るりとうわた色の空に

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頑張ったのよ


最近になって ご縁ができた お遊びの友
個人的には何の関わりもなかったので お顔立ちすらも よくは知らなかったけれど 我が家から徒歩数分のところに立つビルに お住まいということは 何となく存じていた

その彼女が加わり 月に1~2回 顔を合わせるようになった3人
ころよい汗加減でゲームを終えるころが ちょうどランチタイムということから そのあとの食事ついでに コーヒーを飲みながら四方山話となる

我が家は会社員で 彼女ら2人のご主人は 自営の社長さん
サラリーマンの妻しか経験のない私には未知の世界だけれど 個人で起業するというのは 成功と失敗の挟間にあるであろうことは想像がつく
そして彼女の場合 自宅に数世帯の賃貸マンションを兼ねたビルと その他に二つのビルを所有しているということは まさしく成功したということ

「頑張ったのよ」

まだまだ若いころ 「起業する」 という彼の言葉を礎に 結婚されたのだそうだ
彼はアルバイト 彼女も乳酸飲料の配達をしていたという当時のことを 「頑張ったのよ」 と振り返る彼女は それまで私が感じていた女性とは違って見えた

頑張ることの無限大の可能性 ・・・


ラシラス・サティバス・アズレウス

DSCN8780.jpg

枯れた莢でも種は緑色のことがある
種になるまで充実させるには気長に待たなければならないらしい

やっと採れた種だから 発芽後は 大事に大事に室内で育てていたら
春に咲くはずのスイトピーの仲間が もう咲いてしまいました



 


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コメント

今日は(=^x^=)
大事にしすぎて早く咲いてしまったのですね。
スイトピーというと
松田聖子さんが歌われた
赤いスイトピーのイメージが
強くって、きっともっと沢山の種類があるのでしょうね。



頑張る事の無限大の可能性・・・
我が家の息子達にもそう言って
育てたら良かったですね〜
もう手遅れですが、、、。ε-(´∀`; )

2016.01.21   h.j   編集

h.j さん

v-91 ← 頑張る (*^-^*)

北風が心配で取り込んだのですが、南側の部屋ですから日中は春の気温になってしまうんですね。
聖子さん、赤いスイトピー♪、ありましたね~(^^♪
今、すっかり大人になりましたが、今、歌っても違和感はなさそうですね。
赤の他にも、薄紫やピンクを育てたことがあります。
一度だけ、緑色をいただいて咲かせましたが、種が採れませんでした、、、(-_-;)

息子さん、手遅れですか~(*^^*)
私、これから頑張るつもり(^-^♪)
ビルは要りませんけどね(≧▽≦)

2016.01.21   麦   編集

彦根市の名物といえば、「彦根城」と「ひこにゃん」に違いない。わたしのお祖父さんは極道者だと聞くことが多かったが、わたしには井伊直弼(なおすけ)が命を全うしていれば江州が日本の首都になっていたという話をよくしてくれた。井伊直弼は桜田門外で襲撃され亡くなったが、昭和になって直弼の曽孫の井伊直愛(いいなおよし)さんは彦根市長を9期も務めた。

井伊直弼を襲撃したのは水戸藩ということで、彦根藩は徳川最後の将軍・第15代徳川慶喜が水戸出身ということもあって維新戦争では早々に倒幕側に付いた。この因縁はというか、彦根市と水戸市のわだかまりは、世の中が明治百年と騒がれた昭和43年に親善都市となることで解消された。

 直弼の死後、彦根藩を継いだのは井伊直憲(なおのり)で、彦根藩最後の藩主である。

歴史夜話7
大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺された事実は、瞬く間に江戸城内、朝廷をはじめ、日本中に広がった。世情は、佐幕か倒幕かで揺れる幕末のこと、佐幕の旗手であった直弼の死は、彦根藩だけでは持て余す大事だった。

