るりとうわた色の空に

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歴史夜話 (40)  ~ (59) 



  道後温泉は、その昔、足に傷を負った一羽の白鷺が、岩の間から湧き出ている温泉を見つけ、傷を癒やした事に由来している、と書かれている。そして、国主命が重病の少彦名命を入浴させたところ快癒し、「玉の石」の上で舞ったと伝えられている石がある。

歴史夜話59 
いまから約380年前の1635年(寛永12年)に、松山藩主となった松平定行は、道後温泉の施設充実に着手して、地方から来湯する僧侶や、婦人、庶民男子などが入浴出来るように浴槽を整備し、入浴料をとる管理方法で温泉経営を始めた。

この道後温泉は白鷺伝説から3000年の歴史があり、西の有馬温泉、東の草津温泉と共に日本三最古(名湯)温泉の一つと言われている。多くの偉人・文人墨客が来湯している。とくに俳人小林一茶は,2度にわたって伊予路を訪問し、「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉」という俳句を残しているが、のどかな道後の旅情がうかがえる一句である。

観光記事でよく登場する道後温泉本館は道後温泉のシンボルであり、1894年(明治27年)に建てられた。木造三層楼は、当時でも大変珍しい建築様式だったらしい。完成の翌年に松山中学(現松山東高校)へ赴任してきた文豪・夏目漱石も幾度となく通ったと言う。平成6年に,この本館が国の重要文化財に指定され,日本の貴重な建物となった。

松山市には温泉と並んで松山のお城がある。松山城の最初の創設は加藤嘉明である。嘉明は1563年(永禄6年)に三河国(今の愛知県)永良郷加気村に生れた。父広明は徳川譜代の武士であったが、嘉明が6才の時に美濃国(今の岐阜県)で死去している。その後、羽柴秀吉に見出されて秀吉の家臣となった。

20才の時に、賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人として武勲をたてた。その後、従五位下左馬介に補せられ、伊予国正木(伊予郡松前町)6万石の城主に封じられた。1592年(文禄)・1597年(慶長)の役には海を渡り、九鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し、その功によって10万石に加増された。

 そして、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった。そこで嘉明は1602年(慶長7年)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に「足立重信」を命じて地割を行ない工事に着手し、1603年(慶長8年)10月に嘉明は居住地を新城下に移し、初めて「松山城」という名称が披露公表された。

その後も工事は継続されたが、時間が掛かり、なんと24年後の1627年(寛永4年)になって完成した。当時の天守閣は五層で見事な偉観を誇ったと言うが、なんとその年に嘉明は会津へ転封された。嘉明の松山時代は25年におよんだ。

その後へは蒲生氏郷の孫の忠知が出羽国(山形県)の上の山城から入国し、二ノ丸の造築を完成したが、1634年(寛永11年)8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没した。嗣子がなかったので家は断絶となった。その後,1635年(寛永12年)7月伊勢国(三重県)桑名の城主「松平定行」が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至っている。

天守閣は1642年(寛永19年)に五層から三層に改築されたが、1784年(天明4年)元旦に落雷で焼失した。1820年(文政3年)から再建工事に着手し、35年の長き歳月を経て1854年(安政元年)に復興している。

 昭和に入り,小天守閣やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失したが,昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められた。「松山城」は海抜132mの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(堀の内)置く広大な規模を誇る。これは姫路城・和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城である。

 「松山城」は廃藩置県により兵部省の管轄となったが、城郭廃止の令により大蔵省の所管となり、大正12年、旧藩主久松平定謨氏より松山市に寄贈された。


 十代目金原亭馬生は、1928年(昭和3年)落語の名手といわれた古今亭志ん生の長男に生まれ、14歳で父の志ん生に入門、二ツ目・むかし家今松から出発し、古今亭志ん朝を経て、古今亭志ん橋で真打に昇進、1949年(昭和24年)10代目馬生を継いだ。俳句や書画を嗜む古典落語の正統派で、昭和53年から落語協会副会長を務めていたが、1982年、54歳で早逝した。

茗荷を食べると「もの忘れがひどくなる」という俗説から、茗荷は落語にも登場する。 むかし、 釈迦の弟子で禺鈍第一の周到槃特(しゅりはんどく)の塚から生えた草を鈍根草と名付けた。槃特は、自分の名も覚えられないで、その名を書き付けた物を荷(になって歩いたというので、名を荷う・・・つまり、名荷とは鈍根草のことだという。その後、名荷は茗荷になったとのことだ。

落語の始まりは戦国時代、武将の話し相手をしたり、世情や知識を教えた「御伽衆」が起源だという。


歴史夜話58
十代目金原亭馬生の噺(こばなし)に、「茗荷宿(みょうがやど)」というのがある。
 
飛脚が京都と江戸の間を月に三度往復するという凄腕(足)の者も居た。しかし、生身の人間だから間違いもあって、石につまずいて走れなくなってしまった。その上、雨も降ってきて次の宿までは行くことが困難であった。薬はあるから明日になれば治ってしまうのだがと、見回すと旅籠・茗荷屋と看板が掛かった家があった。ここ間宿(あいのしゅく)で一晩を過ごすことにした。

戸を叩くと、真っ暗な宿の中から、気のない返事が聞こえてきた。お客だと分かりガラリと態度が変わった。奥様も同じように最初は信じられなかった。すすぎ水で足を洗うと腫れた足が出てきた。持ち合わせの薬をドンブリから出して練ってもらって足首に手ぬぐいで縛った。風呂も入らないで、食事をしてすぐに寝るから、この挟み箱を預かって欲しいと言った。重いので聞くと50両が二つ入っているという。

飛脚は何でも食べるというので、物忘れがして100両忘れていったら良いとの思いで、屋号にちなんで茗荷をたらふく食べさせることにした。茗荷ならいくらでも生えているし、ダメで元々、食べてもらうことにした。

茗荷の漬け物から出して、美味と誉められた。味噌汁の具も茗荷、甘酒の中にも茗荷が刻んで入っている、飯の中に茗荷が入った茗荷ご飯、いくら茗荷が好きでもここまで来ると・・・。でも、たらふく食べて朝を迎えた。

 「おはようございます」、「おはよう。何だか朝からポ~っとしているんだ」、その言葉に喜ぶ親父。急いでいるから早く食事にしてくれと頼むと、茗荷の味噌汁から始まって全て茗荷料理。お客が出発だからと奥様をせき立てるとポ~っとしている、「だって、残り物の茗荷料理、勿体ないからみんな食べちゃったから」、「お前は食べなくても良いんだ」。

「新しいワラジも出しておきましたので、道中お気を付けて」、無事送り出した。案の定挟み箱を忘れていった。夫婦揃って喜んでいると、飛脚が戻ってきた。忘れ物の挟み箱を受け取ると一目散に走り去った。「何か忘れていった物は無いかね」、「あぁ、宿賃もらうのを忘れた」。



江戸時代、庶民にとって長期の旅に出ることは半ば命懸けだった。旅先で不慮の事故に遭遇すると実家のほうに情報が伝わらないことが普通だった。それゆえ、いろんな不都合が発生した。

寛政年間の見聞を記録した「梅翁随筆」に登場する出来事をたどってみよう。

歴史夜話57
1798年(寛政10年)のこと、深川の材木商が大和地方を旅することになり、奉公人ひとりを供に従え、午の年の春なかば過ぎ、江戸を出立した。金沢八景、鎌倉、江の島に立ち寄ったあと、箱根にさしかかると、山道のかたわらの大きな石に、真っ裸の男が放心状態で座っている。

材木商は不審に思い、「いったい、どうなさったのですか」と尋ねた。男は答えて言った。「芝あたりの者でございますが、刻限を取り違えて、うっかり夜がふけてからこのあたりにさしかかったところ、四、五人の男に取り囲まれて、荷物から衣装からすべて奪われてしまいました。湯治にまいるところだったのですが、思わぬ災難にあってしまい、どういたらよいものか途方に暮れております」

材木商はいたく同情して、「旅は相身互いでございます。あたくしは大和廻りを志す者ですが、それも来世を願わんがため。人の災難を救うのも善根を積むことになります。予定の通り、このまま湯治に行くがよろしいでしょう」と、自分の着替えの衣類一式と、かなりの金額を渡した。

男は感激して、ぜひ住所と名前を教えてくれと願う。材木商もはじめは明らかにしようとしなかったが、男があまりに懇願するため、金を包んだ紙に住所と名前を書いてやった。
「後日、江戸に戻ってから、必ずお礼にうかがいます」何度も頭をさげたあと、男は材木商と別れて、温泉場に向かった。

ところが、宿に着いたその日の晩、男は頓死してしまった。 宿の者が遺体をあらためると、深川の住所と屋号を書いた紙が出てきた。そこで、宿では使いの者を江戸に派遣し、深川の材木商を訪ねさせた。主人が旅先で急死したという思いがけぬ知らせに、みな驚愕した。誰もが半信半疑だったが、ともかく、手代のひとりを箱根の温泉場に向かわせた。

手代が遺体をあらためたが、すでに仮埋葬されていたため顔などは腐敗が進んでいて見分けられない。ただ、身につけていた着物は主人の物に間違いなかった。「供の者がいたはずですが」「いえ、おひとりでしたよ」、手代は、その宿の者の答えに納得がいかなかったが、供の奉公人は逃げたのであろうと判断した。そこで、「あたくしどもの主人に間違いございません」と、身元を確認した。その地に遺体をあらためて本葬したあと、手代は形見の衣類などを持って、深川に戻った。

手代からいきさつを聞き、誰もが嘆き悲しんだが、とくに女房の悲しみはひとかたならず、出家して尼になると言い出した。そこで、親類縁者が集まって相談し、「子供は七歳の娘を頭に、男子はまだ幼い。このままでは、店の存続はおぼつかない。さいわい、筆頭の手代は実直者だ。手代を婿に迎え、子供の後見人とするのが家内繁盛のもといである」と、女房を説得した。ついに女房も、筆頭の手代を婿に迎えることを承知した。この婚姻は町内にも披露目がなされた。

いっぽう、大和を旅していた材木商はついでに四国、中国地方にも足をのばし、およそ百日を経て江戸に戻ってきた。すると、女房は自分が死んだものと思って、手代のひとりと再婚しているではないか。材木商は愕然とした。だが、いきさつを知るや、「これも前世の因縁であろうよ」と、いさぎよく隠居して身を引き、別宅で余生を送った。



  関ヶ原から100年、元禄時代の武士たちはその時代の文化人となっていた。萱野三平重実は俳号を涓泉(けんせい)と言った。播州赤穂藩の武士で浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こしたとき江戸から赤穂へ第一報を伝えた人物だったが、討ち入りに加わることなく若くしてこの世を去った。

歴史夜話56
浅野長矩が事件を起こした日、菅野三平は、早水藤左衛門と共に主君の刃傷事件を赤穂に知らせる第一の使者となって、早駕籠に乗った。この早駕籠の使者というのは命懸けのものだった。乗り心地の良さなどはぜんぜん皆無であり、乗り手は振り落とされないように必死につかまっていなければならなかった。

実際、三平と早水は途中で数回、駕籠から振り落とされてしまったという。それでも、この報はすぐに赤穂に知らせなければならなかった。刃傷事件となれば、お家取り潰しという処分も可能性がある。主家がお家取り潰しなるということは、赤穂藩士全員が所領を召し上げられ、浪人に身を落とすことを意味していた。彼らは不眠不休で155里(約600km)の道のりを突っ走り、驚異的な早さで3月19日未明に赤穂に到着した。疲労困憊、息も絶え絶えの状態であったが、すぐに国家老(筆頭家老)・大石内蔵助良雄にこの凶報を伝えた。

早駕籠で赤穂へ急ぐ途中、西国街道沿いの三平の実家の前を通ると、そこで母の葬儀が行われているのを目にした。なんという不幸な偶然だった。三平は重大な任務の途中であった。主家を失う悲しみの報告の途上に、今度は母を失った悲しみを背負ってしまった。三平は「母をひと目遭ってから」という友の言葉に耳を貸さず、一路赤穂に向かった。母の死に際して心に悲しさを感じない、という者は一部の例外を除けばまずありえない。

旧西国街道は今はR171となっている。箕面市萱野3丁目のR171沿いに「萱野三平記念館・涓泉亭」という旧家を利用した記念館がある。萱野三平の父は江戸幕府旗本大島氏に仕えていたが、三平は12歳のとき父のすすめと大島氏の紹介で赤穂藩へ出仕した。

江戸も元禄期になると松尾芭蕉や井原西鶴に代表される著名な俳人が活躍した。東の芭蕉に対して、西の鬼貫と称される伊丹の上嶋鬼貫を始め、水田西吟、厚東休計、萱野一族でも三平の叔父の藤井家房、従兄弟の水仙堂蘭風(藤井光貞)、兄の萱野紅山(重通)、義兄の北河原好昌等が活躍した。

幼い頃から俳人に囲まれた育った三平は、12歳の時に父のすすめで赤穂藩へ仕官した。そして主君浅野内匠頭の参勤交代に同行し、江戸では、松尾芭蕉と親交が深かった水間沾徳の指導を受けていた。後年、討ち入りという勇ましい武士の姿の影に隠れているとはいえ、赤穂藩士の多くは俳人としても活躍していた。中でも子葉(大高源五)、竹平(神崎輿五郎)、涓泉の技倆(ぎりょう)は特に優れ、当時の俳諧人の間で広く認められていた。

