るりとうわた色の空に

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歴史夜話 (21) ~ (39) 


歴史夜話  (39)  が 届きました  
 
  江戸の昔、歌舞伎の人気役者のことを「千両役者」と呼ぶことがありました。千両の価値が有る役者というか、千両儲ける役者というか・・・・とにかく千両というお金の価値は庶民からは程遠い金銭だったことは間違いありません。

歴史夜話39
時代劇によく使われる小道具に千両箱があります。 千両箱は文字通り、千両の銭貨を入れておく木製又は角を包帯という金属板で張った箱です。おおよそミカン箱を小さくした大きさで、箱のサイズは、幅約25cm、長さ約50cm、深さ約13cm、重さは約4kgありました。基本的に、この中に25両包みの小判が40個、合計1000両入れることができました。

ということで中身がキッチリ詰まった千両箱は、小判100枚(百両)はおよそ300匁、つまり1125gとされているから、千両箱の中身はその10倍で11250g(11kg強)になります。これに箱の重量を加えれば、13~14kgという重さになります。また、小判だけではなく二朱金(1/2両)を詰めたものもありました。一番重い千両箱は小判や金貨の種類によっては20kgほどありました。

その昔、テレビドラマで鼠小僧が活躍して千両箱を脇に抱えながら屋根の上を飛び移るシーンとかありましたが、実際に1000両分の小判の入った千両箱の重さは15kg前後ですから脇に抱えて走ったり飛んだりしながら逃亡するのは困難だったと思われます。

さて、1000両の価値とはいかほどなのでしょうか? 貨幣価値ですから時代とともに変化しますが、1818年から1830年の江戸文政年間の記録「文政年間漫録」によると、当時の1000両は、現在のお金に換算すると約1億3000万円に相当するそうです。

江戸時代の犯罪の概念では庶民に対しては「10両盗むと首が飛ぶ」と教えていたようなので、いまのお金で130万円が庶民の命の値段だったのかもしれません。とにかく現代でも「1億円プレーヤー」と言う言葉がありますからね、庶民には夢のような金額だったに違いありません。

そして大金持ちというか高額所得者の呼び方もありました。分限とか長者とかです。「銀五百貫目よりして、是を分限(ぶんげん)といへり。千貫目の上を長者とは云ふなり」と言われていました。ちなみに銀五百貫目は約6億円、銀千貫目は約12億円です。日本ではアベノミクスのお陰で、年間手取り一億円以上の所得の人が8000人ほどおられるそうです。果たしてアベノミクスの恩恵がいつ回ってくるのでしょうかwwwwww。


歴史夜話  (38)  が 届きました  

  先日、わたしの居住地に近い神戸市北区で新名神高速の工事中の橋桁が落下するという事故がありました。河川に架かる橋は高度な建設技術を要する構造物で水流に対する強度と荷重に対する強度と材質の強度を上手く組み合わせる必要があります。これらを間違えると流出や崩落事故の発生する恐れがあります。江戸の文化文政の時代、橋の崩落で本邦最大の犠牲者をだした大事故がありました。

歴史夜話38
1698年(元禄11年)8月、江戸は隅田川にかかる永代橋が完成し開通しました。当時の永代橋は江戸随一の長さを誇り、富士山をはじめ眺望がよく、錦絵にも描かれる優美な橋でした。この橋は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、「永代橋」という名称は、幕府が末永く続くようにという願いを込めて名付けられました。

 橋の完成から109年後の1807年(文化4年)、夏のお祭りの日にこの橋が崩壊し多くの犠牲者がでるという大事故がありました。8月19日、深川・富岡八幡宮の大祭は、中止されてから11年ぶりに催されたため、多数の人出となっていました。この大祭は、神田祭や山王祭と並び称される有名なお祭りでした。

将軍家の子供達たちの乗った御座船が永代橋下を通過する間の通行止めが解除されると、一斉に群衆が橋を渡ろうと押し寄せました。この時、橋の中央付近が崩れ落ち、多くの人が隅田川に転落し、溺死者は440人(一説には1500人以上)という江戸始まって以来の大惨事となりました。原因は、人の重みに橋桁が耐えられなかったと推定されています。

犠牲者が増えた要因として崩落箇所が中央付近であったため、怒号も悲鳴も、はるか後方にうごめく大群衆の耳には届かず、つかえていた前が急になめらかに動きだしたのに勢いづいて、やみくもに寄せました。人の流れに押されるともう逃れることができません。後から次々落下してくる人体に、先に落ちた人たちはものは泥に埋まったと記録されています。
この犠牲者の霊を慰めるため、多くの浄財や寄進が集められ、当時、永代橋に近い深川寺町通りにあった海福寺に供養塔と石碑が建てられました。また平穏な時代の出来事だったこともあって文化面への影響も大きいものがありました。落語では粗忽者の武兵衛さんが水死者に間違えられ自分の遺体を確認に行くという「永代橋」の素材となっています。




歴史夜話 (35) ~ (37) が届きました

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 日本伝来の武器といえば日本刀だろう。現代人には馴染みが無くなってしまったが、第二次世界大戦の終戦までは武器として現役だった。日本刀には美術品として国宝となったものがある。日本刀は所蔵・使用する人ではなく鍛えた人の名で通用するのが一般的である。

鎌倉時代末の日本刀の名工に貞宗という人がいた。貞宗の作刀は穏やかで気品の高い作風を示すものが多い。代表作は国宝に指定されている長刀短刀数点がある。そして注目すべきはその日本刀がどういう武将の手に渡って現代に伝わってきたかということだ。そこにもまた歴史物語が息づいている。

東京国立博物館に、亀甲貞宗(きっこうさだむね)という日本刀がある。 もちろん国宝になっている。

歴史夜話34
亀甲貞宗の造りは、長さが二尺三寸四分(70.9センチ)、反り八分(2.4センチ)で、無名の刀である。14世紀・・・鎌倉から南北朝のころ相州貞宗という刀鍛冶によって造られた。刃文は乱れ刃で、茎(なかご)に大磨上のあとに刻まれた亀甲菊花文様の彫物があるため、「亀甲貞宗」と称されている。

 作者の貞宗は通称を彦四郎といい、相模国(神奈川県)鎌倉の刀工正宗の実子あるいは養子といわれ、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した。作風は正宗に似ているが、正宗より整っていておだやかであるとされている。

では「亀甲貞宗」の持つ物語を眺めてみよう。

最初の所有者で記録があるのは最上義光である。その後、明智光秀所持となった。その後は徳川家に伝来して各地を渡り歩くことになる。

徳川家最初の所有者は、雲州松江藩の藩祖松平出羽守直政である。松平直政は結城秀康の三男である。出雲大社は、神紋として「二重亀甲に剣花菱(にじゅうきっこうにけんはなびし)」を使っており、この刀の号の由来となった「亀甲紋」はここから名付けられた。

その後一時的に徳川家を離れて奥州窪田二万石の土方家に伝わります。しかし1684年(貞享元年)伊賀守雄隆のとき後嗣をめぐる御家騒動で断絶し、本刀も売りに出され、本阿弥光甫から南部藩御用人赤沢某が買い、南部信濃守行信へ献上された。1698年(元禄11年)、将軍家に金二百枚と同時に献上する日本刀を探していた尾張徳川家がこの刀を買い求め、返礼として「道誉一文字」と「綾小路行光」の短刀が贈られている。そして同じ元禄11年3月18日、将軍綱吉が尾張家に御成の際に、宗瑞正宗の短刀とともに「亀甲貞宗」は尾張徳川家から将軍綱吉に献上された。

将軍家では、これを代々世子に譲っており、鞘書に「宝暦十二年午年十一月遡月 御七夜御祝儀之時 浚明院様ヨリ孝恭院様江被進 亀甲貞宗御刀 代金三百枚 長貳尺参寸四分半」とある。浚明院は徳川家治(10代徳川将軍)、孝恭院は徳川家基(家治の長男。夭折)のことで、長男誕生のときに譲ったことがわかる。

1704年(宝永元年)12月5日、綱吉が家宣に贈与している。 1724年(享保9年)12月朔日、吉宗が長子長福丸に「家重」の名を与えた時に贈与している。1740年(元文5年)12月15日、家重が長子竹千代に「家治」の名を与えた時に贈与し、1762年(宝暦12年)11月朔日、家治が長子竹千代(家基、早世)の七夜祝としてこの刀を贈与した。

こうして代々将軍家に伝えられて徳川家の家宝となった。維新後は徳川公爵所持となり、昭和11年5月6日に重要美術品(旧国宝)に指定された。徳川家は1868年(慶応4年)徳川慶喜から家督を継いだ徳川家達が徳川宗家十六代目となった。

第二次世界大戦後は徳川家を出て愛刀家渡邊三郎氏の所蔵となった。1965年5月29日に国宝指定され子息の渡邊誠一郎氏より東京国立博物館へ寄贈された。このように「亀甲貞宗」時代の名刀としてその価値を発揮してきた。

今、日本には「天下五剣(てんがごけん)」と呼ばれる名刀がある。数ある日本刀の中で室町時代頃より特に名刀といわれた5振の名物の総称だ。日本刀の良さは、見た目や切れ味を基準にしたものと、その刀の由緒伝来を基準にしたものがある。「童子切安綱」、「三日月宗近」、「大典太光世」、「鬼丸国綱」、「数珠丸恒次」この五振りの天下の名剣は、それぞれに非常に面白い逸話などがある。

童子切安綱
童子切安綱(どうじぎりやすつな)刃長79.9cm・反り2.7cm・銘「安綱」。作者・安綱(やすつな、生没年未詳)は、平安時代中期の伯耆国大原の刀工で大原安綱とも言う。作られた年代は、日本の刀が直刀から反りのある日本刀(湾刀)に移行する平安時代中期と推定されている。童子切安綱の物々しい名前の由来は、酒呑童子なる鬼を源頼光がこの太刀を使い退治したことからつけられた。 ちなみにこの童子切安綱、過去に試し斬りされたことがあり、そのときは六つ胴の切れ味を誇ったということだ。日本刀の切れ味は、人間の死体を積み重ねてひと振りで何人分の胴体を切断できるかというのが基準だ。

鬼丸国綱
鬼丸国綱(おにまるくにつな)は皇室御物となっている日本刀です。京の粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作。刃長78.2cm、反り3.2cm。歴史上、鬼を切ったのは童子切安綱とこの刀です。鬼丸国綱の有名な話はこの刀の持ち主だった北条時政が病に倒れたときの話です。天下を平定した鎌倉幕府の初代執権であった時政はあるときから夢に鬼が出てくるようになり、病に倒れました。 いろいろ手を尽くして鬼を払おうとするがうまくいかず、逆にひどくなる一方でした。そんなある夜、時政の刀が夢のなかで老人の姿で出てきて「自分は太刀国綱である ところが汚れた人の手に握られたため錆びてしまい鞘から抜け出せないので早く妖怪を退治したければ早く自分の錆を拭い去ってくれ」と告げたのです。翌日、刀を清めさせ、抜き身で部屋に立てかけておいた刀はひとりでに倒れました。そのとき、この刀は部屋にあった火鉢を支えている小鬼の像の首を落としました。それ以来、時政の病は快方に向かいこの太刀を鬼丸と名付けたと言われています。

三日月宗近
三日月宗近(みかづきむねちか)刃長80.0cm、反り2.7cm。平安時代の刀工、三条宗近の作で天下五剣の中でも最も美しいとも評され、「名物中の名物」とも呼び慣わされた。将軍家の秘蔵の名刀として継承され、1565年(永禄8年)松永久秀と三好三人衆が二条御所を襲撃して将軍足利義輝を殺害した(永禄の変)際には義輝はこの三日月宗近を振るって奮戦したと伝えられている。変の後に戦利品として三好政康の手に渡ったとされ、政康から豊臣秀吉に献上された後、豊臣秀吉の正室高台院(寧子)が所持し、その後遺品として徳川秀忠に贈られ以来、徳川将軍家の所蔵となっている。

大典太光世
大典太光世(おおてんたみつよ)は、刃長66.1cm、先身幅2.5cm、元身幅3.5cm、反り2.7cm平安時代後期の筑後の刀工・典太光世の作。豊臣秀吉が伏見城に宿泊したときである。前田利家たちが話をしていると誰かが怪談話を始めた。「千畳敷の間の廊下を歩いていると刀の鞘をつかまれて進めなくなる」。利家はその話を笑い飛ばし、自分がいって確かめると言い出した。その証拠に廊下の端に他の大名の扇子を置いてくると話が決まったところで利家は秀吉に呼び出される。 その話を聞いた秀吉は利家の勇気に感服し大典太を持たせたのである。利家は難なく千畳敷の間の廊下を渡りきり、証拠の扇子を置いた。秀吉は褒美として大典太を利家に授けた。現在、前田育徳会所蔵となっている。

数珠丸恒次
数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)刃長81.1cm、反り3.0cm 平安時代の刀工、青江恒次の作である。日蓮上人が信者から守り刀として献上され、この刀の魅力にとりつかれた日蓮が数珠を付けて魔よけに使っていたことからこの名が付いた。日蓮没後は他の遺品とともに身延山久遠寺に保管されていましたが享保年間に行方不明となってしまいました。そして1920年ごろ宮内省刀剣御用掛の杉原祥造が再発見しました。 杉原氏の主張によると ある華族の所蔵品の競売にかけられた物件の中から発見したとされています。杉原氏は久遠寺に返納しようとしたが交渉がまとまらず杉原邸の近所にあった本興寺に寄進され現在に至っています。



