すごいでしょ! 雪割草



これをピコティーと言えるのかどうか 雪割草にピコティーがあるのかも分からないけど ホームセンターの花売り場を散策していて目に入ったら 連れて帰らずにはいられなかった雪割草の新入り


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冷え込みも気になるほどではなく 適度な雨に水切れの心配もなかった ここ数日は 忙しいせいもあり クリスマスローズの咲き具合を確認するだけで済ませていた

久しぶりに在宅の今日 午後からの客人を迎えるために 玄関に飾れそうな鉢花を見繕いにベランダへ行ったところ いやに賑やかな色を放っている その方向には たしか雪割草を置いてあったはず


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わおっ!

雪割草を育てるようになって そう長くはないにしても ここまで雪割草のイメージをダウンさせてしまう花数は 初!

らしくなく イメージダウンとは言うけれど やはり花数の多さは 黙っていられないほど嬉しい




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コメント

今日は(=^x^=)
すごいですね〜〜。
雪割草のイメージは、ひっそりと可憐に咲く花だと思ってました。(*^^*)


麦さんのお宅のベランダは
きっとお花屋さんレベル?で
花達が溢れているんでしょうね。


今日のお客様のお出迎えは
この雪割草で決まりですね〜(^_^)☆

2016.03.17   h.j   編集

h.j さん

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すごいでしょ? 
と言われたら、すごいです! と言わないと、ですよね。
でも、本当にすごいですよね (*^-^*)

これからは1年草が咲きますから、どれを玄関に飾ろうか、と迷うほどの花盛りになりますよ。

お客さん、お花には触れなかったので、、、
気づいたかどうか、、、(-_-;)
ひっそりと静かに咲くイメージですが、こういう時は目立ってほしいです(*^-^*)

2016.03.17   麦   編集

麦さん

こちらに歴史夜話17をぺったんこさせてもらいます。ちょい長すぎたきらいがありますが・・・笑
実は、大楠公は歴史夜話18まで続きます。




1333年(元弘3年)、楠木正成の籠る千早城に、鎌倉幕府軍20万が攻め寄せました。千早城は金剛山中にあって天然の要害でしたが、周りは4kmほどの小さな山城で、守備兵はわずか1000兵ほどでした。

幕府軍は攻撃を仕掛けてきますが、あまりの数の差もあってか大した作戦も計算もなく、各将兵が自分勝手に我先に攻め寄せたため、例のごとく、大石を落したり、糞尿をかけたりの正成お得意のゲリラ戦法にしてやられてしまいます。

こうした千早城攻防戦が長引く中で各地で御家人の離反や倒幕の動きが起こり、ついに1333年鎌倉幕府は壊滅します。こうして一時的ではあれ権力が朝廷に戻ります。

歴史夜話17
幕府軍は、前年の上赤坂城同様に水源を断って長期戦に切り替えますが、その作戦変更は、すでに正成に見抜かれていました。準備万端、千早城には、すでに、たっぷりの水が確保されており正成側もその長期戦を受けて立ちました。

長期戦へと持ち込まれた千早城の戦いで、正成の逸話の中でも、最もドラマチックな名場面が展開される事になります。ある日、正成は藁で作った武者人形を20~30体用意し、夜のうちに城外の山麓に並べておきます。やがて、白々と夜が明けるころを見計らって、後方から一斉に鬨の声を「わぁ~~」っとあげました。長期の籠城に絶えられなくなった兵が、決死の攻撃に出たと思った幕府軍は一斉に雨あられのように矢を射かけます。

当然の事ながら、いくら矢を射かけでも人形は倒れず、やがて、矢が底をついてしまい、更なる攻撃をと敵が前に殺到したところで大石やウンコさんを投げ落とす、これで、敵兵は多くが死んだり怪我を負いました。しかも、正成は、新たなる10万本の矢を手に入れる事ができた・・・まさに諸葛亮孔明ですね。「わら人形の策」と呼ばれています。

ある時、らちがあかない城攻めに業を煮やした幕府軍が、都から5000人の大工を呼び寄せ、幅4.5m長さ30mのハシゴを造らせ、これを向かいの山から城壁へと渡して、新たなルートを確保し、一気に城内へ攻め寄せようとしたのです。これに気づいた正成は大量の水鉄砲を用意し、その水鉄砲の中に油を仕込みハシゴに向かって噴射して松明で火をかけました。この作戦は「長梯子(ながばしご)の計」と呼ばれています。

千早城攻防戦の内容はともかく20万の幕府軍の攻撃を前に、少ない城兵でありながら、千早城が耐え抜いた事は、事実でした。幕府の攻撃から3ヶ月後の5月になって、幕府軍は千早城を落すことなく、包囲を解き、撤退する事になるのです。それはなぜか、千早城が耐え抜いた事で大きな情勢の変化が起こったのです。鎌倉幕府は、もう千早城どころではなくなってしまっていたのです。

1333年(元弘3年)閏2月、伯耆(ほうき)の豪族・名和長年(なわながとし)の手助けにより後醍醐天皇が隠岐から脱出して全国に倒幕の綸旨を発令したのです。これに呼応して、播磨では赤松則村(のりむら)が、肥後では菊池武時(たけとき)が次々と立ち上がり、この千早城の攻防戦に幕府軍として参戦していた新田義貞が戦線から離脱して帰国の途についていました。

そして、とうとう、後醍醐天皇を倒すべく幕府から派遣された足利高氏(尊氏)までもが、後醍醐天皇側について六波羅探題を攻撃し壊滅させました。六波羅探題北方・北条仲時は京を捨てて関東へ向かいますが、近江国番場で兵士432名とともに集団自殺したのです。正成が立て篭っているうちに完全に流れが変わったのです。

足利高氏が赤松則村や千種忠顕、石井末忠らと六波羅探題を滅ぼしたのち、新田義貞は、稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして鎌倉幕府は滅亡します。そして後醍醐天皇は京都へ帰還します。

さて、このあと国家権力を奪還した朝廷公家勢力でしたが、武士勢力の要求に答える政治が出来ませんでした。そして再び武家の手に権力が移ります。しかし、楠木正成は最後まで天皇側について戦うことになります。この続きは歴史夜話18の完結編へと続くことにしましょう。


2016.06.07   えんてつ   編集

えんてつ さん

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楠木正成くんの戦略は、真田昌幸の技をも思い出させますが、
子供の喧嘩みたいでもありますね(*^▽^*)

>楠木正成は最後まで天皇側について戦うことになります。

これが、歴史夜話⒃ の冒頭にあった謂れに繋がるのですね。
それは、なんなのか、⒅の完結編で明らかになるのですね。
その時点でもう一度最初から読み直してみたら、にわか歴女の1ページに、楠木正成が加わるかもしれませんね!




2016.06.08   麦   編集


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