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なんのお付き合いもない誰かに 「バカ!」 と言われたとしたら 気分は良くないと思うけど

身近な誰かに 「バカ!」 と 言われたら 気にしないでいられる程度の おおらかさは備えているつもり


普段から その人の言動が疑問視されている町内会の誰かに 厚化粧! などと罵声を浴びせられたとしたら

私の顔にシミがあったとして そのシミを隠すために厚い化粧をしているなどと 釈明することなく  広い心で聞き流せられる人間でありたい


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いろいろペチュニア の リース


毒舌 失言など 日常茶飯事とされている 町内会の問題児の言葉なんだからと 寛大に受け止めて 

「そんな人の言うことは ほっといた方がいい」 と 言える  あなたに 1票



 



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コメント

麦さん、こんにちは。

今日は5時過ぎに夕立があり、一気に涼しくなりました。
台風12号足が遅いのでそのうち消滅しそうです。


麦さん、死という言葉が嫌いなんですね。
まぁ好きな人は少ないとは思いますが・・・
どうなんだろ~死は負の言葉~
歴史は死んだ者がつくった過去の物語ですから、ちょっと気が引けますな(笑)



では、歴史夜話94をどうぞ


江戸の3大悪女といえば誰でしょうか? とりあえず一般的には「姐妃のおひゃく」「鬼神のお松」「生首のおせん」の3人ということになっています。いずれもおどろおどろしい枕詞がついておりまする。で、この3人、明治時代の中ごろまでは、強面のおにいさんおねえさんの背中の刺青の定番だったのです。

歴史夜話94は、このうちの「鬼神のお松」と「姐妃のおひゃく」に登場してもらいましょう。

歴史夜話94
石川五右衛門、児雷也と並んで日本三大盗賊のひとりとうたわれた「鬼神のお松」。残忍な犯罪で、旅人を震え上がらせた「悪のヒロイン」だ。お松は仇討ちの途上で毒婦に変貌した美人強盗だった。

お松は深川の遊女をしていた頃、その美貌に一目ぼれした仙台藩士・立目丈五郎に見初められて妻となる。しかし夫は、剣道指南役・早川文左衛門に御前試合のもつれから殺されてしまった。そこで、お松は夫の仇を討つために仙台を出奔し、早川文左衛門を追って放浪の末京に出る。しかし助太刀を頼った夫の友人に手込めにされそうになり殺害した。これを契機に、お松は毒婦に生まれ変わる。

放浪の旅に出たお松は、強請(ゆす)り・窃盗・殺人などの悪事を重ねた末に盗賊になった。その手口は、「老人と見れば持病の癪(しゃく)を装い、出家なら話しかけ、若者なら色仕掛けでたらし込む」というものだった。そして、たかりや窃盗を繰り返しながら一関に向かう道のりで、ついにお松は武者修行に出ていた仇の文左衛門を見つける。渡川の途中で「持病の癪」を装って文左衛門に背負わせ、油断しているところを後から刺し殺したのだ。

その後、お松は奥州・笠松峠を根城に手下70人あまりを従え旅人を次々に襲い、「小野小町のような美人なのに、顔に似合わぬ心は鬼よ」と恐れられたという。付近の村々を襲撃し、盗賊退治に来る腕自慢の侍も返り討ちにする。そんな女鬼神も、とうとう最期を迎えることになる。「父の仇」と付け狙う早川文次郎に殺されてしまうのだ。ただしこれには、お松自ら文次郎に首を差し出し、父の仇を討たせてやったという説もある。

ところで、「鬼神のお松」の、その悪行は江戸庶民の格好の話題となり、お松の派手な悪事の数々はかわら版や草双紙、読本、歌舞伎、錦絵などにも登場する。これほどまでに江戸庶民に語り継がれた「鬼神のお松」だが、その実像を伝える公式史料は存在しない。一説によると、お松が没したのはあの長谷川74平蔵が火盗改メに任じられる4年前の14783年(天明3年)ごろだったらしい。

