るりとうわた色の空に

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80歳オッカケ


私の手が大きいと気付いたのは 身長のわりに足が小さいと気付いたのより だいぶ早いときだった

大きかろう小さかろう さほど目立たない足はともかく いろんな場面で露わになる手は 同年代の 女性らしい手指と比べて コンプレックスを感じることもあったように思う

30代後半のころ
我が家の とある事務手続きを担当した若い男性職員が 細かい書類を作成していくうちに その書類上で私の生年月日を知ることになり 「お若いですね」 と 本心とも社交辞令とも受け取れる褒め言葉のあとに 言い放った

「お若く見えても 手は年齢が分かりますね!」

そんなことが 懐かしく思い出された 今日の待合室
予約制なのに 珍しく混んでいて 私より一回りは上かと思われる数人が 互いの日常を披露しあっている


DSC01426.jpg

苗を頂いて初開花のラショウモンカズラ


ご主人が 毎日でも釣りをしたい と言って 都内の家を売り払い 神奈川県の海岸近くに新居を構えるのだとか

素敵な和風のバッグを携えた奥様は どこかのカバン店のお得意様で いろいろ割り引いて貰っては たくさんのバッグ持っているのだそうだ

「私 80歳で いま オッカケやってるの」 と仰る奥様は スッと伸びた背筋に くすんだ赤のジャケットを若々しく着こなし とても80歳とは思えない
某演歌歌手のショーやら 地方でのライブにツアーでオッカケるのが楽しくて仕方ない ご様子
一緒に撮った写真はデジカメに保存したまま 開くのが惜しくて まだ見てないの! と 80歳のオッカケさんは まるで恋心を語る少女のように弾みながら これからの予定を続けたのでした


「つぎは 5月の誕生日のショーでしょ! そのあと デナーショー!」   

ん? 
デナーショー ?

あぁ ディナーショー ね


誰しも 若く見えて 本当の年齢は隠し切れないものなのかも





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コメント

今日は(=^x^=)
本当の年齢・・・隠したいですか?(^_^)☆
私は若い頃、素敵に歳を重ねた女性になりたかったのですが、現実は相変わらず、、、。
開き直ってます(⌒-⌒; )

手もそうですが、首の皺?なんて隠し切れないですよね。

80歳迄生きていられるかは、わからないけれど、
其れが何であれ、生き甲斐を感じて生きて行きたいな、、何て思います。v(^_^v)♪


2016.03.29   h.j   編集

h.j さん

v-206

年齢不詳の魔女です(*^-^*)

お付き合いのある間柄では、何かと便利なので、互いに年齢を知っています。、
親しいお付き合いがない人には、年齢はもちろん、個人的なことは知られたくないほうかもしれません。
人間って、秘密めいてた方が魅力的じゃないですか?(≧▽≦)


首も、そうですね。
顔は念入りでも、首の手入れは手薄になりがちですね、、、(-_-;)

80歳まで、誰の手も借りないで生きて居られたらいいのですが。
生き甲斐は、、、なんでしょう?
私は、自力で美味しいものを、「美味しい!」と思って食べることができることのような、、、(*´▽`*)


2016.03.29   麦   編集

わたしの故郷湖国では百人一首が盛んだ。毎年1月、近江神宮ではカルタ取りの選手権試合が行われ優雅な歌詠みとは程遠いハイスピ-ドの技が競われる。近江神宮は百人一首第一番の歌詠みの天智天皇が祭られている。平安時代の公家社会では歌詠みが教養の発露だった。そして平安時代も終わるころは武士が台頭してきたが、かれらの社会でもまた歌詠みが教養として取り入れていた。

小倉百人一首は、鎌倉幕府の御家人であった宇都宮頼綱が自分の小倉山別荘に飾る色紙を当代の歌人藤原定家に依頼して造らせたものだ。藤原定家は藤原俊成の次男。藤原俊成は、西行法師と並ぶ、平安末期最大の歌人だ。

歴史夜話4
薩摩の守・平忠度(たいらのただのり)は、清盛の末弟で武家の家柄で武勇に優れていたが、藤原俊成の門弟として当代知られた歌人だった。「平家物語」には平忠度と師・藤原俊成とのエピソードが描かれる。

寿永2年(1183年)7月、源の義仲に追われて平家一門が都落ちした後、平忠度は従者6人と共に都に引き返し、師・藤原俊成の邸を訪れた。「落人だ、落人が帰って来た~!」と動揺する家人達に構わず俊成は忠度を邸内に招いた。忠度は「争乱のため勅撰和歌集の院宣が沙汰やみとなった事は残念です。争乱が収まれば改めて院宣が出るでしょう。もし、この巻物の中に相応しい歌があるならば勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さるとあの世においても嬉しい」と我が歌百余首が収められた巻物を俊成に託して立ち去り、翌年、一ノ谷の戦いで戦死した。

忠度は武人として、そして歌詠みとしてその一生を閉じるべく、一の谷で討たれた。その最期、矢を入れる箙(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていた。

行くれて木の下かげをやどとせば 花やこよひのあるじならまし

この歌などは旅好き花好きの麦さんには好みの歌ではあるまいか~と思う。後年、師・藤原俊成は勅撰和歌集編纂を命じられた。俊成は忠度を悼み「千載和歌集」に忠度の歌を掲載した。ただ、朝敵となった平家の大将故に、俊成は忠度の名を憚り詠み人知らずとして「故郷の花」という題で一首掲載した。

さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

忠度にとって歌は趣味以上のものであっただろうが、武人としての命がけの日常生活のなかで歌はかれの心を大きく豊かなものにしたであろうことは想像に難くない。雑多な日常のなかで自分の打ち込める好きなものがひとつあるということは幸せの条件のひとつかもしれない。俊成との師弟の関係もまた後世語り継がれてきた逸話である。

2016.04.23   えんてつ   編集

えんてつ さん

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春の宵に相応しい、花の香りの歴史夜話ですね(^^♪

歴史での武将が詠んだ歌は、解説を調べないと意味不明が多いですが、
ご紹介の2句は、何となく分かりました。

藤原俊成は、詠み人知らずとして、門弟の願いをかなえたのですね。
趣味を通して育まれる師弟の情の深さは、趣味の奥行き、才能に比例するのでしょうね。

えんてつさんの歌も、後世に語り継がれそうな、、、(*^-^*)

2016.04.24   麦   編集


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