るりとうわた色の空に

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ジャックされたブログ記事のタイトルは 「99の歴史問題」

ハタラキバチさんの出勤は 勤務の半分近くが早朝

まだ星が瞬く冬は 送り出した後で二度寝することもあるけれど 
夏でも 犬の散歩やウォーキングのシニアがチラホラの まだ一般家庭は寝静まっている時間帯は ネットサーフィンという遊びを覚えて久しい

単語の検索から 思いもよらず興味深いブログに行き着くと いつの間にかNHK朝の連ドラが始まる時刻 ということもあったり 
それぞれに発せられる内容は 多種多様

私が言うのも大汗だけど 個人的な考えに捉われて問題提起をしたブログは好きではない

日常の風景から 著者の心が垣間見られて頷いてしまうブログ
著者が写したリアルな花とか自然が見られるブログ 

が 好きかな

 「お久しぶりです」 「ご心配おかけしました」 というのは 論外

誰に 心配かけたのでしょう?
誰と 久しぶりなのでしょう?
私 初めてお邪魔したんですけど  の疎外感 ・・・ 

もちろん世界を網羅するネットなんですから 苦情は筋違いですけど 

不特定多数に向けての発信に 限定された相手へ向けた言葉は 広い意味でとらえたらマナーとしてどうなの ?
ネットジャック ていうかぁ~
何ミクロンほどの小さな小さな意味で ネットの私物化 ・・・ と私には思える

ブログは自分ものだから 自分が好きなように綴るのが基本だと思うけれど 大公開を選択するのなら 初めて訪ねた私をも 誰とも隔たりないよう快く歓迎していただける雰囲気が好きってことかな


「ご心配おかけしました」 とか 「お久しぶりです」 とかの特定な挨拶は コメントで個人的に交わすことだと思うけど 閲覧者へ向けるブログに限って コメント欄を閉じている事が多いのも不可解 ・・・

だからと言って それに異論は まったくの皆無ですヨン


DSCN2423.jpg DSCN2421.jpg
第2弾のエッグボールが咲き始めました  色が魅力の青同様に微妙なクリトリアの赤


こちら 千客万来の手ぬるさか ?

ハイジャック シージャック バスジャック は聞いたことがありますが
このたびは どなたも初めて耳にするであろう ブログジャックされちゃいました 

千客万来 でっせ!

まずは えんてつさん 歓迎光臨 ! 


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コメント

ぷぷぷ~新作単語「ブログジャック」
ムギさんの心の広さにすがってのジャックですが、10年後は普通に使われていたりして・・・・わらい。


それにしても今年の雨の降り具合は異常ですね。
この場をお借りして
広島市で被害にあわれた皆さん、お見舞い申し上げます。


では、歴史談義を通じて「99の歴史問題」いうことで始めましょう。

その壱
ムギさんは浅井三姉妹の一番下のお江ちゃんのテレビ番組が楽しみだとか。そこでお江ちゃんのことから話を始めることにしよう。お江ちゃんは徳川二代将軍秀忠の正室に収まった。秀忠17歳、お江ちゃん23歳の姉さん女房だった。

家康は信長との同盟者だったので、本能寺の変のあと命からがら三河へたどり着くとひとまず配下の武将を統括し自領をまとめて安堵を図った。秀吉と勝家の対立など視野になかった。そして秀吉が地位を固めて信長の息子たちを廃するや、信長の同盟者として秀吉と対立し小牧・長久手で戦う。

家康との対立をやばいと思ったのか秀吉はあの手この手で家康との関係を良くしようと画策する。そして秀吉が自分の老母を人質として家康のいる浜松に送ってきたことから、家康は態度を和らげ、なんと秀吉に臣下の礼をとった。こうした家康と秀吉の態度を秀吉の部下たちの目にはどのように映っていたのだろうか。

さて、秀吉との関係が安定化すると家康は徳川家の安泰を図った。秀忠の奥方にお江はどうかと秀吉が候補にあげてきた。信長の血を引くお江は家康にとっても徳川家にとっても好都合だったのではないか。

お江は二代将軍秀忠を将軍らしく支えると同時に三代将軍を産む立場になった。姉の茶々に負けない徳川家の御台所に収まらなければならない。自分以外の側室などありえないと思ったに違いない。そして揺るぎない三代将軍を育てようと必死になる。

兄の竹千代(家光)と弟の国松(忠長)の育て方では後世に残る逸話がある。春日局と家光の物語、そして三代将軍家光誕生とお江の死と忠長の乱行。その上に、お江ちゃんが亡くなってから秀忠に隠し子がいることが表面化した。この隠し子は信州高遠で育てられ、のちには江戸時代屈指の名君として名を残すことになった。

さて、問題です。秀忠がお江ちゃんに隠れてつくった名君とはどなたでしょうか?

2014.08.20   えんてつ   編集

えんてつ さん

《るりとうわた色の空に》が、10年後には、広辞苑に「ブログジャック」として載っているかもしれません(笑)

災害のたびに、報道される被害者の数字がいたたまれないですね。
このあと、どうか雨が降りませんように祈ります。



≫ その壱
秀忠は側室を持たなかった事で名高いですが、スタートから難問ですね。
しかし、ネットという便利なものがありまして(笑)
保科正之、ですね。

秀吉の養女を娶ったわけですから、江に頭が上がらなかったか、それとも江を大切に思うからか不明ですが!
しかし、隠れ側室は一人か二人かいたようですから、それって正式な側室よりも、妻に対して侮辱では?


2014.08.21   麦   編集

ムギさん、こんにちは。

問題壱は大正解ですね♪ PCを最大限に利用して下さいね。だってこれは試験でもなんでもない・・・オタクですから(笑)

 お江ちゃんは多産系だしたが、どういうわけかお初ちゃんは子供がなかったんです。で、少しだけですが苦労したようです。

さて、秀忠が恐妻家だったかどうかは別にして、この隠し子のおかげで江戸幕府が戦国から脱却できたんですから、秀忠の手柄のひとつかもしれないです。





保科正之について・・・・・

 生まれながらの将軍である三代将軍家光は、正之の存在を知らなかった。だがふとしたきっかけでそれを知り、それ以来、家光は正之を大いに信頼し、幕政にも参画させるようになった。そして信州高遠から山形20万石へ、さらに会津23万石へと“出世”させていった。正之が藩主となった会津藩はこの後、幕末まで続き、最後まで徳川幕府に忠誠を尽くして薩長と戦うことになる。

その後、1651年、死の床に伏した家光は正之を枕元に呼び「幼い家綱を頼む」と言い残した。跡継ぎの家綱はまだ11歳。正之をその後見人にして徳川政権の安定を託したのだった。家康、秀忠のあとを継いで徳川幕藩体制を完成させた家光の死は、実は徳川幕府始まって以来の最大の危機だった。戦国の世を徳川権力下にまとめるために三代にわたって多くの大名を取り潰した結果、大量の浪人が発生し社会不安が高まっていた。そして由井正雪の乱が起きる。4代将軍となった家綱の後見人として、保科正之は大名政策の転換に踏み切った。これまでは跡継ぎがいない大名は取り潰してきたが、末期養子(死の直前に養子を決めること)を認めて大名の取り潰しを減らした。浪人の増加に歯止めをかけ社会の安定を図ろうというものだった。

このほか、戦国の風を納め、なおかつ政権を安定させるための政策として・・・それまで大名の妻子だけでなくその重臣の妻子も人質として江戸に住まわせていたが、重臣から人質をとることを廃止した。殉死を禁止したのも正之だ。会津藩主だった正之は、すでに藩の方針として殉死を禁止していたが、これを幕府の方針に取り入れた。正之は老中など幕府の役職にはついていなかったが、将軍後見役として実質的には最高実力者の地位にあり、この時期の幕府の政策転換を主導したのだった。教科書的に言えば「武断政治から文治政治への転換」となる。