井伊直憲は、直弼の次男として嘉永元年(1848年)に江戸で生まれた。幼名は愛麿(よしまろ)という。幕政の中心であり、「井伊の赤鬼」と恐れられた父直弼に比べると、かなり穏やかな人柄だったようである。その直憲の身辺が一気に慌しくなるのは、元服を控えた12歳のことである。この年、父・直弼が水戸浪士らによって暗殺されたという報せは、彦根城内を大混乱させた。

当時、大名の不慮の死は、理由の如何を問わず家名を断絶させるのが幕府の方針であった。藩主とは、一国と命運を共にする者のことである。それが謀殺されても、家名を続けさせたとなれば、幕藩体制が根幹から危うくなる。ましてや、幕政の最高責任者である大老が暗殺されたのだ。江戸城としても見過ごすことはできなかった。

戦々恐々としたのは、彦根城である。このままでは、藩祖・直政から続く直系の彦根井伊家は取り潰しとなるのは必至である。しかも、藩主が暗殺されたのにも拘らず、仇討ちをしないまま、只、幕府からの命令を黙って待っていたとなれば、世の笑いものとして語り継がれることになるだろう。

藩主を失い、尚も、後ろ指を指されていかねばならないのなら、せめて仇討だけは果たしたいというのが彦根藩士らほとんどの思いであった。襲撃犯たちの自白により、犯行は水戸学派の手によるものであったことはすでに彦根まで伝わっていたので、このまま水戸と一戦交えるべきだという機運が高まり、一触即発の緊張が城下に満ちていた。

その空気を急ぎ収めねばならなかったのは、他でもない江戸幕府だった。彦根藩は譜代大名の筆頭である。対する水戸藩は徳川御三家の一つである。いわば、身内同士。京都などでは倒幕の志士たちの暗躍が激しくなってきている中、江戸城内に争いの火花を持込むわけにはいかなかった。彦根と水戸の衝突は、是が非でも回避せねばならなかった。幕府は、悲しみと怒りに湧き立つ彦根を押さえるため、異例中の異例ともいえる方策を取る。

「大老は登城中に大怪我を負ったため、療養中」と発表したのである。直弼の死が公でないのならば、井伊家を潰す必要はなくなり、彦根藩の怒りも鎮まるだろうとの計らいであった。 直弼の死は、こうして一時的に隠されることとなった。藩主が暗殺されたのにも関わらず、彦根藩には何の咎めも下されることはなかったのでる。このとき、新しく藩主として指名されたのが、直憲であった。しかし、この幕府の苦肉の策は、すぐに覆されることとなる。

直弼が暗殺されると、当然の事ながら、反直弼派が幕政の中枢を担うようになった。これまでの直弼の為政は全て悪行であったと判じられるのに、時間はかからなかったのである。条約調印は詔勅を無視した大罪。安政の大獄は至上の悪行。大老は暗殺されても仕方なかったと世間は断じるようになったのである。

悲しいかな若い彦根藩主・直憲は、その非難を一身に背負わねばならなかった。その内容は、彦根藩の歴代の役職であった京都守護職を罷免され、10万石が没収され25万石に減らされた。桜田門の変から生きて帰った無傷の家臣や側近は、直憲の命により斬首が命じられた。

直憲は、一大名として、幕府の命令を遵守した。それは、藩内の家臣や領民らを守るために他ならない。意地を通して復仇を叫ぶことは容易であったろうが、藩のため、家名のため、領民のため、あえて険しい道を選んだのだろう。

失墜した藩の信頼回復のため、汚名を返上するため、直憲は東奔西走する。
世の中は倒幕へ傾きかけている。文久三年(1863年)、クーデターにより薩摩藩や会津藩などの公武合体派が長州藩などの尊皇攘夷派を朝廷から追い出すと、対立は目に見えて激化する。錦の御旗を手にした者が正義であると、両陣営が天皇を巡って武力衝突を繰り返すようになる。彦根藩は幕府軍の先鋒として、禁門の変、長州征伐などに参加した。この時、直憲は、藩祖・直政が先陣を切った関ヶ原の合戦での出で立ちと同じく、伝来の赤備え姿で身を固めていた。そして彦根藩は武功をあげ、召し上げられた10万石の内、3万石を回復するまでになったが、少し遅かったといわざるを得ない。時代の方が先に区切りをつけようとしていた。