 歴史夜話33
東京千代田区大手町といえば、日本を代表するビジネス街です。ここに祟り(たたり)が起きると言い伝えられている場所があります。その祟りをなす怨霊は、平安時代の武将・平将門という人物です。天皇に刃向った逆賊とされ討たれ、その将門の首がいまの大手町あたりに埋葬されたとされています。

関東大震災後、大蔵省の庁舎を再建する際に、関係者がつぎつぎと怪死したり、雷が落ちて庁舎の周りが全焼したり、また戦後、GHQが駐車場を造ろうとした際に、工事のブルドーザーの横転事故が発生したり、次々と起こる怪事件に、人々は将門の祟りではないかと言いました。

平安時代最大の反乱といえば「平将門の乱」でしょう。関東の一豪族に過ぎなかった将門が、どうして天皇家と対立したのでしょうか?茨城県坂東市に将門の木像が残されています。その姿は真一文字に結んだ口につりあがった目をして屈強な男であったことが伺えます。

将門は坂東八ヶ国のひとつ下総国の豪族で実力者でした。出生は定かではないものの、云い伝えでは桓武天皇の血を引く平氏一族の末裔とされています。父の平良持は武勇に優れ鎮守府将軍を務めていましたが、父の死後、一族に内紛が起きました。当時地方は朝廷から任命された国司と、豪族から選ばれた郡司によって治められていて二重支配の構造になっていました。

この時代、坂東の人たちは、国司による不当な税の取り立てに苦しんでいました。そんな中、937年11月に富士山が大噴火し、その翌年、大地震が坂東の地を襲いました。その結果、坂東地方は凶作と大飢饉が起きました。しかし、それでも国司たちは例年通りの税を取り立てたので農民たちは領地から逃げたり自ら死をえらんだりしました。

この時、平将門35歳、苦しむ民を目の当たりにして、自ら農民たちと農地を開拓して新しい土地を開発していきます。武士といえどほとんどが農業者であったのです。国司の圧政から逃れる方法はないものか? 938年2月、将門が拠点としていた下総国の隣国・武蔵国で前任の国司が辞めて次の国司が来る間に、朝廷から派遣された興世王と源経基が違法に税を徴収し暴挙を働きました。

それに対したのが武蔵の豪族の武蔵武芝(むさしのたけしば)で、興世王と一即触発の事態になりました。このとき将門は兵を出し武蔵の国に向かい、興世王を説得し、武芝と和解させます。しかし源経基はそうはいきませんでした。源経基は朝廷に「将門謀反」との告発をしたのです。朝廷は将門に召喚状を出しますが、自分の行いは正しいと自負する将門は、これを拒否します。

そのころ常陸国に略奪を繰り返す暴れ者豪族・藤原玄明がいました。国司からの再三の納税命令を拒否したので、お尋ね者となってしまいました。藤原玄明は逃亡の最中にも朝廷の蔵を襲ったりしていましたが、なんとそんな玄明が頼ったのが将門でした。

玄明を受け入れるということは、朝廷を敵に回すということになりますが、朝廷に刃向ってまで将門は玄明を迎え入れます。常陸国の国司から、速やかに玄明の身柄を引き渡すようにと幾度もの催促書状も無視します。939年11月、将門と常陸の朝廷軍との戦いが始まりました。将門は1000の兵を率いて常陸国へ、それを待ち受けていたのは、国司軍3000の兵でした。武勇に優れた将門軍は、常陸の兵士たちを破り、常陸国府を焼き討ちし、朝廷の権威の象徴・国印と倉のカギを奪い取りました。この行為は、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったという行為に他なりません。

「一国をとった罪は、軽くはない。それならばいっそのこと、坂東八カ国全てを手中に治めてみようではないか」「私は桓武天皇の子孫である、坂東をわが手に収め、全ての国司を京へ追い返してしまおう。」・・・将門がこう考えたのかどうかは不明ですが、常陸国の全権把握は朝廷に対する宣戦布告でした。

将門軍は坂東での独立政権樹立のために破竹の勢いで支配地を増やしてゆきました、そして、統治機構として、天皇の権限である除目で、兄弟や側近を勝手に国司に任命していきます。そして天皇を恐れぬふるまいをする将門に不思議な出来事が起きます。
八幡大菩薩に仕えるひとりの巫女が・・・「私は八幡大菩薩の使いである、天皇の位を平将門に授けよう」と神がかったのです。八幡大菩薩は天皇の祖とされる神のひとつで、当時民衆から厚い信仰を集めていました。その神から天皇に任命されたということになりました。

939年12月19日、将門みずからが親王であることを宣言します。新しい天皇となり、関東に独立国家を作ることを宣言します。このとき巫女は不思議なお告げをしました。「天皇の位は、菅原道真の霊魂が取り次ぐであろう」というのです。

親王の位を八幡大菩薩から取り次いだのは菅原道真の霊魂だという巫女のお告げ。これは将門が新たな天皇として立つために重要だったのは「菅原道真」ということになります。当時はまだ菅原道真の失脚事件からたいした時間が経ってはいなかったのです。道真は朝廷によって都を追放され、無念の死を遂げた人物です。そして道真の怨霊を朝廷や都人が恐れていることを利用したのでしょう。

将門は、朝廷に叛旗を振りかざし、坂東八カ国を占領し、朝廷の支配からの独立国家を作りました。朝廷は激しく動揺し、将門を潰すべく、前代未聞の作戦が立てられました。940年正月、時の朱雀天皇は、神仏に祈り悪を滅ぼす調伏を行います。「平将門なるものが、国主の位を奪おうと企んでおります。どうかこの難儀をお祓いください」なんと朝廷は、将門を呪い殺そうと、全国の寺社に祈祷をさせ「呪殺」を命じました。

この事態のなか、朝廷をさらに脅かす事件が起こります。瀬戸内での藤原純友の乱でした。
東からは将門、西からは純友、このままでは都が挟み撃ちになってしまうではないか。

東西で起きた反乱によって、朝廷は年賀の儀式を取りやめ、警備を強化します。そして連日、大臣らが宮殿に集まって話し合いが行われます。神頼みではなく、軍を持って戦うしかない。しかし、朝廷には軍はない、ここで朝廷は前代未聞の通達「太政官符」を出すことにします。

940年1月11日に出された太政官符は、それまでの朝廷の常識を覆えす内容でした。
「魁師を殺さば募るに朱紫の品」・・・魁師=将門を殺せば朱紫=貴族が着ることを許された衣の色を付けることができる・・・身分を問わず、貴族の位を与えるということです。
なんと将門を殺した人には破格の褒美、平民が貴族になれるという内容でした。貴族という身分は、代々世襲されてきた特権階級でした。将門を討てば誰でも貴族に・・・
この恩賞に、打倒将門の、気運が高まります。朝廷による将門征伐が始まりました。

それに応えて最初に兵を挙げたのは、常陸国の豪族・平貞盛でした。貞盛は、かつて内紛で将門に父を殺されて以来、機会を伺っていたのです。そしてもう一人は豪族・藤原秀郷です。秀郷は大ムカデを退治したという伝説の猛将でした。ふたりは組んで3000の兵を挙げます。

940年2月14日いよいよ決戦の日です。しかし貞盛秀郷連合軍3000に対し将門軍わずか400でした。将門は坂東八カ国を治めてはいましたが当時は兵農分離がされておらず、将門軍の兵士のほとんどが農民でした。丁度いまでいう3月ごろ、戦いは農民に戻らなければならない時期だったからです。

新皇宣言からわずか2か月、あまりにもあっけない最期でした。将門の死と共に、坂東独立政権も消滅し、将門軍の残党たちには厳しい現実が待っていました。そして見事に将門を討ち取った藤原秀郷は、従四位下という待遇に、平貞盛は従五位上をもらいました。貞盛の子孫は後に平清盛を登場させます・・・将門の乱を鎮めたものが、武士の世を切り開いていくと言う皮肉が待っています。

討ち取られた将門の首は3か月後、秀郷によって都に持ち帰られ人々に晒されます。伝説によると晒された将門の首は、からからと笑ったあと、坂東へ飛び去ったと言われています。志半ばで無念と終った将門は、怨霊伝説として後世に蘇えります。

藤原秀郷は、藤原氏北家房前の子左大臣の魚名の子孫と伝えられています。秀郷は幼時京都の近郊近江の田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田秀郷ともいわれています。秀郷の在世当時の平安朝の中頃は、都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権を握っていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の土豪などが欲しいままに勢力を広げていたのです。927年(延長5年)秀郷は下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ将門と対峙することになったのでした。


狐や狸に騙された~という伝説というか説話はけっこう多い。現代人は誰もそんなことは信じないが、人間がまだ生き物により近かった昔の人々は純朴で自然に畏敬の念を抱いていた。それは夜の暗さが生み出したとも言われている。明るすぎる夜が人間の繊細さを奪ってしまったのだろうか?

動物が神様の使いであるという発想は、自然界には神が棲んでいると信じる気持ちから生まれた気がする。特に狐は人の動きを観察するような行動をとる。

その昔、 江戸の町に多いものは「伊勢屋稲荷に犬のクソ」といわれた。伊勢屋という屋号の商家、稲荷社、それに昔も今も路上の犬の糞である。とくに稲荷社が多かったのは、江戸の人々の稲荷信仰がいかに盛んだったかを示している。

歴史夜話32
1698年( 元禄11年)のこと。江戸は堺町の饅頭屋に武士が現われ、饅頭を求めた。ふたつを食べ、「さてさて、うまい饅頭じゃ。これまで、こんなうまい饅頭を食べたことはない。これからは、ここの饅頭にしよう」と、いたく感激した様子で、代金として銀五匁を置いていった。饅頭屋の亭主は驚いた。「こんなにいただくわけにはまいりません」「かまわぬ。取っておけ。わしは浪人じゃ。そのかわり、金がないときはただで食わせてもらうぞ」 そう言って、帰っていった。

しばらくして、武士がふたたびやって来た。今度は饅頭を四つたべ、銀六匁を置いた。
饅頭屋の夫婦は武士のあまりの気前のよさに合点がいかない。「もしかしたら、大身のお武家ではあるまいか」、そこで、奉公人に命じて、武士の屋敷をたしかめさせようとした。

奉公人がそっとあとをつけると、武士は裏長屋にはいっていく。「ちと、雪隠を借りるぞ」
武士は長屋の共同便所で小用をする。そのとき、尻から狐の尻尾がちらりと見えた。 驚いた奉公人は店に駆け戻り、主人夫婦に報告した。「ご浪人ではございません。正真正銘のお稲荷さまです」「やはりそうだったか。このことは、誰にも言ってはならんぞ」、主人夫婦は狂喜した。

十日ほどして、武士が現われた。夫婦は武士を二階座敷に招き、さまざまな料理でもてなした。「お隠しになっても、あなたさまが稲荷さまであることは存じております。どうか、わが家がますます繁盛するようお願い申し上げます」「家を富貴にするには、加持をおこなわねばならぬ」「加持とはどのようなものでございますか」「たとえば、そのほうが百両所持しておれば、それを使い切ってもふたたび舞い戻るようにできる。ただし、加持をする金をまず水で清めたあと、杉原紙に包んで用意せよ。そうすれば、加持をしてやろう」「わかりました。つぎにいらっしゃるまでに準備しておきます」

数日後、武士が現われた。夫婦は三百両を杉原紙に包み、封印をして待っていた。武士は一室にこもり、加持をおこなった。四、五日後、どうしても金が必要になった夫婦は、神棚に置いていた包みを取り出し、封を切った。なんと、中身はすべて銅板だった。あとでこの武士は有名な詐欺師とわかった。

欲が深くなると常軌を逸することになる。お稲荷様はきっとどこかに存在するに違いない。 



  夫婦はもともと他人どうし、片目をつむっても許されないのが浮気の虫。一旦ことが露見すると元の鞘に治まることは難しい。さて、このところの歴史夜話は怪物・鳥居耀蔵が登場が登場した。麦さんには馴染みがなかったようだが歴史の影の主役として「超」がつくほど有名な人物ではある。矢部定謙は耀蔵の陰謀で失脚し、抗議の絶食で病死した。矢部定謙の出した判決にはあっと言わせるものが残されている。

歴史夜話31
矢部定謙は大坂町奉行を務めているとき、名奉行とたたえられた。そして1841年(天保12年)には江戸町奉行に抜擢された。しかし、わずか在任八ヵ月で罷免された。この背景には、天保の改革を推進する老中水野忠邦との対立や、町奉行の座を狙う鳥居耀蔵の陰険な画策があった。

矢部定謙が江戸町奉行だったときのことである。本郷三丁目に久助という八百屋が住んでいた。 久助の女房が、近所に住む伝七という男と密通した。 女房の浮気を知った久助は、事を荒立てることなく、伝七に面会して、「あたくしはもう女房に未練はございません。もし女房がほしければ、差し上げましょう。それなりの挨拶をしていただければ、それでもう後腐れはございません。ただし、近所に住まわれてはあたくしも面目丸つぶれなので、引っ越してください」と、申し入れた。