しかし、保科正之が名君と言われる所以は、こうした政治的危機からの脱出ではない。江戸城の奥深いところでの出来事は庶民には無縁の世界だし、名君たる言葉は世相と結びついて生まれる。

 今から357年前、江戸が未曾有の大災害に見舞われた。明暦の大火(振袖火事)だ。1657年(明暦3年)1月18日、本郷から出火し瞬く間に江戸中に広がった火事は二昼夜におよび、江戸の大部分を焼失した。焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町余りにおよび、死者は10万人以上に達したという。江戸城も天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸が焼け落ち、無事だったのは西の丸だけという事態となった。将軍も本丸から西の丸に避難を余儀なくされたが、さらに西の丸にも火の粉が飛んでくるようになったため、一時は将軍が城外に避難することが検討されたほどだった。

この対応に陣頭指揮を執ったのが正之。西の丸に避難した将軍の前で右往左往する幕閣の中にあって、正之は城外避難との意見をしりぞけ、「西の丸が焼け落ちたら、屋敷の焼け跡に陣屋を立てればよい」として将軍を江戸城にとどまらせた。有事の際にトップがとるべき姿勢を示したと言えるだろう。

被災者救援にも力を尽くした。まず粥の炊き出し。江戸の6カ所で、一日千俵の炊き出しが7日間行われ、さらに延長された。同時に、家を焼け出された江戸町民に救助金として16万両を支給することにした。幕閣の間からは「それではご金蔵がカラになってしまう」と反対する声が上がったが、正之は「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの。いま使わなければ、貯蓄がないのと同然だ」と一喝したという。

今日の震災復興の議論において、多くの特別会計に多額の黒字(いわゆる埋蔵金)があるにもかかわらず、それにはほとんど手をつけないまま安易に増税に走ろうとしている現状を見たら、保科正之はなんと言うだろうか。

被災者救援と並行して取り組んだのが、物価の安定だった。江戸中が焼け野原になってモノがない状態では物価が高騰しやすい。特にコメの価格は要注意だ。そこで、正之は米価の上限を決めるとともに、コメの確保を急いだ。さらに正之は一つの“奇策”を打ち出す。参勤交代で江戸にいる諸大名に帰国命令を出し、国許にいる大名には参勤交代で江戸に来る必要なしと通知したのだ。参勤交代で江戸にやってくる各藩の家臣の数を合わせると膨大な人数にのぼる。それを減らすことによって、コメの需給を少しでも緩和し値上がりに歯止めをかけようとしたのだった。

普通なら、江戸が一大事なのだから各大名がこぞって江戸に駆けつけることが幕府への忠義と考えそうなところだが、正之の考えは逆だった。既存の常識にとらわれない柔軟な発想と、幕府の権威よりも被災者と民衆の生活安定を優先させるという明確な理念があったのである。

この理念は江戸の復興にも生かされた。復興にあたり、正之は江戸を防災に強い都市に改造する方針を打ち出した。それまでの江戸をはじめ城下町は戦国時代の発想から、敵が攻めにくいようにわざと道路を狭くし入り組んだ町並みにするのが常識だったが、それを変えたのだ。主要道路の道幅を拡幅するとともに、各地に火除けのための空き地や広小路を作った。今も地名に残る上野広小路は、この時に作られたものだという。神田川を拡幅し、隅田川には初めて両国橋がかけられた。

また江戸城内にあった徳川御三家の屋敷を城外に出すとともに、江戸城周辺にあった大名・旗本屋敷をその外側に移転させ、寺社を江戸の郊外に移転させるなどした。これによって江戸の市街地は拡大し、その後の江戸の発展の基礎を作った。

そして最後に残った大きな問題は、江戸城の再建問題だ。江戸城は西の丸以外はすべて焼失してしまったため、本丸や二の丸、三の丸が再建された。だが天守閣はついに再建されなかった。これは正之が反対したからだ。その理由は、天守閣は城の守りに必要というよりも遠くを見るだけのものになっており、このような時に天守閣の再建にカネを費やすべきでないというものだ。「今のようなときに天守閣を建設するのは庶民の迷惑になる」とまで言ったという記録が残っている。、その結果、江戸城の天守閣はその後も再建されることはなかった

三代将軍家光の死によって生じた政治的動揺とその後の明暦の大火は、徳川幕府が始まって最初に直面した危機だった。したがってそれを乗り切った保科正之の業績があったればこそ、徳川幕府の長期政権が続いたといえるのである。だがそれほどの存在だったにもかかわらず、保科正之があまり知られていないのはなぜだろうか。それには二つの理由がある。一つは、保科正之が藩祖となった会津藩が幕末に最後まで明治新政府に抵抗したため、明治以降は保科正之の業績が無視される、あるいは過小評価されるようになったのではないかとみられる。もう一つの理由は、正之自身が自分の業績を歴史から消し去ろうとしたためだ。正之は「自分はあくまでも将軍の後見役。自分が将軍より目立ってはいけない」ということが信念で、そのため死ぬ直前に部下に命じて自分の業績を記した書類や書物などを焼却させたという。


では、問題弐から問題四

問題弐
秀忠の隠し子は江戸城では育てられないため、幸松が生まれてしばらくの間は、母であるお静が江戸・神田の実家で育てていたが、ついには見性院という尼僧に預けられた。この尼僧は有名な武将の奥方であった。さてその武将とは誰か?

問題参
保科正之は、家光とお目見えした後も、徳川姓も松平姓も名乗らずに保科姓のままであった。その理由はなぜか?

問題四
幕末になって会津若松藩は最後まで幕府とともに戦った。その精神的理由は保科正之が遺訓として残したあるもののせいだと言われているが、それは何か?

2014.08.21   えんてつ   編集

えんてつ さん

保科正之の業績は、本人の意向で家綱の手柄として記録に残されたため、名が知られなかったのですね。
保科正之を賞賛する歴史家は多いですね。


★問題弐 
これは簡単に正解ですね ^^
穴山信君

★問題参
とりあえず、想像の翼を広げてみました。
好感度の高い彼のことですから、性格的に徳川の七光りは受け入れ難かったのかな、と考えてみましたが、、、。

既に養子がいたにも関わらず、自分を後継者とした養父・保科正光への忠誠心でしょうか。
正解は、保科姓への誇り ^^

★問題四
正解ばかりだと面白くないですね(笑)
「家訓15カ条」ですか~!


2014.08.21   麦   編集

ムギさん、こんにちは。

全部正解~♪
ちょいやさしすぎなのかなwwww笑


解説文を貼り付けようとしたんだけど、うまくいかないようです。
別のところに貼り付けてみます。

2014.08.22   えんてつ   編集

えんてつ さん

易しすぎませんよ~、ちょうど良いくらいです。
これ以上に難問となると、、、私には解けないかもです ^^;

しかし、面白いですね~!
でも、戦国時代だからかもしれませんね。
歴史苦手でも、この時代のファンは多いですよね。


貼り付きませんか、何も設定の操作はしてないのですが。



2014.08.22   麦   編集

ムギさん、こんばんは。

不正な投稿ということで受け付けてもらえないようです。

部分的に送ってみましょう。

2014.08.22   えんてつ   編集

とりあえずメ-ルで送りました!

次の問題だけを書きます。


問題五
武田信玄は戦で奪った領地の大名の娘(諏訪姫)を側室として勝頼をもうけましたが、それはどういう戦略があったからだと思いますか?

問題六
天目山で武田勝頼は討たれ武田家は滅びました。そのときに最初に首実検をした武将は誰でしょうか?

問題七
武田勝頼の正室は相模と呼ばれていました、有名な武将の娘でした。その武将とは誰ですか?

