るりとうわた色の空に

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歴史夜話 (60) ~ (78)



増田長盛の報告に怒った秀吉は、日本征服の先兵たる宣教師とキリシタンの撲滅に動き出す。折しも、フィリピン総督使節として来日し、布教しないことを条件に京都に住まわしていたフランシスコ会士達が、公然と布教に従事していた。秀吉はこれを強く非難し、大坂・京都にいた宣教師達の逮捕を命じた。

逮捕に際して、石田三成や小西行長らは逮捕者を最小限にとどめ、イエズス会の中心人物は逮捕をまぬがれるように配慮した。その結果、1596年(文禄5年)12月9日、6人の外国人フランシスコ会士、18人の日本人のフランシスコ会修道士、同宿が逮捕された。同宿とは、宣教師に同行し世話をする人達で、伝道士と呼ばれることもあった。これら24名の伴天連たちは秀吉から過酷な弾圧を受けた。

逮捕された24人の伴天連たちは1597年(慶長2年)1月、京都・一条戻り橋で全員、左耳や鼻を切り落とされると、血に染まった傷口を覆う間もなく、市中を引き回された。そこで秀吉から下ったのは処刑の命令だった。しかも、刑場は850キロ先の長崎の西坂で、刑場まで歩くという過酷ものだった。

歴史夜話78
1597年(慶長2年)1月3日、一条戻り橋で左耳や鼻を切り落とされた24人は牛の荷車で引き回された。当時、長引く戦乱のため崩壊寸前だった京都で人の集まる町は、現在の今出川通周辺の「上京」と四条通周辺の「下京」で、両町を結ぶ道は室町通しかないという有様だった。受刑者を引き回す8台の荷車は列をなして一条通を東へ向かい、室町通から南下したのち西海へと旅立った。

途中の西宮あたりで、宣教師のオルガンチノから24人の道中の世話をまかされた京都のペトロ助四郎とフランシスコ吉ら2人が続けざまに受刑者の列に加えられるよう願い出る。フランシスコ吉は京都のフランシスコ修道院近くに住み、事件後もみずから磔刑を志願していたが、加わることができなかったので、行列が休息する一行の中に飛び込み、バプチスタの足に泣いてすがりつき、列に加わったという。

ここで26人となった受刑者は19日には現在の岡山市から三原へと進み、22日に広島市に入っている。三原では14歳のトマス小崎が城の牢内で、伊勢で暮らす母親に信仰を捨てないよう求めた手紙を書いている。この手紙は母に渡ることはなく、同じく捕らえられて処刑された父親・ミゲルの襟元から血の付いたかたちで見つかり、その訳本がローマに保管されている。

 28日、下関に着いた26人は船で九州・小倉に渡ると唐津、武雄、嬉野(うれしの)を通り、長崎・彼杵(そのぎ)に到着したのが2月4日午後で、目的地の西坂は目の前に広がる大村湾の対岸にあった。舟で対岸に着いたのが午後11時ごろだったため、舟で一夜を過ごし、刑場に着いたのは5日午前9時半ごろであった。この時、混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにもかかわらず、4千人以上もの信者がまわりを取り囲んでいた。

ルイス・フロイスの記述によると、刑場には他の罪人の十字架も数本立っていた。すでに26人の十字架を立てるための穴も用意され、穴の前には十字架が1本ずつ置かれていたという。到着するなり刑は執行された。縄は刑場内で解かれるが、今度は横たわる十字架上に鉄枷(かせ)で手足を、縄で首と胴を固定したあと十字架の下部を穴の中に落とすように入れて一斉に立てられると、周囲からは悲鳴にも似た叫び声が起こったという。

整然と一列に並んだ十字架の両端には4人の執行人が槍を持って立っていた。2人一組で左右から両脇のしたを突き刺す。槍の先が心臓を貫くため、ほとんどがひと突きで息絶えるが、すぐに死ねない場合は絶命するまで何度も刺したようだ。パウロ三木は説教者にふさわしく、絶命するまで周囲の人たちにキリスト教を信仰するよう大声で説いたと記録されている。26人の中には12歳のルドビゴ茨木をはじめ、4人の十代の少年も含まれていた。遺体は一ヶ月以上、磔のままさらされた。

この処刑の翌月、再び伴天連追放令が発布され、宣教師達は次々と国外追放された。赴任したばかりの初代日本司教マルティンスも長崎居住を諦め、マカオへ去った。教会の破壊も相次ぎ、再び日本キリシタン教界に危機が訪れる。ところが1598年(慶長3年)9月18日、太閤秀吉が死去し、キリシタン教界にまたも転機が訪れることになる。