1701年(元禄14年)3月14日の「江戸城松の廊下」での刃傷事件が、俳人「涓泉」として大成するはずであった三平の運命を変えてしまう。内匠頭の切腹、お家断絶、赤穂城明け渡しなど、厳しい幕府の処分を受けた後、三平は仇討ちの時を待つため、萱野の実家へ帰っていた。このとき三平の父は、赤穂浪人の立場をすてて旗本大島氏に仕えるように希望した。

元禄14年秋、三平のところへ大高源五が訪ねてきた。今は浪人の身となった三平と源五でしたが、一緒に、勝尾寺や箕面大滝で遊んだ後、桜塚(現、豊中市)に住む西吟や伊丹の鬼貫のもとを訪れるなど、俳人仲間を訪れました。もちろん源五が三平に会いに来た最大の理由は、仇討ちの急進派であった三平をなだめることでした。仲間と共に殿の無念を晴らすことが三平の生きがいでした。

ところが、源五と会ってわずか2~3か月後の元禄15年1月14日、三平は自宅長屋門の一室で27年の人生に自ら終止符を打ちました。仇討ちに反対し、武士として新たな出仕を願ごうた父重利に対する親孝行の思いと、主君浅野内匠頭への忠義や同志との絆の板挟みになったことが、その理由であったと伝えられている。

歴史に 「もしも」は禁物ですが、浪人となった27年の短い一生の間の、俳人として活躍した期間はさらに短いものでしたが、多くの優れた俳句を残した「涓泉」でした。元からの赤穂藩士の家柄でなかったことから父は他家への仕官を望んだのでしょう。しかし12歳で初めて藩士として仕えた初心は、藩主への忠誠であったことは事実でした。

後の人々は萱野三平のことを48番目の義士と呼びました。

萱野三平辞世の句 「晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り」 涓泉 享年28歳


 討ち入り当夜、浪士たちは「鎖帷子(くさりかたびら)」を着込んでいた。鎖帷子は小さな鎖が服に縫い付けてあるだけの薄い防具で、物理的に刃との接地面を増やすことで刀の衝撃を上手く吸収する構造になっていた。また、槍や刀などの武器も室内での立ち回りを考慮して短くこしらえていた。

そして、討ち入った47人中10人が50歳以上と年配者の多い浪士が、剣客が揃う吉良家の警備隊に太刀打ちするために、浪士達は「一向二裏(いっこうにうら)」という戦法で戦いました。一向二裏とは、三人一組で、一人が正面から戦っている隙に、残りの二人が背後に回り込んで攻撃するという戦法です。

歴史夜話55
赤穂浪士の討ち入りは1702年(元禄15年)12月14日だったが、これは陰暦で現在の太陽暦では1月30日に当たる。まさに厳冬期だった。

松の廊下の変事の江戸からの第一報は、元禄14年3月19日の早朝、大石内蔵助の屋敷に早駕籠が江戸から到着した。乗っていたのは早水藤左衛門と萱野三平。彼らが持ってきたのは江戸城中で殿様が傷害事件を起こしてしまったというニュースだった。その後続報を原惣右衛門と大石瀬左衛門が持ってきて、とにかくだしぬけに殿様切腹、家は断絶、城地没収、殿様の喧嘩相手はおとがめナシと聞いて、城内は悲憤慷慨となった。

とにかく赤穂の国元では最初状況がわからず、その後取り潰しの報が伝わると藩内は騒然となった。やがて続々と様子が伝わってくるに従って抗戦派と開城派に分かれた。広島の浅野宗家からは使者が来て穏便に城を開け渡すように言ってきたし、親戚筋の三次藩浅野家や大垣藩戸田家からも同様の使者が来た。

内蔵助はまず藩の資産を藩士達に分配するが、ここで不忠者はカネを持って城下を去る。そして300人以上いた家臣たちも最後の評定の時100人以下になっていた。ここで内蔵助は初めて自ら復讐のことを申し出たと言われている。

そして最後は筆頭家老大石内蔵助良雄の決断により開城となる。大石はこの時、お家再興を目指し、仇吉良上野介を討つとの方向で抗戦強硬派を説得し、起請文をしたため、一同これに血判の上赤穂城を明け渡しに同意した。やっとのことで無血開城にこぎつけた。

5月22日残務が終わった内蔵助はその後京都山科村に引っ越しした。 山科での内蔵助は高利貸しをしたり、伏見、墨染、撞木町で太夫、幇間に取り巻かれ遊興三昧をした。周囲は彼のそんな姿を見て「犬侍ちくしょう武士」とあだ名し、侮蔑した。しまいに内蔵助は「遊女を身請けするから」と言って妻のりくを離別し実家に返した。

石内蔵助の妻りくは但馬の生まれで、豊岡藩主京極家の筆頭家老石束家の娘ということで浅野家 取り潰し後、夫妻の長男 大石主税良金は内蔵助と共に吉良邸に討ち入りますが、幼い弟妹たちは りく に連れられて豊岡に戻ります。しかしこれは敵を欺く計略でした。


その後、内蔵助は二条寺町のほとり、二文字屋のお軽という娘を妾にする。千坂兵部が放った吉良上杉の間者も「妾まで置くようではもう大丈夫」と油断させました。しかし、敵の目をあざむくと同時に江戸にいる仲間達、特に急進派の堀部安兵衛たちをもいきりたたせることになりました。

このころ内蔵助のあだ名は「昼行灯(ひるあんどん)」だったらしい。現役のときは「ご城代」そして「ご家老」、浅野本家筋からは「くら殿」 と呼ばれていた。開城のころからは「太夫(たゆう)」「大府(たいふ)」「ご頭領」と呼ばれた。

城明け渡しがあんまり無抵抗ですんなりだったことや山科での廓通いが過ぎた頃になると事情を知る民衆も大石をもじって「かるいし」「はりぬきいし」そして「内蔵助ではのうて放蕩(どら)の助じゃ」とあだ名して、「赤穂じゃのうてあほう浪人、大石軽くハリヌキ石」だと揶揄された。

しかし、これまで殿様の後釜に引っ張り出そうとしていた弟君の大学が7月になって「広島の本家にお預け」と決定され、お家再興の望みが絶たれると内蔵助は、京都の円山に上京中の安兵衛たちも呼び、あらためて討ち入り決行をメンバーに告げる。(円山会議)

内蔵助は妓楼では「うきさま」「うきだいじんさま」、そして 絵を描いたりするときの雅号は「可笑」「眠牛」とか、とにかく池田久衛門を名乗って京都山科で隠れ住んでいた。11月に一度江戸下向して安兵衛たちと会い、暫定的に「殿の命日3月に決行」と取り決めたものの、翌・元禄15年、約束の期日が過ぎても内蔵助は動きません。

いよいよ10月7日、内蔵助は京都を出立、垣見五郎兵衛と名を変えて江戸に向け下向した。途中、川崎・平間村に到着し、同志が代わる代わる内蔵助を訪ねては密議を重ねた。この時は瀬尾孫左衛門の名を語っていた。とにかく大石内蔵助を名乗ることはなかった。

そして浅野長矩が切腹して1年半後、1702年(元禄15年)12月14日大石内蔵助と赤穂浪士の一行は江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、見事吉良上野介の首級を挙げて仇をとった。この仇討ちは義挙とされ、幕府も赤穂浪士の助命に動く。将軍綱吉ですら助命に傾いたという。しかし助命すれば先の切腹が間違いであるということになって、綱吉に傷がつくことや赤穂浪士の今後のことを考えて切腹の沙汰となった。

一方、刃傷のときは場所柄をわきまえて手向かいせずお咎めなしであった吉良側は改易となり、当主吉良義周は諏訪に流された。

なお、討ち入り参加した47名以外にも赤穂藩士は大勢いた。取り潰される前の赤穂藩には約3百名の家臣がいたとされるから、大半は討ち入りに参加しなかった。この不参加組はかなり悲惨であったという。武士の風上にも置けぬものとして幕末までその子孫は批判にさらされ、ほとんどのものが変名で暮らしたという。

また、広島の浅野宗家は当初係わり合いを恐れて赤穂の無血開城を進めたりしたが、討ち入り後は掌を返したように宣伝に努め、内蔵助の遺児大三郎良武を1千5百石で召抱えている。

また、この事件で浅野長矩の弟大学長広は閉門処分となったし、長矩の正室阿久里の実家三次藩浅野家も蟄居となった。それから吉良上野介の子綱憲が養子に行った米沢藩上杉家であるが、綱憲は吉良邸討ち入りの報に接すると直ちに助太刀を考えたらしい。大石内蔵助も上杉の助太刀を相当警戒していた。しかし実際には上杉の親戚筋の高家畠山義寧がこれを止めに入り、上杉の助太刀はかなわなかった。

映画やドラマでは内蔵助と家来達は威風堂々と派手な火事場装束を纏って吉良邸に討ち入ったことになっているが、本当は百全員がめだたないツギのあたった着物の大工・町人姿であり、討ち入りの後、泉岳寺へ向かう途中に住民が歓声を上げたなどというのも、当日は大名の登城日であり、それを避けて裏道を通って泉岳寺へ向かっている。江戸の町民は誰も見ていないのだ。

大石内蔵助の辞世
「あら楽し(楽や) 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」 享年45歳 。


最後に、浅野内匠頭の家臣は、主君が吉良を斬った理由について心当たりがあったのだろうか? 吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の手になる文書が今に残されている。

大石内蔵助たちが書いた口上書には、
「去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀につき、意趣を含み罷りあり、殿中に於いて、忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候・・・・」とあり、主君が吉良を斬りつけた理由については「何か我慢できないところがあったのか」と、やはり家臣ですら肝心なことがよくわかっていなかったようだ。

次回歴史夜話56は、萱野重実(かやのしげざね)を取り上げて忠臣蔵を卒業することにしよう。彼は、江戸で起こった返事を国元に最初に伝えた人物であったが、同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになり、1702年(元禄15年)1月14日、主君の月命日を自分の最期の日と決め、京都の山科の大石内蔵助に遺書を書き、その中で同志と共に約束をはたせぬ罪を詫び、かつ同志の奮起を祈る心を述べ自刃した。享年28歳だった。



  昭和36年の古い歌で真山一郎の名曲「刃傷松の廊下」というのがある。この歌の歌詞のなかに「君君たらずとも臣は臣」というのがある。これは簡単に言えば「主君が愚かでも臣は忠義を尽くすべし」ということで江戸時代の儒教精神のなかの「士道」の教えを表している。

江戸時代の儒学者であり軍学者でもあった山鹿素行は朱子学を批判して赤穂藩に預けられた。そこことから赤穂藩では山鹿素行の思想が浸透するということになった。大石内蔵助が吉良邸へ討ち入ったときに合図したのも山鹿流の陣太鼓だった。

歴史夜話54
浅野内匠頭長矩が刃傷に至った原因についてはいろいろといわれている。ただ後世伝わっているものは、赤穂浪士を美化する観点に立っているので吉良上野介を悪者にする流れになっている。

まず浅野家が吉良家に対しての贈答をケチったことから、吉良が長矩に意地悪をして饗応のノウハウを教えずに辱めたという説だ。大方の忠臣蔵ドラマの筋書きだにみられる。しかし、田沼意次の登場する話題でも書いたとおり、贈答はこの時代の当然の風習であり、浅野家が格段に落ちる贈答しか行なわなかったというのも考えにくい。ただし、吉良は強欲であったのも事実であり、そういう意味では浅野家の心使いが少なかったといえるのかもしれない(笑)。

また、饗応のノウハウについては、長矩は天和3年に一度饗応役を無事に努めているので、中身を全く知らぬはずはなく、万一、覚えていないにしても屋敷にはそのときの記録なども残っているはずで、調べれば済むことも多くノウハウを教えなかったからというのもおかしい。

次に赤穂で行なわれている塩田による塩の製法を吉良が知りたがったのに教えなかったことから対立したという説がある。赤穂は上質の塩の産地であったが、吉良も自領の三河で塩田をもっており、赤穂の塩の質の良さに驚いた吉良が塩の製法を教えて欲しいと迫ったということになっている。たしかに赤穂の塩は老中柳沢吉保を介して将軍綱吉の歯磨用焼塩を一生涯献納して将軍家御用立になって、江戸での販売許可を獲得していた。しかし、三河で塩田が盛んになるのはもっとのちのことで、このころは塩田はまだ細々としたものだった。

次に吉良が長矩の正室阿久里に横恋慕したとか、さらには吉良が浅野家秘蔵の茶器を望んだとかいう説もあるが、いずれにしろ長矩の取調べは行なわれず真相はわからない。ただ、長矩は生来短気な性格で、感情が激すると胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という病気を持っていたとされる。おそらく精神的な病気であり、ストレスがたまりやすい人間であった可能性がある。長矩の母方の叔父・内藤忠勝は1680年の四代将軍家綱葬儀中に永井尚長に
対して刃傷に及んで切腹・改易となっていることから長矩の奇行は母方の遺伝子だという説もある

この悲劇ドラマの藩主とされる長矩だが実際は暴君でもあったらしく、領民には重税を掛け、年貢も厳しく取り立てたために、お家断絶、長矩切腹の報が伝わると領民は喜び赤飯を炊いて祝ったという記録もある。もっとも財政難の赤穂藩のこと、ある程度の苛政は致し方がなかったかもしれない。しかし、ここまで嫌われていたということだと忠臣蔵のイメージとはかなりかけ離れる。