江戸を騒がせた女に「姐妃(だっき)のおひゃく」という人物がいる。宝暦年間に秋田佐竹藩で相続問題からお家騒動が起きた。1753年(宝暦3年)藩主である義真(よしざね)が23歳の若さで急死した。義真には子供がなかった。その後継者問題で藩内が分裂し、対立が起きた。このときにおひゃくは義真の側室であった。
 
 おひゃくを側室に上げたのが重臣の那珂忠左衛門であって、反対派の言い分では、おひゃくは那珂の妾であり、2人はお家乗っ取りを策したのだという。義真が急死したのも、那珂忠左衛門の指示でおひゃくが毒殺したと疑われた。

おひゃくは京都九条通りの貧しい家に生まれた。8歳のときに祇園町の「山村屋」に売られ、14歳のときに芸妓としてデビューした。美人で利発だと、たちまち人気が出た。ところが芸妓となって2年後、江戸から大坂に下ってきた役者の津打(つうち)門三郎とデキてしまった。そして門三郎に従って江戸に出た。
 
門三郎の兄が松本幸四郎、後の4世市川団十郎となる人物です。おひゃくは幸四郎を好きになり、その想いのたけを打ち明けたが、「弟の女房に手を出せるか。ええい、気持ち悪い。おまえとは絶縁だ」と、おひゃくを突き放した。当時、松本幸四郎は3世市川団十郎と人気を分け合う人気役者でした。いっぽう門三郎は病気がちで、舞台を休むこともしばしばで、役どころも脇役ばかりの中堅役者に過ぎなかった。

1751年(宝暦元年)門三郎が病死すると、一年忌も終えないうちにおひゃくは吉原の揚屋である尾張屋の清十郎に見初められていっしょになる。この尾張屋に出入りしていたのが秋田佐竹藩の江戸留守居役の那珂忠左衛門であって、会うなりおひゃくは忠左衛門に心を寄せ、尾張屋を飛び出して忠左衛門の妾となる。そして、忠左衛門が秋田に下ると、同行して、名前は「りつ」、年は19歳という触れ込みで佐竹藩上屋敷の御側女中に登るのである。宝暦2年ごろのことで、おひゃくの実年齢は30歳近くになっていたはず。


当時の京都と秋田では比較にもならないほどの文化格差があった。おひゃくは京都祇園で遊女となるための特訓を受けていたので、田舎殿様の佐竹義真はおひゃくに夢中になってしまったのだろう。もしも、ここでおひゃくが男子を産んでいれば、これが佐竹藩の跡継ぎとなるところであった。

おひゃくの野望はもう一歩で実現するかにみえたが、子供が出来ないままに佐竹義真は病死する。藩内を二分する後継者問題が起き、那珂忠左衛門はこれに敗北する。そして反対派が擁立した佐竹義明が7代当主となり、那珂忠左衛門は切腹、おひゃくは秋田から追放された。その後、江戸に出た彼女は米問屋の高間磯右衛門の妾となって一生を終えたという。

おひゃくの人生を見れば、そんなに凶悪な悪女とも思えない。実はおひゃくを悪女に仕立て上げたのは講談本でした。講談本が自分の野心と欲望のために邪魔になる人間を次々と殺し、ついには佐竹藩乗っ取りを策すという稀代の悪女に仕立て上げたのでした。表の顔は虫も殺さぬなまめかしい美人、裏の顔は「姐妃」と呼ばれる冷酷無慈悲な殺人鬼。講談本がおもしろ、おかしくおひゃくを稀代の悪女に作り上げたのでした。

2016.09.04   えんてつ   編集

麦さん、おは~です。

きょうはこれから一日外出です。
午後から雨になるという予報なので傘を持って出かけます。



さて、昼間から歴史夜話です(笑)