伝七もこれを了承し、「肴代」として五両を久助に贈った。いわゆる慰謝料である。これで一件落着したかに思われたのだが、その後、伝七はいっこうに引っ越す気配がない。
それどころか、まるで久助をあざ笑うかのように、女房と酒を呑んで毎晩、大騒ぎをしている。久助はしばしば引っ越すよう申し入れたが、伝七はまったく取り合わない。

ついにたまりかねて、久助は町奉行所に訴え出た。訴えを取り上げた矢部は、さっそく伝七を奉行所に召喚した。ひととおり事情をたしかめた上で、糾問した。

「なぜ、当初の約束どおりに引っ越さぬのか」「あたくしも引っ越したいのは山々なのですが、引越しをする金がございません」「しからば、そのほうに引越料をくだし置くので、早々に引っ越せ」 そう命じるや、矢部は引越料として五貫文をあたえた。 伝七は他人の女房はもらうし、役所から引越料は支給されるはで大喜びである。

意気揚々と帰宅すると、なんと、わが家は封印されており、中に入ることもできない。驚いた伝七は、家主のもとに駆けつけた。家主とは、地所や家屋の所有者である。「いったい、どういうことですかい」「さきほど、お奉行所から命令があり、公儀より引越料をちょうだいした以上、伝七はすぐさま引っ越さねばならぬ。この家にはもはや住むことはあいならぬ。伝七の家財道具一式は久助にさげ渡せ」とのご沙汰です。気の毒ながら、おまえさんはお上からちょうだいした五貫文を持って、女房とふたり、着の身着のままで、どこへでも行ってください」 それまで有頂天になっていた伝七も、一転して途方に暮れた。


 1832年(天保3年)佐賀藩の支配地であった武雄領主鍋島茂義は家臣平山醇左衛門を長崎の西洋砲術家高島秋帆に入門させた。その2年後には茂義自身も高島に入門し、武雄領では全国に先駆けて大砲製造に努力し、試射を行うまでになった。この西洋砲術の技術は、茂義の実弟で佐賀藩士坂部三十郎によって佐賀本藩に伝えられ、1840年(天保11年)には佐賀神埼の岩田で大砲の試射に成功した。以来、西洋砲術は「佐賀藩の大砲」として全国に知られるようになる。

歴史夜話30
高島秋帆は、1798年(寛政10年)九州長崎町の年寄・高島四郎兵衛茂起の三男として生まれた。先祖は近江高島郡出身の武士で近江源氏佐々木氏の末裔である。1814年(文化11年)長崎会所調役頭取となった。

江戸時代、長崎・出島は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え1834年(天保5年)に高島流砲術を完成させた。

都営三田線に高島平駅がある。ここ一帯は東京都板橋区高島平、団地が建ち並ぶベッドタウンとなっている。いまから約168年前は砲術射撃場で徳丸原と呼ばれていた。この場所で大規模な西洋式砲術演習を行い、天下にその名をとどろかせたのが高島秋帆という人物だ。秋帆は現在の長崎市万才町で生まれ育った生粋の長崎人であるが、高島平の地名は高島秋帆にちなんで名づけられた。
 
高島家は代々、町年寄を世襲する名家で秋帆はその11代目に生まれた。今から丁度208年前の1808年、フェートン号事件が起こり長崎港防衛強化の気運が高まっていく。このとき出島の台場を任されたのが秋帆の父だった。1809年、父は幕府から派遣された坂本孫之進に荻野流砲術を学び師範となります。このとき秋帆は父から皆伝を受け荻野流師範となり、1814年からは町年寄見習となって出島台場を受け持つようになった。

 荻野流をはじめとした和流砲術は軽砲に限られていて、フェートン号のような武装艦に対してはまったく役にたたず、高島親子は威力のある西洋砲術に注目するようになった。とくに出島台場の担当にあった秋帆は、実戦経験のあるオランダ人から直接話を聞くことができる環境にあり、1823年に来日した出島商館長スチュルレルなどは陸軍大佐でナポレオン戦争にも従軍した人物だった。

 長崎の町年寄には個人的に好みの品物を注文できる「脇荷貿易」という特権がありました。秋帆は父や実兄で町年寄の久松家へ養子に入っていた碩次郎らの協力を得て、それぞれの名義で砲術関係はもちろんのこと、馬術や自然科学、医学書にいたるまであらゆるジャンルの蘭書を集めました。その数は当時、個人としては国内最大のものだったといわれています。また、秋帆は文献だけでなく、大砲、弾丸、銃など武器そのものも大量に輸入しました。その後、貪欲に西洋砲術を学んだ秋帆は高島流砲術を確立していきます。

 1840年中国・清でアヘン戦争が勃発します。その内容は翌年の風説書で幕府に報告されました。イギリスの軍艦、砲術に圧倒され敗北した清と日本を重ね合わせ危機感を募らせた秋帆は、「わが国の砲術は、西洋では数百年前に廃棄したものであり、今後予想される外国からの侵略を防ぐには、こちらも外国砲術を把握していなければならない」とする「天保上書」を書き上げ、長崎奉行の田口加賀守(たぐちかがのかみ)を通じて幕府に提出します。

上書は老中水野忠邦の目にとまり、1841年5月9日、徳丸原で演習がおこなわれることになりました。幕舎が張られ、老中水野や諸大名らがこの演習を見学し、遠く囲いの外からは一般の群衆の見物も許され、この中には若き日の勝海舟も姿もありました。演習参加の総員は秋帆ら100人。モルチール砲、ホウィッスル砲とつぎつぎに西洋の大砲が発射されました。演習は一発の不発弾もなく成功に終わります。幕府は秋帆の所有する大砲を買い上げ、また演習の労を賞して銀500枚を与えました。

その後、高島流砲術は全国にひろまっていきます。高島親子のはじめた取り組みが日本の兵制に改革をもたらすことになりました。しかし、一方で高島流に批判的な者もいました。妖怪と恐れられた鳥居耀蔵をはじめとする反蘭学派です。

1842年、長崎奉行伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)は秋帆ら多くの関係者を逮捕します。罪状は「謀反の疑いあり」というものでした。これは鳥居が秋帆を陥れるために偽装した罪で、その黒幕は老中水野忠邦であったともいわれています。翌1843年、秋帆は江戸伝馬町へ護送され投獄されます。

 1845年、水野が失脚し阿部正弘(あべまさひろ)が老中の実権を握ると、秋帆事件の再調査がおこなわれました。そして鳥居の不正が発覚し、奉行を解任となり丸亀藩(現香川県)にお預けとなります。秋帆は、謀反の罪からは解放されたものの、他のいくつかの軽罪に問われ中追放となり岡部藩(現埼玉県)に預けられることになりました。実は秋帆に言い渡された中追放は遠島から減刑されたものでした。入牢中に起こった三度の火災で逃亡せず、そのたびに牢屋敷へもどってきたことが減刑の理由でした。

開国をせまる外国船がたびたびわが国の近海に出没するようになると、幕府は海岸防衛のための砲台建設を迫られます。ここにきて秋帆の砲術の知識を役立てようと考えた老中阿部は、江川太郎左衛門が引き取るという形で秋帆を釈放します。長崎で逮捕されてから実に10年10カ月もの年月が過ぎていました。

 1853年、自由の身になった秋帆は人生の復活を喜び、喜平(きへい)と名を改めます。アメリカのペリー来航を翌年にひかえ、幕府は諸藩に意見を求めます。そのほとんどが開国反対の攘夷論という状況下、秋帆は平和的開国で通商を、という「嘉永上書」を幕府に提出しました。そして、幕府が出した答えは開国でした。

 幕府は開国を決定後、本格的な西洋式の軍隊をつくることになります。秋帆は講武所砲術師範役、武具奉行格につきという職に就き幕府のために働きます。しかし妻子を江戸に呼びよせた秋帆の暮らしは長屋住まいという質素なもので、かつて10万石の大名にも匹敵するといわれた町年寄の身分にもどることはありませんでした。

 晩年の秋帆は孫の茂巽、妻の香、息子の浅五郎に相次いで先立たれ、1866年の正月69才で亡くなりました。




 人々は、耀蔵のことを「妖怪」と呼んで恐れたのである。そして耀蔵の活躍はまだまだ続くのである。

歴史夜話29
 耀蔵の活躍はまだまだ続く。当時、洋式砲術の大家、高島秋帆(たかしま しゅうはん)が幕府に認められ取り立てられることになった。このままでは高島の洋式砲術が正式に採用される動きになっていた。洋式嫌いの耀蔵にはそれが面白くない。それに高島秋帆は浦賀測量以来恨み重なる江川英龍の砲術の師にあたるからだ。耀蔵は高島に密貿易や謀反の嫌疑をかけ、捕縛してしまう。

 水野忠邦は腹心の耀蔵を勘定奉行にした。南町奉行と兼任だから今でいえば、財務大臣兼東京都知事、警視庁長官、最高裁裁判官を一人でやっているようなことになる。耀蔵の権勢はさらに凄さを増したのである。しかし、この当時、水野の天保の改革に大きな行き詰まりが出てきたのだ。

 天保の改革の目玉のひとつは「上知令」であった。「上知令」は江戸と大坂の周辺を諸大名から取り上げ、幕府の直轄領にするという政策である。大坂周辺に領地をもつ紀州徳川家をはじめ多くの譜代大名が反対した。そしてついに反水野派が結集された。そうなると、日に日に、水野が追い込まれてゆくことになった。

ここでもまた耀蔵が暗躍する。なんと水野の腹心であるはずの耀蔵が水野を見限るのである。見限るばかりか反水野派に寝返ってしまった。これによって水野は老中を失脚した。
しかし、ここで耀蔵には致命的な事件が起こる。なんと将軍家慶の命令で10ヶ月後に水野が復職したのである。復職した水野によって耀蔵は閑職に追い込まれ、ついに罪状を調べられて、讃岐丸亀の京極家に永預けとなった。

 耀蔵は丸亀の京極家に預けられること23年の長きに渡った。この間、将軍の代替わりなどによる恩赦の機会が何度かあったが、耀蔵を赦す動きは遂に無かった。耀蔵のような「妖怪」が江戸に戻ることを恐れたからにちがいない。しかし、時代は明治に向けて激動のときを迎えていた。耀蔵は丸亀の地で明治を生き延びたのだ。

 「妖怪」とよばれた耀蔵のこと故、丸亀では最初は耀蔵に関わることを恐れ近づく者とてなかったが、耀蔵は学問だけでなく医学の心得があったため月日がたつにつれ診療に訪れるものがだんだん増えたようである。耀蔵の幽居中、診察者の数は3800人を超えたと言われている。明治になって丸亀から東京にもどったが、そのとき耀蔵はすでに70歳余りになっていた。すでに江戸幕府は滅びている。耀蔵は旧知の幕臣の家を訪ねて、幕府瓦解の一部始終を尋ね聞いた。そして「わしは昔、外国の学問を近づけるなと進言した。こんにち幕府が滅びたのはわしの言うことを聞かなかったからじゃ」と言い放ったと言われている。

耀蔵の出世とその顛末は現代社会に当てはめられたりしたことがあった。相手を蹴落とすという世界はどこにもある。それが陰謀によるものか正当な評価によるものかは、社会の成熟した目だけがそれを正しく判別することができる。ただただ時の権力者に盲従するだけでは耀蔵の暗躍は防げない。



  私怨と出世欲の権化となった鳥居耀蔵は、洋学嫌いの国学者たちを急き立てて「尚歯会」つぶしにかかる。鎖国が国是となっているのに蘭学とはいかなる了見かというわけである。「尚歯会」の直接的意味は「歯=年齢」ということで老人を敬うという趣旨で、時代を越えて広く知られていた言葉だったが現在ではほとんど聞かなくなっている。

歴史夜話28
 耀蔵は「尚歯会」に探りを入れ、「尚歯会」に海外密航の企てがあるとでっちあげ、中心人物渡辺崋山を捕縛させた。取り調べのなかで、崋山が書いた「慎機論」が発見されそれが幕政批判にあたるとされ厳しく糾弾された。結果的には、崋山は国許三河田原に永蟄居となり蟄居先で自殺した、蘭学者の小関三英は自害、高野長英は自首したが終身刑となった。その後、破獄して全国を潜伏するも捕吏に囲まれ自殺した。これにより「尚歯会」は潰滅した。これを「蛮社の獄」という。

歴史的にいえば「蛮社の獄」の代償は余りにも大きかった。なぜなら世界情勢を察知し、各方面にも影響力が少なくなかった「尚歯会」が潰滅したことによって日本はその後、海外の情勢分析をする機関がなくなってしまったからだ。

 そして耀蔵の「活躍」は更に続く。耀蔵は幕府の要職、南町奉行になるため、老中水野忠邦に取り入り、ときの南町奉行、矢部定謙を無実の罪に陥れこれを追い落とした。そして耀蔵は念願の南町奉行になった。陰謀にはめられた矢部は桑名藩にお預けののち死亡する。当時、北町奉行は遠山の金さんこと遠山金四郎だった。耀蔵と遠山はライバルとなるが、金さんも江戸町奉行から遠ざけられるのである。