さらに現場における刃傷の際の長矩の手際の悪さもひどいものだ。脇差とは本来突くためのもので、体ごとぶつかっていくべきが、それを刀のように振り回したのだから討てるはずがない。


実は、長矩が松の廊下で吉良に切り付けた時、後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)という人物いるが、この事件の一部始終を書き残したものが「梶川氏筆記」として残されている。

重要な部分を抜き書きすると・・・・・
内匠殿がこちらに参られたので、「私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます」と申しました。内匠殿は「心得ました」と言って本座(所定の場所)に帰られました。

その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし、吉良殿に「その件について申し伝えるように」と話すと、吉良さんは「承知した」とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が「今日、御使の時間が早くなりました」と一言二言言ったところ、誰かが、吉良殿の後ろより「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて切り付けました。その太刀音は、強く聞こえましたが、後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ。

私たちも驚き、見ると、それは御馳走人の内匠頭殿でした。上野介殿は、「これは」と言って後の方へ振り向かれました所を、また、内匠頭は切り付けたので、上野介は私たちの方へ前に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られました。

上野介殿はそのままうつ向きに倒れられました。
吉良殿が倒れたことほんとうにびっくりした状態で、私と内匠頭との間は、二~三足ほどだったので組み付いたように覚えています。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめました。

内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
その時、内匠殿が言われるのは、「上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり」ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされていました。
刃傷事件のあった後なので、咳き込んで言われるので、ことのほか大声でした。高家衆はじめとり囲んで連れて行く途中、「もはや、事は済んだ。お黙りなされよ。あまり高い声では、如何かと思う」と言われると、その後は言わなくなりました。

この時のことを後に思い出して考えると、内匠殿の心中を察し入る(同情する)。吉良殿を討ち留めされなかったことは、さぞさぞ無念であったろうと思います。誠に思いもかけない急変だったので、前後の深い考えも及ばず、上のような取り扱い(抱き止め)をしたことは是非も(仕方が)ありませんでした。
とは言っても、これらのことは、一己(じぶんだけ)のことで、朋友への義のみです。上へ対してはかのような議論には及ばないのは勿論ですが、老婆心ながらあれこれと思いめぐらすことも多くあります。」

ということで、現場においても明確な理由は言わなかったようです。


   播州赤穂の浅野家のご先祖は、豊臣政権を支えた重鎮の浅野長政にあたる。浅野長政は秀吉の奥方のねね(北政所)さんとは養父が同じという近しい間柄で、浅井長政攻めで頭角を表した。しかし、関ヶ原では徳川に付き大大名として取り扱われた。

浅野長矩と吉良義央の間柄は忠臣蔵として後世まで語り継がれることになったが、両家とも格式高い家柄であった。

歴史夜話53
播磨赤穂の浅野家は、広島藩浅野家の一族ではあるが、広島本藩から分知された家ではない。大名としての浅野家初代長政が隠居した際に、徳川家康は宗家とは別に長政に隠居領を与えた。これが播州浅野家へと発展した。

当時浅野宗家は紀伊和歌山37万石であり、のちに広島に移る。長政の隠居領はそれとはまったく関係なく常陸真壁に5万石が与えられた。この隠居領は長政の死後、その三男長重が継ぎ、常陸笠間、播磨赤穂と転封されて継がれた。その系統の四代目が内匠頭長矩(ながのり)である。

事件当時の赤穂藩は、この頃の小藩のほとんどがそうであったように財政が逼迫していて、その建て直しが急務であった。にもかかわらず、幕府は江戸市中の火消しや門番、各種普請の手伝い、朝鮮通信使や勅使の饗応役などの公役を各藩に課した。その内訳は 江戸城や将軍家関係の諸寺社、河川工事などの土木系の公役は比較的大きな藩に、火消しや門番、饗応役などは中小藩に課されることが多かった。

長矩が赤穂藩主になったのは1671年(寛文11年)であるが、1681年(天和元年)に神田橋御門の門番、16825年(天和2年)3月には朝鮮からの使節である朝鮮通信使饗応役を努めている。さらに1690年(元禄2年)には本所の火消し大名に任じられ、その後もしばしば火消し大名となり、1698年(元禄11年)に再び神田橋門番、1700年(元禄13年)には桜田門番となっている。

この間、注目すべきことには、浅野長矩は、1683年(天和3年)2月に勅使饗応役を努めていることである。勅使とは天皇のお使いで、この年3月に花山院定誠、千種有能が勅使として江戸に下向した際に、初めての勅使饗応役としてその接待にあたった。勅使の饗応はそれなりにノウハウがいるので指南役がつく。つまり先生である。指南役を務めるのは高家と呼ばれる家格のものから選ばれ、この時の指南役は後の事件のときと同じ吉良上野介義央であった。事件が二度目の饗応役のときに起こったのも謎といえば謎だろう。

高家は朝廷との連絡や儀典を担当することなどが主な役割であるために、教養がありかつ名門であることが条件であった。但し大名ではなく旗本であるので領地はせいぜい数千石止まり、吉良家も4千2百石であった。

吉良家は足利将軍家と極めて近い家柄だから、たいへんな名門であり、氏素性に関してだけいえば江戸期の大半の大名は言うに及ばず、将軍家ですら問題にならなかった。そのような家の当主である義央は、気位が高く悪役のイメージが強く、また浪費癖があったのも事実であったようだが、有能であり、吉良の領地三河幡豆郡では今も名君として評価が高い。天和3年の勅使饗応役が最初の二人の出会いであったが、この時長矩は何の問題もなく、無事に努めを果たしている。

1701年(元禄14年)2月、浅野長矩は二度目の勅使饗応役となる。3月に東山天皇の勅使柳原資廉と高野保春、霊元上皇の院使清閑寺煕定の江戸下向が決まり、勅使饗応役に長矩、院使饗応役には伊予吉田藩主伊達左京亮が任じられた。指南役は吉良上野介であった。このとき吉良は別の役目で上京中であり、2月末まで江戸にいなかった。そのために長矩は一人で勅使を迎える準備をするはめになった。この空白がのちの事件に影響したと見る説もある。

勅使、院使の一行は2月17日に京都を発ち、3月11日に江戸に到着し伝奏屋敷に入った。長矩も勅使、院使に紹介され饗応の任務が始まった。 翌12日勅使、院使は江戸城に入り将軍綱吉に勅宣、院宣を伝奏、さらに13日には将軍主催の猿楽が演じられて勅使、院使が鑑賞している。ここまでは何事もなく無事に進行した。 14日は、予定では勅使、院使が江戸城に入ると将軍綱吉が先に伝奏された勅宣、院宣に対しての奉答を行なうことになっていた。

その儀式の直前午前10時ごろというが、江戸城本丸松之大廊下で吉良上野介が旗本梶川与惣兵衛と立ったままで打ち合わせをしているところへ、突然長矩が「この間の遺恨覚えたるか」と叫び、吉良上野介に脇差で切りつけた。吉良は不意を討たれて額と背中を斬られるが梶川が長矩を押さえ、近くに居た高家の品川伊氏、畠山義寧らが吉良を運び去ったために刃傷は失敗に終わった。

長矩は身柄を拘束され目付多門伝八郎重共らの取調べを受けた。事件はすぐに綱吉にも報告された。綱吉は激怒したが、尊王心が厚い綱吉らしく儀式の場所を変更し、ほぼ予定通り式次第を進行させた。そして、午後1時ごろ長矩は奏者番田村右京大夫(陸奥一関藩主)邸へお預けとなった。

綱吉は大事な儀式を台無しにしたことで怒りが収まらなかった。じつは、綱吉は徳川十五代将軍の中で一、二を争うほどの秀才であり、尊王心も厚いが、癇癖症でもあった。綱吉は長矩の即日切腹、赤穂藩の取り潰しを即決した。これは異例のことである。殿中で刃傷に及んだとはいえ、仮にも5万石の大名である。目付多門伝八郎も取り調べの必要を訴えたが、綱吉は聞く耳を持たなかった。

長矩を預けられた田村右京大夫もまさか即日切腹になるとは思ってもいず、幽閉の準備をしている最中に上使が到着、長矩の切腹と改易を宣告する。午後5時ごろ田村邸において大目付庄田安利、目付多門伝八郎、同大久保権左衛門らの立会いで切腹して果てた。



  歴史夜話も50の大台を超えました。歴史的事実を明確に残すためには永遠の命を持った人間が時の流れを見続けて記録し教授すれば良いことになります。でもそんな不老長寿なことは「夢の物語」です。

ところで京大の山中先生が見つけたIPS細胞を利用すれば自分の体の一部が壊れかけたときにIPS細胞で再生させることが理論的に可能になります。異常を起こした体の部品を順次再生させてゆけば永遠の命が実現できるかも知れません。もしかしてこの技術は秦の始皇帝が追い求めた不老不死の媚薬なのかも知れませんね。

いま地球上で一番長生きしている生命は何歳なのでしょうか?

歴史夜話52
この世には、人間の理解を超えた生物が数多く存在します。たとえば竹です。竹は地下茎で代々の竹を生み出します。竹は、1本生えていると必ず周りに同じ遺伝子を持つ竹が複数本生えています。見た目上は別々の竹でも根が一つだからです。だから、1本の竹が風で折れてしまったとしても、根が死んだわけではないので、またニョキニョキ新しい竹が生えてきます。

この竹のような原理で生命を維持している場合、竹林の全体の寿命が生命の長さ、すなわち寿命ということになります。いわゆる「クローン生物」です。現在、知られている中で一番長寿だとされている植物は「アメリカヤマナラシ」です。この植物は、なんと8万年前から生き続けていると言われています。

竹やアメリカヤマナラシのようなクローン生物は、次々に新しい茎を伸ばすので、「老化」という概念は当てはまりません。ということで、この種の植物はとんでもなく長生きしていることになるのです。いまアメリカヤマナラシの最大のものは広さ約42万平方メートル(東京ドーム10個分)で、総数4万7000本。総重量推定6615トンというビッグスケールです。

これが「不老不死だ!」と聞かされても、どこか合ってない気がしますよね(笑)。枯れ葉剤のような除草剤を全体に散布されたら枯れてしまうでしょう。山火事で燃え尽きてしまうかもしれません。そうなんです、事故やアクシデントで不老不死の生命は絶たれるのです。

ところで、生物の中には、ひとつの個体が老化して死にそうになると、その個体が突然赤ちゃんに逆戻りするものがいます。こんなすんごい技の持ち主は海の「ベニクラゲ」です。
ベニクラゲには、「ポリプ」と言われる人間で言う所の「赤ちゃん」でいる時期があります。この、ポリプという期間を経て、だんだんと成熟し、立派なベニクラゲになるのですが、なんと、ベニクラゲは寿命が近づくと、自分の体をまたポリプにまで、退行させることが出来るんです。人間で言うと、老人になってもまた自分の体を赤ちゃんの時にまで、戻すことができるという事です。

この場合も「不老不死」なんでしょうか? 運悪く魚のエサになって食べられてしまえばこの世から消滅です。では、何かのアクシデントに遭った場合に、体の一部でも残っていれば、そこから自己再生するという場合はどうでしょう。たとえばプラナリアと言えば、何回切っても死なないで、切れた体が新たな個体として生まれ変わる、不思議な生き物です。プラナリアは、ある程度まで成長すると分裂して、クローンを増やします。

麦さん、地球上にはすでに「不老不死」を実現している生物がいるのです! でも、ここで疑問です。寿命が無いのに何故、増えないのでしょう?