問題八
秀吉の軍師官兵衛は足が不自由であったが、百戦錬磨の武田信玄の軍師も体が不自由だった。その軍師とはだれか?

2014.08.22   えんてつ   編集

えんてつ さん

本能寺に注目の私に、風林火山は難問ですね(^^;)

★問五 諏訪姫の父・頼重は武田信玄に殺されていますが、武田と諏訪は敵ではなかったんですよね。
結果的に勝頼は武田家を継ぎましたが、武田信玄は(諏訪姫も)、諏訪家の後継者を望んだのでは?

★問六 天目山の戦いをチェックしていて、首実験に行き着くまで遠回りしました、、、
ふふふっ!なんと家康なんですね。

★問七 正室は遠山夫人で、遠山友勝の娘であり信長の養女となっていますが、相模と呼ばれていたのは、継室・桂林院殿、北条氏康の娘ですか?

★問八 やっと愛しの官兵衛くんの登場ですね^^

山本勘助さんですね! 片目と片足が不自由だったのですね。

軍師を調べていたら、信長には軍師がいなかったという疑問に行き着きました。
軍師は、先を読み取る能力に長けているので、信長は心のうちを見透かされるのを嫌ったから、というのが理由の一つにあるようですね。
なるほど、光秀との行き違いも、そんなところにあったかもと思ったりします。

 

2014.08.23   麦   編集

ムギさん、こんにちは。

>本能寺に注目の私に、風林火山は難問ですね(^^;)
風林火山こそが戦国の序章だといえるでしょう。お答えお疲れ様です。

★問五 諏訪姫の父・頼重は武田信玄に殺されていますが、武田と諏訪は敵ではなかったんですよね。
結果的に勝頼は武田家を継ぎましたが、武田信玄は(諏訪姫も)、諏訪家の後継者を望んだのでは?
80点合格
武田家は甲斐の守護大名としての家柄を誇っていましたが戦国の世になって落ちぶれてきました。その武田家を戦国大名として復活させたのが信虎でした。しかし信虎の野心は大きく国内の動静には無頓着に他国に戦をしかけました。そのために信虎の家臣の心は信虎から離れてゆきました。
1541年(天文十年)6月14日、信虎は長男の晴信(後の武田信玄)とともに、信濃(長野県)の海野棟綱(うんのむねつな)に攻め込み勝利し意気揚々と凱旋帰国します。ところが、帰路、甲府に差しかかろうとするその場所で、信虎の部下であるはずの足軽たちが一列に並び、その行く手をさえぎります。「何事?」と、身構える信虎に向かって、一歩進み出た晴信は・・・「この先、甲斐の国にお入りになる事でできませぬ」、しかも、すでに周りの者は、すべて晴信の味方となっていました。そして、信虎は単身、娘の嫁ぎ先である今川義元を頼って、駿河(静岡県)へと落ちました。この政変によりこれまでの同盟関係は反故になりました。

父を追放した晴信は、翌年、信濃攻略にとりかかります。その手始めが諏訪への侵攻でした。諏訪は諏訪大社の大祝(おおはふり)である諏訪家が支配していました。諏訪頼重は晴信に降伏し翌年自刃します。

征服した領地諏訪を収めるために支配者である晴信は14歳の頼重の娘・諏訪姫を娶り子供が出来たならば諏訪の領民も付従うと考えた。ただ本国甲斐の武田宗家の跡取りがうまくいかなかったので、急きょ諏訪勝頼が武田勝頼となって宗家を継ぐことになった。

★問六 天目山の戦いをチェックしていて、首実験に行き着くまで遠回りしました、、、
ふふふっ!なんと家康なんですね。

あらら~不合格30点  正解は織田信忠(織田信長の嫡男)
 武田勝頼の首実検は、織田信忠、織田信長、徳川家康が行った記録があるが、秀吉の記録はない。ただし、秀吉は長篠の戦いには参戦して活躍しました。歴史オタクの間では、信長、秀吉、家康の性格を表す有名なホトトギスの俳句のほかに、この武田勝頼の首実検での態度も参考になるとしています。

★問七 正室は遠山夫人で、遠山友勝の娘であり信長の養女となっていますが、相模と呼ばれていたのは、継室・桂林院殿、北条氏康の娘ですか?

正解!  この女の子が最後に書いた純真な祈りの言葉が有名なんです。

北条氏康は、15人の子沢山で姫は8人あった。戦国の世、子沢山であることは、重臣や有力勢力の諸氏らと血縁を結ぶうえで好都合であった。

武田家は1575年(天正3年)の長篠(現・愛知県新城市)の合戦で、織田信長、徳川家康の両軍勢ひしめく設楽原めざして、17000人の軍勢で突進していった。そしてなんと10000人以上の死傷者と逃亡者を出した。勝頼とともに無事国もとに帰り着いた者は、わずか3000に満たなかったという。

この負け戦の後、1577年(天正5年)1月24日に、勝頼は北条氏康の娘の桂林院を後妻に迎えて、友好関係を強化し、天正7年には、妹のお菊を、上杉景勝に嫁がせて同盟を結んだ。だが盛運をとりもどすことはできなかった。

信長・家康連合軍は、長篠の勝利の後は、家康の策略で、武田家の内部崩壊を待つことにした。その結果、武田家は見事なほどに一族の裏切りが発生した。

 こうした緊迫した状況のなか、ついに1582年(天正10)年2月、勝頼は天目山麓の田野で織田信長の大軍に包囲された、そして3月31日もはや最後と覚悟した勝頼は妻子らと共に自害する結果となった。

 この質問を出した真意は、桂林院が夫勝頼のため、武田家のため、武運長久を祈って、武田八幡宮に収めた願文が有名だからなんです。14歳で嫁ぎ、19歳で自害するまでの5年間を、勝頼のよき妻として尽くしている。
「勝頼いかでか悪心なからんや、我もここにして相共に悲しむ」とただひたすらな祈願文。この571文字の願文を読むとき、ともに祈らずにはいられないような気持ちになります。

原文はほとんど平仮名なんですが漢字を入れたほうがわかりやすいです。

うやまって申し。祈願のこと。南無帰命頂礼八幡大菩薩、
この国の本主として武田の太郎と号せしより此かた、代々護り給ふ、ここに不慮の逆臣出きたって国家を悩ます。よって、勝頼運を天道にまかせ、命を軽んして敵陣にむかう。
しかりといへども、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。なんぞ木曽義昌若干の神慮をむなしくし、身の父母を捨てて、奇兵を起こす。これ自らの母を害するなり。なかんずく勝頼累代重恩の輩、逆臣と心を一つにしてまちまちに覆さんとする。万民の悩乱、仏法の妨げならずや。そもそも、勝頼いかでか悪心ならんや。思いの焔天にあがり、瞋恚なお深からん。
われもここにして相共に悲しむ。涙らんかんたり。神慮天命まことあらば、五逆十逆たるたぐい、諸天かりそめにも加護あらじ。この時に至って神心。私なく渇仰胆に銘ず。かなしきかな。神慮まことあらば、運命この時にいたるとも、願わくば霊神力をあわせて、
勝つ事を勝頼一しに告げしめたまい、仇を四方に退けん。兵乱却って命を開き、寿命重遠子孫繁昌の事。右の大願成就ならば、勝頼、われと共に社檀みがきたて回廊建立の事。
敬って申し。
天正十年二月十九日
源勝頼うち



★問八 やっと愛しの官兵衛くんの登場ですね^^

山本勘助さんですね! 片目と片足が不自由だったのですね。

軍師を調べていたら、信長には軍師がいなかったという疑問に行き着きました。
軍師は、先を読み取る能力に長けているので、信長は心のうちを見透かされるのを嫌ったから、というのが理由の一つにあるようですね。
なるほど、光秀との行き違いも、そんなところにあったかもと思ったりします。


正解!  山本勘助も謎の多い人なんです。
戦国時代を語るときの序章は、上杉・武田を大舞台にあげないといけないです(笑)この山本勘助も上杉との戦で命を落とします。

問題九
上杉謙信と武田信玄は信濃川の中洲で決戦をしましたが、なんという地名だったでしょうか?