 老中水野忠邦は「天保の改革」の推進責任者だった。耀蔵は水野の腹心として改革を推進する。天保の改革は贅沢の禁止などの緊縮政策だったので江戸市民の生活を圧迫した。江戸の巷では水野の人気が凋落し、経済も貨幣の流通が停滞し不景気を引き起こしたのである。耀蔵は、そうした江戸市民の間にスパイを放ち、取締りを強化したのである。密偵たちは検挙率をあげるため些細なことでも取り締まったため、江戸の町は一種の恐怖政治に陥った。


   

 ある時代の支配者から「正史」を編纂せよとの命令を受けることは、学者にとって最高の名誉であることは容易に理解できる。江戸時代、戦の世が過ぎ文治となった時代、徳川の世を支えたのは儒学の林家だった。林家の開祖の林羅山は僧であり家康の単なる御用学者であったが、息子の鷲峰、孫の鳳岡と代を重ねてついには徳川家の学問的権威の象徴となった。

つまりは、林家は幕府の官学、朱子学の「家元」ともいうべき家柄とされた。今でいえば東大総長兼、文部大臣のようなものだろう。それ以外にも幕府の政治の諮問や、外交文書の作成にも関わるため、幕府の政治顧問、外交顧問といった性格も合わせ持っていた。

しかし、権威というものの価値は、尊敬の念があればこそ、精神面でも物質面でも豊かなものになる。林家8代目、大学頭林述斎の時代、林家の出目でありながら己の権力欲を満たすことだけに傾注した人物がいた。自分の出世のために競争相手を失脚させることがあたかも正当な仕事であると信じていたのであろうか・・・・

歴史夜話27
鳥居耀蔵・・・・この人物は、自分の出世欲、権勢欲のために讒言、デッチ上げ、裏切りなど、ありとあらゆる奸智をめぐらし出世した。

江戸時代,幕府直轄の昌平坂学問所を管理した役職を大学頭という。1691年以降、林羅山の子孫である林家の者がその役職を任ぜられた。鳥居耀蔵は、1796年(寛政8年)11月24日、8代目大学頭林述斎の次男に生まれた。1820年(文政3年)、25歳の時に旗本鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ、2500石を食む身分となった。そして11代将軍徳川家斉の側近として仕えた。名を忠耀といい、官は甲斐守であった。人々からは、「甲斐守の耀蔵」ということで「耀甲斐(妖怪)」と仇名され恐れられた。

 耀蔵の出世のきっかけは大坂町奉行与力の大塩平八郎の乱だった。大塩は幕府の役人でありながら、困窮する庶民に対し何の対策をも施さぬ幕政に抗議して門人らを集めて決起した。しかし、この大塩の乱はわずか1日で鎮圧され、大塩は潜伏先で捕吏に囲まれ爆死した。

幕府は幕府の役人の叛乱という前代未聞の事件だけに後始末に苦慮した。そのうえ大塩の反乱は公憤によることは明らかであり、乱によって焼き払われた大坂の町人も「大塩様」と呼んで評判が高かっただけになんとかして大塩の評判を引きずり落す必要があった。その大塩の罪状を「作りあげた」のが耀蔵であった。

 耀蔵はその判決文に、「大塩は養子格之助の妻と姦通した」と事実無根の人格攻撃を行い、大塩個人をおとしめる判決文をつくった。当初この判決文は幕府内でも評判は悪く、「ありもしないことをデッチ上げ大塩個人を貶めることを主眼においた文である。このよう文では人々は納得しないであろう」という意見が出されたりした。しかし、大塩人気を封じたい幕府はこの耀蔵の判決案を採択して大塩事件のケリをつけた。そしてこの判決文こそが耀蔵の出世の糸口になったのである。大塩判決で見せた、「誹謗」「中傷」「デッチ上げ」など、このやりかたがこの後も耀蔵が出世をしていく手口となった。

 このころ、外国船がしきりに日本近海に出没するようになった。幕府も国防の必要性を感じるようになった。そこで、江戸湾の入口の要衝、浦賀の測量を始めることになった。この測量を命じられたのが、当時、目付になっていた耀蔵と伊豆韮山の代官である江川太郎左衛門英龍のふたりであった。江川英龍は韮山代官ながら蘭学者たちの集まりである「尚歯会」のメンバーでもあった。

 「尚歯会」は渡辺崋山、高野長英ら蘭学者を中心とした学者グループだった。オランダの書物を通じて、ヨーロッパの科学技術、政治などを知り、世界情勢を研究するグループである。このグループには崋山や長英の蘭学者の他に、川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍などの幕臣や国学者の一部などが加わり、身分や立場を超えたサロンのような性格を持っていた。当時の最高のシンクタンクと言えるグル-プだった。

 江川はこの浦賀測量にあたり、「尚歯会」の最新の測量技術や人材を導入した。しかし、耀蔵はそれが面白くなかった。なにしろ耀蔵は朱子学の本家、林家の出身なのだ。蘭学に負けたくない、そういう気持ちが相役の江川が自分より成績をあげると出世の妨げになると考えたのだろうか。耀蔵は江川にイチャモンをつけて「尚歯会」から借りた測量技師を調査隊からはずさせた。耀蔵にとって、国防問題よりもライバルを蹴落とすほうが大事であったに違いない。

 しかし、結果からすれば耀蔵の測量隊は、江川の測量隊に負けてしまう。余りにも調査結果に差があり耀蔵側の報告はすこぶる杜撰なものであった。これにより江川は大いに面目を施したが耀蔵は大恥をかいた形となった。

 ここで耀蔵は報復に出る。なんと「尚歯会」の潰滅を図るのである。逆恨みもいいところだが、面目を失った耀蔵にとって「尚歯会」は何がなんでも潰さなければならない。耀蔵をはじめとして洋学嫌いの国学者たちは「尚歯会」を「蛮社」と呼んだ。「野蛮な洋学を信奉する結社」という意味である。

歴史夜話28に続く

昔のテレビドラマには人気の捕物帳というのがあった。そうした捕物帳に登場した人物のうち火付盗賊改の長谷川平蔵は実在の人物である。火事と喧嘩は江戸の華ということで江戸っ子の威勢の良さは目を見張るものがあったが、江戸の火事は国家財政を揺るがす大惨事に繋がる危険があったため、火事に関する疑惑は死罪に値するものとされ、火付盗賊改は権威ある役職だった。

江戸時代の人々は、そのときの時代を江戸時代なんて呼んではいません。自分の住んでいる土地を支配するお殿様の名前で呼んでいました。そしてそのなかでも将軍様のお膝元である江戸の人々は時の将軍様の名前で時代を呼んでいました。江戸は権力の集中した都市であった分、地方の住民は将軍の名前など知らなかったのです。江戸に住まいがあるということはそれだけでけっこう価値があったのです。

歴史夜話26
火付盗賊改の長谷川平蔵が江戸で勇名をはせていたころのことである。長谷川平蔵の屋敷は本所花町にあった。

本所三ツ目に住む大工の平蔵が稼ぎのため京都にのぼった。二、三年も過ごすうちに、多くの知り合いもできる。 仕事を終えて江戸に戻るに際し、平蔵は江戸っ子の気っぷのよさを示したくなった。大工仲間にそれまで世話になった礼を述べながら、「もし江戸に下ることがあれば、おいらを訪ねてきなよ。本所で平蔵と尋ねるといい。本所の平蔵と言えば、すぐにわかるぜ」と、大見得を切った。本当に自分を頼って江戸に出てくる者がいるなど、想像だにしていない。なかば見栄であり、なかば冗談だった。

京都の大工のひとりが仕事に行き詰まり、心機一転、江戸で一旗あげることを考えた。
「そうだ、あの平蔵を訪ねていけば、面倒をみてくれるであろう」 そこで、京都を立って江戸に出た。人に尋ね尋ね、本所にたどりつくと、「平蔵さまの住まいはどこでしょうか」と、道行く人に聞いた。「平蔵さま・・・」「本所の平蔵さまですがね」「本所は広いぜ。町名はどこかね」「本所の平蔵と言えばすぐにわかると聞いておったので、町名までは存じません」「本所で知らない者はない平蔵さまなら、長谷川平蔵さましかない。それなら、花町に行って、あらためて尋ねてみなさい」 花町への道順を教えた。

大工は花町に着き、平蔵の住まいを尋ねた。教えられたのは、立派な武家屋敷である。さすがに、どうも妙だなと感じないでもなかったが、「きっと、このお屋敷のなかの長屋にでも住んでいるのであろう」と思い直し、門をくぐろうとした。門番がさえぎる。「そのほうはいずこのもので、どこにまいるか」「わたくしは京都の者で、平蔵さまに用事があってまいりました。お目にかかればすぐにわかることでございます。平蔵さまが御在宿なら、お会いしたいのですが」「おのれ、怪しいやつ。縛ってしまえ」門番が声をかけ、ほかの奉公人たちも集まってきた。

この騒ぎが、長谷川平蔵の耳にはいった。長谷川は家臣に命じた。「なにか、事情があるようだな。縄をかけるには及ばぬ。庭につれてまいれ」 庭に引き据えられ、平伏している大工に向かい、長谷川が声をかけた。「上方より平蔵に会わんとして尋ね来たりしは、そのほうか。平蔵はすなわちわしじゃ」 大工は恐る恐る顔をあげて見ると、まず年齢が異なっている。しかも、裃姿の、威風堂々たる武士だった。恐怖に襲われ、大工はひとことも発することができず、ただふるえているだけだった。その様子を見て、長谷川が口調をやわらげて言った。「遠路はるばる尋ね来たったのには、なにか仔細があろう。つぶさに申してみよ」 そこで、大工は途切れ途切れに、いきさつを語った。

聞き終えると、長谷川は、「よくわかった。明日、そのほうの尋ねる平蔵に会わせてやろう」と答え、その夜は屋敷内の奉公人の部屋に泊まるよう手配させた。その後、すぐさま家来を本所一帯の自身番に走らせ、「本所を限りに、平蔵と名乗るもの、明日六ツ時、罷り出るべし」という触れを配った。

翌日の明六ツ(午前6時)、長谷川の屋敷に、平蔵という名の男がおよそ五十人ほども集ってきた。まだ子供もいれば、老人もいる。長谷川は京都の大工を呼び出した。「そのほうの尋ねる平蔵は必ずこのなかにいるはずじゃ。よく見るがよい」 大工がひとりひとりの顔を見ていくと、なかに、京都で知り合った男がいた。「この男が、あたくしが尋ねておりました平蔵でございます」「そうか。よし」 長谷川はほかの平蔵を帰宅させ、大工の平蔵のみとどめた。

「この者はそのほうを頼りにして、はるばる尋ね来たったのである。いま、そのほうに引き渡すから、厚く世話してやれ。もし、粗略にあつかうようなことがあれば、ただではすまんぞ。召し取って厳罰に処すから、さよう心得よ」きびしい声で命じるや、京都の大工を平蔵に引き渡した。もともと本気で言ったことではなかったのだが、火付盗賊改の長谷川平蔵に厳命を下されると、大工の平蔵もやむをえない。京都から来た男を自分の家に泊め、なにくれと世話をしたという。



有間皇子の悲話は皇位継承争いのなかの陰謀事件として語られることが多いが、もしかして有間皇子の謀反は本意であった可能性も否定できない。ところでこの時代には日本(倭国)を巻き込んだ大きな国際紛争というか戦争があった。

日本(倭国)に仏教が伝わったのは6世紀の中頃、朝鮮半島にあった百済(ペクチェ、くだら)を通じてだった。重要なのは仏教だけではなく、大陸の文化は百済を経由して倭国に伝わっている。また、人の往来も多く、韓国で発掘された古墳の中には前方後円墳があることや出土品が畿内の古墳と同じものであったりすることから日本から高位の人物も百済に渡っていることが推測される。当時の倭国は百済重視の外交をしていた。そして、百済王朝の王子、豊璋(ほうしょう)が倭国にいて、知識人として朝廷で重用されていたという記録も残っている。

当時の朝鮮半島には、百済のほか、新羅と高句麗という国家が成立していた。
新羅の武烈(ぶれつ)王は即位する前から唐と親交があり、即位してからも唐の制度を国の政治に採り入れるなど唐から信頼されており、唐と新羅は同盟関係にあった。高句麗は唐と国境を接しているためたえず緊張関係のなかにあった。

そして、日本国内では、大化改新の後、孝徳天皇が難波で即位していたが、653年、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すことを申し出る。政治の中心は中大兄皇子であり、その力は強大であった。孝徳天皇は飾りにしかすぎなかったともいえる。孝徳天皇は遷都に反対したため、中大兄皇子は母や、大海人皇子、間人皇后(孝徳天皇の皇后、中大兄皇子の妹)や従者を連れて飛鳥に戻ってしまうという状況だった。そして、翌年、孝徳天皇は難波にて崩御する。

歴史夜話25
655年、朝鮮半島北部で、かねてより対立していた唐と高句麗(コグリョ、こうくり)が戦いを始めた。南部では、百済が新羅(シルラ、しらぎ)へ侵攻したため、新羅は唐に救援を求めた。しかし、朝鮮半島で開かれた戦端や戦況はすぐには日本には伝わらなかった。