わたしは湖国の生まれで実家は大宝神社というお宮さんの氏子だった。この神社の境内には相撲の土俵がこしらえてあって、大きなお祝いごとの節目には奉納相撲があった。祖父は大の相撲好きだったのでお祭りの日に相撲を見に連れてもらった記憶がある。小さい頃の遊びで相撲とチャンバラは定番だった気がする。

相撲の歴史は野見宿禰(のみのすくね)に遡るというから神代に近い。相撲を格闘技と捉えると歴史があることも頷ける。さて、そんな長い相撲の歴史であるから強い力士も大勢出現した。そのなかで史上最強の力士は誰だろうか、もしかしたら白鵬かもしれないと思ったりもするがどんなもんでしょうか。

歴史夜話95
のちに天下無双力士と称えられ、後世までその名を轟かすことになった雷電為右衛門は、1767年(明和4年)信濃国小県郡大石村に生まれた。幼名は太郎吉という。太郎吉は子供の頃から体も大きく力も強かった。ある夏の夕刻、母親が庭に据え付けた風呂に入っていると、突然、雷鳴と稲妻をともなう激しい夕立がやってきた。すると、太郎吉は母親を風呂桶ごと抱え挙げ、家の土間に運び込んだのだそうである。

太郎吉の怪力ぶりを伝えるいまひとつのエピソードはもっと凄まじい。背中に荷物を積んだ馬を引いて細く険しい碓氷峠の山道に差しかかったところ、加賀百万石の大名行列と行き合わせてしまった。狭い道のためによけることもでず困った太郎吉は、荷を積んだままの馬の足を掴んで頭上に差し上げ、無事に大名行列を通過させた。そして加賀の殿様から「天晴れじゃ!」とのお褒めの言葉を賜わったのだという。

またひとつは、お百姓が遠くから大きな桶を前後にぶらさげ天秤棒で水を運んでいたとき、転んで水がぜんぶ流れ出てしまった。そのとき通りがかった太郎吉は、天秤棒の端に桶をぶらさげ、片方の先を片手で持って、竿一杯のところを落ちる滝の水を桶いっぱい汲んだという。

その頃、千曲川を挟んで大石村と向かい合う長瀬村に上原源五右衛門という相撲好きの庄屋がいた。学問にも造詣の深かった上原源五右衛門は自ら寺小屋の師匠となり勉学を奨励するとともに、近隣の相撲好きな若者たちの世話をして彼らを育てることにも余念がなかった。たまたまそのことを知った太郎吉は上原源右衛門のもとを訪ねて温かく迎え入れられ、ほどなく同家に寄食するようになった。そしてそこで学問を修め学識を深めるとともに相撲の技を磨き鍛えたのだそうだが、太郎吉の勤勉ぶりは尋常なものではなかったらしい。

後世、ともすると怪力ぶりばかりが強調されがちな雷電だが、相撲その他に関する優れた直筆文記録書類が残されていることから、きわめて高い学識を身につけた人物でもあったと言われている。文武両道に秀でた大力士としての礎はこの子供の時期に培われたものに違いない。

あるとき、江戸相撲の浦風林右衛門の一行が地方巡業で上原家を訪れた。このとき相撲取りとしての天賦の才を見込まれたという。1784年(天明4年)17歳になった太郎吉は、江戸に上り江戸相撲の門を叩くことになった。このときすでに身長198センチ、体重188キロだったという。当時としては日本人の男子の身長は155センチ程度だったので目を見張るような巨漢力士であったのは間違いない。その四股は鋼鉄のごとく強靭そのものだったというが、それにもかかわらず実に柔和な相貌をしており、性格も温厚そのものだったらしい。

天賦の資質とそれを磨く猛稽古の甲斐あって太郎吉はめきめきと頭角を顕した。その力量と学徳をかわれて21歳の時に雲州松江藩のお抱え力士となった。そして、その時から、松江藩にゆかりのある「雷電」という四股名を名乗るようになった。2年後の1790年(寛政2年)には関脇として初優勝する。その後は無類の強さを発揮して優勝を重ね、1795年(寛政7年)に大関昇進を果したのだった。それから実に16年の長きにわたり大関の地位を守り続けた。当時は今でいう「横綱」は名誉呼称で番付には無く「大関」が最高位だった。