問題十
そして、合計何回戦って、勝敗はどうだったのでしょうか?

2014.08.24   えんてつ   編集

えんてつ さん

今週の官兵衛では、蜂須賀小六が死んでしまいました。
映像でも記録でも、秀吉の嘆き悲しみの様子が伝わってきますが、この時代の、命に対する考え方が解らなくなります。

あらま。
満点で終えるツモリだったのに、早くも撃沈~!
問五の『戦略』が意味する解釈は難しかったです。
私の答えでは『目的』になるな、、、と、ちょっと自信がなかったのです。
もっと突っ込んで調べれば良かった!
残念!

問七は30点?
首実検の記録は面白くて、あちこちサーフィンしたのですが、どこかに家康が家臣たちと首を弄んだ記録があったような~ ・・・v-409

妻歴30年以上の麦さんに、桂林院14歳~19歳のツメノアカを届けないといけませんねね(笑)
歴女には欠かせない行りなんですね。


ふふっ!
ぐっとレベルを下げましたね。
でも、大切なところなので慎重に・・・
★問題九 
あっちこっちで闘っていますが、千曲川と犀川の間?
川中島の合戦、というくらいですから、川中島!

★問題十
2回説とか5回説とか不明とか、、、
正解は5回、ということで、勝敗は不明。

前半は上杉謙信、後半は武田信玄とありますから、武田信玄でしょうか。
信玄と謙信、戦いの目的がそれぞれなんですね。
どちらも目的は達成としたということで引き分け?



2014.08.25   麦   編集

ムギさん、こんにちは。

今日は何日かぶりでお天道様のお顔を拝しましたが、午後から雨になるとか・・・・



では、続きです。




信玄晴信が諏訪姫を娶るにあたっては家臣の多くが反対しました。討った敵将の娘をそばに置くわけですから仇を討たれる可能性がありますからね。このときも山本勘助が家臣たちを説き伏せました。

>映像でも記録でも、秀吉の嘆き悲しみの様子が伝わってきますが、この時代の、命に対する考え方が解らなくなります。

蜂須賀小六と秀吉の出会いは明確ではありませんが、小六がならず者たちを集めて木曽川流域で勢力を張りその親分各でいたころだという説が多いです。とにかく命が大事だという認識はあっても日常的に人の死を目にしての生活だったことと、浄土門の仏教が定着して広まっていたことが大きいからだと思います。小六は秀吉とよく似た境遇だったので余計に辛かったのかもしれませんね。
 人たらしといわれて、誰もかれも味方にしようとした武将秀吉でしたから、人を失うことはひどくダメ-ジだったようです。

 武田勝頼は、のちの豊臣秀頼と比べると比較にならない優れた武将でした。ただ父である信玄に対する畏怖の念が死後に恨みつらみとなって勝頼に襲い掛かったのかと思います。信玄はその戦人生のなかで負けは二度しかありませんでした。
問題の一番最初に勝頼の首実検を行ったのは織田信忠です。武田家と織田家は領地が隣同士で親戚付き合いをしていましたが、武田家と徳川家の争いのなかで手切れとなりました。そのご、織田信忠は信長の跡取りとして武田との戦いの実戦隊長として常に前線で指揮をとりました。勝頼の首が信忠に届けられたとき、本物かどうかなかなか確認できなかったそうです。次に勝頼の首は信長に届けられました。信長は勝頼の首をかなり激しく痛めつけたこと、次の家康は過去のことを思い出して灌漑にふけったとか・・・・・
問七は30点?
首実検の記録は面白くて、あちこちサーフィンしたのですが、どこかに家康が家臣たちと首を弄んだ記録があったような~ ・・・

>桂林院14歳~19歳のツメノアカを届けないといけませんね(笑)
桂林院の祈願文は現存していて、公開されていると思います。文の中に出てくる逆臣とは、信長や家康のことですが、「なかんずく勝頼累代重恩の輩、逆臣と心を一つにしてまちまちに覆さんとする・・・」とあるように長く武田家の家臣としてご恩をいただいていた武将たちの裏切りが悲しく許せなかったことがよくわかります。

>★問題九 
あっちこっちで闘っていますが、千曲川と犀川の間?
川中島の合戦、というくらいですから、川中島!

正解!
あっ、厳密には信濃川じゃなくて千曲川と犀川の間の三角州で「川中島」でしたね。三角州といってもとても広い場所です。善光寺のある善光寺平から八幡原と言われるあたりですね。

>★問題十
2回説とか5回説とか不明とか、、、
正解は5回、ということで、勝敗は不明。

正解!
一回目は1553年上杉側勝利
二回目は1554年犀川を挟んで対陣200日で引分けなるも武田は川中島を放棄すると盟約する
三回目は1555年信玄は盟約を破って出陣。真田幸隆の活躍などで武田有利に終わる
四回目は1561年、世に残る「川中島・八幡原の戦い」初め上杉勝利、後半武田勝利なるも、これ以後川中島は武田の領地となるので武田勝利に近い。
五回目は1564年塩崎で対陣するも引分け

特に四回目は、武田側の山本管助の「キツツキ戦法」を謙信が見破って奇襲を仕掛けたことや、信玄と謙信の一騎打ちがあった(真偽は不明)ことで有名。武田家も信玄の嫡男




問題十一
 ここで基本に立ち返って日本の歴史区分で戦国時代と呼ばれるのはいつからいつまでなのでしょうか?またそれを示す事象はなんでしょうか?

問題十二
 武田信玄の軍師は山本勘介が有名ですが、では上杉謙信に軍師と呼ばれる人はいたのでしょうか?

問題十三
 武田信玄の嫡男は、武田義信なんですが、数奇な運命をたどり、父である信玄を暗殺しようとしたとも伝えられています。さてこの義信は何歳で亡くなったのでしょうか?

問題十四
 秀吉とともに賤ヶ岳で戦い、その功績から「賤ヶ岳七本槍」呼ばれた人たちをあげてください。

問題十五
 賤ヶ岳の戦いの前夜、福島正則と先陣争いで口喧嘩をして、あすの戦では大一番に先駆けをして敵の首をとると皆に誓って、言葉通りに先駆けして討ち死にし、秀吉から一番槍の感状を授かった武将はだれでしょう?

2014.08.25   えんてつ   編集

えんてつ さん

★問十一 戦国時代とは
1467年応仁の乱から1573年織田信長の足利義昭追放、とするのが一般的とありますが、あくまでも一般的?
1600年の関が原の戦いから後、しばらくも充分に戦国時代と思います。

★問十二 宇佐美定行

★問十三 30才

★問十四 福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元
丸写し ^^; 

★問十五 賤ヶ岳の戦いの一番槍は福島正則という記述が多いですね。
福島正則と口喧嘩となると、相手は石田三成と思いますが、それはありえませんね。
平野長泰が一番槍の賞を与えられたとありましたが、福島正則らにも与えられていますし・・・。
福島正則、加藤清正と共に、加藤嘉明が賤ケ岳の戦いで先陣をきったという記録もありますが、賤ヶ岳七本槍の中に、賤ヶ岳の戦いで討ち死にした武将はいませんよね?
賤ヶ岳で加藤清正が拝郷五左衛門を討ち取ったという説もあり・・・