 659年、斉明天皇は遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。このとき唐は新羅の要請を受けて百済に攻め入ろうとしていた。百済は新羅へ侵攻したが、唐の高宗は新羅の軍とともに百済の都であった扶余(ふよ)に攻め入り、百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。こうして660年7月18日、百済が滅亡した。
 
この後、百済の使節が百済の滅亡を伝えに日本に来航、当時の日本にとってこの事実は大きな衝撃となった。唐は百済を統治し始めるが、それに対抗して、百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。その中心人物となったのが鬼室福信(きしつふくしん)だった。660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるために倭国に次のような要請をしてきた・・・・631年から倭国にいる百済の王子(豊璋:ほうしょう)を国王位につかせるため送還してほしい。そして同時に倭国から百済復興のための援軍を送ってほしいと。

661年9月、中大兄皇子は、倭国にいた百済王朝の王子に倭国最高位の「織冠(おりもののこうぶり)」を授け、5000人の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送った。しかし、このままでは、唐の圧力は日本にまで及びかねないと中大兄皇子は判断し、百済復興へ手助けすると決意、662年、総勢27000の三軍編成の大軍を百済に送り込みます。倭国軍を率いたのは三人の将軍、上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)、巨勢神前臣訳語(こせのかんざきのおみおさ)、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)でした。

長野県安曇野市の穂高神社には百済まで豊璋を護衛した将軍に阿倍引田臣比羅夫の像がある。 境内の石碑に次のように記されている。
「大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。 9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。 伝統芸術である穂高人形飾物は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。」

そして、663年、ついに決戦のときがきました。朝鮮半島、南西の白村江にて日本・百済VS唐・新羅の2日間にわたって行われた壮絶な戦いです。

663年8月17日、唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留(する)城を包囲するとともに、唐軍は軍船170艘を白村江(錦江-クムガン河口)に配備した。

8月27日、倭国軍が朝鮮半島西岸に到着する。百済王豊璋と倭国軍は、「我ら先を争わば 彼自づからに退くべし」と突撃作戦に出た。そして、8月28日、白村江(錦江-クムガン河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突した。倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ、軍船のほとんどが燃え上がり、倭国軍は大敗した。中国の歴史書によれば、「日本の船400艘は燃え上がり、煙は天を覆い、海は赤く血で染まった」と書かれている。

戦のなかで百済王(豊璋)は逃亡してしまう。そして、663年9月7日、百済全土が制圧され永遠に滅亡した。

 この白村江での敗戦の結果、中大兄皇子は唐・新羅連合軍が海を越えて倭国に攻めて来ることを恐れました。そこで、朝鮮半島に近い北九州の大宰府(外交の拠点)を守る為に水城(みずぎ)と呼ばれる防衛施設や防人(さきもり)と呼ばれる兵を配置し、国家をあげての防衛に努めました。

唐・新羅連合軍にとっては、百済を倒したからといって、朝鮮半島には、まだ高句麗が残っています。高句麗を攻略する方が先決として日本に攻め入ることはせず逆に和睦を求めたのです。そして668年、唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼしました。そしてこんどは唐と新羅の対立が表面化し、676年、新羅によって朝鮮半島が統一されました。

 中大兄皇子は、こうした当時の国際的危機の流れのなかで最高権力者の地位を強化し国内を支配しました。有間皇子の事件もそうした状況下で起こりました。そして外交的には敵対した唐に対して友好的な関係へと流れを変えてゆく事になります。


日本の皇室は天照大神の子孫ということになっているが、それは古代の創作によるものだ。学生時代に受けた講義では、邪馬台国北九州説を主張する先生だったが、歴史的に皇室の先祖が確実視されるのは畿内を軸とする大和朝廷だという。ただし血筋的には主家が途切れたと思われる時期が数回あることも確かなようだ。

日本民族の成り立ちについては、DNAの研究からおおよそ五つの流れがあったことが判明しているが、文字による記録は中国の漢の時代以降で、日本国内も中国の漢字の音を使うというか利用できた勢力が日本の支配勢力を形成したことは間違いないところだ。

古代王朝が絶対的な地位を確立したのは天武天皇の時代で、同時に明確な権力争いが生じていた。そして王位継承を巡っての血族間の争いが起こる。有間皇子は、640年( 舒明12年)の生まれ、孝徳天皇で唯一の皇子だった。有間皇子は謀略によって19歳で絞首刑になり命を落とすことになる。

歴史夜話24
有間皇子(ありまのみこ)の母は阿倍倉梯麻呂の娘で、小足媛という。父の孝徳天皇は646年(大化元年)有間皇子が6歳の時に即位し都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子は653年(白雉4年)に都を倭京飛鳥に戻すことを求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京飛鳥に移り、皇族たちや群臣たちのほとんどや孝徳天皇の皇后である間人皇女までもが、中大兄に従って飛鳥に戻ってしまった。

そして失意の中、孝徳天皇は654年(白雉5年)10月、難波宮で崩じ、故天皇の同母姉である宝皇女が飛鳥板蓋宮に再祚し斉明天皇となった。その5年後に皇子の外祖父である左大臣阿倍倉梯麻呂が薨じ、有力な後ろ盾を失った。有間皇子は皇位継承を含む政争に巻き込まれるのを嫌って病を装っていた。

657年(斉明3年)9月、有間皇子は病気治療を装って牟婁の湯に療養に行き、帰ってその土地を褒め病の完治を天皇に奏上した。天皇は喜び、翌年10月、皇太子中大兄を伴って紀国行幸に発った。留守官の蘇我赤兄と共に飛鳥に留まった有間皇子は、赤兄に唆されて謀反を語り合う。赤兄は斉明天皇や中大兄皇子の失政を避難し皇子に味方したいというと、皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。しかしこれは陰謀で、結局赤兄に裏切られ捉えられ、紀の湯に連行された。

658年(斉明天皇4年)11月9日に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えたといわれる。翌々日の11日に藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられる。薨年十九。万葉集巻二には、護送の途次、岩代(和歌山県日高郡南部町)で詠んだ歌二首が載る。

つまるところ、有間皇子は中大兄皇子の謀略にはめられ、謀反人に仕立てられ抹殺されたことになる。有間皇子は父・孝徳天皇の死後、次の天皇の候補者として浮かび上がり、結果的に「大化改新」の立役者であり、当時の事実上の最高権力者である中大兄皇子と対立した。そうしたことから有間皇子は中大兄皇子の存在に脅威を覚え、狂人のふりをしてまで皇位継承争いから降りようとしたが、狡猾に人を配して謀反人に仕立て上げられ、抹殺された最期は悲しく哀れをさそう。

 父の孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係だった。640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。有間皇子の生没年は640(舒明天皇12年)~658年(斉明天皇4年)であった。

 悲劇の始まりは、中大兄皇子の強引な遷都要求を聞き入れなかった孝徳天皇および息子の有間皇子の一族だけを難波宮に残して、中大兄皇子が飛鳥に戻ってしまったことにあった。653年(白雉4年)、中大兄皇子が奏上して都を大和飛鳥に遷そうとしたが、孝徳天皇は前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を放棄しようとせず、これを拒否した。

ところが、皇太子の中大兄は引き下がるどころか、母の皇極前天皇、妹で孝徳天皇の間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に遷った。そして、驚くことに公卿、百官らはみなこれに随行した。皇太子・中大兄の独断専行に業を煮やした孝徳天皇が、威信をかけて拒否したが、公卿・官僚たちは天皇ではなく、中大兄の顔色だけをうかがっていた。

 孝徳天皇が無念の思いを抱き、寂しくこの世を去ってから、いよいよ孝徳天皇のたった一人の遺児、有間皇子に刻一刻、危機が迫る。そのため、18歳の有間は周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。日本書紀にも記されていることだ。

 そして、運命の歯車が動き出す。658年、斉明天皇が中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に行幸中のことだ。都に残って留守をあずかる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、天皇の失政をあげつらい、挙兵、謀反するようそそのかす。これに対し、有間はこの謀略を見抜けず、赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときがきた」などと応じた。そのため、赤兄に言質をとられる格好となり捕えられて、天皇のいる牟婁の温泉へ護送させられてしまった。紀の国へ護送される途中、有間皇子が詠んだ有名な句が二首ある。

 家にあれば 笥に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(歌意は、我が家にいれば器に食べ物を盛るのに、今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)

磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(歌意は、磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたら、またこれを見よう)   



近江の国は中心に琵琶湖がありその周りを山脈が囲んで盆地になっている。なので近江の国の出入りには必ず山越えになる。そして琵琶湖周辺は季節ごとに風景が様変わりする。その風物誌は江戸時代には「近江八景」として謳われてきた。その一つに「粟津の晴嵐」というのがある。

京都へ向かって旧東海道を歩くと、瀬田あたりから美しいびわ湖の展望が開けてくる。江戸時代には瀬田から膳所へと続く湖岸に松並木があり、びわ湖の景観をより一層美しく見せていた。「晴嵐」の語源は、強風に松の枝葉がざわめく様子を言い表しているとか、歌川広重は、湖岸の松並木沿いを歩く旅人の姿を浮世絵に描いている。

旧東海道より湖岸側に整備されたなぎさ公園は4.8㎞にもわたる長い公園で、散歩コース、ジョキングコースとして人々に親しまれていて、ここには「粟津の晴嵐」の石標がある。高校の卒業アルバムのわたしたちのクラスは、ここで記念写真を撮った。近くには膳所城跡もあって景色の良いところだった。

平安時代から鎌倉時代になろうというころ、ここ粟津でひとりの武将が戦いに敗れた。平家を倒すために立ちあがった源氏でしたが、源頼朝は、足並みがそろわなかった木曽義仲(木曽殿)を討つことにした。木曽義仲は部下を率いて反撃するも、源頼朝の軍勢に敗れて京都を脱出した。追手をかわしながら逃げていましたが、ついには乳飲み兄弟の今井四郎という部下と二騎だけになってしまった。

歴史夜話23
平家物語は木曽殿の最期を伝えています。

今井四郎と木曽義仲はたった2騎になってしまいました。木曽義仲が 「不断ななんとも感じない鎧が今日は重たく感じるな。」とおっしゃったので、今井四郎は 「お体は疲れていませんし、馬も弱ってはおりませぬ。どうして一領の鎧が重たいと感じましょうか。(重たく感じる理由は)味方の軍勢がいなく臆病にお思いになるからそのようにお感じになるのでしょう。私、兼平(今井四郎)一人だけではございますが、私のことを千騎分だとお思いください。矢がまだ7、8本残っていますのでしばらく追手を防いでおきましょう。あそこに見えるのは粟津の松原と申すところです。あの松林の中で自害ください。」

そう言って馬を進めていくと、また新手の敵が五十騎ほどが現れました。 「殿、あの松原は粟津の松原と申します。あれにお入りください。敵は私が引きとめます。」と今井四郎が言ったので、これを聞いて木曽義仲は、「この義仲は、都で死ぬ機会があったのにもかかわらずここまで逃げてきたのは、お前と一緒に死のうと思ったからだ。別々の場所で討たれるよりは、同じ場所で討ち死にしようではないか。」とおっしゃって、今井四郎の乗った馬と自分の馬の鼻先を並べて同じ方向に駆けようとしました。(これを見て)今井四郎は馬から飛び降り、木曽義仲の馬をつかんで

「武士というものは、日ごろどんなに高名があったとしても、死に方を間違えると永遠に不名誉がつきまといます。殿のお体は疲れていらっしゃいます。それに味方の加勢はもうありませぬ。敵におされ、私と殿が引き離されて、名乗るほどでもない人(身分の低い人)に囲まれ、そして討たれて、『日本に名高い木曽義仲殿を俺が打ち取ったぞ!』などと言われたら、無念でなりません。松原の中にお入りください。」

と言ったので、木曽義仲は 「そのように言うのなら。」と言って、松原に馬を走らせました。そのとき遠くから敵の軍勢が近づいてきました。

今井四郎はただ1騎だけで、50騎ほどの相手軍勢の中に駆け入り、鎧を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗った。 「日ごろ耳にすることがあるだろう、そして今は見たまえ。木曽殿の乳母の子、今井四郎兼平、33歳が参った。このような者がいることは鎌倉殿の御耳まで届いてあろう。この兼平を討ち取ってお目にかけよ。」

こう言って、残した八本の矢を、弓にさしては引き、さしては引いた。矢が当たった相手の生死はわからないが、敵8騎を射落とす。その後に、刀を抜いてあちらこちらで馳せ合いをし、敵を切ってまわると、向かってくる者がいなくなった。敵の命を多く奪ったのである。

「弓を射ろ」といって、兼平を取り囲んで雨が降るように矢をあびせるのだが、兼平の鎧がよいので、兼平の体に矢が刺さることはない。鎧と鎧の間も射られないので、傷は負っていない。

木曽殿はただ1騎で粟津の松原に向かっていかれるが、この日は1月21日の日没の頃だったので、寒さで薄い氷が張った深い田んぼがあるとも知らずに、その田んぼに馬を進めてしまったので、馬の頭が見えなくなるほど沈んでしまった。

馬をあおっても、むちで打っても前には進まない。木曽殿が今井のことを気になって振り返ったとき、木曽殿の兜の内側を、追っかけてきた三浦の石田次郎為久が、矢をひいてふっと射た。木曽殿は深手を負い、兜の正面を馬の頭にあててつっぷしているところに、石田の家来が2人やってきて、ついに木曽殿の首を取ってしまった。

