦悩を覗いたが、その他にも江戸幕府の重鎮とされ大老を輩出した譜代酒井家の姫路藩も例外ではなかった。姫路藩の指導層は当然ながら佐幕を本分と考えたが、藩内には尊攘派が育っていた。その中心に河合惣兵衛という人がいた。

歴史夜話8
去年の初夏、江州から播州方面にかけて意中の人と歴史探索に出かけたことがあった。この旅の最後は新装なった姫路城も訪れる予定だったが叶わなかった。

姫路城の南東200mぐらいのところに善導寺というお寺がある。善導大師、法然上人の二祖 対面を契機とした浄土宗の寺院である。善導大師は中国で浄土門を開いた高僧であり、法然上人はその教えに導かれ日本で浄土宗を開いた。

この姫路の善導寺に「河合惣兵衛の墓」があり、明治24年に顕彰の碑が建てられている。この人物「贈従四位河合宗元君之墓」と贈位されていることからも、明治になって勤王派として評価されていることが分かる。

河合惣兵衛宗元(かわいそうべえむねもと)は文化13年(1816年)生まれである。

河合惣兵衛宗元は姫路藩における勤王派の中心的人物、姫路藩家老河合道臣(寸翁)の創設した仁寿山校に学ぶ。武芸・学問に通じ好古堂(藩校)の肝を命じられ若き藩士達の指導者として仰がれ、姫路藩の勘定奉行、宗門奉行、物頭を務めた。
幕末、自らの死をかけ朝廷へ攘夷実行を進言する。しかし宗元らの忠誠心は、佐幕派であった藩の受け入れるところとならず、元治元年十二月二十六日、「甲子の獄」で囚われ刑に処せられた。宗元は自らの命よりも国の行く末を案じ、次の辞世の句を読み自刃した。

ひをむしの 身をいかでかは をしむべき ただをしまるる 御世の行すゑ

辞世のなか、「ひおむし」とは、朝に生まれ夕べには死ぬという、はかない命の虫のことである。自分の人生は、その虫のようにはかないものだが、私はこの国の行く末だけを心配しているが、それに関わることができないのは残念である。

文久2年(1862年)、姫路藩主酒井忠績(ただしげ)は幕命により京都所司代と協力して禁裏護衛の任に当たるため入京した。惣兵衛も養子の伝十郎とともに守備隊に加わり、京の尊攘派と交わりを深くした。

当時の京都所司代は小浜藩主酒井忠義(ただあき)だったが、尊攘派の取締に力を入れていた。そこで惣兵衛は、藩主に次のように諫言したという。「所司代は奸曲にして王室の為に忠ある者に非ず。如何ぞ彼と力を協力すべき且天下の形勢を考へ諸藩の向背を窺ふに尊王攘夷を以て主とするに如くはなし。」

そうは言われても、酒井家は徳川家の藩屏をもって任じる譜代の家柄、幕府の意向を違えるわけにいかない。国の行く末に熱い思いを抱くのはよいが、藩政に混乱を招く言動は慎んでもらいたいというのが本音だったろう。藩主の忠績は尊攘派に手を焼いていた。

文久3年(1863年)8月18日、朝廷内でクーデターが勃発、尊攘派が一掃された。時流は公武合体、つまり佐幕派に向いてきたのである。これを受けて姫路藩も、藩内の尊攘派の弾圧に乗り出した。これが元治元年(1864年)の「甲子(かっし)の獄」である。惣兵衛は国の行く末を思いつつ切腹して果てた。

姫路藩の「甲子(かっし)の獄」では70名近くの志士が連座して命を落とした。河合惣兵衛の養子の河合伝十郎も連座して24歳の最期だった。

河合伝十郎の墓碑
河合伝十郎宗貞(かわいでんじゅうろうむねさだ)天保12年(1842)~元治元年(1864)享年24才。姫路藩勤王派志士、「甲子の獄」で囚われ斬の刑に処せられた。彼の辞世は父とは違い大きな憎しみに満ちている。