問題十五は眠れなくなるので・・・v-431


2014.08.26   麦   編集

ムギさん、こんにちは。

きょうは曇り空でむしむし状態です。九十九まで道のりは長いですが頑張りましょう~♪

では、
>★問十一 戦国時代とは
1467年応仁の乱から1573年織田信長の足利義昭追放、とするのが一般的とありますが、あくまでも一般的?
1600年の関が原の戦いから後、しばらくも充分に戦国時代と思います。

100点合格 → 「1600年の関が原の戦いから後、しばらくも充分に戦国時代と思います。」 まさにこれが歴史を楽しく眺めるエキスになりますね。歴史は過去の事実で変えられませんが、歴史の解釈の方法は歴史を作った当事者の数と歴史を眺める人の数だけあるということですね~♪ 歴史的な想像力が未来の創造力になることも財産です。
 
当時、日本の都(首都)であった京都に多くの有力者が集まって全国に行きわたる政治・行政管理を行っていました。そのためには管理するための権力組織があり、管理ができているかどうかが時代の終わりの判定基準になります。管理組織が破壊・消滅したときや、ときの最高権力者が都で権力をふるえなくなったときに○○時代とか○○幕府は崩壊したことになります。また次の新しい権力組織ができると同時に新しい時代が始まります。

こうした決め方は学問的で歴史学者のお仕事です。歴史オタクは自分の物差しで戦国時代を決めればよいのです(笑)


>★問十二 宇佐美定行

95点合格  正解は宇佐美定満なんだけど宇佐美定行と同じだとされています。紀州藩に残る「上杉家の越後流軍学」という物語の中に軍師として宇佐美定行が登場しますが、架空の人物だという説が多い。ただ宇佐美定行のモデルは実在の武将である宇佐美定満であると考えられています。

 宇佐美定満は軍師として上杉謙信に仕え、長尾政景の反乱鎮圧に功があり、また第四次川中島の戦いで、武田軍師・山本勘助が発案した啄木鳥戦法を見破ったともいわれています。前述のように越後流軍学の祖といわれています。


>★問十三 30才
 正解! 戦国時代の嫡男の不幸は、徳川信康もそうでしたが母方の出目がきっかけになる場合が多いです。武田義信の場合も父・信玄が母方の祖父を討とうとしたことで反目しました。こう考えると息子たちは潔い。ただ実際は子供たち以上に母であり妻である女性が辛いんだとは思いますが・・・・


>★問十四 福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元
丸写し ^^; 

あはは~これも正解! ただ諸説あるのも事実です。秀吉が感状を与えた子飼いの若者のは七人以上でしたからね。そうそう、上の七人、歳の順番が言えたらなおなおオタクです。


>★問十五 賤ヶ岳の戦いの一番槍は福島正則という記述が多いですね。
福島正則と口喧嘩となると、相手は石田三成と思いますが、それはありえませんね。
平野長泰が一番槍の賞を与えられたとありましたが、福島正則らにも与えられていますし・・・。
福島正則、加藤清正と共に、加藤嘉明が賤ケ岳の戦いで先陣をきったという記録もありますが、賤ヶ岳七本槍の中に、賤ヶ岳の戦いで討ち死にした武将はいませんよね?
賤ヶ岳で加藤清正が拝郷五左衛門を討ち取ったという説もあり・・・

問題十五は眠れなくなるので・・・


あらま~眠れたんでしょうか!?
でも。残念ですが・・・・ブブブブブ~20点の不合格! 

一番槍だから一番の手柄ただ一人でないといけないと思ってしまいますが、成績の良い者はみな一番槍なんですね。「一番槍」という言葉は、優秀なクラスを表す言葉なんですね。なので賤ヶ岳の七本槍は全員が「一番槍」ということです。ただし一番槍の感状に添えられた副賞はそれぞれに違います。

で、正解は「石川兵助」という人です。福島正則のひとつ下だったと思います。勇猛果敢な福島正則に開戦の前夜なじられて喧嘩になって、石川兵助は泣きながらみんなの前で明日は頑張って一番槍をあげると宣言した。そして翌日、石川兵助はその言葉通りに敵武者の首をとって、その勢いで馬上の敵将に向かいましたが、相手はムギさんの回答に出てくる大聖寺城主の拝郷五左衛門で槍で一突きにされました。

秀吉が太閤となって大阪城で生活するようになると、部下の武将たちが集まるたびに昔のいくさ話になり、かつて、ねねが育てた若者たちが、それぞれに名のある大名になる出発点となった賤ヶ岳のことが多かったと記録されています。




では問題です。
問題十六 壮大な中国の歴史にも戦国時代があり、世に残る戦国の七雄が覇権を争いました。では、日本の戦国の七雄は誰になるのでしょうか? 定説がなければムギ説をあげてください。


問題十七  1555年(弘治元年)に行われた第二次川中島の戦いで、200日にわたって対陣する武田晴信と長尾景虎(上杉謙信)の仲介を行って両者の和睦を成立させた武将とは誰でしょう?



問題十八 江戸時代に頼山陽が編纂した「日本外史」のなかで、戦国時代に戦われた特筆すべき奇襲戦を日本三大夜戦(日本三大奇襲戦)として記録しました。それぞれの奇襲戦の歴史的名称と戦った相手は誰だったでしょうか?

2014.08.26   えんてつ   編集

えんてつ さん

今日は、こちらは快適です。
クーラーもヒーターも要らず、適度な雲とにわか雨。
一年中、こうだと良い様な天気でした。

問十二は、なるほど宇佐美定満と答えてこそ、この問の意義があるわけですね。

問十五は、降参でした。
調べていて解った事は、福島正則は、けっこうケンカッパヤイ武将だったようですね。
大酒飲みが災いして日の本一の槍も奪われましたし(笑)

★問題十六 そのままコピ~!
毛利元就・今川義元・北条氏康・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉
基準はないそうですね。
戦国時代の功労者?
戦国の紫綬褒章とか?
私の独断と偏見で言えば、浅井長政、清水宗治、、、

★問題十七 今川義元と答えたら短絡過ぎますか?

★問題十八 あはは、、、これも丸写しか?
と思ったら、桶狭間があってよかった (苦笑)

・桶狭間の戦い 
織田信長
今川義元

河越城の戦い(河越夜戦)
・北条氏康軍
・上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍
河越城の戦い、となると、また別なんですね。

厳島の戦い
・毛利元就
・陶晴賢


今、テレビで司馬遼太郎の番組が流れていますが、
「保科正之」 の名前が出てきました ^^

2014.08.26   麦   編集

ムギさん、おはようさん。

今朝は青空がのぞいています。



福島正則は、柴田勝家と似たように思えるということで~人気がなかったです(昔の話ですが)。でも日本号を飲み取られたんですからすごい奴です。

>★問題十六 そのままコピ~!
毛利元就・今川義元・北条氏康・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉
基準はないそうですね。
戦国時代の功労者?
戦国の紫綬褒章とか?
私の独断と偏見で言えば、浅井長政、清水宗治、、、

正解!
戦国時代に覇を唱えて争い日本を統一する力量があると見込まれた七人の武将をあげればよい。一般には徳川家康が入っていないのですが徳川幕府の創始者ということで一段高くみているからでしょうか。

学校での歴史の勉強では何年に何があったかという「編年体」という形で行われるので暗記ばかりが重要になってしまいますが、もうひとつ「紀伝体」というのがあってそれはある事件を通して、あるいはまた、ある人物の一生を通して幾つの時に何があったか何をしたのかという方法なんです。わたしは「紀伝体」が大好きなんですよ。戦国時代もこの7人のうちのひとりかふたりの人生経験を眺めるとほとんど全てが表れてきます。


>★問題十七 今川義元と答えたら短絡過ぎますか?