雷電は通算21年にわたる力士生活において、江戸相撲で285番、京都・大阪相撲で228番、合計513番の取組み(勝敗の明確な分)を行なっているが、その間に負けたのは19番のみで、その勝率はじつに九割六分一厘という驚異的なものだった。当時の相撲はお抱え藩どうしの対面もあって、今で言えば八百長ともいえる、「引き分け」というのがあり、真剣勝負なら雷電の戦績はもっと良かった可能性がある。

その上、雷電の力があまりに強烈で相手力士を負傷させてしまうというので、雷電は「張り手」、「突っ張り」、「かんぬき」の三手の技を禁じ手とされてしまった。もしそうだったとすれば雷電の勝率はそのぶんいっそう驚異的だと言わざるをえないだろう。

雷電が大関になった頃、横綱としては引退間近な小野川喜三郎がいるだけだった。その横綱小野川との上覧相撲の対戦で雷電は相手を投げ飛ばしたが、藩同士の体面や小野川の名誉問題などもあって、結局、その一番は勝負預かり(勝敗なし)になってしまった。ところが、事実上息子が敗れたのを知った小野川の母親は、そのことを苦にして自害して果てた。そのことに心を痛めた雷電は、小野川の母親のための追善供養として梵鐘を造り、松江藩とも縁の深かった江戸赤坂の報土寺に寄進したと伝えられている。

名を挙げ名力士となってふる里大石村に住む母のために家を新築したことがあった。このとき幼い頃からお世話になった上原源五右衛門の屋敷より大きな家は建てなかったらしい。これも雷電の心使いで、成功したといえども富に任せて威勢を張るようなことはしなかった。

そんな無敵の雷電が名誉の称号である横綱を頂くことなく終ったのはいまだに謎であるという。横綱小野川の引退のあと40年間ほど横綱は不在だった。横綱の称号の認定と授与を司る肥後細川藩の吉田司家が当時の飢饉などさまざまな理由から容易には江戸に上るのが困難だったからとか、横綱という称号そのものがその頃はまだそれほどには重要視されていなかったからだとか諸説いわれている。また、雷電自身が横綱の称号を辞退したからだとか、雷電を抱える松江藩松平家と吉田司家を擁する肥後藩細川家とが不仲だったからだとかいう見方もあるが、ほんとうのところはよくわからないらしい。

東京深川の富岡八幡宮に初代横綱明石志賀之助以下、代々の横綱の名を刻んだ「横綱力士碑」が立っているが、むろんその中に雷電の名前はない。ただ、そのかわりに、「無類力士雷電為右衛門」の碑が特別に設けられている。おそらく、それは雷電にまつわる特別な事情を配慮してのことだったのだろう。

江戸時代、力士は「一年を十日で過ごす好い男」などと謳われていたが、現実にはそれほど生易しいものではなかったらしい。当時一場所は十日制だったが、江戸だけでも年二場所おこなわれることもあり、さらに京都や大阪での場所にも出向かねばならなかったし、その他の地方への巡業などもあったから、事実上は年間を通じフルスケジュールで活動していたらしい。なにせ現代みたいに飛行機や車、電車などに乗るわけにもいかず、もっぱら巨体を揺すっての徒歩による旅だったのだろうから、容易なことではなかったに相違ない。また、一場所十日だったといっても、土俵は野外ということで雨天には取組みが行なわれないのが決まりだった。天候不順の折などは一場所終えるのに1ヶ月を要することもあったという。