その答えは簡単です、アメリカヤマナラシもベニクラゲもプラナリアも、いまは子供たちも知っている「食物連鎖」という大きなサイクルに組み込まれているからです。つまり、いくら寿命が無いと言っても、捕食されてしまえば死んでしまいますし、汚染された環境にさらされれば、やっぱり死んでしまいます。

結論は、不老不死とは、あくまで「寿命が無い」という意味であり、死なないということでは無いということですね。たしかにアメリカヤマナラシを眺めると「クローン生物は優秀」と思われますが、同じDNA情報を持っているからこそ、たった一つの弱点で絶滅してしまう危険もあるのです。

例えば、現在あるバナナは種がありません。なので株分けによるクロ-ン栽培です。過去においてクローン栽培されていたグロスミッシェル品種のバナナは、たった一つのパナマ病という病気で、絶滅してしまいました。クローンであるからこそ、同じ伝染病や寄生虫の影響をモロに受け、種全体が危機に陥るのです。有性生殖の特徴はこうしたことから脱出できるということでしょうね。

さて、もし、完全なクローン人間が作れたとしても、後天的な物まではコピーできないので、全く同じ人間は作れないです。性格や見た目もそうですけど、血管の配置や指紋も後天的な物だと言われているので、いかに同じDNAを持ったクローン人間でも、指紋認証や静脈認証は破れないことになります。


 人間に大事にされた動物が恩返しをする物語は各地に伝わっている。浦島さんや鶴さんやワン公の恩返しは全国的に広まっている。でも、実際にそういう事象を目の前にすることは有り得ないと思うのが普通だろう。

江戸時代はまだ人々のなかに死の怖れと生命への畏敬の念があった。それは科学的でない分だけ純粋だったように思う。

歴史夜話51
1816年( 文化10年)の晩春のことである。神田川のほとりに、福島屋清右衛門という魚屋が住んでいた。女房は、おいくといった。商売は繁盛していたが、商売道具や家財道具を鼠にかじられる被害に悩んでいた。そこで、猫を飼うことにした。

猫は「きじ」と名づけられ、夫婦ともどもわが子のように可愛がり、毎日、ウナギやカツオブシを食べさせるほどだった。女房のおいくは猫の背中をなでさすり、「これ、きじや、おまえは畜類といえども、人のことばはわかるであろう。あたしらは鼠に困っている。一匹残らず、鼠を退治しておくれよ」と、言い聞かせた。

きじは夫婦の願いがわかったのか、一匹、二匹と鼠を捕らえるようになった。そうするうち、清右衛門は持病が急に悪化して、寝付いてしまった。魚屋商売もできない。おいくは、きじに言い聞かせた。
「亭主が病気で商いもできず、もう、おまえにウナギもカツオブシも食べさせてあげることはできないよ。不憫だけど、どこへでも行くがいい」きじは意味がわかったのか、小さくニャアと鳴いた。まるで、名残を惜しむかのようだった。その晩から、きじの姿が消えた。

おいくは、病床の亭主にいきさつを述べ、「きじの行方が知れません」と、告げた。
清右衛門もしみじみと言った。「猫もちゃんとわかるものだな」。夫婦は姿を隠したきじが無事に生きていくことを願った。

そのまま、数日が過ぎた。ひょっこり、きじが戻ってきた。よく見ると、口に小判を一枚くわえているではないか。きじは夫婦の前に小判を置くと、まるで挨拶をするかのようにニャアと鳴き、しきりに尻尾を振った。夫婦は驚いた。これは他人の金だとは思ったものの、貧窮していたことから、つい小判を両替して、そのうちの二朱を生活費に使ってしまった。

その夜、ふたたびきじの姿が消えた。翌日、隣町の伊勢屋という商家にきじがはいりこみ、帳場に置いてあった小判一枚をくわえて逃げようとした。それを見た奉公人が、「この畜生め。きのうの小判も、この猫が盗んだに違いない」と、叫んで追いかける。ほかの奉公人も集まってきじをつかまえ、よってたかって殴り殺してしまった。

やがて、福島屋の猫が伊勢屋でぶち殺されたという噂が清右衛門の耳に届いた。これを聞いて、きじが伊勢屋から小判を盗んできたことを知った清右衛門は、病を押して隣町を訪ねた。

清右衛門は伊勢屋の番頭に面会するや、「小判を盗もうとしたのは、あたくしどもの猫に違いございません。じつは、さきに猫が持ち出した小判のうち、二朱は使ってしまいました。病気が治って働けるようになりましたら、必ず二朱はお返しします」と、使い残しの三分二朱を返却した。

あとで、番頭からいきさつを聞いた伊勢屋の主人は驚き、また感銘を受けた。「さてさて、そのきじという猫は畜生といえども、可愛がってくれた夫婦の恩を感じ、夫婦が困っているのを見て恩返しをしたのであろう。非業の死を遂げたのは不憫である」。そして、あらためて番頭に命じて、きじが盗もうとした小判と、清右衛門が返却してきた三分二朱を持って福島屋に行き、伝えさせた。

「知らなかったとはいえ、そこもとの猫を殺してしまいました。なにぶんご了見ください。きょうはお詫びにまいりました。この一両はそこもとの見舞いでございます。ご持参いただいた三分二朱もお返ししますので、これで猫を弔ってやってください」
その後、両国の回向院に猫の墓が建立された。



 1575年(天正3年)本多作左衛門重次が、長篠の合戦の陣中から妻あてに書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は簡潔明瞭な手紙として有名になった。

歴史夜話50
本多作左衛門重次は1530年(亨禄3年)三河の国、上和田城の近くの宮地(現在岡崎市宮地町)に生まれた。幼名を八蔵、のち作十郎、作左衛門と称し、7歳の時から松平清康に仕え、以降広忠・家康と三代にわたって歴仕した。

1558年(永禄元年)家康17歳の寺部城攻めの時に、弟重玄とともに先鋒をつとめ重玄は戦死した。その後は家康とともに行動を共にし、家康を守り育てた人物だ。とくに戦場におけるずば抜けた戦いぶりから、人々は「鬼作左」、「鬼殿」と呼ぶようになった。

1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦いで、徳川軍は3万の武田軍によって左翼を破られ中央を崩され総崩れとなった。このとき作左衛門は身に数ヶ所の傷を受け身動きできないほどであったが、主君家康が死にもの狂いで退却するのを見ると、最後の力を振り絞って敵を倒し、騎馬一頭を奪い家康の後を追い、家康にふりかかる敵を倒しながら城に着き、家康の命を救ったことがある。また、高天神の戦い、長篠の戦い、蟹江城攻略でもそれぞれ多くの首を挙げた。

1590年(天正18年)3月20日、小田原征伐のため東下した豊臣秀吉は、徳川家康の居城である駿府城へと入った。この時、家康は長久保の陣より戻って対面した。このとき秀吉の家来が数多並ぶ中、本多作左衛門が家康の後ろから現れ、立ちはだかって大声で怒鳴った・・・・・・「藩翰譜」の記述によると

「やあ殿よ殿、あっぱれ不思議をなされることよ! 国をも保とうとする人が、我が城を明け渡してしかも人に貸すことがあるか、そのような気では、人に貸せと言われれば、北の方をもお貸しなさることでしょう」そう罵って帰っていった。

家康は唖然とする人々のほうを向いて言い訳をした。
「今の老人の言うことをお聞きに成られたでしょうが、あの老人は本多作左衛門重次といって、この家康の累代の家人であり、私が幼い頃より仕えている者です。彼は若い頃から弓矢打物を取っては人にも知られた者ですが、今では、ご覧になったように歳もいたく寄りまして、私も不憫に思っているのですが、天性わがままな根性の持ち主にて、他人を虫けらとも思わず、多くの人々が聞く所でも、あのように私を、事がましく言い立てるのです。ましてや私が彼とただ二人でうち向かった時、どんなことを言われているか!どうか想像して下さい。普段ならそれでも構わないのですが、どうしたわけか今日もあのような奇怪な振る舞いをしてしまうとは。これを人々がどのように思われるか、大変恥ずかしい事です。」

これに、その場の人々は・・・・・
「本多作左衛門の事、久しく聞き及んではいたが、実際に見たのは今が初めてだ。誠に聞きしに勝るものかな。あのような家臣がいるというのは、実に奥ゆかしいことだ。」そのように感じ入ったという。


1586年(天正14年)家康が秀吉の要請に応じて上洛の際、秀吉の母大政所が人質として岡崎に下向のとき、作左衛門は井伊直政と共に守護するが、居館の側に薪を積み、京都に変事が起れば、ただちに火をつける態勢をととのえ、大政所を虐待した。

1590年(天正18年)8月19日、秀吉が小田原へ向けて出陣ということで、駿府城で今宵一夜宿陣のため加藤遠江守を通じて三度呼んでも応じなかった。更に岡崎城でも秀吉への見参御免の事件などのため秀吉の激怒をかったと言われている。

秀吉から家康に作左衛門殺害の命があったが、家康は作左衛門を隠して病死したと報告し、上総国古井戸に閑居とした。家康は秀吉に遠慮して作左衛門に与えた知行は僅か三千石だったが、作左衛門は家康には一言も不平を言わなかった。自分のことを捨て、ひたすら君主家康のために尽くした作左衛門を当時の人々は三河武士の手本としてほめたたえた。

また家康も作左衛門の功を忘れはせず、1600年、関ヶ原の戦(に勝ち、自分が天下人となった時、作左衛門の子本多成重を越前丸岡城主として4万石を与え大名とした。


 子供の頃、大映の座頭市の大ファンだった。勝新太郎演じる座頭が悪者たちをすんごい居合い切りの殺陣でやっつける。いまから思うと身体にまつわる差別的な言葉が多くてそのままでは放映できない気がする。

歴史夜話49
座頭は、江戸期における盲人の階級の一つだった。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼称としても用いられた。そして、当時の盲人の最高位の官名は検校(けんぎょう)と呼ばれていた。

江戸時代、盲人の官位をつかさどり、その職業を保護する組合を「当道座」と呼んでいた。しかし、元々は平家琵琶を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来している。

古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、「平家物語」を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても、互助組織としても、彼らの座(組合)として機能していた。彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。

これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできたらしい。

そして、江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家として、また、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言われている。当道に対する保護は、明治元年(1868年)まで続いた。

盲人のなかには、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。勝海舟、男谷信友の曽祖父は米山検校と呼ばれて有名であったし、塙検校(保己一、はなわほきいち)は学者として活躍し『和学講談所』を設立。「群書類従」「続群書類従」の編者となった。

検校の権限は大きく、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。視覚障害は世襲とはほとんど関係なく、江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。1692年(元禄5年)関八州とその周辺の座頭を支配した機関として惣録役所が置かれ「惣録屋敷(そうろくやしき)」と呼ばれていた。



1543年(天文12年)8月25日、種子島の西ノ村小浦(現、鹿児島県熊毛郡南種子町)前の浜海岸に1隻のジャンク(戎克船)が漂着しました。この日は、鉄砲が初めて日本に伝わった日とされています。鉄砲の伝来は単に「新しい武器が伝わった」と言うだけでは済まされないほどの大事件でした。

戦国時代だった当時、戦における主な武器は刀と弓だったため、戦の勝敗の行方は個々人の武力と兵の動員数によってほぼ決定していました。その常識をうち破り、戦の方法を大きく変えたのがこの鉄砲でした。この前代未聞の飛び道具、これをいち早く導入したのが尾張の織田信長で、1575年、天下最強とうたわれた武田の騎馬軍団を鉄砲隊で撃ち破った長篠の戦いはあまりにも有名です。

歴史夜話48
八板金兵衛(やいたきんべえ)は、戦国時代の刀工でした。1502年(文亀2年) 美濃国(岐阜県の)関に生まれ、大隅国(鹿児島県)種子島に来住していました。1543年(天文12年)鉄砲がポルトガル人によってもたらされると、島主の種子島時尭(たねがしまときたか)にその模造を命じられ、見事に成功しました。

種子島に漂着したポルトガル船については、当時の記録が海外と日本の両方に残されています。

ディオゴ・デ・コートは当時、インドのゴアで公式記録官として働いていましたが、鉄砲伝来の経緯について記録しています。
・・・・・・彼らは1542年、利益の高い商売のためにシャムから中国に向かったが、台風に遭って操船不能になったため、風の吹くままに流れ、やっと島(種子島)に錨をおろした。 そしてそこに、陸地から小さな舟
で集まってきた人々は、中国人より色白で目が小さく、ひげが短かった。それらの島々はNipongiと呼ばれ、私たちがジャパンといっている国の島であった。 島の人々は親切で、彼らは歓迎され、ジャンクを
修理し、積んでいた商品を銀と交換し、その後、季節風に乗ってマラッカへ帰った。

日本側の記録として江戸初期の禅僧で島津氏に仕えた南浦文之(なんぽぶんし)が書き残した「鉄炮記」では次のように述べられている 。
・・・・・・「わが西ノ村の小浦に一大船あり、何(いず)れの国より来れるかを知らず 。船客百余人、その形(かたち)類(るい)せず、その語通ぜず、見る者もって
奇怪となす。その中に大明の儒生一人、五峯と名づく者あり、今その姓字を詳(つまびらか)にせず。時に西ノ村の主宰(村長)に織部丞(おりべのじょう)という者あり、すこぶる文字を解す。たまたま五峯に遇(あ)い、杖をもって沙上に書して曰(いわ)く「船中の客、いずれの国の人なるやを知らず、何ぞその形の異なるや」と。五峯すなわち書して曰く「此れはこれ西南蛮種の賈胡(ここ/商人)なり」と。

 ここに「奇怪」とあるように、僻地であった種子島の人々の目に映じた彼らの高い鼻や色の違う瞳や白い肌や黒くない髪、理解できない言葉や服装は、腰を抜かすほどの驚きであったろうとは十分理解できます。20世紀に生を受けたわたしでさえ、初めて白人の高い鼻をみたときは驚いたのですから・・・。

後の世に南蛮屏風に描かれた風俗から想像すれば、ボンバーチャ(bombacha)とよばれる奇妙なふくらんだ長い袋のようなズボン、鍔(つば)の大きな帽子をかぶり、襞襟のついたジバン(gibao)を着てカッパ(capa=合羽)をまとい、先が尖っているおかしな履き物を履いて、変な顔をした犬まで連れていたにちがいない(笑)。

そして、彼らは奇妙なものを持ってきていた!
「鉄炮記」によると、「手に一物を携(たずさ)ふ。長さ二三尺、其の体(てい)為(た)るや中通外直、重きを以て質と為す。其の中は常に通ずと雖(いえど)も、其の底は密しく塞がんことを要す。其の傍に一穴あり。火を通ずの道なり。形象物の比倫すべきなし。其の用為(た)るや妙薬を其の中に入れ添ふるに小団鉛を以てす」と。