正解!  ええっと、短絡ではなくて・・・・当時、武田と上杉の戦を仲介できる貫禄と力量のある武将がいたという事実がすごいことなんですね。


>★問題十八 あはは、、、これも丸写しか?
と思ったら、桶狭間があってよかった (苦笑)

・桶狭間の戦い 
織田信長
今川義元

河越城の戦い(河越夜戦)
・北条氏康軍
・上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍
河越城の戦い、となると、また別なんですね。

厳島の戦い
・毛利元就
・陶晴賢

今、テレビで司馬遼太郎の番組が流れていますが、 「保科正之」 の名前が出てきました ^^

ハイ、これも大正解!
この三大夜戦を選んだ頼山陽という人は江戸時代の中期に人生を送りました。この時代は日本は鎖国をしていて、いわゆるガラパゴス諸島の生物が独特の進化を遂げたのと同じで、日本の学問が独自の進化発展を遂げるようになってきたんです。悪い言い方をすれば島国根性が発展するのですから、その中身には興味がありますよね。
この三大夜戦のうちの河越夜戦は関東の武蔵国が戦場ですからムギさんのお住まいにぐっと近いと思います。鎌倉に幕府が開かれて以来、東海・関東を支配しないと全国統一はありえないということでこの方面も激戦区でした。川中島の戦いと同じように河越城の戦いも何回か続きましたから区別する場合があるようです。とにかく北条氏康の粘りと策略と奇跡の大勝利でした。

おっ、テレビで保科正之の名前が出てきましたか~ 勉強仕立てでバッチリかな♪


では

問題十九
 福島正則が母里太兵衛に飲み取られた槍は「日本号」でしたが、日本天下三名槍と言われた槍はなんというでしょうか?

問題二十
 黒田家に伝わった槍の「日本号」は、その後、母里太兵衛から黒田家に仕えた槍の名手へと伝わることになる。さてこの人物とは誰でしょう?


問題二十一
 信玄の武将として川中島で軍功をあげた真田幸隆は、真田家発展の基礎を作った人でもある。黒田官兵衛は伊丹有岡城での経験から藤の花を家紋にした経緯がある。さて真田家の家紋「六文銭」は三途の川の船賃の意味だと言われている。この家紋「六文銭」が定められた経緯とはなんだろうか?


質問二十二
 関ヶ原の合戦時、石田三成が居城としていたお城はどこか?


質問二十三
 徳川家康は武田信玄に大敗した戦がある。この静岡県浜松市北区付近で起こった戦は何と呼ばれているか? またこの戦の直前で攻防の焦点になったお城があるがその城とはどこか? この戦に負けた家康は恐怖のあまり馬上で糞尿をたれながら浜松城に戻ったが、追っ手を恐れてある策略を講じたがそれはどんなことか? 


質問二十四
 戦で敗北して逃げ去るとき、一番後ろで追っ手を防ぐ役柄をなんと呼びますか?
また質問二十三の家康の敗北戦でこの役目をした武将は誰でしょう?



ここまでの成績、というより感想はどうですか~?
ちょいとペ-スが早そうですが、途中で一時中断期間ができるかもしれないので先行です。

2014.08.27   えんてつ   編集

えんてつ さん

今日、こちらは肌寒いくらいでした。

今回は、成績優秀でしたね ^^


問題十九 ここで点数を稼いでおかないと。

御手杵(おてぎね)
日本号(にほんごう)
蜻蛉切(とんぼきり)


問題二十  後藤基次 = 後藤又兵衛
又兵衛と言う事は、官兵衛と兄弟のように育った子ですね?


問題二十一  いくつかの説があるのですね。 
いつだったか上田城を訪ねた時に、真田家が三途の川を渡る覚悟で戦いに挑む意気込みを敵に示すための旗印、と学んだ覚えがありますが。


問題二十二 佐和山城


問題二十三 
・三方原の戦い
・二俣城
・夏目吉信を身代わりにした


問題二十四 
・殿(しんがり)
・本多 忠真 


問題19~24ですから、回答は6個のはずですが、
もっとたくさん回答したような~~~ ┐(*'▽'*) ┌
すぐに答えられるのもあれば、降参したいほど難しいのもあったり。
正解か不正解かはどうでも良くて、 とにかく回答した後の達成感は爽快!



2014.08.27   麦   編集

ムギさん、こんにちは。


昨日はこちらも夕方から急に気温が下がりました。家では下着でうろうろしてしまうんですがマジで寒いほどでした。

>問題十九 ここで点数を稼いでおかないと。

御手杵(おてぎね)
日本号(にほんごう)
蜻蛉切(とんぼきり)


100点大正解! 蜻蛉切(とんぼきり)は家康の腹心であった本多忠勝愛用の大槍です。刃先に止まったトンボがそのまま切れてしまうというほどの切れ味だったとか、忠勝は生涯55回の戦に参戦してかすり傷さえ一度もなかったという名将です。なので槍の手入れにも抜かりがなかったということだと思います。本多忠勝についてはまた問題に出そうと思います(笑)

>問題二十  後藤基次 = 後藤又兵衛
又兵衛と言う事は、官兵衛と兄弟のように育った子ですね?

そうなんです、兄弟のように育てたことが問題でした。又兵衛は官兵衛が育てた黒田家の宝物で、その後の黒田家の繁栄を支えた人物です。官兵衛が又兵衛の技量を見抜いて息子の長政以上に目をかけて大事にしたことで、長政の反感を買いました。黒田家を出た又兵衛は仕官の声は多かったのですが、すべて長政が邪魔をしたので、最後には乞食になって各地を放浪しました。大阪の陣になり、大坂方は又兵衛と真田幸村の入場を果たしたことで戦機がみえました。大阪城に又兵衛が入場したことを知った家康は、50万石以上で召し抱えるからという密書を送りました。


>問題二十一  いくつかの説があるのですね。 
いつだったか上田城を訪ねた時に、真田家が三途の川を渡る覚悟で戦いに挑む意気込みを敵に示すための旗印、と学んだ覚えがありますが。

これも正解! 武将が部下に決死の覚悟のほどを見せる場合は、自分のしている兜の紐の結び目のあまり紐(忍緒)を切り取ってしまうこと・・・兜の緒を切る! ということで、もうこの兜を脱ぐことも次回使用することもないという意思表示です。その他には、兜に香をたいて兜姿のわが身を死装束とみなすとか・・・
真田家の場合は、いつでもそうだという決死の覚悟を家紋に表したと言われています。


>問題二十二 佐和山城
正解! 彦根城から直線で2キロぐらい離れたところにあります。三成は関ヶ原から離脱したあとなんとかこの佐和山城に戻りたかったに違いありません。伊吹山中で田中吉政にとらえられてその後打首になりますが、打たれる直前まで健康に気を配ったという逸話があります。佐和山城は破却されて、資材の一部は彦根城建設に使用されました。彦根城は幕末まで井伊家が治めましたが、わたしが中学ぐらいまでは彦根市長は井伊さんでした(笑)。

>問題二十三 
・三方原の戦い
・二俣城
・夏目吉信を身代わりにした

これもほぼ正解! かなりオタク的な質問でしたがお見事です。三番目は「夏目吉信などが身代わりになった」がより正解。そして浜松城に戻った後で、城の城門を開放して「開城の計」をとりました。かがり火が燃えて城門が開いているのをみて信玄配下の追跡軍は策略を案じて引きました。ただ冷静にみれば、家康が命拾いをしたのは日が暮れたことでした。

>問題二十四 
・殿(しんがり)
・本多 忠真 

やりますね~♪ 負け戦での殿はまさしく命がないのが普通です。なので大将にとって殿を務める武将を選ぶことは苦渋の選択であり、無事に目的を果たして帰還できたときは後世に残る名誉となります。見事な殿を果たした武将についてはあとで問題に出しましょうね。本多忠真は殿を務め目的を果たしましたが自らは討ち死にしました。本多忠勝の叔父さんで忠勝を名武将に育てた人です。

>問題19~24ですから、回答は6個のはずですが、
もっとたくさん回答したような~~~ ┐(*'▽'*) ┌
すぐに答えられるのもあれば、降参したいほど難しいのもあったり。
正解か不正解かはどうでも良くて、 とにかく回答した後の達成感は爽快!