此ままに 身は捨つるとも 生き変り はふり殺さん 醜の奴ばら

このまま死んでも生き返って佐幕派に天誅を加える、と激しい思いを抱きつつ斬首されたことが分かる。「天誅」はこの時代の流行語であり風潮であった。

文久3年(1863年)正月、伝十郎と同志は、姫路藩御用商人の紅粉屋又左衛門に天誅を加えた。この出来事は「タコに骨なし ナマコに目なし 紅屋のおっさん 首がない」と謡われたという。紅粉屋又左衛門は姫路藩の佐幕派に通じる木綿問屋だった。さらに脱藩も企てた伝十郎は、養父惣兵衛と同じ日、元治元年(1864年)12月26日に処刑された。

紅粉屋事件を契機にした尊皇攘夷派の弾圧が「甲子の獄」と呼ばれる事件である。このとき最初に死罪となった勤王志士はこの親子2人を含め8名だった。

この時代、憂国の思いを抱きながら明治維新を目前にして散った悲劇の人々は全国各地の諸藩に及んでいた。そして、この姫路藩では、悲惨なことに、新政府成立後の慶応4年(1868年)から開城後の明治3年までに今度は150名の佐幕派が勤王派から死罪を含む報復を受けた。

もちろん江戸幕府を支えようとした佐幕派の死者は顕彰されることがない。彼らは急激な変革を避け政治秩序を守ろうと行動した。勤王派とはヴィジョンは異なったかもしれないが、国の行く末を憂う気持ちは同じだったろうと思う。歴史の記録は実に恣意的である。明治維新においては、一方は志士として顕彰され、もう一方は歴史の彼方へ忘却されていく。「勝てば官軍、負ければ匪賊」という言葉は、明治維新を絶対視する価値観で支配されている。

今回、姫路藩を例にあげたが、この時期、全国各地で憂国の志士が活動していた。吉田松陰の言う「草莽崛起(そうもうくっき)」とはこういうことに違いない。

姫路藩主酒井忠績は慶応元年(1865年)、江戸幕府の最後の大老となった。姫路城は、戊辰戦争が始まると、それまでの態度から、朝敵とされ、また忠績も新政府への謝罪を拒んだため、岡山藩から攻撃を受け、城の福中門が砲撃にあい破損した。その後すぐに恭順し、新政府軍に、軍資金を供出等することを条件に降伏開城した。その結果、姫路城は戦火を逃れそのまま保存されることとなった。今思えば城が残ったことはじつに奇跡的なことであった。

2016.05.10   えんてつ   編集

えんてつ さん

i-260

いい季節ですね。

昨日は植物の世話に明け暮れ、早々と布団に入ったので、今朝は暗いうちに目覚め、PCを立ち上げたところ、歴史夜話 No.8を発見。
清々しい、朝の夜話でした(*^-^*)

姫路藩が取り上げられることが少ないのは、こういうことからなのかな、と思いました。

美しく生まれ変わった姫路城は見ていませんが、なぜか、さほど興味がありません。
このたびの熊本城は残念ですね。
できるだけ、元通りの修復が第一であることを前提として、、、
地震も歴史、
これ以上の崩壊を回避し、現状維持の保存も有り得るのではないかと思う未熟な歴女です。


今回も出てきた佐幕派という言葉の中の 「左」。
左があれば右もあるわけで、今日は、右と左について、ちょっと考えてみました。

個人差はあるでしょうけれど、ググってみて、
右翼は「その国や民族固有の伝統や慣習あるいは価値観をまず大事にしようという思想」
左翼は「個人を信頼して必ずしも伝統にとらわれない個人の自由な発想を大事にしようとの思想」

という考え方に納得したように思います。

となると、尊王という言葉についても考えるわけで、
騒音を撒き散らす真っ黒いトラックの思想に、矛盾が渦巻きます。

天皇家も一人一人が個人。
その個人を大切にという考え方は、むしろ左翼の方の思想にあると思えます。


2016.05.11   麦   編集

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2016.05.12      編集

v-83 さん

こちら、お分かりになって良かったです。
私一人で読むには、もったいない歴史ですから。
よほど深入りしない限り、知ることのできない歴史だと思います。

えんてつさんの旅、気になりますね(*^-^*)

2016.05.12   麦   編集


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