 いうまでもなく、これこそ鉄砲(火縄銃)でした。銀と真鍮(しんちゅう)の象眼がほどこされ、銃身の長さ692mm、口径17mm、肉厚3mmで火門も鉄製でした。 このような経緯から持ち込まれた鉄砲は、一般
的にポルトガル製と思われがちですが、当時のポルトガルには鉄砲の製造工場は存在していない。したがって、ポルトガルではもっぱらドイツのズール地方で製造されていた鉄砲を1000挺単位で購入していました。つまり、種子島に伝来した鉄砲はポルトガル製ではなくドイツ製であったという可能性が高いのです。さもなければ当時、東南アジア一帯に普及していたマラッカ銃だったのかもしれません。

 鉄砲がどこの国製であったかということも重要ですが、鉄砲伝来において最も注目すべき点は、西ノ村 からジャンクを赤尾木港(西之表市)に回航させた島主・種子島時尭
(たねがしま ときたか)が鉄砲を見て「希世の珍なり」(世にも珍しいものだ)と俊敏に反応したことです。種子島時堯はわずか16歳の少年領主でした。時堯は漂着したポルトガル商人が見慣れない鉄製の筒を持っていることを耳にすると、至急そのポルトガル商人を赤尾木城に呼び寄せて引見しました。

そして、おそらくは試射を見てその性能に驚愕したのでしょう、時尭はただちに銀2000枚(現在の価値で5000万円ほどか)で2挺の鉄砲を購入し、早速、そのコピーの製造を試みたことです。

そして、種子島時尭に火縄銃の製造研究を命じられたのが、42歳の刀鍛冶・八板金兵衛でした。そして火薬の調合法を命じられたのが家臣の篠川(ささがわ)小四郎でした。

簡単に複製と言っても、当時の技術では鉄砲一挺を作るのはとても困難な作業です。ところが、たまたま種子島という土地は砂鉄の島で、おかげで古くから製鉄・鉄製品業が発達していたため瞬く間に鉄砲は複製されていきます。そして種子島から程なく全国へと広まっていくことになります。

こうして当時の状況を振り返ってみると、漂着した種子島という土地がたまたま鉄砲を研究する最適の環境だったということがわかってきます。種子島は当時16歳という好奇心旺盛な若者が領主だったため、この大胆な決断をやってのけたと言えます。さらには、当時、時堯は鹿児島県大隅の禰寝(ねじめ)氏と戦いを重ねており、大金を投じても威力のある武器を調達する必要があったことも大きな要因の一つだったのかもしれません。

さて、領主から火縄銃の製造を命じられた矢板金兵衛には、若狭という娘がいました。金兵衛の鉄砲研究は、銃身内側の螺旋の技法が当時の日本になく、このねじの技術が国産化への最大の難関となりました。製作に苦悩する父のために、娘の若狭はその技術を得るためにポルトガル人に嫁ぎました。西洋人に嫁いだ最初の日本女性です。

「月も日も 日本の方ぞ なつかしや わが双親のあると思えば」・・・・父母を思う心が伝わる若狭の歌です。

種子島の住民たちは若狭姫を本当に大切にしています。八板金兵衛の偉業よりも、その偉業を影で支えた金兵衛の娘「若狭」を大事にしているからではないかと思います。西之表市には市街地を一望できるところに「わかさ公園」があり、種子島の住民は必ず若狭のことを「若狭姫」と呼び、鉄砲伝来を支えた悲劇のヒロインとして崇拝されています。


 縄文時代の前の時代に日本列島には人類が住んでいたのだろうか? 今月のこと、草を束ねた舟で沖縄県の与那国島から西表島へ渡る実験が行われた。十分な道具もなかったとされるおよそ数万年前に、人類はどのようにして今の台湾から 沖縄に渡ったのか検証しようと、ガマという名前の草を乾燥させ、植物の つるで束ねる方法で舟を作り、外海を渡ることが可能なことが実証されました。

日本列島では、旧石器時代は今から16000年くらい前に終了し、それから縄文時代が始まる、では、いつごろから日本列島に人が住み着いたのかなど思いを巡らせると、ここがわたしたちの歴史の原点ではないかという思いにロマンに満ちてきます。

戦前、日本には旧石器時代はないと言われていました。また当時は学閥があって民間学者が旧石器時代の発見など発表すると、権威のある学者たちが、こぞってバカにし無視していました。今回の歴史夜話は日本における旧石器に関する悲しいお話です。

歴史夜話47
1949年に納豆の行商をしながら独学で考古学を研究していた相沢忠洋という人物が、群馬県の関東ローム層から黒曜石の尖頭器を発掘します。そして、この発見を考古学者に報告するも、相手にされず、詐欺師扱いされました。そんな中、話を聞いてくれる学者を尋ね歩いた相沢は、明治大学大学院生の芹沢長介と出会います。芹沢はこの重大発見を、同大学の杉原壮介助教授に報告しました。こうして、日本の旧石器時代の存在を証明されるに至ったのです。

相沢が発見した遺跡は岩宿遺跡と呼ばれ、今から35000年位前の旧石器後期にあたります。そうなると、それよりさらに古い時代の発見をと言う事になるのですが、旧石器の存在を学術的に証明した杉原氏も、日本における前期中期の旧石器時代は否定していました。

しかしこの岩宿での旧石器の新しい発見は疑いと嘲笑の対象となりました。なんせ、まだ神武東征を唱える戦前の皇国史観から抜け出したばかりの時代のこと、考古学はまだまだ新しい学問でした。また、考古学の特徴は他の分野と違い、在野のアマチュア研究家が多い世界もあり、証明もかなりの苦労と証拠を必要としました。事実、前中期の旧石器といわれるものは形も微妙で、「これ石器なんですか、普通の自然石じゃないですか?」と言うことだったのです。

ちなみに旧石器時代の分類は、前期旧石器は260万年前から30万年前まで、中期が30万年前から5万年前まで、後期は5万年前から1万年6千年前までとされています。前期旧石器時代ともなると、製作者は知的レベルも原人クラスです。そんな人類に器用な石器など出来そうもないと思われていました。

在野の考古学者の相沢忠洋を発見した芹沢長介は、明治大学を飛び出し、東北大学に所属を移し、古巣の明治大学と激しい対立関係に陥ります。目指すは日本における前期中期の旧石器の発見でした。そして平成元年、日本の考古学界に新しいページを記した相沢は62歳で亡くなります。

その後も芹沢長介率いる東北大学は旧石器の発掘に邁進します。しかし、日本の考古学は科学的と言うより、文学的、哲学的な要素が強いと言われています。欧州ではかなり科学的な研究方法が確立されていますが、これはキリスト教との歴史観の戦いの末、発達したものでした。日本は、戦争の敗北により皇国史観からあっさりと考え方が覆ったので結果、科学的な手法の確立が遅れていました。

相沢忠洋亡き後、在野の研究家、藤村新一なる人物が次々と旧石器の奇跡的な発掘をしました。宮城県の座散乱木遺跡(ざざらぎいせき)、高森遺跡、馬場壇遺跡、北海道の総進不動坂遺跡、そして埼玉県の小鹿坂遺跡は50万年前の北京原人にも匹敵する時代で、しかも住居跡まで発見したと発表されました。

藤村新一は、七十数カ所の遺跡で石器を発見するという「離れ業」をみせました。そしてついに「ゴッドハンド」と呼ばれるようになりました。この考古学界の新しいスーパースターにかつて相沢忠洋を発見し、日本考古学界の神様にまで上り詰めた芹沢長介がお墨付きを与えます。自分の研究し続けた前期旧石器時代の証明をしてくれる藤村新一を猫かわいがりしました。

いくらなんでも、1人でこれほど発見が集中するなんておかしい、遺物も旧石器なのに、明らかに新しい時代の石器に見えるなどと、異を唱えた学者もいましたが、なんと学界から締め出されてしまいました。「考古学の神様」芹沢さんが本物だというんだから本物だということでした。そして、東北大学文学部助手で芹沢の愛弟子だった岡村道雄が日本の旧石器時代をリ-ドするようになりました。

1999年のある日、藤村新一の石器発見に異を唱え、学界から締め出された竹岡俊哉と言う学者が、藤村の発掘手法に疑念があると毎日新聞に訴えました。竹岡氏は先進的な考古学の研究を身に着け、高い見識と技術を持ちながらも考古学界では異端とされていました。

そして2000年、上高森遺跡にて、ついに毎日新聞北海道支社のクルーが、石器を埋めている藤村のスクープに成功し、世間にねつ造が露見します。

こうして、70年万年前まで遡ったとされる日本の前期旧石器の発見は、すべて取り消され4万年ぐらいまでの後期旧石器までしか証明されないという事態になりました。当然のこと、教科書も全部書き換えられました。

毎日新聞が内偵していた「上高森遺跡」は、「ゴッドハンド」による捏造が発覚した遺跡ですが、何よりすごいのは捏造が発覚してから行われた再調査で、「第1次調査から、ねつ造が発覚した第6次調査にいたるまで、一貫してねつ造行為が行われたと考えられる」ことが判明しました。つまりここは遺跡ですらない普通の場所だったのです。

藤村新一は、1975年から25年間、偽の発掘を続けていました。しかし藤村は在野人であり発掘現場の一作業員であり、論文も読めないし石器の図面も書けなかった。25年間ほんとうに藤村一人で捏造が続けられたのだろうか。不思議なことは 25年間に160以上の発掘現場で、専門家である現場監督の誰ひとり藤村の捏造を見抜けなかったことだ。

日本に旧石器時代は存在しないと言われた時代、貧しく、学問的な裏付けのない若者の持ってきた石器を偏見なく旧石器時代の物だと確信し、みずみずしい感性で旧態依然とした考古学者を打ち負かしてきた異端の人が、こんどは権力者となり自らの都合の良い証拠しか認めず、かつての自分のように新しい異端に否定され、自らを汚す事はドラマとしては、良くあるお話かもしれません。

ポケモンGOが大流行とのこと、現実と虚構が実在していることを思えば、本物と偽物の差など取るに足らないと言えるのかもしれませんね。


 
  1713年(正徳3年)春、越後新発田藩の大竹与茂七というひとりの名主(庄屋)が訴えられて獄門に処せられた。

大竹与茂七は新発田藩領の南蒲原郡中之島の名主(庄屋)を務めていたが農民に味方し、農民に代わって大勢の名主と一緒に役人と結託した横暴な大庄屋と交渉し、遂に裁判となり、歯を一本残らず抜くという残忍な拷問にも屈しなかった。しかし、大庄屋の指揮に従わず、百姓一揆を煽動したという濡れ衣を着せられて首を刎ねられました。後世になり、藩主はその行き過ぎを反省し、名誉回復をはかり、藩の功臣を祀る五十志霊神に合わせ祀りました。

農民たちの訴えをどこまで聞き入れるかということは、領地を治める藩主としては、最終的に幕府の意向に沿う形で収めることになってしまう。

歴史夜話46
1704年(宝永元年)6月、折からの大雨で信濃川、刈谷田川が氾濫し、新発田藩中之島地方では堤防決壊の危険が迫った。この状況に与茂七ら名主たちは大庄屋・儀兵衛と茂在衛門に出動を要請したが、儀兵衛は越後三条に出かけ留守、茂在衛門も病気で出動できなかった。

やむなく与茂七は現場の指図役となって緊急の処置として自分の山の木を切り出して堤防の補強を行った。そして、さらに足りない分を儀兵衛所有林、ついで藩有林の木を伐採して堤防を保護した。今で言うところの災害時の危機管理である。

大庄屋ら行政側の危機管理意識が欠如し、現場の判断で緊急対応したわけであった。現代なら行政の怠慢を責める大合唱となろうが、時は江戸時代である。そうはならなかった。無断で自分の山の木を切られた村の大庄屋・儀兵衛は与茂七を逆恨みし、村民から感謝される与茂七たちが面白くなく、役人に与茂七を藩林盗伐で、安左衛門を一揆徒党で訴えた。安左衛門は池之島村名主の息子で、儀兵衛の不在を怒って留守宅に押しかけて抗議したのである。この儀兵衛の訴えに藩では与茂七と安左衛門を取り調べたが、中之島地方の名主や組頭たちが連判してあの時、木を切って堤防の補強をしなければ、近隣の村は流されていたと釈明し、藩でもそれを入れて与茂七らの行動はやむを得ないものとして無罪放免となった。

これを契機にして、与茂七らと大庄屋・儀兵衛の間には大きな溝ができ、確執が続いて紛争が絶えなかった。どうも儀兵衛というのはあまり良い大庄屋ではなかったらしい。

1705年(宝永2年)から中之島村では連続の大凶作に襲われた。翌宝永3年、藩は幕府からの国役金を大庄屋・儀兵衛を通じて領内の村々に割り当てた。連年の水害で疲弊していた村々は、大庄屋に軽減を嘆願したが断られ、逆に年貢の取立ては厳重を極めた。与茂七は村人のために、大庄屋・儀兵衛から150両を借り受け、村人の救済に当てた。

1708年(宝永5年)、この年、豊作となったため、利息30両をつけて150両の借金は大庄屋・儀兵衛に返すことができた。ところが、その際に与茂七は証文を受け取っていなかった。翌年になって大庄屋・儀兵衛から借金を返せと迫られた与茂七は証文が手元にないことからどうすることもできず、新発田藩の奉行所に訴えられてしまった。