木曽殿の首を刀の先にさして、それを高くあげて、大声で 「常日頃、日本中で名高い木曽殿を三浦の石田次郎為久が打ち申し上げましたぞ。」と名乗ったので、今井四郎はこれを聞いて、 「こうなってしまっては、誰をかばって戦う必要があるだろうか。東国の武士たちよ、これを見よ。日本一のつわものが自害する手本だ。」

こう言って、刀の先を口にふくんで、馬から逆さまに飛び落ちて、刀で首を貫いてしまった。 このようにして、粟津の戦いは終わったのである。

朝日将軍と呼ばれ、鳥飛ぶ射抜く勢いで平家を都から追い落とした木曽義仲でしたが、近江粟津の深田で首を取られたのでした。武士の名誉ある死を願った今井四郎兼平でしたが負け戦で弱気になった主人を庇いきれなかったのですが、いにしえの主従関係を彷彿とさせる物語でした。



戦国時代の近江国は文字通り武将の源泉と言えるほど価値の大きな地域でした。京の都に隣接していること、東西の交通の要であること、歴史的に比叡山を抱えて寺院が多いこと、日本一の米の主産地であること、武器(銃)製造の拠点であったことなどなど、地政的、経済的、文化的に見過ごせない地域だったからです。

というようなことから近江には近代までになんと1300以上の城が造られました。そして近江の城の特徴としては、石垣を積んだ城が多いことです。安土城をはじめ、中世城郭では小谷城,佐和山城,観音寺城,坂本城等々、また近世城郭では長浜城や彦根城,水口城、および膳所城等々で、石垣造りの城の多さでは全国でも群を抜いています。

石積みの技術は比叡山を中心にした多くの寺院で宝篋印塔や五輪塔、石仏などを造っていた石工集団が、更に寺院などの石垣を積むことから更に技術を高めてゆきました。近江における石仏の数は数十万体あるとされており、寺院の多い近江にはそうした石工集団が多くいたことが想像されます。

戦国大名たちはこれらの石工集団を使って城の石垣を積むことになりますが、もともと中世における石工集団は寺院勢力が支配していたとされ、六角氏が観音寺城の石垣を積むのに永源寺に石工集団の派遣を要請した文書も残されています。こうした中世の寺院が支配する技術集団の「座」を解放したのが織田信長でした。信長は中世の宗教勢力と戦って、石積み技術と共に寺院勢力の特権とされていた瓦を焼く技術も取り入れて、当時日本最大の安土城を築いたわけです。

歴史夜話22
 比叡山の麓の坂本は明智光秀が築城した坂本城で知られていますが、当地には「穴太衆(あのうしゅう)」という石工集団がおりました。穴太衆がもつ技術は、穴太積みと呼ばれています。この技術は基本的には自然石を積み上げる野面積みです。坂本へ行くと滋賀院門跡をはじめとして、あちこちで穴太積みといわれる石垣を見ることが出来ます。

この穴太衆を一躍有名にしたのが、織田信長が築いた安土城を穴太衆が積んだと云われたことに始まります。そして安土城以降、豊臣秀吉の大阪城、豊臣秀次の近江八幡山城、あるいは秀吉の家臣であった加藤清正や福島正則等の築いた今治城、熊本城へ行くと必ず石垣があり、西日本では、お城は石垣の上といったイメージが定着しています。

石積みは、もともと山野を開墾して畑地にするとき出てきた石を積み上げることから始まりました。しかし、ただ単に石を積み上げた石積みは石垣とは云いません。現在では石垣の定義は、「石積みの裏にこぶし大の裏込め石(栗石)等を入れることで、排水対策を施したもの」とされ、定義上石垣と石積みは明確に区別されています。それと石垣は城郭の基礎とするためかなりの高さに積み上げる技術も必要になります。これらの技術を兼ね備えた石垣造りを専門とする集団が穴太衆でした。

これまで信長が築いた安土城の石垣は、穴太衆が積んだとされていましたが、現在では多くの人達が否定しています。その理由のひとつが、信長の家臣であった太田牛一が書いた軍記である「信長公記」などにも穴太衆という記述はなく、穴太衆という呼び方が出てくるのが江戸期からであるためです。また、安土城の石垣は非常に多様な積み方がなされ、どう考えても、ある特定の石工集団だけで積んだものとは考えられませんし、信長が穴太衆だけを使って短期間に安土城のすべての石垣を積ませたと考えるのは極めて不合理です。

 おそらく安土城の石垣は穴太衆が積んでのではなく、穴太衆も関わって積まれたというのが妥当です。その後、豊臣秀吉子飼いの武将達が大名となり、信長の築いた安土城や秀吉の大阪城を手本にして、各地で城を築く際には穴太衆を連れて行き、穴太衆の指揮の下に各地で石垣造りの城が築かれたと云うことではないかと思います。

麦さん、お城の石垣に見惚れることはありませんか?穴太積みの極意は「石の声を聞く」のだそうです。つまり、「石の一つひとつが収まるべき所に収まる」ということで石の一つひとつの形状を考慮しながら積んでいくのが穴太積みだと言われています。

 安土城の築城以後、石垣造りの城は西日本を中心として各地に築城され、城の築城数の増加に伴い石積みの技術は更に進歩します。「野面積み」から「打ち込みはぎ」へ、更には「切り込みはぎ」へと発展します。そして加工するのに適した石材が入手できない地域では牛蒡積みといったより堅固な積み方へと発展していきます。

 高校時代、歴史の先生から旅行先で石垣にぶち当たったら「これは穴太積みかな~」と囁いてみなさい、しからば君たちは一目置かれる存在になるだろうと・・・・。歴友と近江界隈を探索したとき穴太の石垣の声を聞きに行かなかったことが悔やまれます。歴女の麦さんもチャンスがあればぜひ訪問されると良いです。



三面記事では売春とか買春とか、いかがわしい言葉が出てくる。日本では、1957年(昭和32年)の「売春防止法」をもって国営の岡場所、いわゆる遊郭は廃止され、そうした行為は犯罪となった。遊郭が大いに栄えた江戸時代には、一攫千金を狙う者にとっては魅力のある商売だったようである。

ひとつの文化的ジャンルが盛んになると細部に渡って多くの言葉が生まれる。遊郭の世界でも女郎、遊女、夜鷹、廓女、花魁、・・・などなど。当時の人々は今で言う人権意識などは無かったに等しい。なぜなら単に生きることで精一杯だったからだ。厳しい身分制度のもと、支配被支配の上に日常生活があった。そして何事もすべて下位の者の自己責任だった。そうした厳しい中で唯一頼りになるべきものは夫婦の情、親子の情、血族の情、友の情、だったようだ。

少し前まで国民の大多数が中流意識を持っていたが、いまは貧困という言葉が聞かれる。生命維持そのものが苦しくなったとき、生きるためには他人はおろか自分にも目をつぶるしかないということになる。この先どうなるのだろうか? 時計の針を戻して江戸時代のへんな逞しさに触れるのも一興だろう。

歴史夜話21
越前屋六左衛門は越前福井に生まれ、若いころに江戸に出てきた。
当時、江戸の町々には火災に備えて木戸番屋がもうけられており、ここに詰める男を番太郎(番太)と呼んだ。夜は火の用心の拍子木を打ちながら、町内を歩いた。

六左衛門はあちこちの番太郎をしながらコツコツと金をためた。ある程度の元手はできたが、堅気の商売を始めてもタカが知れている。手っ取り早く金を稼ぐには女郎屋がいいと思ったが、女郎の管理などは不慣れである。そこで、女郎上がりの女を女房にした。

「女郎を仕切るのは、おめえに任せるぜ。当分は、おめえも稼いでくれ」 そして、本所で二軒の局見世を開業した。局見世は、長屋形式の安価な女郎屋である。女房は自分も客を取りながら、抱えの女郎を働かせる。商売は順調だった。続いて、谷中に四六見世を開業した。四六見世とは、昼が六百文、夜が四百文の安価な女郎屋であるが、局見世よりは高級である。さらに、根津に六軒の局見世を開業し、勢いに乗って、吉原の経営難におちいっていた妓楼二軒を買い取った。ついに、吉原に進出を果たしたのである。

それまで商売一筋で、ほかのことには目も向けなかった六左衛門だが、吉原に妓楼を構えてからは気がゆるむようになった。自分が経営する谷中の女郎屋のお時という女郎に手をつけ、妾にして別宅に住まわせた。これに気づいた女房は嫉妬をむき出しにし、夫婦仲も冷たくなる。ついには、女房が寝付いてしまった。

1837年(天保8年)、女房は死んだ。死の直前、六左衛門を枕元に呼び、「これだけの身代ができたのは、夫婦ふたりで懸命に働いたからじゃないか。あたしなんぞは、客を取ることまでやったんだよ。そんなあたしを踏みつけにしてお時と一緒になることは、絶対に許さないよ。ほかの女と一緒になるのはかまわない」と言い残し、生き絶えた。

葬式がすむと、六左衛門はもう誰はばかる者もいないため、さっそく妾のお時を女房に迎えた。ところが、その夜から、谷中の越前屋に幽霊が出るという噂が広まった。前妻の怨念が幽霊になって現われたというのである。そこで、六左衛門はいったんお時を吉原の妓楼に住まわせ、自分は谷中の越前屋に住んだ。

天保12年2月14日、谷中に火事がおき、女郎屋はすべて焼失した。火事のあと、六左衛門はさっそく三軒の女郎屋の普請に取りかかったが、3月になると天保の改革にともなう岡場所の取り払いが始まった。幕府の姿勢は強硬であり、江戸中の岡場所はことごとく取り潰された。こうして、六左衛門が谷中と根津に所有していた女郎屋はすべて消滅した。ただし、六左衛門は吉原に妓楼を持っていたため、かろうじて女郎屋商売を続けることができた。その後、吉原の越前屋はそれなりに繁盛したという。 


歴史夜話 (1) ~ (20) は
こちらです


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コメント

麦さん、おは~です。

いろいろありがとうございます。
夜話ということですが、たまには朝から夜話はどうかな~

なんでもありということで、今回は石垣の話です。


戦国時代の近江国は文字通り武将の源泉と言えるほど価値の大きな地域でした。京の都に隣接していること、東西の交通の要であること、歴史的に比叡山を抱えて寺院が多いこと、日本一の米の主産地であること、武器(銃)製造の拠点であったことなどなど、地政的、経済的、文化的に見過ごせない地域だったからです。

というようなことから近江には近代までになんと1300以上の城が造られました。そして近江の城の特徴としては、石垣を積んだ城が多いことです。安土城をはじめ、中世城郭では小谷城,佐和山城,観音寺城,坂本城等々、また近世城郭では長浜城や彦根城,水口城、および膳所城等々で、石垣造りの城の多さでは全国でも群を抜いています。

石積みの技術は比叡山を中心にした多くの寺院で宝篋印塔や五輪塔、石仏などを造っていた石工集団が、更に寺院などの石垣を積むことから更に技術を高めてゆきました。近江における石仏の数は数十万体あるとされており、寺院の多い近江にはそうした石工集団が多くいたことが想像されます。

戦国大名たちはこれらの石工集団を使って城の石垣を積むことになりますが、もともと中世における石工集団は寺院勢力が支配していたとされ、六角氏が観音寺城の石垣を積むのに永源寺に石工集団の派遣を要請した文書も残されています。こうした中世の寺院が支配する技術集団の「座」を解放したのが織田信長でした。信長は中世の宗教勢力と戦って、石積み技術と共に寺院勢力の特権とされていた瓦を焼く技術も取り入れて、当時日本最大の安土城を築いたわけです。

歴史夜話22
 比叡山の麓の坂本は明智光秀が築城した坂本城で知られていますが、当地には「穴太衆(あのうしゅう)」という石工集団がおりました。穴太衆がもつ技術は、穴太積みと呼ばれています。この技術は基本的には自然石を積み上げる野面積みです。坂本へ行くと滋賀院門跡をはじめとして、あちこちで穴太積みといわれる石垣を見ることが出来ます。

この穴太衆を一躍有名にしたのが、織田信長が築いた安土城を穴太衆が積んだと云われたことに始まります。そして安土城以降、豊臣秀吉の大阪城、豊臣秀次の近江八幡山城、あるいは秀吉の家臣であった加藤清正や福島正則等の築いた今治城、熊本城へ行くと必ず石垣があり、西日本では、お城は石垣の上といったイメージが定着しています。

石積みは、もともと山野を開墾して畑地にするとき出てきた石を積み上げることから始まりました。しかし、ただ単に石を積み上げた石積みは石垣とは云いません。現在では石垣の定義は、「石積みの裏にこぶし大の裏込め石(栗石)等を入れることで、排水対策を施したもの」とされ、定義上石垣と石積みは明確に区別されています。それと石垣は城郭の基礎とするためかなりの高さに積み上げる技術も必要になります。これらの技術を兼ね備えた石垣造りを専門とする集団が穴太衆でした。