色々調べていただかないと答えが出ませんが、正解率が高いのに驚いています。


では、
問題二十五
 信玄からは「家康に過ぎたるもの」と称され、信長からも「花実兼備の武士」と言われ、秀吉からは「日本第一、古今独歩の勇士」と褒め称えられた、家康配下の武将は誰でしょうか?


問題二十六
徳川家康が今川家の人質だった頃からお共をしていた古参の家臣。徳川家の独立直後から 「西三河衆」 を率いて徳川家のために戦っている。また織田家との交渉を進め、「清洲同盟」 と呼ばれる織田・徳川家の同盟を成立させ、さらに今川家の人質となっていた家康の妻 「築山殿」と長男「徳川信康」を奪還するために単身今川家の居城「駿府城」に乗り込み交渉の末、取り戻す事に成功する。これらの功績で、徳川家の中でも重要な家老となる。しかし豊臣秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」の後、突然一族を率いて秀吉側に寝返った。この武将とは誰でしょう。


問題二十七
 関ヶ原で西軍に組し、最後は敵中突破をはかり無事本国に帰還した武将とは誰か? この偉業?は後世なんと名付けられ呼ばれましたか?


問題二十八
 1556年1月近江国犬上郡で生まれる、幼名は与吉。1569年13歳で北近江の農民一揆鎮圧に参戦し手柄をたてて浅井長政から備前兼光一刀をいただく。1570年姉川の合戦で織田勢の首数をとり浅井長政から感状を受ける。1573年17歳で小谷城が陥落し浅井氏が滅ぶと旧家臣の家来となる。1576年近江国を出て織田信澄の家臣となる。丹波攻めに参戦し手柄を立てるが80石の手柄だと評価されて出奔する。放浪生活中に三河国吉田屋で無銭飲食をして諭される。その後、豊臣秀長に仕えてから出世の道が開けた。秀長に召し抱えられることが決まったとき、鮒ずしを酒の肴にして話していた。そのためか、後日、家の祝い膳には、近江名物の鮒ずしを出すしきたりになっていたという。そしてついに大名にまで出世をし、参勤交代の途中で三河国吉田屋に立ち寄り大昔の無銭飲食の代金を支払った。この大名の旗指物は白の「三つ餅」で「城持ち」の語呂合わせだと言われている。さて、何度も主君を変えた戦国武将として知られ、また築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。さてこの武将とは誰だろう?

問題二十九
近江国伊香郡の人。豊臣秀吉家臣。秀吉没後は、豊臣秀頼の後見役を務めたが、このころから徳川家康への対応に苦慮することとなる。1600年「関ヶ原の役」のちも茨木城を領する。1608年、秀頼の命により和泉狭山池を大改修し、耕地の灌漑に大きく貢献する。1614年「方広寺鐘銘事件」によって豊臣・徳川家の対立は不可避なものとなると運命は暗転した。淀君・大野治長らからは疑惑を受け、大坂から退城し、茨木へ蟄居した。さてこの武将は誰でしょう?

問題三十
近江国の人。浅井家の小谷城で生まれる。通称小兵衛。官途は若狭守。
足利義昭と織田信長の対立では、父が足利義昭方だったため織田信長により父は蟄居させられ、家督を相続した。1573年「槙島城の戦い」に従軍した。1581年、丹羽長秀の寄騎衆として「伊賀攻め」に参加し名張郡を平定。1582年「本能寺の変」では、明智光秀に加担、長浜城を攻撃したが「山崎の戦い」で明智光秀勢が敗れると、若狭国へ落延びた。その後、妹を羽柴秀吉に差し出して許された。1590年、小田原征伐の功により近江八幡山城二万八千石となり1600年「関ヶ原の役」では最初西軍について「北陸征討」に従うも、東軍に転じて大津城へ籠城、立花統虎(宗茂)らの猛攻を受けてついに剃髪して開城した。関ヶ原本戦で東軍が勝利したため大津籠城の功により若狭小浜城に八万五千石を与えられた。さてこの武将は誰でしょう、またつけられたあだ名はなんというでしょう。


問題三十一
近江国の人。官途は左近衛少将。通称忠三郎。洗礼名「レオン」。
正室は織田信長の娘(冬姫)。織田信長の枝連衆として厚く遇された。1568年、北畠具教との戦いで初陣を飾り、兜頸を挙げる戦功を挙げた。その後も織田信長の戦いに参陣して、父と共に数々の戦功を挙げた。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、父と共に日野城に織田信長の妻子を保護して籠城、明智光秀に対抗した。明智光秀勢の明智光春、武田元明、京極高次らに、長浜城、佐和山城、安土城の各城を攻略されたが、日野城を攻略中に明智光秀が「山崎の戦い」で討死した為、攻略勢は敗退した。その後、羽柴秀吉に属して功績をあげ、伊勢国松ヶ島城十二万石を領した。1588年、伊勢飯高郡に松坂城を築城、城下街を整備した。1590年、伊勢国松坂城から、会津若松城九十二万石に転封になった。会津若松城下に日野、松阪の商人を呼び寄せ、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、会津若松発展の基礎を築いた。1591年「大崎、葛西一揆」「九戸政実の乱」を鎮圧した。1592年「文禄の役」では、肥前名護屋に参陣した。1595年、伏見城下の屋敷で病没した。さてこの武将は誰でしょう?


問題二十八からは、わたしの覚書からの問題で少しロ-カルです(笑)。

2014.08.28   えんてつ   編集

えんてつ さん

こんばんは

寒いくらいの涼しさですね。


満点を目指しましたが、一つ躓けば、あとは楽しみながら(笑)

コメント欄が長くなりましたね。
このスレも埋まってきたし、新たにスレッドを立てようと思います。
閲覧して下さる、どなたかに答えを、、、という魂胆、、、?v-392


2014.08.28   麦   編集

こんにちは。

今朝もまたどんより曇り空です。

コメントの数より、ちょいと文章長すぎかな~笑
でも説明ですからしゃあないです。

35題目あたりかで戦国から方向転換しようかと思います。面白くなくなったら教えてね♪

えっ別立てで、他力本願ですか(笑)
とにかくお付合いして下さってありがとうございます~♪

2014.08.29   えんてつ   編集

えんてつ さん

こちらも、どんよりです。

制限のないFC2の良さを、こういうときに感じますね。
このままでも良いのですが、過去記事に遡るのは大変ですよね。

今日は避けられない用事があり、回答が遅れると思います。

あはは!
他力本願は、、、もしかして、そんなこともあろうかと、、、 (笑)



2014.08.29   麦   編集

苦い思い出

  『終戦前後の混乱期に王子動物園で飼育員として働き、その後、日本で始めてチンパンジ-の人工飼育に成功した亀井一成という人がいる。1980年代の初め頃に亀井さんの講演を聞いたことがあった。

亀井さんは、育児放棄された赤ちゃんチンパンジ-を家に連れて帰って夫婦で面倒をみることにした。しかし自分は動物園に出勤するので、あとは頼むということで一日の大半は奥さんのほうが育パンジ-に苦労された。奥さんはチンパンジ-の赤ちゃんを自分の子供のように育て、昼間はたいてい背中におんぶして生活した。

後になって日本で始めての人工飼育が成功したということで、亀井御夫婦は新聞社のインタビュ-を受けた。そのときに奥さんが「もう必死でしたよ。人間の赤ちゃんでさえ育てた経験が浅いのにチンパンジ-の赤ちゃんですからね。もし、死なせたら、わたしは人間だし、チンパンジ-は生んで返せないしね」と苦労話をされたのだそうです。』