1825年(文政8年)2月雷電は他界した。59歳だった。雷電の亡骸は荼毘に付されたあといくつにも分骨された。そのひとつは生まれ故郷の大石村(現東御市大石)の地に埋葬された。雷電の墓の右隣にはその父親の関半右衛門の墓が並んで立っているが、面白いことにその墓石は酒枡に大盃を裏返しにして積み重ねた格好になっている。無類の酒好きであった父親の霊を弔うために雷電がわざわざ墓石をそのような風変わりな形にしてもらったものらしい。

雷電の墓はこのほかに松江市にある元松江藩主松平家累代の霊廟の一隅に現存している。また一つは東京都港区赤坂の三分坂脇の報土寺境内にあり、そこの墓前には雷電の手玉石と称される砲丸形の見るからに大きく重そうな玉石が並べ置かれている。雷電がお手玉に用いた石だとの言い伝えがある。

最後の一つは、雷電が相撲界から身を引いたあとの実質的な生活の場となった千葉県佐倉市臼井にある。そこには雷電夫妻のほか彼らの間にできた女児の墓などもあり、ほかに江戸時代の錦絵に描かれた雷電の雄姿を彫り刻んだ石碑なども立っているそうだ。雷電の妻はかつて成田山へ向かう街道の宿場町だった臼井の茶家の看板娘であったという。無双力士と謳われた鬼の雷電も、美人娘の魅惑的な瞳の輝きに一目惚れしたという。

雷電が他界してから三十六年後の1861年(文久元年)には佐久間象山の直筆文と揮毫になる雷電の顕彰碑が建立された。かつてその碑は名碑中の名碑と謳われていたらしいが、いつしかその碑の一部を欠き取り身に着けると立身出世したり勝負ごとに強くなったりするという俗信がはやり、表面が削り取られてついには碑文が読めない状態になってしまったのだという。そのため、明治28年に新しい碑が再建された。象山の献辞が文字通りの雷電への絶賛であることからすると、雷電という人物は想像していた以上に偉大な存在であったようだ。

雷電為右衛門が本番の江戸相撲で負けたのは、生涯で、たった10回だけだった。そして同じ相手に二度負けたのは市野上浅右エ門ただ一人だけだった。

相撲といえば、昭和の大横綱と称される双葉山は69連勝を記録したが幕内成績は276勝68敗だった。双葉山の70連勝を阻止した安藝ノ海がこれを師匠出羽海に報告した際、有頂天になった安藝ノ海に出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と言ったという有名な話がある。

雷電と白鵬が戦えばどうなるのだろう~?

2016.09.05   えんてつ   編集

えんてつ さん

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台風は、逸れたよう、、、?
恵みの夕立でしたね(*^^*)

> 歴史は死んだ者がつくった過去の物語ですから、ちょっと気が引けますな

いえいえ、そういうことではないですから、お気遣いなく。
「死語」 という言葉に、いつも疑問を感じているのですが、「死語」について書いたので(-_-;)


ちょっと忙しくて、またとりあえず(*´▽`*)
94話、95話、まとめて記録しました。

2016.09.06   麦   編集

麦さん、こんばんは。

きょうはサルが現れたというので騒ぎになりました(笑)

「死語」という概念は、人それぞれに受け取り方が違うかもしれませんが、概念としては分かりやすい「言葉」だと思います。
今の若い人が使わなくなったから「死語」というのであれば、それは違うと思います。



では、歴史夜話97を送ります。
今回は、わたしの大好きな琵琶湖の話です。
だいぶ硬い話になってますので、お暇なときに覗いてくださいませ。




琵琶湖は滋賀県に広がっている湖で、日本で最大の面積と貯水量を誇っています。その面積は約670平方キロメートル、貯水量は約28平方キロリットル、周囲長は241キロに及び、滋賀県の全体面積の約6分の1をも占めています。琵琶湖は中栄養湖に分類され、水の性質は淡水です。湖を取り囲む山々から流れ込む大小460本の河川水が源流となっています。