これまで信長が築いた安土城の石垣は、穴太衆が積んだとされていましたが、現在では多くの人達が否定しています。その理由のひとつが、信長の家臣であった太田牛一が書いた軍記である「信長公記」などにも穴太衆という記述はなく、穴太衆という呼び方が出てくるのが江戸期からであるためです。また、安土城の石垣は非常に多様な積み方がなされ、どう考えても、ある特定の石工集団だけで積んだものとは考えられませんし、信長が穴太衆だけを使って短期間に安土城のすべての石垣を積ませたと考えるのは極めて不合理です。

 おそらく安土城の石垣は穴太衆が積んでのではなく、穴太衆も関わって積まれたというのが妥当です。その後、豊臣秀吉子飼いの武将達が大名となり、信長の築いた安土城や秀吉の大阪城を手本にして、各地で城を築く際には穴太衆を連れて行き、穴太衆の指揮の下に各地で石垣造りの城が築かれたと云うことではないかと思います。

麦さん、お城の石垣に見惚れることはありませんか?穴太積みの極意は「石の声を聞く」のだそうです。つまり、「石の一つひとつが収まるべき所に収まる」ということで石の一つひとつの形状を考慮しながら積んでいくのが穴太積みだと言われています。

 安土城の築城以後、石垣造りの城は西日本を中心として各地に築城され、城の築城数の増加に伴い石積みの技術は更に進歩します。「野面積み」から「打ち込みはぎ」へ、更には「切り込みはぎ」へと発展します。そして加工するのに適した石材が入手できない地域では牛蒡積みといったより堅固な積み方へと発展していきます。

 高校時代、歴史の先生から旅行先で石垣にぶち当たったら「これは穴太積みかな~」と囁いてみなさい、しからば君たちは一目置かれる存在になるだろうと・・・・。歴友と近江界隈を探索したとき穴太の石垣の声を聞きに行かなかったことが悔やまれます。歴女の麦さんもチャンスがあればぜひ訪問されると良いです。

2016.06.21   えんてつ   編集

v-513

お時と一緒になることは、絶対に許さないよ。ほかの女と一緒になるのはかまわない

他の女となら構わないという女心、よく解ります。
にもかかわらず、それなりに繁盛したのですね。
ということは、男の本能に対して嫉妬や怨念は非と言う教えかもしれませんね。

2016.06.21   麦   編集

えんてつ さん

コメント欄に、同時に書き込んだようですね。

さて、22話を本文に転記するかどうかは、次の着地点で決めることにします(*´▽`*)


2016.06.21   麦   編集

麦さん、こんにちは。

今日は公示日ということで9時から2時間かけて選挙ポスタ-貼りに回りました。雨が降らなかったので助かりました。


日本の皇室は天照大神の子孫ということになっているが、それは古代の創作によるものだ。学生時代に受けた講義では、邪馬台国北九州説を主張する先生だったが、歴史的に皇室の先祖が確実視されるのは畿内を軸とする大和朝廷だという。ただし血筋的には主家が途切れたと思われる時期が数回あることも確かなようだ。

日本民族の成り立ちについては、DNAの研究からおおよそ五つの流れがあったことが判明しているが、文字による記録は中国の漢の時代以降で、日本国内も中国の漢字の音を使うというか利用できた勢力が日本の支配勢力を形成したことは間違いないところだ。

古代王朝が絶対的な地位を確立したのは天武天皇の時代で、同時に明確な権力争いが生じていた。そして王位継承を巡っての血族間の争いが起こる。有間皇子は、640年( 舒明12年)の生まれ、孝徳天皇で唯一の皇子だった。有間皇子は謀略によって19歳で絞首刑になり命を落とすことになる。


歴史夜話24
有間皇子(ありまのみこ)の母は阿倍倉梯麻呂の娘で、小足媛という。父の孝徳天皇は646年(大化元年)有間皇子が6歳の時に即位し都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子は653年(白雉4年)に都を倭京飛鳥に戻すことを求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京飛鳥に移り、皇族たちや群臣たちのほとんどや孝徳天皇の皇后である間人皇女までもが、中大兄に従って飛鳥に戻ってしまった。

そして失意の中、孝徳天皇は654年(白雉5年)10月、難波宮で崩じ、故天皇の同母姉である宝皇女が飛鳥板蓋宮に再祚し斉明天皇となった。その5年後に皇子の外祖父である左大臣阿倍倉梯麻呂が薨じ、有力な後ろ盾を失った。有間皇子は皇位継承を含む政争に巻き込まれるのを嫌って病を装っていた。

657年(斉明3年)9月、有間皇子は病気治療を装って牟婁の湯に療養に行き、帰ってその土地を褒め病の完治を天皇に奏上した。天皇は喜び、翌年10月、皇太子中大兄を伴って紀国行幸に発った。留守官の蘇我赤兄と共に飛鳥に留まった有間皇子は、赤兄に唆されて謀反を語り合う。赤兄は斉明天皇や中大兄皇子の失政を避難し皇子に味方したいというと、皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。しかしこれは陰謀で、結局赤兄に裏切られ捉えられ、紀の湯に連行された。

658年(斉明天皇4年)11月9日に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えたといわれる。翌々日の11日に藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられる。薨年十九。万葉集巻二には、護送の途次、岩代(和歌山県日高郡南部町)で詠んだ歌二首が載る。

つまるところ、有間皇子は中大兄皇子の謀略にはめられ、謀反人に仕立てられ抹殺されたことになる。有間皇子は父・孝徳天皇の死後、次の天皇の候補者として浮かび上がり、結果的に「大化改新」の立役者であり、当時の事実上の最高権力者である中大兄皇子と対立した。そうしたことから有間皇子は中大兄皇子の存在に脅威を覚え、狂人のふりをしてまで皇位継承争いから降りようとしたが、狡猾に人を配して謀反人に仕立て上げられ、抹殺された最期は悲しく哀れをさそう。

 父の孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係だった。640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。有間皇子の生没年は640(舒明天皇12年)~658年(斉明天皇4年)であった。

 悲劇の始まりは、中大兄皇子の強引な遷都要求を聞き入れなかった孝徳天皇および息子の有間皇子の一族だけを難波宮に残して、中大兄皇子が飛鳥に戻ってしまったことにあった。653年(白雉4年)、中大兄皇子が奏上して都を大和飛鳥に遷そうとしたが、孝徳天皇は前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を放棄しようとせず、これを拒否した。

ところが、皇太子の中大兄は引き下がるどころか、母の皇極前天皇、妹で孝徳天皇の間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に遷った。そして、驚くことに公卿、百官らはみなこれに随行した。皇太子・中大兄の独断専行に業を煮やした孝徳天皇が、威信をかけて拒否したが、公卿・官僚たちは天皇ではなく、中大兄の顔色だけをうかがっていた。

 孝徳天皇が無念の思いを抱き、寂しくこの世を去ってから、いよいよ孝徳天皇のたった一人の遺児、有間皇子に刻一刻、危機が迫る。そのため、18歳の有間は周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。日本書紀にも記されていることだ。

 そして、運命の歯車が動き出す。658年、斉明天皇が中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に行幸中のことだ。都に残って留守をあずかる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、天皇の失政をあげつらい、挙兵、謀反するようそそのかす。これに対し、有間はこの謀略を見抜けず、赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときがきた」などと応じた。そのため、赤兄に言質をとられる格好となり捕えられて、天皇のいる牟婁の温泉へ護送させられてしまった。紀の国へ護送される途中、有間皇子が詠んだ有名な句が二首ある。

 家にあれば 笥に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(歌意は、我が家にいれば器に食べ物を盛るのに、今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)

磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(歌意は、磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたら、またこれを見よう)

2016.06.22   えんてつ   編集

えんてつ さん

お疲れ様です。
こちらも降ったり止んだりで、今のところ苦にならない梅雨空です。

歴史小噺(*´▽`*)
一カ所にまとめますね。


22話は、ちょっと志向が変わり石垣の積み方のお話ですね。

良いことを聞きました!
「これは穴太積みかな~」と囁かなくても一目置かれる存在の、えんてつさんには、
どうでもよいことですが(*^-^*)


2016.06.22   麦   編集

麦さん、こんにちは。

今日は梅雨空のなか、夕刻6時からJRの駅で宣伝活動の予定なんです。それまで外の作業もできないので大福餅を片手に歴史を覗いていました。

イギリスがEUから離脱することになりました(驚)
イギリス国民の判断は難民流入とテロを恐れた結果だと思います。


さてさて、歴史夜話25です。

有間皇子の悲話は皇位継承争いのなかの陰謀事件として語られることが多いが、もしかして有間皇子の謀反は本意であった可能性も否定できない。ところでこの時代には日本(倭国)を巻き込んだ大きな国際紛争というか戦争があった。

日本(倭国)に仏教が伝わったのは6世紀の中頃、朝鮮半島にあった百済(ペクチェ、くだら)を通じてだった。重要なのは仏教だけではなく、大陸の文化は百済を経由して倭国に伝わっている。また、人の往来も多く、韓国で発掘された古墳の中には前方後円墳があることや出土品が畿内の古墳と同じものであったりすることから日本から高位の人物も百済に渡っていることが推測される。当時の倭国は百済重視の外交をしていた。そして、百済王朝の王子、豊璋(ほうしょう)が倭国にいて、知識人として朝廷で重用されていたという記録も残っている。

当時の朝鮮半島には、百済のほか、新羅と高句麗という国家が成立していた。
新羅の武烈(ぶれつ)王は即位する前から唐と親交があり、即位してからも唐の制度を国の政治に採り入れるなど唐から信頼されており、唐と新羅は同盟関係にあった。高句麗は唐と国境を接しているためたえず緊張関係のなかにあった。

そして、日本国内では、大化改新の後、孝徳天皇が難波で即位していたが、653年、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すことを申し出る。政治の中心は中大兄皇子であり、その力は強大であった。孝徳天皇は飾りにしかすぎなかったともいえる。孝徳天皇は遷都に反対したため、中大兄皇子は母や、大海人皇子、間人皇后(孝徳天皇の皇后、中大兄皇子の妹)や従者を連れて飛鳥に戻ってしまうという状況だった。そして、翌年、孝徳天皇は難波にて崩御する。

歴史夜話25
655年、朝鮮半島北部で、かねてより対立していた唐と高句麗(コグリョ、こうくり)が戦いを始めた。南部では、百済が新羅(シルラ、しらぎ)へ侵攻したため、新羅は唐に救援を求めた。しかし、朝鮮半島で開かれた戦端や戦況はすぐには日本には伝わらなかった。

 659年、斉明天皇は遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。このとき唐は新羅の要請を受けて百済に攻め入ろうとしていた。百済は新羅へ侵攻したが、唐の高宗は新羅の軍とともに百済の都であった扶余(ふよ)に攻め入り、百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。こうして660年7月18日、百済が滅亡した。
 
この後、百済の使節が百済の滅亡を伝えに日本に来航、当時の日本にとってこの事実は大きな衝撃となった。唐は百済を統治し始めるが、それに対抗して、百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。その中心人物となったのが鬼室福信(きしつふくしん)だった。660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるために倭国に次のような要請をしてきた・・・・631年から倭国にいる百済の王子(豊璋:ほうしょう)を国王位につかせるため送還してほしい。そして同時に倭国から百済復興のための援軍を送ってほしいと。

661年9月、中大兄皇子は、倭国にいた百済王朝の王子に倭国最高位の「織冠(おりもののこうぶり)」を授け、5000人の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送った。しかし、このままでは、唐の圧力は日本にまで及びかねないと中大兄皇子は判断し、百済復興へ手助けすると決意、662年、総勢27000の三軍編成の大軍を百済に送り込みます。倭国軍を率いたのは三人の将軍、上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)、巨勢神前臣訳語(こせのかんざきのおみおさ)、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)でした。

長野県安曇野市の穂高神社には百済まで豊璋を護衛した将軍に阿倍引田臣比羅夫の像がある。 境内の石碑に次のように記されている。
「大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。 9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。 伝統芸術である穂高人形飾物は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。」

そして、663年、ついに決戦のときがきました。朝鮮半島、南西の白村江にて日本・百済VS唐・新羅の2日間にわたって行われた壮絶な戦いです。

663年8月17日、唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留(する)城を包囲するとともに、唐軍は軍船170艘を白村江(錦江-クムガン河口)に配備した。

8月27日、倭国軍が朝鮮半島西岸に到着する。百済王豊璋と倭国軍は、「我ら先を争わば 彼自づからに退くべし」と突撃作戦に出た。そして、8月28日、白村江(錦江-クムガン河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突した。倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ、軍船のほとんどが燃え上がり、倭国軍は大敗した。中国の歴史書によれば、「日本の船400艘は燃え上がり、煙は天を覆い、海は赤く血で染まった」と書かれている。

戦のなかで百済王(豊璋)は逃亡してしまう。そして、663年9月7日、百済全土が制圧され永遠に滅亡した。

 この白村江での敗戦の結果、中大兄皇子は唐・新羅連合軍が海を越えて倭国に攻めて来ることを恐れました。そこで、朝鮮半島に近い北九州の大宰府(外交の拠点)を守る為に水城(みずぎ)と呼ばれる防衛施設や防人(さきもり)と呼ばれる兵を配置し、国家をあげての防衛に努めました。

唐・新羅連合軍にとっては、百済を倒したからといって、朝鮮半島には、まだ高句麗が残っています。高句麗を攻略する方が先決として日本に攻め入ることはせず逆に和睦を求めたのです。そして668年、唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼしました。そしてこんどは唐と新羅の対立が表面化し、676年、新羅によって朝鮮半島が統一されました。