西洋式の武力を有した反幕府軍の前に、幕府は次第に劣勢を強いられるようになった。加えて、長州藩や薩摩藩が倒幕に向けての詔勅をとり、名実共に官軍と称されるようになる。幕藩体制の崩壊は、目前であった。

彦根城内でも、時勢を読むべきとの声が高くなっていた。井伊家は直政から「徳川に従うべし」と言い遺されて、彦根藩はそれを家訓としてきた。譲れない信念であった。しかし、このまま、幕府軍として戦えばやがて来る新時代に於いても彦根は汚名を被るだろうと言う者と、玉砕しても藩の意地だけは貫き通すべきだと言う者の口論が後を絶たない。決断は、藩主である直憲に委ねられた。

慶応3年(1867年)。直憲19歳。王政復古の大号令により、平安の昔より670年ぶりに朝廷へ政権が戻ったことにより、官軍は倒幕へ向けて勢いを増していた。この年、新たに設立した明治新政府が旧江戸幕府勢力を一掃する戊辰戦争が勃発する。井伊家は、当初、その前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参加するも、水戸家出の将軍慶喜は戦線を離脱し大敗を期す。彦根にとって水戸は仇にちがいはなかった。以降、官軍として立場を変え、戦っていくことになる。

直憲は、その後、幕府軍の有力人物であった元・新撰組の近藤勇を拿捕するなどの功績を挙げつつ、新時代を迎える。 廃藩置県まで彦根知藩事として過ごし、後に華族令で伯爵と列せられた。

2016.05.06   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-273v-483こんばんは

戦国時代に次いで興味のある時代。
楽しませていただきました。
しかし、
桜田門外の変と言えば井伊直弼でしかありませんでしたが、
こんな歴史を知ると、面白いとか、楽しんだとか、そんな言葉を口にするのが阻まれますね。

私は、桜田門外の変は、長州藩によるものだと思っていましたが、あとから水戸藩だと知りました。
一人だけ長州藩士が混じっていたそうですね。

3年位前だったでしょうか、彦根城を尋ね、各地の城のリサイクルで作られた材木に残る跡とか説明していただき、ひこにゃんにも会いましたよ(*^-^*)
やはり実踏していると、お話も分かりやすいですね。

壁に歴代の肖像が並んでいましたが、きっと最新の写真が井伊直愛さんだったのでしょう。
急な階段は鮮明に覚えているのに、肝心な直愛さんについての記憶はありません、、、(-_-;)

好きなものは最後に食べる派で、お寿司は最後にトロを食べます。
今夜の夕飯は、トロのニギリでした。
最初から最後まで、トロ!
今夜の歴史夜話も、そんな感じでした~(^^♪

2016.05.08   麦   編集

麦さん コメントというか返事というか、おおきにです。

彦根城の階段はほんとに急ですよね。
彦根城から東に1.5km程行くと佐和山城址があります。
そこは言わずと知れた石田三成の居城でした。
関ヶ原の後、この佐和山城を壊してその木材を彦根城に利用しています。

江戸時代には藩主や後継に関係したお家騒動というのがけっこう多いです。なかには猟奇的なものもありますが内紛からくる陰謀が多いです。

2016.05.09   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-490

彦根城の階段は、手すりにつかまらないと、上り下りが怖かったです!

なんですと! (゜o゜)
たったの1.5kmのところに佐和山城址ですか!
それは、事前調査の大きなミスでした!

三成に過ぎたる城の跡ですね。
私としては、姫路城の美しさよりも興味があります。
そうでしたかぁ、、、残念!
三成の肌と触れた材木なんですね~、、、

えんてつさんの、絶え間なく湧き続ける夜話、面白いです!
昨日のアクセス数は169でしたよ。
私だけでなく、楽しまれている方がおられるのでしょう。



2016.05.09   麦   編集


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