琵琶湖が形成されたのは、今から約400万年から500万年前ぐらいだと推察されています。
現在の三重県伊賀市付近で起こった地殻変動により、地上に大きな穴が出来あがり、そこに水が流れ込む形で湖が出来ました。これが琵琶湖のもともとの起源となった湖で古琵琶湖と呼ばれています。その後、度重なる地形変動や風水の影響を受け、この湖は長い期間をかけながら徐々に北へと移動していきました。そして今から約100万年から40万年前頃に、比良山系まで到達しました。現在は比良山系がそれ以上の湖の北上を止める形となり、現在の琵琶湖の位置が完成しました。

琵琶湖は周囲を山々によって取り囲まれており、琵琶湖から流れ出る河川は瀬田川だけです。瀬田川のある流出地域にあたる南西部を除く全ての方面から河川が流入しています。それらは大小合わせておよそ460本を数えますが、最長の河川は「野洲川」です。従って、この川の水源地である鈴鹿山脈の御在所岳(御在所山)が「最も遠い琵琶湖の源流」に該当します。琵琶湖に注ぐ川は、あまり曲がりくねったりはしませんが天井川を形成するものが多い傾向があります。

琵琶湖は縄文時代や弥生時代という大昔から交通路として利用されてきました。琵琶湖は都や海に近かったために利便性が高く、古来から栄えてきました。西暦600年頃には、時の天皇であった天智天皇により、琵琶湖西側に大津宮が置かれたりしました。戦国時代になると瀬田の唐橋を制する者が天下を制すると言われました。

江戸時代には、若狭湾沿岸から年貢の輸送路としても利用され、湖周辺にも大津から若狭湾へ向かう西近江路や若狭街道、京都から北陸道につながる北国街道などの主要交通路が次々と整備されました。江戸の交通網として栄えると近江八景という形で観光名所も生まれ、近江商人が全国に展開するようになりました。

湖上交通による荷物の輸送も活発に行われ、大津は湾岸都市として大きく栄えました。但し、こうした繁栄は明治時代までは続きましたが、昭和に入ってからはその他の陸上交通の発達や整備が進んだことを受け、地域経済は徐々に衰退していく事になりました。湖周辺では現在も経済活動は行われていますが、大都市圏に比べると劣るというのが実情です。
尚、琵琶湖という名前がつけられたのは江戸時代中期以降であり、測量技術が発達しその形状が果物の琵琶に似ていることから、この名前がつけられたと言われています。

歴史夜話97
琵琶湖は日本で最大の面積と、最大の貯水量を誇る巨大湖ですが、もともとは現在ほどの大きな湖ではありませんでした。琵琶湖の起源となったのは、現在の三重県周辺エリアに出来た湖で地質学上は「大山田湖」と呼ばれています。これは現在の琵琶湖の大きさの10分の1の大きさにも満たない小さな湖でした。この小さな湖は、今から約400万年から600万年前に、三重県周辺で起こった断層活動により出来ました。断層活動により、数キロ平方メートル規模の大きなくぼみが生じ、そこに雨水が流れ込み、小さな湖を形成したのです。

そして、その後この湖が地殻変動の影響を受け北上していき、現在の琵琶湖の位置まで移動していったのです。何故、その小さな湖が現在のような大きな湖になったかと言うと、地殻変動を受け北上していく過程の中で、周辺に存在していた幾つかの湖と合体していったからです。北上の過程で他の湖とぶつかり、合体し大きくなりながら、さらに北上していったのです。

起源となった小さな湖「大山田湖」が、最終的に現在の琵琶湖を形成するまでの過程において、少なくとも3つの湖と合体したことが分かっています。まず最初に合体したのは、「阿山湖」と呼ばれる湖でした。阿山湖と合体したのは今から約270万年から300万年前だと言われています。この阿山湖と合体した事で、現在の琵琶湖の約2分の1の大きさになりました。

その次に合体したのは「甲賀湖」です。甲賀湖も阿山湖に匹敵するほど大きな湖でした。これと合体した事により、ほぼ現在の琵琶湖と同じぐらいの大きさになりました。この甲賀湖と合体したのは、今から約250万年から270万年前だと言われています。