こうした状況下、巡察使ヴァリニャーノが日本へ派遣された。彼の仕事は、布教活動が公に再開されるだろうことを見越した、布教体制の再建にあった。

1599年(慶長4年)2月から10月までのわずか9ヶ月間にキリスト教への改宗者が、4万人にもおよんだ。これには石田三成がヴァリニャーノにイエズス会士を保護することを約束したことや、徳川家康がフランシスコ会士ヘスースを江戸に呼び、江戸滞在と一般市民への布教を約束したことが大きく影響していた。

石田三成はキリシタン大名小西行長を味方に引き入れるため、伴天連教界の保護を約束する。しかし三成と行長は、関ヶ原合戦にて家康に破れる。小西行長はキリシタンであったので、切腹でなく斬首を死に方として選んだという。ともあれ伴天連教界は、保護の約束と大旦那とを失ったのであった。かくして、天下の趨勢は徳川家に固まり、その後の伴天連教界は家康の手に握られることになったのである。



  1587年(天正15年)6月19日、時の関白・豊臣秀吉より伴天連追放令が出された。布教は拡大する一方であった伴天連教界にとって、それはまさに突然の出来事であった。

伴天連追放令の発布理由は、確かなことはわかっていない。おそらく秀吉の統一事業が完成に向かうにつれ、伴天連の結束力を驚異と感じるようになったのではないだろうか。一向一揆や国人一揆の団結力を目の当たりにしていた秀吉が、九州に来て伴天連の状況を把握して、伴天連が一向宗や国人以上の脅威となりうると感じたのであろう。

歴史夜話77
追放令に先立つこと2日、6月17日、日本準管区長コエリョを訪ねた高山右近は、先の秀吉による九州知行割りで、キリシタン大名が九州に集中する事となったことについて言いしれぬ不安を口に出していた。コエリョは九州の伴天連教界がさらに拡大すると楽観的であったが、右近は何か急変か迫害の予感を感じていたに違いない。

翌6月18日、秀吉から「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事」という一文から始まる朱印状が出される。「キリシタンになるかどうかは、その者の心次第である」と言った意味である。この朱印状の大体の内容は、伴天連の神社仏閣への破壊活動や、巡回布教を取り締まる、と言ったところであった。ところが翌6月19日に急遽出された伴天連追放令は、20日以内の外国人宣教師、日本人修道士の国外退去、布教禁止などを盛り込んだ、苛烈なものとなっていた。

おそらく6月18日の朱印状は、高山右近に棄教を命じたものだと考えられている。伴天連の大旦那と目されていた高山右近が棄教すれば、その団結力も大幅に減じる。また右近が棄教すればキリシタン大名の多くが棄教する、下層平民がキリシタンとなっても、そう恐れるものではない、これ以上拡大しなければよいのだ、との考えで朱印状は出されたのであろう。

しかし秀吉の思惑とは裏腹に、高山右近は棄教をかたくなに拒んだ。激怒した秀吉は高山右近をただちに改易した。右近の態度に伴天連への恐れを更に強くした秀吉は、伴天連追放令を発布した。その結果、イエズス会の教会、病院、学校など次々と破壊されていく事となり、長崎のイエズス会領も没収されることとなった。

これに対し、コエリョはとりあえず6ヶ月間船が出ないので、20日以内の国外退去は無理、と秀吉の使者に伝える。秀吉はこれを認め、平戸に船が出るまで宣教師が滞在する事を許した。ここで日本準管区長コエリョは会議を開き、死を賭して日本に残留することを決定し、日本教会は存続することになった。彼らは有馬・大村・天草のキリシタン領主の元に潜伏し、表だった積極的な布教活動は控えることになった。

こうして伴天連追放令は出されたのであるが、秀吉はポルトガル商船の来日まで禁止したわけでは無く、むしろこちらは歓迎していた。南蛮貿易によってもたらされる利益や物品は秀吉にとって大きな魅力であったからである。現実には、ポルトガル商船とキリスト教は深い結びつきがあったので、結局の所秀吉は、驚異を感じつつキリスト教を黙認せざるを得なかったのであった。しかしながら、おおっぴらな布教は出来なくなったので、以前ほどの布教拡大は難しくなっていったのである。