怒りに燃えた村人は大庄屋宅に押しかけ、最初は減免と猶予を申し出たが入れられず、ついに衝突して大立ち廻りとなった。当然大庄屋は徒党乱入として訴え、名主側も大庄屋の非違を訴えた。
1712年(正徳2年)11月の与茂七側の訴えは
(1)大庄屋が訳のわからない金を割りつけてきて百姓が困窮している
(2)百姓を動員して刈った萱を、一部は刈谷田川の堰に用いたが、残りはどうしたのかわからない
(3)大庄屋の生活が苦しいとして村から合力金百両を徴収したが大庄屋の生活は苦しくなく、合力金徴収はしないでほしい
(4)近年収納米を2、3千俵も売っている、江戸出入金差し引きのためと称しているが、大切な年貢米を売って何を企んでいるかわからないなど7項目の訴えをした。

この訴えに対して新発田藩では(1)大庄屋に落ち度はないが、(2)百姓の困窮については今後吟味し迷惑をかけないように命じる。(3)原告の徒党を組んでの騒動は法度に背くが慈悲をもって不問とする、という裁決をした。大庄屋にもまったくの落度がなかったのかといえば、それはあったのであろうし、与茂七側の言い分にも一理あったのであろう。まさしく白黒をつけずに双方の顔を立てた判決であった。

この判決の出たのは1713年(正徳3年)正月27日だったが、与茂七側は即座に第2回目の訴状を出した。今度の訴訟では・・・・・
(1)儀兵衛は刈谷田川大堰工事を粗雑に実施したのですぐに破損する、粗雑にしたのは儀兵衛の所有する田のある村に不都合であったからだ
(2)大庄屋は新発田への往来に陸路ではなく経費のかさむ舟を使い、その費用を村々に割り当てている、また城下での逗留費用の割り当ても多すぎるし、儀兵衛の妻のために長岡から医者を呼んだ送迎にも百姓を動員した
(3)大庄屋は百姓の願いに熱心に取り組まず、あまつさえ土木工事が多いために人足手伝いの赦免を願っても取り上げてくれない、また田畑の検分を行わず、普請の時も検分は役人まかせで自分で検分しない
(4)大庄屋は藩からの普請人足米の一部を渡さないほか、金銭関係に不埒な行為が多いなど7項目あった。

この内容は前回の訴えよりより感情的になり、エスカレートしている。藩側の穏便な判決に対して真っ向から挑戦した形になってしまったのだから、今度は藩もやさしくはなかった。訴状を受け入れたりしたらよりエスカレートするし、他の地域にも伝染する。さらに恐れたのは幕府への聞こえであろう。藩としても大庄屋側にたたざるをえなくなった。

 与茂七はことの成り行きについて説明したのだが、ことはもう大きくなり過ぎていた。大庄屋側についた奉行所の役人は、同年6月、与茂七ら5名は死罪、うち与茂七と脇川新田名主・善助は獄門となった。ことを急いだ藩は余り取り調べもせずに斬首の極刑を申し渡してしまった。

判決の日、白州に引き出された与茂七は、「梶弾右衛門、高田善兵衛、そんな役人ども、よく聞け。中之島組名主与茂七は、百姓衆の為生命を投げ打って正義を貫き通した。歯を抜こうが耳を切り落とそうがこの与茂七の魂を抜くことはできぬ。うぬらごとき、禄資人とは違うのだ。我、今ここに死すともこの恨み生き変わり死に変わって、七代七生まで祟るであろうぞ」と言い残し、新発田郊外の刑場で打ち首となった。このとき刑場に連れて行かれる与茂七を人々はなみだ橋で涙を流しながら見送ったという。

処刑の際に与茂七は「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負えど 清き心は 知る人ぞ知る」と辞世の句を詠んでいる。この一連の騒動の主人公であった与茂七は以後義民と讃えられたが、どこか現代にも通じるような騒動であった。

新発田藩では、与茂七が刑に処せられてまもなく、この件に関わった大庄屋や役人達が、次々と狂い死にし、続いて1719年(享保4年)には、新発田城下の町の大半が焼けるという大火事に見舞われた。与茂七の祟りではないかという噂が広がった。


 親の七光りという言葉があるが、ご先祖様の七光りという言葉は聞かない。けれども江戸幕府を開いた家康に仕えた徳川四天王は子孫に七光り以上の光を放ったようだ。徳川四天王とは、本多忠勝・井伊直政・酒井忠次・榊原康政の4名である。

1560年(永禄3年)榊原康政は13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。その後、三方原の戦い、長篠の戦い、高天神城攻撃、小牧・長久手の戦いなど数々の合戦に出陣して奮戦した。

歴史夜話45
榊原宗家8代目を継いだ榊原政岑(さかきばらまさみね)は榊原家の分家で千石の旗本の出身だった。

榊原康政は豊臣政権下の家康の関東移封のときに上野館林城主となり10万石を与えられて、事実上の大名となった。康政の後を康勝、忠次と継いで姫路15万石となる。さらに政房、政倫と継いだが政倫は襲封時わずか3歳であったために、枢要な姫路城主は無理ということで越後村上に移った。

そして次の政邦の時に村上からもとの姫路に復帰した。政邦は性格も温厚で、また誠忠の意欲が高く村上では領民に慕われ、姫路移封後も藩政の改革や民政の向上に励み、新田開発や寺社への寄進も積極的に行った。そのため領内はよく治まり、領民は善政を喜んだという。また、学問を好み文教の振興にも意を用いた。将軍吉宗も政邦の治世を多としたという。

1726年(享保11年)政邦は52歳で死去し、その跡を長子の政祐が継いだ。政祐も学問が好きで道徳を重んじ、謹厳実直であり、また孝心が厚かったという。しかし、政祐は病弱で、在封わずか6年、28歳で死去する。政祐には正室はおらず、子もなかった為に亡くなる前に、一族の旗本榊原勝治の二男政岑を養子にしていた。政岑は政祐の死により18歳で榊原家の8代目の当主となった。

榊原家はここまで比較的名君が多く、領内にも善政を布いてきたが、8代目の政岑は吉原で放蕩し、果ては高尾太夫を身請けして参勤交代にも同伴するなどの不行跡を咎められて隠居謹慎となり、本来なら改易となるところを先祖康政の功を持って特に許されて、越後高田への転封処分で家は存続した。まさにご先祖様の七光りだった。

1735年(享保20年)春、政岑は、陸奥白河藩主松平基知の養女久姫を正室に迎える。この年の秋には側室坂田氏が男子を生む、幼名を熊千代といい、これが後の九代目政永である。その2年後の1737年(元文2年)3月、正室久姫が女子を生んだが、産後に久姫は死去した。政岑はこの頃から吉原放蕩を始める。

政岑は将棋・三味線・浄瑠璃など芸事に通じており、能も好きでお抱えの能役者を置いていた。政岑が初めて吉原に連れ出したのは、この能役者だといわれている。おそらく池之端の中屋敷で養育されていた頃のことであろう。なにせ15万石の宗家を継いだのは政祐急逝と急養子によるものであったことで、政岑には帝王学の基礎ができていなかったのかもしれない。

政岑はもともと遊び好きであったようで、吉原に入り浸るようになる。このころ尾張藩主徳川宗春も吉原に繁く通っており、すぐに宗春と政岑は意気投合して二人で遊んだというのが通説になっている。政岑はどんどん派手になり、贅沢になっていく。将軍吉宗が木綿を着用しているのに絹を着て吉宗の前に出る。門番の当番の時に派手な衣服で出て、鷹狩りにいく吉宗を見送る。吉原では毎夜のように放蕩し散財する。 一方榊原家の財政は、凶作のうえに政岑の浪費もあって急速に悪化していく。それでも政岑は放蕩をやめない。

1741年(寛保元年)6月4日、政岑は吉原三浦屋の高尾太夫を2千5百両で落籍、身請けした。太夫とは幕府公認の遊郭である吉原の最高級の遊女で、歌、踊り、三味線などの遊芸のほかに茶道、香合、花道、和歌、俳句、碁、将棋なども出来き、源氏物語を読み、かなりの教養も身につけていた。高尾というのは三浦屋の太夫名で、政岑が落籍した高尾は7代目で1734年(享保19年)に太夫となっていた。

政岑は披露の際にも3千両の大金を投じて吉原の遊女を総揚げにし、さらに高尾が吉原を出て屋敷に移る日には藩士を迎えに行かせ、行列を組んでいる。高尾は正妻の扱いを受け、参勤交代で帰国の際にも姫路に伴い、姫路城内西の丸に住まわせた。また、政岑は高尾だけではなく京都島原の遊女を2人、有馬の遊女の3人を身請けしている。そして領地の姫路でも酒宴に耽り、重臣たちの意見も聞き入れなかった。

こうした行状を見かねた重臣たちも放置していたわけではなかった。1734年(享保19年)4月には、太田原儀兵衛が諫書を出していた。儀兵衛は1729年(享保14年)に城代にまでなった人物であり、諫書を提出して城下の屋敷を立退いたあと行方不明となった。

将軍吉宗は政岑を隠居させた。そして榊原の家督はわずか7歳の嫡子政永が継承し、寛保元年11月に温暖な姫路から越後高田15万石に転封となる。本来なら改易のところ、先祖康政の功によって転封処分で済んだのだった。

このころ政岑の遊興の借金は30万両に達していた。そのうえ、高田入封直後に、大雪や洪水に見舞われ、1751年(宝暦元年)には大地震、凶作と災害が続き、財政は窮乏の一途を辿った。 政岑のつけは大きく藩政に響いたのである。

政岑は、吉宗の命によって高田への道中の籠に綱をかけて罪人扱いされた。そして高田に移って、約1年後の1743年(寛保3年)2月17日に29歳で病没した。江戸幕府はその墓もなお綱で覆ったという。



  河井継之助は越後長岡藩士である 。120石取りの中級武士の家に生まれたが、開明思想の持ち主で、藩主牧野忠恭(ただゆき)に見出されて、郡奉行、町奉行として藩政改革をおこなった。そして家老職に就任してからは富国強兵策を実施した。

戊辰戦争においては執政、軍事総督として藩論を局外中立に統一した。官軍に中立の嘆願書を提出するも拒否され、ついに奥羽越列藩同盟に参加する。その結果、北越の地で官軍と死闘を繰り広げる。しかし、長岡軍は河合の負傷により敗走、会津へと退却する。

歴史夜話44
河井継之助は直弼の安政の大獄以前から幕藩体制の限界を感じ、士農工商の身分制の崩壊を早くから察知していた。このころ、坂本竜馬は千葉道場の一介の剣術使いにすぎず、西郷隆盛は薩摩藩主島津斉彬の命により、一橋慶喜の将軍擁立運動の奔走に手一杯であった。この時期に江戸幕府の崩壊を予見していた者など皆無であろう。河井は迫る外圧に対し、従来の幕藩体制では対応できないことを優れた洞察力で見抜いていた。

しかし先の見えすぎる人は組織にはなじみにくい。まだ部屋住みの身でありながら、藩主牧野忠雅に抜擢されて役職についたが、藩の重役たちに疎まれて辞職を余儀なくされている。河井が再び藩に登用されるのは、時勢が風雲急を告げ、河井をおいて他に長岡藩の舵取りができない状態になってからであった。

1858年(安政6年)藩政から遠ざけられていた河井は、江戸や横浜、ついで西国を遊学している。西国遊学では佐賀藩の軍事工場を見学し、長崎の賑わいを見て、西南雄藩の台頭を予見している。時に井伊直弼が強権を発動し安政の大獄が行われ、幕府の権力が一時的に高まった頃のことである。

世情が乱れる中、幕府は長岡藩主牧野忠恭を老中に命じた。河井はこのような難局に老中職を勤めるというのは火中に栗を求めるようなもの、今は長岡藩を立て直すことが大事と説き、藩主に認められる。なんと河井が幕末の風雲にむけて行った最初の仕事が藩主の老中辞職運動であった。そして郡奉行、町奉行を歴任、思い切った藩政改革を断行し、遂に莫大な借金を返済し、余剰金10万両を貯蓄するに至る。

しかし、このころ時代は急展開し、幕府は長州征伐に失敗し、将軍家茂は急死、慶喜が将軍になったが政局は幕府に好転せず、ついに大政奉還して徳川幕府は崩壊した。これを見ていた河井は長岡藩の武装化を推進し、遂には最新兵器を保有して北越の小藩でありながら、薩長に劣らぬ兵力を保有する。

1868年(慶応4年)京都南郊で薩長軍と旧幕府軍が衝突する。この戦いを皮切りに戊辰戦争は始まり、内乱状態となる。江戸開城後は、薩長を主力とする官軍は会津征討に傾注のため北上、北越の地にも迫って来た。長岡藩はここで会津(奥羽列藩同盟)につくか、薩長につくか二者択一を迫られる。このころ河井は総大将というべき軍事総督の役職にあり、長岡藩を一身に背負う形になっていた。会津か、薩長か、河井は大きな決断を下さねばならなかった。

河井の決断は武装中立だった。つまり会津にも組せず、薩長にも組せず、長岡藩の藩境を守り、あわよくば会津、官軍の両方に入り仲介の労を取り内乱を終わらせようとするものであった。気宇壮大と言えば気宇壮大だが、長岡藩7万4千石でそのようなことができると本気で河井は思ったのであろうか?