そして最後に合体したのが、「蒲生湖」です。こちらは阿山湖や甲賀湖に比べると比較的小さな湖ではありましたが、それでも起源となった大山田湖の2倍の大きさはあった湖です。
蒲生湖と合体したのは今から約160万年から250万年前だといわれており、この合体を経て、現在の琵琶湖は誕生しました。

琵琶湖は古くから人々の交通や物資の輸送路の要として重宝され、特に物資の輸送路としては非常に重要な役割を果たしてきました。琵琶湖が淀川となって大阪湾に流れる位置関係から、若狭湾で陸揚げされた物資が琵琶湖上の水運を介して、京都や大阪に輸送されていったのです。京都や大阪は古くから非常に栄えてきましたが、もし琵琶湖が存在しなければ、それほどまでには栄えなかったと指摘する専門家もいる程です。

しかし、重要な輸送路として位置づけられていたのは近代に入る前までの話です。
若狭湾から京都や大阪への輸送は、明治時代以降も暫くは隆盛でしたが、昭和に入ると他の陸上交通の発達によって次第に衰退して行きました。昭和に入ると、自動車や鉄道の整備が急速に進んだため、もはや水運に頼らなくても簡単にこれらの都市に物資を輸送することが可能となった為です。特に若狭湾から京都・大阪はそれほど距離があるわけでもない為、陸運の方が水運よりも早く物資を運べたのです。

琵琶湖を介した水運が衰退していくに連れて、かつては栄えていた周辺都市も徐々にその活況を失っていく事になりました。特に1940年代や1950年代に入るとその衰退は一層顕著となりました。その後、高度経済成長期に入ると、こうした衰退を食い止めようと、琵琶湖から運河を掘削し、日本海と太平洋、さらには瀬戸内海をも結ぶという運河構想が持ち上がりました。

この計画は1962年(昭和37年)にまとめられ中部横断運河計画と呼ばれ、福井県・滋賀県・岐阜県・愛知県・三重県等が協力し、実行に移そうと調整を開始しました。この大計画は、総工費2500億円から3500億円にも及ぶものであり、周辺都市の衰退を食い止める起死回生の一手として大きな注目と期待を集めました。しかしながら、多くの都道府県を跨る計画であったために費用負担等の調整が難航し、また調整期間中に計画を立ち上げた中心人物が相次いで死去した事などが影響し、最終的には実現することなく、中止されました。

その後は、琵琶湖の水が「近畿の水瓶」として注目されるようになり、1972年(昭和46年)から琵琶湖総合開発計画として実施されました。事業は、琵琶湖の水質や恵まれた自然環境を守るための「保全対策」、琵琶湖周辺の洪水被害を解消するための「治水対策」、琵琶湖の水をより有効に利用できるようにするための「利水対策」の3つの柱で構成され、国、地方公共団体が実施する「地域開発事業」と水資源開発公団が行う「琵琶湖治水及び水資源開発事業」(琵琶湖開発事業)により、事業相互に調整を図りながら進められました。

この事業は20年以上の歳月を経て、平成8年度に、地域開発事業も終了し、琵琶湖総合開発事業が終結しました。施策の3つの柱の中には、「自然保護」という名目がありますが、それは人間中心の観点で、琵琶湖の生き物を主眼にしたものではありませんでした。琵琶湖の護岸のかなりの部分が舗装道路となり、これにより生態系が大きく破壊されました。

2016.09.06   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

サルで大騒ぎでしたか。
旅先の野山に出たサルは、かわいがられて騒ぎになりますけどね(*^^*)

「死語」という言葉を論じたのではなく、日常で使われる言葉に「死」という文字が使われることの疑問でした。


ラストスパート97話は、琵琶湖ですね。
地図では、滋賀県の半分以上を琵琶湖が占めているくらいに思っていたので、6分の1と知ったときは、ビックリでした。

2016.09.07   麦   編集


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