上の文章は、1998年に、あるH,P,のサイトに書き込みしたものです。このあと、この文章をめぐって壮絶な非難合戦となり、とうとう最後にH,P,の管理者さんは、この書き込みの元のスレ立てとすべての書き込みを消去されました。当時はSNSのような村内だけというのではなくて、今のブログのように誰からもアクセスできるオ-プンスペ-スでしたから、延々と書き込みが続いたのです。敵味方分かれての避難合戦です。

もう14年以上前のことですが、わたしは色んなご意見を受けて立って正しくご返答しなければと思い、ながながとつづく書き込みを毎夜毎夜コピペしました。そういうことでこうした今では懐かしい文章も残っています。結論からいえば、この書き込みをしたことでわたしが謝罪しました。謝罪の相手は管理人さんと非難の異議申し立てをされたかたの二名でした。

管理人さんは金沢のかたでしたが、焦点の非難合戦とそれに付随したおまけの論争(言い方が悪いだの、マナ-が悪いだのという双方言いたい放題でした)があり、こうした醜い事態の原因を作ったことと、当時はWeb上での故障や誤動作も多く、管理者サイトの容量も少なかったことでサイト閉鎖の危険性についてリスクになったことを謝罪しました。
非難の狼煙を上げた方には、スレのなかで謝罪しました。そしてすべて済んだあとで管理者さんが声明を出されてスレッドそのものが消去されました。

これは実にわたしの苦い思い出です。なぜなら愉快な話題だと思って紹介したつもりだったのに、こんな人権無視の思いやりのない話題を書き込むなんて考えられないという非難だったからです。もう博物館に飾るほど古いことだからだれも記憶にないので表に出してみましたが、どういうところが焦点になって非難されたのか、想像つくでしょうか(笑)?わたしはこれでそうとう勉強させていただきました。

2015.09.07   えんてつ   編集

えんてつ さん

このコメントを拝見して、思い出したことがあります。
我が家に仏壇はありませんが、義父母のフォトフレームがあります。

去年、ワンコが亡くなって、遺骨を、義父母の遺影の横におき、義父母と同じように、お水用のカップと花瓶と写真を供えました。
すると、夫が、義父母の一式を、花台で一段高く、供え直しました。
ワンコをも、私同様に可愛がっていた夫ですが、両親と犬とは違うのですね。

夫の考えが解るように思いましたので、ワンコ一式は、別の場所に移動しました。

しかし私自身は、私の両親とワンコが一緒でも、ノープロブレムです。

モラルも価値観も、百人百様ですね。


桃色の花が彩を添えたのでしょう、ますますアクセス上昇中 (-_-)

古い記事への書き込みですが、
このたびの出来事が拡大するのを避けるためのお気遣いでしたら、野次馬さんは、枠外の新規コメントをチェックしていると思いますので、せっかくのお気遣いですが、意味がありませんです、、、(-_-メ)


2015.09.07   麦   編集

麦さん、おはようさん

古い記事へひっつけて紛らそうというのは、かえって目立ちましたか~笑

宇宙に向けての囁きじゃなくて、麦さんに向けての囁きのつもりが、どうやらあきませんね。



微妙な価値観の違いはしゃあないのです。折り合うしかない。

わたしの書き込みに受けた指摘は、男の自己的な女性軽視の差別的見方をしているということでした。

ええっ、そんな意味にとられるなんて心外ですというのがわたしの第一声でした。で、その後収まりなく賛成派と反対派に色分けで攻撃のしあい。

本来こうした指摘に対して相手の方に反撃のような気持ちでコメントしてはまずいのです。
しかしわたしは、そんな返答をしました。
あなたの取り方が間違っているのです、あなたはわたしの文章を誤解しておられますという文章を何回書いたかわかりません。


ごめんなさいね。誤解を招いたようですが、わたしの書きたかったことは「・・・・」ですと
こういう返答をすれば良かったと今は思っています(笑)。


あえて言うなら、誤解させた当方にも一部の瑕疵があったと、「考える」ことでしょうか。



この当時に、H.P.を開設しておられた方は、ご自分で容量の大きいHDDを乗せた自作のPCで発信しておられたので、荒れると大変でしたが、非常に分かりやすいこともありました。

それは、コメントを管理人だけに匿名に出すことができない、すなわちすべて公表されることです。自分の出したコメントを消去するには、管理人にメ-ルで削除依頼をするか、別途コメントを出してそのなかで削除依頼をする必要がありました。

なのでおかしなコメントをつけるとそのまま残ってしまうことになり、どこでどうなったか分かりやすい点もありました。

人間はときに勘違いや誤解を招くものだということを大前提というか、当たり前だという認識でブログを眺めないと、必ず、どこかで揉め事がおこるということです。

ものの価値観の違いで揉めるならそれはブログにそなわった本質の一部でしょう。

問題は誤解、文章の意味の取り方の間違い、文章の表現の仕方、などが生じたときです。こればっかしは、原因となったところを明らかにできればそれで良いのですが、名誉と自尊心のような感覚が先行するので、それを乗り越えて双方で解決しようという意思がなければ、絶対に解決できません。

単なる自己主張だけになってくると、自分の味方になってくれる人を探しまわって、関係のない人にまで渦に巻き込むなどのことをしてしまいます。人間の心の弱さのひとつなのかも知れませんね。



どうか、同じような躓きを繰り返さないこと、信義と信頼と寛容の精神が発揮される場所であることを、ここを覗かれた皆さんにお願いいたします。

  
雑草に似るや踏まれて麦青し ~
花びらの泥田に落ちて目立ちけり ~
神の声つぶやき耳に眼を醒ます  ~


きょうはこれから駅立ちです。

2015.09.08   えんてつ   編集

えんてつ さん

適切な例で、的を得た解決方向の提案ですね。

>あえて言うなら、誤解させた当方にも一部の瑕疵があったと、「考える」ことでしょうか。

そうですね。
このたびの私の落ち度は、
お二人の行き違いは私には関係ない、私が呟いたのはコレだ! 
と、私の言い分を一点に絞り、決して揺るがさなかったことです。

相手のかたは、全体な流れが混同しての感情ですから、第三者に一部分だけを、あげつらわれては、不快だったと思います。
削除するというkanmoさんの方向性は、私の生き方とは違うので、全体的な話となると、私は、の※さんに賛同ですから、私は八方美人になるでしょう。
削除するkanmoさんの生き方も、理解できますから。



>単なる自己主張だけになってくると、自分の味方になってくれる人を探しまわって、関係のない人にまで渦に巻き込むなどのことをしてしまいます。人間の心の弱さのひとつなのかも知れませんね。

何のことでしょう (´艸`*)
えんてつさん! また、地雷を踏んだようですよ。

相手によって使い分ける、高飛車と低姿勢との二重人格に驚くばかり。

過去の成り行きを振り返り、ご指摘を受けて、「おっしゃる通りです。」 と受け入れた、その直後に、自分が正しいという過去の記事のURLを、そのまま貼り付けるって、究極の矛盾。
「おっしゃる通りです。」 って、単なる社交辞令?

の※さんのブログが、このような流れになっていることをkanmoさんに、メッセージをしましたら、
既に、の※さんのブログ自体を、お訪ねになっていないそうで、スッキリと卒業されたようです。


はいはい、あなたが、すべて正しいです。
私が、間違っていました。
とんまで、低俗で、理性を欠いて、あなたたち※※を執念深く憎んでいる麦でございます。
と、ここでの叫びが届けば、あの方も満足したうえで終息するでしょう。


すみません。
ご提案と外れてしまいましたね。

お疲れ様です。
平和活動、頑張ってください。

2015.09.08   麦   編集


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