1868年(慶応4年)5月2日、河井は長岡の南、小千谷に進出していた官軍に長岡藩局外中立の嘆願に赴く。世に言う「小千谷談判」である。談判の行われた場所は小千谷の市街地にある慈眼寺で、相手方は東山道軍軍監 岩村精一郎、この時23才の血気盛んな若者であった。

河合の嘆願書は・・・・長岡藩は、藩論を統一し、かつ会津、桑名、米沢の諸藩を説得して王師にさからわぬよう申し聞かせ、越後、奥羽の地に戦いのおこらぬように相努めるという趣旨であった。

これに対して岩村誠一郎は「嘆願書をさしだすことすら無礼であろう。すでにこれまでのあいだ一度でも朝命を奉じたことがあるか。誠意はどこにある。しかも時日をかせ、嘆願書を取り次げ、などとはなにごとであるか。その必要いささかもなし。この上はただ兵馬の間に相見えるだけだ」(司馬遼太郎「峠」)

会談はわずか30分あまりで決裂した。長岡藩の藩論は会談が決裂した以上、長岡藩は会津藩擁する奥羽列藩同盟に参加する。長岡に同調する越後諸藩を加えて「奥羽越列藩同盟」を結成した。ここに凄惨極まりない北越戦争の火蓋は切って落とされた。激論の中で、敗北必死とみた河井は長岡藩牧野家のために「わしの首に3万両をつけて降服せよ」と言ったという。

長岡軍と官軍との衝突は長岡と小千谷の間、信濃川を挟んでおこなわれた。戦局は長岡軍優勢に進み官軍は攻めあぐねていた。しかし、5月19日突如長岡城は官軍の奇襲をくらい、もろくも城は陥落する。しかし、城を失った長岡軍は北越平野を転戦し、各地で激戦を繰り広げる。そして、7月24日長岡の北、八丁沖とよばれる泥沼を通って長岡城を奇襲、これを奪還した。

しかし、これが長岡軍の最後の抵抗であった。 翌25日、前線で指揮をとっていた河井は左足に銃弾が命中して重傷する。そして29日には城を支えきれず落城した。長岡軍は会津めざして敗走を開始し、河井も担架に乗せられて会津目指して落ち延びた。 長岡から会津までは八十里峠越えの厳しい山道である。「八十里 こしぬけ武士の越すとうげ」・・・河井 自嘲の句が残されている。

河井が会津領只見塩沢村にたどり着いたのは8月11日である。会津まで河合をお供していた外山脩三という若い藩士に「武士の世はもう終る。このいくさが終われば、さっさと商人になりゃい。これからは商人の世よ」と諭したという。河井が死んだのは8月16日、享年42才であった。


  理系女子(リケジョ)という言葉がある。自然相手の物理化学が好きな女の子という意味合いだが、少子化になりつつあるなか、大学の理系学部では様々な施策を打ち出して、理系女子確保に努めているようだ。理系は文系と違って自然科学のなかの法則性を見つけ出す学問なので、自分のなかに湧き上がる疑問にひつこく拘る性格が必要だ。

リケジョが大学に入学すると、一般に学業成績が良好なだけでなく、何事にも熱心な人が多く、就職後もおしなべて評価が高いなど、大学にとってもメリットが多いそうだ。

しかし、明治維新のころは、文明が開花したとはいえ、おしなべて女性は家庭的であるべきという封建的気風が日本の風土だった。そうしたなかで、日本で最初に帝国大学に入学し、それも理系の学問に取り組み、大きな業績を残した女性がいる。理系女子の大先輩だといえるだろう。

歴史夜話43
丹下ウメは日本の女性として、初めて帝国大学に入学し、理学と農学の博士号を取得し、栄養学や生物化学の分野で世界的な功績を残した科学者です。ウメは日本の中でも特に男尊女卑の封建的考え方が強かった九州・薩摩に生まれましたが、その学問探求の生涯を薩摩の地で過ごしました。

1873年(明治6年)ウメは鹿児島城下金生町の富裕な商家に8人兄妹の7番目(三女)として生まれました。戸籍にある名前は「ムメ」になっているらしい。父は製糖業や塩業を営む一方、鹿児島市の初代収入役をつとめていました。

悲劇はウメが3歳のときに突然起きました。祇園祭の日、ままごとに熱中していたウメは、「御輿みこしが来た」という声に駆け出しましたが、滑って転んでしまいます。その拍子に手にもっていたままごとの竹箸で右目を突き刺してしまったのです。姉のハナの大声に気づいた母エダが急ぎ応急処置して病院に駆け込みましたが、ウメの右目は光が戻らず、失明してしまったのです。

 丹下家は教育熱心な家で、ウメの兄たちは東京帝国大学をはじめ、すべて高学歴であり、一歳上の姉・ハナもまた優秀で、両親はわざわざ上京させて、東京女子高等師範学校(小学師範科)に入学させています。ウメも頭の良い子でしたが、女の子らしい遊びはせずに、木の皮を煎じて薬のようなものを作ったり、草の葉や木の実などから赤や青の色素を取り出したりして遊んでいました。化学者の資質の片鱗へんりんだったのかもしれません。

ウメはわずか11歳で年長者を押しのけて師範学校にトップ合格しました。これには姉ハナの協力がありました。目にハンディを負った妹ウメを助けると心に決めて、ずっと勉強を見てくれた成果でした。1891年(明治24年)ウメは師範学校を首席で卒業し、地元の名山小学校に奉職し、その後、鹿児島市立技芸学校も含めて10年間、教職を務めました。

 しかし、ウメは勉学心、向上心を押さえきれず、もっと上の学校をめざしたいと心に秘めていました。ところが、そのころ、実家の事業が傾いて資産を失い、広大な土地や家屋も手放さなければならなくなっていたのです。学問で身を立てようと決意していたウメは前途がふさがれる思いを抱いて途方にくれました。

そんなとき、母方の親戚である前田正名(まさな)が久しぶりに帰鹿したのです。前田は優秀な農務官僚ながら、「布衣(ほい)の農相」とも呼ばれ、地方産業の育成、とくに農業振興に力を尽くした人物です。ウメは母に伴われて前田を訪ね、自分の将来について相談しました。前田は、すぐさまウメの勤務先などを調べて、その非凡な学歴と向学心を知ると、東京で女性の地位向上をめざして女子大を創設しようとしている成瀬仁蔵を紹介するとともに、学費と生活費の面倒もみてやることを約束しました。ウメが飛び上がらんばかりに喜んだのは無理もありません。ほどなくして、ウメに前田から手紙が来て、成瀬が創設した日本女子大学への入学許可を知らされました。ウメ28歳のときでした。

ウメは住み慣れた鹿児島から上京し、東京・目白台の日本女子大学・家政学部に入学しました。日本女子大学はこの年4月に開校したばかりで、さっそくウメは大学の創立者で校長でもある成瀬仁蔵から寮監を命じられます。これは前田正名と相談したうえでの学費軽減措置だったといわれています。

 ここで、ウメは運命的な出会い、というか理系女子(リケジョ)としての芽を出します。応用化学の教授・長井長義は薬化学の第一人者で、東京帝国大学の教授のかたわら、日本女子大学でも教鞭をとっていました。長井は難しい応用化学をわかりやすく講義してくれ、化学の実験で学生たちを驚かせていました。

 ウメは化学の面白さに夢中になりました。とくに実験が得意で、実験器具や薬品の扱いにすぐに手慣れて、その能力は学生たちのなかでずばぬけていました。そして授業が終わると、ウメは長井を質問攻めにしたのです。

 1904年(明治37年)日本女子大学を首席で卒業したウメは長井の助手となるかたわら、文部省の中等化学教員検定試験に女性として初めて合格しました。そして、ウメの向学心はますます大きくなりました。しかし、当時の帝国大学は旧制高等学校の卒業生しか受験資格がなく、事実上、女性には門戸が閉じられていました。そのなかで東北帝国大学だけが受験資格を緩めて、ウメのような中等教員検定試験合格者にも門戸を開いたのです。

1913年(大正2年)ウメは東北帝大を受験しました。その理科大学にウメとともに黒田チカ、牧田らくの三人の女性が合格します。この3人こそ、帝国大学に初めて入学した我が国の女性でした。そして、ここでも、ウメの実力は男子学生より抜きんでており、実験では主任教授の助手となり、あらゆる課目で成績優秀だったため、特待生となりました。

このころウメは恋をします。つねに片目という身体的負い目を抱えていましたが、ウメが恋した相手はウメと並ぶ成績優秀な同級生で、互いに好意を抱いて、二人で松島観光にも出かけたりしました。しかし、彼は悪性の肺炎にかかり、若くして病死してしまったのです。

 ウメはますます学問研究に没頭して、東北帝大をまた首席で卒業すると、大学院に進み、指導教授の真島利行博士のもとで柿渋の研究をしました。ウメの専門は今で言う有機化学と生物化学でしたが、その応用として栄養学の研究に取り組みたいと考えていました。そのころまだ日本には栄養学の専門家はいませんでした。

1921年(大正10年)ウメはアメリカ西海岸のスタンフォード大学に入学します。その後もコロンビア大学を経て、ジョンズ・ホプキンス大学で学び、同大学で「ステロール類のアロファン酸エステルの合成と性質」と題した学位論文により、1927年(昭和2年)理学博士の学位を授与されました。

 帰国は、母校の日本女子大学で生物化学の教授に就任し、同時に理化学研究所で鈴木梅太郎博士の下、ビタミンB2複合体の研究を行い、農学博士号も授与されました。ウメが世界に発表した論文は約30点に及び、その化学への貢献は高く評価されました。ウメは晩年、後輩の研究者のために私財を投じて「化学奨励金」を興しました。ウメの死後には、まな弟子の辻キヨが「丹下記念奨学金」を創設し、いまも研究者育成に役立っています。

鹿児島市金生町の界隈にウメの胸像と石碑があります。男尊女卑の封建的気風が強く、女性の社会進出の機会が少なかった当時に、生涯を学問研究にささげた、知的で向学心旺盛な女性がいたことはまさに歴史の救いです。



  福地源一郎は幕末・明治の有名人です。
好きなことに打ち込んだら、だれも止めることができなかったと言われています。

長崎の出島で、15歳の少年が、オランダでは「新聞」というものが毎日発行されていて、人々に情報を伝えていると聞いた。そして自分もいつか「新聞」を発行しようと決意した。時は流れて夢が叶った1875年(明治8年)1月14日の新聞紙面で「ソサエテ-」を「社会」という言葉で掲載した。これが「社会」という日本語が使われた最初と言われている。

歴史夜話42
1885年(明治18年)ごろ、当時の各界を代表する人物の「日本十傑」として、第1位の人物は福沢諭吉でした。ついで第2位は福地源一郎(ふくちげんいちろう/福地桜痴・ふくちおうちとも呼ぶ)でした。福地は諭吉と並んで「天下の双福」と称された人物です。 幕末から明治、日本が大きく姿をかえた時代に異彩を放ち、新聞人、経済人、事業家、戯作者、小説家、政治家と多方面で活躍しました。

 福地桜痴は1841年(天保12年)、長崎の新石灰町(しんしっくいまち)で医師の父 苟庵(こうあん)、母 松子の間に長子として誕生しました。幼名を八十吉といい、小さいころから優秀で神童と呼ばれていました。15歳のときにオランダ通詞・名村八右衛門(なむらはちえもん)のもとで蘭学を学びました。名村は出島オランダ商館長が、幕府へ世界情勢を報告する「風説書(ふうせつがき)」の口授翻訳をする際に、桜痴を筆記者にしていました。

 1858年(安政5年)、18歳の桜痴は長崎を出て江戸へ向かいました。江戸では、父の旧知で英学者の森山栄之助からイギリス学を学びます。当時、江戸で英書を読むことができたのは、森山と中浜万次郎(ジョン万次郎)の二人だけだったといわれています。その森山の世話で桜痴は幕府につかえることになりました。

1861年(文久元年)、桜痴にヨーロッパへ使節派遣のチャンスが訪れます。出航する船には、福沢諭吉の姿もありました。 ロンドンで桜痴は新聞社を訪ね、記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにします、また、フランスでは歌劇や演劇の見物にも出かけています。このとき台詞や話の筋がまったくわからない桜痴ら使節の一行は居眠りに終始し、会場の嘲笑をかいます。あらかじめ話の筋を理解していれば退屈しないだろうと考えた桜痴は、英語とオランダ語のできる接待係に筋を聞き、それを使節にも伝え観劇することにしました。桜痴は次第に演劇に興味を覚え、シェイクスピアなどの戯曲を学びはじめます。これが後の演劇人 福地桜痴としての下地をつくっていくことになるのです。

1868年(明治元年)4月、江戸城引き渡しがあった年ですが、桜痴は「江湖新聞(こうこしんぶん)」を発行し、「政権はただ幕府から薩長に移動したにすぎない。これで維新の目的は果たされたといえるのか」と述べ、新政府側の怒りを買います。新聞は発禁処分となり、桜痴は逮捕されます。そして、木戸孝允のとり成しでなんとか無罪放免となりました。

じつはこれが明治時代初めての言論弾圧だったといわれています。この年、桜痴は職を辞して翻訳や執筆などで生計をたてるようになります。そして、翌年には日新舍という英語、フランス語を主とした洋学校を開校します。当時、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇の同人社とならんで東京の三大学塾と称されました。

この頃から桜痴は吉原通いに耽るようになります。桜痴の吉原好きは有名で、さと夫人との結婚式当夜も吉原に出かけ帰らなかったというエピソードもあります。なにしろ「桜痴」という号は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路(さくらじ)にちなんでつけたというほどの女好きでした。