 中大兄皇子は、こうした当時の国際的危機の流れのなかで最高権力者の地位を強化し国内を支配しました。有間皇子の事件もそうした状況下で起こりました。そして外交的には敵対した唐に対して友好的な関係へと流れを変えてゆく事になります。

2016.06.24   えんてつ   編集

こんにちは。

よく降りますね。
それにしても中国の大竜巻、いつか日本でも起こりそうです。

きょうは
梅雨空のなかメガホンで訴えを叫んできました(笑)

それからいつものメモ・・・・・
「梅雨の空大福ひとつ皿の上」



それでは歴史夜話を始めます。 

昔のテレビドラマには人気の捕物帳というのがあった。そうした捕物帳に登場した人物のうち火付盗賊改の長谷川平蔵は実在の人物である。火事と喧嘩は江戸の華ということで江戸っ子の威勢の良さは目を見張るものがあったが、江戸の火事は国家財政を揺るがす大惨事に繋がる危険があったため、火事に関する疑惑は死罪に値するものとされ、火付盗賊改は権威ある役職だった。

江戸時代の人々は、そのときの時代を江戸時代なんて呼んではいません。自分の住んでいる土地を支配するお殿様の名前で呼んでいました。そしてそのなかでも将軍様のお膝元である江戸の人々は時の将軍様の名前で時代を呼んでいました。江戸は権力の集中した都市であった分、地方の住民は将軍の名前など知らなかったのです。江戸に住まいがあるということはそれだけでけっこう価値があったのです。

歴史夜話26
火付盗賊改の長谷川平蔵が江戸で勇名をはせていたころのことである。長谷川平蔵の屋敷は本所花町にあった。

本所三ツ目に住む大工の平蔵が稼ぎのため京都にのぼった。二、三年も過ごすうちに、多くの知り合いもできる。 仕事を終えて江戸に戻るに際し、平蔵は江戸っ子の気っぷのよさを示したくなった。大工仲間にそれまで世話になった礼を述べながら、「もし江戸に下ることがあれば、おいらを訪ねてきなよ。本所で平蔵と尋ねるといい。本所の平蔵と言えば、すぐにわかるぜ」と、大見得を切った。本当に自分を頼って江戸に出てくる者がいるなど、想像だにしていない。なかば見栄であり、なかば冗談だった。

京都の大工のひとりが仕事に行き詰まり、心機一転、江戸で一旗あげることを考えた。
「そうだ、あの平蔵を訪ねていけば、面倒をみてくれるであろう」 そこで、京都を立って江戸に出た。人に尋ね尋ね、本所にたどりつくと、「平蔵さまの住まいはどこでしょうか」と、道行く人に聞いた。「平蔵さま・・・」「本所の平蔵さまですがね」「本所は広いぜ。町名はどこかね」「本所の平蔵と言えばすぐにわかると聞いておったので、町名までは存じません」「本所で知らない者はない平蔵さまなら、長谷川平蔵さましかない。それなら、花町に行って、あらためて尋ねてみなさい」 花町への道順を教えた。

大工は花町に着き、平蔵の住まいを尋ねた。教えられたのは、立派な武家屋敷である。さすがに、どうも妙だなと感じないでもなかったが、「きっと、このお屋敷のなかの長屋にでも住んでいるのであろう」と思い直し、門をくぐろうとした。門番がさえぎる。「そのほうはいずこのもので、どこにまいるか」「わたくしは京都の者で、平蔵さまに用事があってまいりました。お目にかかればすぐにわかることでございます。平蔵さまが御在宿なら、お会いしたいのですが」「おのれ、怪しいやつ。縛ってしまえ」門番が声をかけ、ほかの奉公人たちも集まってきた。

この騒ぎが、長谷川平蔵の耳にはいった。長谷川は家臣に命じた。「なにか、事情があるようだな。縄をかけるには及ばぬ。庭につれてまいれ」 庭に引き据えられ、平伏している大工に向かい、長谷川が声をかけた。「上方より平蔵に会わんとして尋ね来たりしは、そのほうか。平蔵はすなわちわしじゃ」 大工は恐る恐る顔をあげて見ると、まず年齢が異なっている。しかも、裃姿の、威風堂々たる武士だった。恐怖に襲われ、大工はひとことも発することができず、ただふるえているだけだった。その様子を見て、長谷川が口調をやわらげて言った。「遠路はるばる尋ね来たったのには、なにか仔細があろう。つぶさに申してみよ」 そこで、大工は途切れ途切れに、いきさつを語った。

聞き終えると、長谷川は、「よくわかった。明日、そのほうの尋ねる平蔵に会わせてやろう」と答え、その夜は屋敷内の奉公人の部屋に泊まるよう手配させた。その後、すぐさま家来を本所一帯の自身番に走らせ、「本所を限りに、平蔵と名乗るもの、明日六ツ時、罷り出るべし」という触れを配った。

翌日の明六ツ(午前6時)、長谷川の屋敷に、平蔵という名の男がおよそ五十人ほども集ってきた。まだ子供もいれば、老人もいる。長谷川は京都の大工を呼び出した。「そのほうの尋ねる平蔵は必ずこのなかにいるはずじゃ。よく見るがよい」 大工がひとりひとりの顔を見ていくと、なかに、京都で知り合った男がいた。「この男が、あたくしが尋ねておりました平蔵でございます」「そうか。よし」 長谷川はほかの平蔵を帰宅させ、大工の平蔵のみとどめた。

「この者はそのほうを頼りにして、はるばる尋ね来たったのである。いま、そのほうに引き渡すから、厚く世話してやれ。もし、粗略にあつかうようなことがあれば、ただではすまんぞ。召し取って厳罰に処すから、さよう心得よ」きびしい声で命じるや、京都の大工を平蔵に引き渡した。もともと本気で言ったことではなかったのだが、火付盗賊改の長谷川平蔵に厳命を下されると、大工の平蔵もやむをえない。京都から来た男を自分の家に泊め、なにくれと世話をしたという。


2016.06.24   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-277v-279

日本も中国もイギリスも!
何やら慌ただしいですね。

今年の梅雨は、梅雨らしい雨ですね。
雨の中、お疲れ様です。

25話、26話、ありがとうございます。
順に読めるよう新着を冒頭に添付しました。

偽歴女は、好みの分野と、そうでないのとあって、25話は、さらっと、26話はジックリ読ませていただきました。(*´▽`*)

2016.06.25   麦   編集

麦さん、こんにちは。

太陽が見えたのも束の間、もう梅雨空に逆戻りです。

麦さんの好みに関係なく独断先行(笑)です。
では、歴史夜話27です。


ある時代の支配者から「正史」を編纂せよとの命令を受けることは、学者にとって最高の名誉であることは容易に理解できる。江戸時代、戦の世が過ぎ文治となった時代、徳川の世を支えたのは儒学の林家だった。林家の開祖の林羅山は僧であり家康の単なる御用学者であったが、息子の鷲峰、孫の鳳岡と代を重ねてついには徳川家の学問的権威の象徴となった。

つまりは、林家は幕府の官学、朱子学の「家元」ともいうべき家柄とされた。今でいえば東大総長兼、文部大臣のようなものだろう。それ以外にも幕府の政治の諮問や、外交文書の作成にも関わるため、幕府の政治顧問、外交顧問といった性格も合わせ持っていた。

しかし、権威というものの価値は、尊敬の念があればこそ、精神面でも物質面でも豊かなものになる。林家8代目、大学頭林述斎の時代、林家の出目でありながら己の権力欲を満たすことだけに傾注した人物がいた。自分の出世のために競争相手を失脚させることがあたかも正当な仕事であると信じていたのであろうか・・・・



歴史夜話27
鳥居耀蔵・・・・この人物は、自分の出世欲、権勢欲のために讒言、デッチ上げ、裏切りなど、ありとあらゆる奸智をめぐらし出世した。

江戸時代,幕府直轄の昌平坂学問所を管理した役職を大学頭という。1691年以降、林羅山の子孫である林家の者がその役職を任ぜられた。鳥居耀蔵は、1796年(寛政8年)11月24日、8代目大学頭林述斎の次男に生まれた。1820年(文政3年)、25歳の時に旗本鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ、2500石を食む身分となった。そして11代将軍徳川家斉の側近として仕えた。名を忠耀といい、官は甲斐守であった。人々からは、「甲斐守の耀蔵」ということで「耀甲斐(妖怪)」と仇名され恐れられた。

 耀蔵の出世のきっかけは大坂町奉行与力の大塩平八郎の乱だった。大塩は幕府の役人でありながら、困窮する庶民に対し何の対策をも施さぬ幕政に抗議して門人らを集めて決起した。しかし、この大塩の乱はわずか1日で鎮圧され、大塩は潜伏先で捕吏に囲まれ爆死した。

幕府は幕府の役人の叛乱という前代未聞の事件だけに後始末に苦慮した。そのうえ大塩の反乱は公憤によることは明らかであり、乱によって焼き払われた大坂の町人も「大塩様」と呼んで評判が高かっただけになんとかして大塩の評判を引きずり落す必要があった。その大塩の罪状を「作りあげた」のが耀蔵であった。

 耀蔵はその判決文に、「大塩は養子格之助の妻と姦通した」と事実無根の人格攻撃を行い、大塩個人をおとしめる判決文をつくった。当初この判決文は幕府内でも評判は悪く、「ありもしないことをデッチ上げ大塩個人を貶めることを主眼においた文である。このよう文では人々は納得しないであろう」という意見が出されたりした。しかし、大塩人気を封じたい幕府はこの耀蔵の判決案を採択して大塩事件のケリをつけた。そしてこの判決文こそが耀蔵の出世の糸口になったのである。大塩判決で見せた、「誹謗」「中傷」「デッチ上げ」など、このやりかたがこの後も耀蔵が出世をしていく手口となった。

 このころ、外国船がしきりに日本近海に出没するようになった。幕府も国防の必要性を感じるようになった。そこで、江戸湾の入口の要衝、浦賀の測量を始めることになった。この測量を命じられたのが、当時、目付になっていた耀蔵と伊豆韮山の代官である江川太郎左衛門英龍のふたりであった。江川英龍は韮山代官ながら蘭学者たちの集まりである「尚歯会」のメンバーでもあった。

 「尚歯会」は渡辺崋山、高野長英ら蘭学者を中心とした学者グループだった。オランダの書物を通じて、ヨーロッパの科学技術、政治などを知り、世界情勢を研究するグループである。このグループには崋山や長英の蘭学者の他に、川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍などの幕臣や国学者の一部などが加わり、身分や立場を超えたサロンのような性格を持っていた。当時の最高のシンクタンクと言えるグル-プだった。

 江川はこの浦賀測量にあたり、「尚歯会」の最新の測量技術や人材を導入した。しかし、耀蔵はそれが面白くなかった。なにしろ耀蔵は朱子学の本家、林家の出身なのだ。蘭学に負けたくない、そういう気持ちが相役の江川が自分より成績をあげると出世の妨げになると考えたのだろうか。耀蔵は江川にイチャモンをつけて「尚歯会」から借りた測量技師を調査隊からはずさせた。耀蔵にとって、国防問題よりもライバルを蹴落とすほうが大事であったに違いない。

 しかし、結果からすれば耀蔵の測量隊は、江川の測量隊に負けてしまう。余りにも調査結果に差があり耀蔵側の報告はすこぶる杜撰なものであった。これにより江川は大いに面目を施したが耀蔵は大恥をかいた形となった。

 ここで耀蔵は報復に出る。なんと「尚歯会」の潰滅を図るのである。逆恨みもいいところだが、面目を失った耀蔵にとって「尚歯会」は何がなんでも潰さなければならない。耀蔵をはじめとして洋学嫌いの国学者たちは「尚歯会」を「蛮社」と呼んだ。「野蛮な洋学を信奉する結社」という意味である。

歴史夜話28に続く

2016.06.26   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-483

幕末に、鳥居耀蔵というニューキャストの登場ですが、歴史夜話も英雄ばかりとは限りませんね。
鳥居耀蔵が、どのような報復に出るのか、ちょっと予習で鳥居耀蔵をググってみましたが挫折(*´▽`*)
結果は28話で。

2016.06.27   麦   編集

麦さん、おは~

今朝は快晴の朝です。

続きがうまく貼り付けられまっせ~ん。
これから外出しますので、帰ってからまた挑戦します。

2016.06.27   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-278
こちらも快晴です。
午後から曇りで、明日から、しばらく梅雨空が続くようなので、
朝から、ひと働きしました(*^-^*)

まだ貼り付けられませんか。
管理画面で確認したところ、不都合があった形跡は見当たらず、PCは正常に働いています。
今は受け付けない歴史用語があるとか、、、?
FC2では、コメント欄の文字数オーバーと言うことは、ないですよね。

2016.06.27   麦   編集

あはは~ 麦さん こんばんは。

ただただ まじ驚くばかりです。
どこがメインでどこがコメントか、読む人も大変でしょうね(笑)

いよいよ三十代に突入です~♪

2016.06.28   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-483

コメント欄ですと順番が混乱しますが、タイトルで記し、本文に転記しているので大丈夫だと思います。

30代に突入!


2016.06.29   麦   編集


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