1870年(明治3年)吉原友達の渋沢栄一の紹介で、伊藤博文と会った桜痴は意気投合し、すぐさま大蔵省御雇となり、伊藤にしたがって渡米、銀行や会社、国家会計、金融などの調査をしました。ちなみに、society=社会、bank=銀行の翻訳語をはじめて使用したのは桜痴といわれています。 帰国後は、大蔵省一等書記官となり、今度は岩倉具視にしたがってアメリカとヨーロッパへ渡ります。

そのころ国内では、征韓論で政府が分裂、渋沢栄一も大蔵省を去り、桜痴も政治家としての道をあきらめ大蔵省一等書記官を辞職、主筆として「東京日日新聞」にはいります。桜痴が34歳のときでした。 当時、日本の新聞記者の社会的立場は低く、大蔵省の役人から新聞記者への転職に、家族や友人など周りは反対します。桜痴は「おれが新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵をきりました。
 
桜痴は、自らの筆で社説を書き、それを新聞の目玉にしていました。社説を設けるという事は新聞がひとつの主張をもって世に訴えるという、新聞近代化の第一歩でもありました。「東京日日新聞」は好評で発行部数は上昇。1876年(明治9年)、桜痴は「東京日日新聞」の社長に就任します。

 1877年(明治10年)、西南の役がはじまり、桜痴は戦地で取材し新聞に掲載します。連日の現地報道に「東京日日新聞」の売り上げはさらに急上昇します。このとき桜痴は京都御所で明治天皇に戦況を言上することになります。明治天皇に2時間にもおよぶ報告を行い、金五十円と縮緬二反を下賜し、慰労の酒肴を頂戴しました。酒の飲めない桜痴もこのときばかりは、酒を飲み、のちに「酒を口にしたのは、後にも先にもそのときだけだった」とよく語ったといいます。

 その後、しばらく文化面で活躍、歌舞伎作者となります。そして1904年(明治37年)、日露戦争が開戦した年に、64歳で衆議院議員に当選します。しかし、まもなく病の床につき、1906年(明治39年)1月4日、66歳で亡くなりました。

 明治時代、官と民の間をいったりきたりしながら、西洋の文化を巧みに取り込み、政治、経済、文化、メディアなど多方面で近代化に影響を与えたのが福地桜痴でした。 そうしたことから桜痴には逸話がたくさん残されています。

エジソンの発明から間もない蓄音機に、はじめて肉声を吹き込んだ日本人は「東京日日新聞」社長時代の桜痴です。第一声は「こんな時代になると、新聞は困るぞ」でした。

ヴィクトリアン・サルドゥー書き下ろしの戯曲「ラ・トスカ」を観劇した桜痴は、1889年(明治22年)にこれを翻案し、落語の祖と言われる、三遊亭圓朝に情噺として世に送り出しました。

1901年(明治34年)2月の福澤諭吉の死によせて書いた記事「奮友福澤諭吉君を哭す」(日出國新聞 2月5日)は、桜痴の文章の中でも会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされた。

女遊び好きであり、吉原大門に「春夢正濃 満街櫻花 秋信先通 両通燈影」の揮毫をしています。

また、芸妓を落籍させて妾としていたが、やがて結核で死去した。看病中、彼女が懐中時計の蓋を開閉する際の音が好きだったため、時間の許す限り時計の開閉を続け、彼女が亡くなった際、枕元には蓋の壊れた懐中時計が、20個以上並んでいたという。


  幕末、薩長の動きに対して幕府はどういう対応をしたのか? 今で言えば藩主が国会議員とするなら、幕臣は役人ということになります。幕政の大きな動揺のなかで、幕府の財政を運用管理したのは、200年以上に渡って息づいてきた官僚機構でした。

小笠原長行は江戸幕府の長い歴史の中でただひとり藩主でない身分で老中になった人物です。長行は荒れ狂う幕末の時代、幕府の官僚機構をまとめて最後まで幕府の財政を支えました。

歴史夜話41
幕末時の幕府と朝廷の力関係を示す事件がありました。1863年(文久3年)3月4日、江戸幕府第14代征夷大将軍徳川家茂(とくがわ いえもち)が京都へ入りました。これは3代将軍家光以来、なんと230年ぶりの将軍上洛でした。そして、4日後の3月8日、孝明天皇の攘夷祈願を名目とした賀茂神社参拝があり、家茂は後見職の慶喜とともに随行しました。

これは徳川将軍家に対する朝廷の権威の回復をはっきり示す出来事でした。しかし、4月の岩清水八幡宮の行幸には将軍家茂の姿はなく、慶喜が名代で供奉しました。ところが、慶喜も途中で腹痛をうったえてお社のある男山には上らなかったのです。開国派の慶喜にとっては気の進まない参拝だったことがわかります。

 このころ京都はすでに尊攘派の勢力が圧倒していました。安政の大獄や和宮降嫁に加担した幕吏や公家の家臣らを狙った「天誅」と称した暗殺が横行していました。幕府は上洛中の将軍の身に危険がおよぶことを恐れて、家茂救出のため老中格・小笠原図書頭(長行)が英艦の援助を受けて千余の兵を率いて西上し、大阪に上陸しました。その後も幕府側はさらに兵員を満載した軍艦3隻を大阪湾に集結させました。

この小笠原長行の挙兵上京に公家や廷臣たちは驚愕し、これまで求めてきた将軍の滞京をあきらめざるを得ませんでした。結局、家茂は6月13日に大阪から順道丸(405トン)に乗込み、江戸に帰ってしまったのです。こうして将軍を朝廷のある京都に止め置き、江戸を留守にさせることによって朝廷の権威を世に知らしめようという目論見は挫折します。しかし、朝廷を怒らせた小笠原長行は罷免されます。

この軍事行動を指揮した小笠原長行は歴史的には忘れられた人物になっています。もちろん教科書に登場することもありません。

幕閣を補佐する立場にいた松平春嶽が、攘夷を実行しろという朝廷の恫喝におびえて、政権を投げ出して夜逃げ同様に国元に帰ってしまった以降、幕府には、その滅亡までの間、中心となって政権を担当する人がいなくなります。

幕政は安藤信正の失脚以降は水野忠精と板倉勝静が進めました。ところが、彼らは、無能、無難が売り物のような人物で、そのために長く政権の座に安住してしまいました。その昔は、歴史夜話にも登場した田沼意次のように政権の首座にないにも関わらず、賄賂政治とはいえ、実質的に政治を動かしていた人物がいたりしたのですが、この時代には、古参の老中の中にも、他の老中を束ねて、政治の中心として活動できるほどの、才能と人徳を兼ね備えた人物はいませんでした。重要な時期に、幕府という巨艦は舵取りを失っていました。

本来なら幕政の推進者は、将軍後見職であり、また14代将軍家茂の死後、最後の将軍となった一橋慶喜です。しかし慶喜は、彼自身がくるくると気分が変わり、それに応じて極端に行動に振幅がある人物でした。つまり、何かを言い出すことはできるのですが、自分自身の頭の中でそれに対する評価が変わると、その後始末は誰かがやってくれることを常に期待して、責任者の立場から逃げ出すという悪い癖がありました。したがって、政権の中心にあって、一定の方針の下に着実に行政活動を指揮監督し、必要に応じて自ら適切な行動をとる、ということはできませんでした。

 幕府にとって、ただ一つの救いは、これまで幕府行政を実際に取り仕切ってきた官僚達、具体的には勘定方と目付達は、依然としてやる気を失っていなかったという点です。彼らはこれまで築き上げられた官僚機構をフル活用して幕府の下支えをしたのです。

そして、この時期の幕府老中で、そうした下からの支援努力を集約して、幕府を助けようとして可能な限りの努力をし、最後には幕府そのものに殉じて滅びようとした人が一人だけいます。それが小笠原長行(ながみち)です。この時期、歴史家の目は薩長側に向けられています。そのため、その大きな活動にも関わらず、小笠原長行の名は、日本史の上ではほとんど知られていません。

では、小笠原長行何をしたのか! 攘夷という名のもとで各地で外国船や外国人を襲撃する事件が起こりました。そうした事件の解決交渉を担当し、必要な賠償金を工面したのです。幕府の役人として財政を担い、幕内はもちろん、海外勢から交渉相手として信用され認められた貴重な人物でした。

麦さん、小笠原長行という人は、藩主の生まれつきでありながら、よそからの養子が藩主となるという不運に育ちますが、最後には老中にまでなりました。本当の「幕末(幕府の終わり)」になって、突然登場した政治家です。その政治家としての短いながら華々しい活動の中で、たった2回だけ、出処進退を誤りました。幕府の運命がぎりぎりに迫り、徳川慶喜という実に気の変わりやすく、しかも家来に嘘を言って騙すようなことに全く良心の呵責を感じないという将軍を頂いて、事実上、ただ一人で徳川家の命運を担っていた時期における誤りだっただけに、それはそのまま幕府の滅亡に直結することとなりました。

2回の出処進退とは、前述の軍事行動、そして第二次長州征伐での戦線離脱でした。小笠原長行は明治24年に亡くなるその日まで、江戸幕府の家臣として生涯を閉じました。




  終戦から1年後の1946年(昭和21年)11月、息子の戦死公報が信じられない一人の母親が、息子の消息を尋ねるため、息子と戦地で部隊が一緒だった人々へあてた手紙がある。母の名前は、「つる」と言った。

なんと息子は昭和47年2月2日に、戦地から帰還、羽田空港のタラップを降りた。あれほど帰りたかった日本の地を踏みしめた時、最初に出た言葉は、「恥ずかしながら生き長らえて帰って参りました」だった。このニュースは現在ご年配の多くの人々が見聞きしたと思うが、今でも忘れられないシーンの1コマであった。

歴史夜話40
「前略御免下さいませ、突然では御座居ますがちょっとお尋ね致します。私は息子庄一を大宮島で戦死さしたものでございます。庄一と神谷さんとは満洲に居る時から同部隊であったとの事、隣村の助光の加藤高光さんに聞きました。戦死したものとあきらめてはをりますが、最後がどんな風だったか、もしご存じでしたらお世話ですがお知らせくださいませ、部隊名は、満洲国奉天省遼陽郵政局気付満洲303部隊土屋隊2ノ宮班横井庄一兵長。横須賀郵便局気付ウ102雷第3211部隊土屋隊横井庄一でございます。お忙しいところ誠に恐れ入りますが、親心をおくみ取り下さいまして一寸お知らせ下さいませんでせうか。切にお願い申し上げます。まづは乱筆にておねがいまで。 かしこ」

 黄色く変色した一枚の便箋に、薄くかすれた鉛筆書きの文字だったと言う。しかし、その文章からは子を思う母の気持が、痛いほど分かる。母「つる」さんは、息子の生存を信じて、「うちの子は生きちよる。ジャングルの中できっと生きちよる」と近所の人々に言い続けていた。そして、いつ復員してもいいように、二階の息子の部屋はそのままにしてあったと言う。しかし、息子の顔を見ることなく、昭和33年4月、69才でこの世を去っている。

1972年(昭和47年)は、 陸軍伍長「横井庄一」氏がグアム島へ上陸してから28年目、母「つる」さんの手紙から26年目、母が亡くなってから14年目のことだった。回想録によると、この年の1月、その日の夕方、横井さんは、いつものように川に魚採りカゴを仕掛けるために、洞穴を出た。足跡を残さないように川のふちを歩き、足下を注意しながら、草原の近道を通った。ふと、草むらを出たとたん、目の前に銃をかまえた現地人が立ちふさがっていた。無我夢中で飛びついて銃をひったくろうとするが、すぐに押し倒されてしまった。連行される間中、横井さんの脳裏をかけめぐるのは、「ついに殺される時がやってきた」という気持だけであったと記されている。

  日本国内では、グアム島のジャングルに潜伏していた日本兵士のニュースは大きな衝撃をもって迎えられた。 昭和47年2月2日に帰国後、母の死を聞いた横井さんは名古屋へ帰郷した際、実家へ戻るよりも先に母の眠る墓地に向い、墓の前で、あたりをはばかることなく、墓に額を押し付け号泣したと言う。

  横井さんは、帰国後9ヶ月して、お見合の席で出合った「美保子」さんとの運命の導きがあって結婚している。その後は、自身のグアムでのサバイバルについて全国各地で講演活動を続けた。そして1997年(平成9年)9月22日、急性心不全で死去されたのである、享年82であった。

横井さんは、講演活動を続けている時に、講演先で関係者から先にあげた母の手紙を譲り受けた。手紙を手にした横井さんは「神様が渡してくれたのかなあ」と両手でかみしめ、その手紙を大事そうに、仏壇の引き出しにしまったという。
 
回想録には、「海に足を入れても沈まないなら、日本へ歩いてでも帰りたかった」そして、母に合いたかったと故国の土を踏むことに恋い焦がれ、母との再会の日を夢見て日々のサバイバル生活を続けた。昭和19年、グアム島に配置された2万人の兵士達は空腹と激戦の中、同年8月玉砕する。そして、戦死広報が横井家にも届いた。しかし、故国を思い、母を思い、ジャングルの中で28年間も自然と闘い、文明と全くかけ離れた生活を続けた横井さんの生命力には、ただただ、感服する以外はない。母と子、戦争という行為の無残さははかり知れない。



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