1590年(天正18年)、天正遣欧使節が帰還する。出発したとき少年であった彼らも若者となっていた。彼らは、ヨーロッパのどこででも歓迎を受け、ヨーロッパキリスト教世界のすごさを目の当たりにしてきた。また彼らがローマに与えた影響も大きく、日本ブームが各地で起こり、日本への布教熱は一気に燃え上がり、日本布教を行ったイエズス会の名を高めた。

秀吉に謁見した際、4人の遣欧使節達はクラヴォ、ハープ、リュート、レベックの合奏をおこない、秀吉はそれに聞き入り3度のアンコールを要求したという。秀吉は使節の一人、伊東マンショを召し抱えようとするが、マンショはこれを断る。その後、4人の天正遣欧使節はイエズス会に入会、日本教界のために働くこととなる。千々石ミゲル以外の三人は司祭となり布教に従事する。そして伊東マンショは病死、千々石ミゲルは棄教、原マルチノは追放、中浦ジュリアンは殉教、と日本キリシタンの歩む道を彼らも歩んでいった。

さて、こうした禁教令下にイエズス会士であるヴァリニャーノは、イエズス会巡察使としては日本に来ることが出来なかったので、インド副王の使節として来日した。秀吉に謁見し、禁教令撤廃という目的は果たすことは出来なかったが、ポルトガル貿易継続のために宣教師10人の長崎滞在を許可される。これをきっかけとして禁教令は骨抜きにされていくかと思われた。

しかし、ここでイエズス会とは異なる、新たな修道会フランシスコ会の来日によって、事件は起こる。

1587年、伴天連追放令は出されたが、南蛮貿易奨励のためには、ポルトガル商船と切っても切れない関係にあるイエズス会士をないがしろにするわけには行かなかった。追放令の建前上 いくつもの教会や施設が破壊されたが、ポルトガル人のためにと言う名目ですぐに再建される所もあった。

またこの頃、ポルトガル風の衣装やアクセサリーが流行、キリシタンでも無いのにオラショを唱える姿が見られたり、追放令を出した秀吉自身が、聚楽第でロザリオを身につけていたことが明らかとなっている。大っぴらな巡回布教は出来ずにいたが、九州地方では受洗者も増え続け、日本キリシタン教界は復活の兆しを見せていた。

そんな中1593年(天正20年)、フランシスコ会士がフィリピン総督使節として来日する。これは、秀吉がフィリピン征服のため、同地に朝貢を命じていたものの返答のための来日であった。この新たな修道会の来日から悲劇が起こる。

それまで日本布教はイエズス会の独占状態にあり、教皇からもその旨の勅書が出ていた。それを不服とするスペイン系修道会は、その勅書の取り消しを誓願し、また日本布教に熱い眼差しを向けていた。また日本からもフランシスコ会士を招聘する動きがあったという。ともあれフランシスコ会士達は、フィリピン総督使節と言う名目ではあるが来日した。そして京都で公然と布教を始めたのである。教会や病院を建て、布教に従事した。伴天連追放令下であることから、イエズス会は、あからさまな布教活動は控えるようにとの助言を出したが無視された。

その頃1596年(文禄5年)土佐浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が、台風のため漂着した。日本では、漂着した船の積み荷はその土地の領主の物、という慣習法があった為に、積み荷は長曽我部氏により没収され、秀吉にその旨を報告した。これに対し、この船の船長マティアス・デ・ランデーチョはこの暴挙に怒り、在京のフランシスコ会士を通じて秀吉に嘆願したが、すでに五奉行の増田長盛が積み荷引き取りの任を帯びていた。

増田長盛は浦戸へおもむきスペイン人航海士ランディアを尋問した。航海図を眺めて「スペイン人はいかにして、フィリピンやヌエバ・エスパーニャを奪ったのか」と聞くとランディアは、積荷の返却と長盛を威嚇する目的で、スペインの世界的覇業を語った。長盛が「その覇業のためには、まず宣教師が来なくてはならないだろう」と問うと、ランディアは、そうだ、と答えたと言う。

長盛は秀吉に「スペイン人は征服者であり、彼らはまず他国に修道者を入れ、その後に軍隊を入れ征服する、それを日本でもやろうとしているのだ」と報告したという・・・・これがサン・フェリペ号事件である。

この報告は秀吉を激怒させた。伴天連追放令発布の際、秀吉はキリシタンの結束も恐れていたが、宣教師の背後にいるスペイン、ポルトガルも恐れていた。その危惧が現実の報告となって耳に入ったのである。さらに自らも朝鮮征服を目論む征服者であったから、なおさらいらだち激怒したのであろう。

これが日本二十六聖人の殉教に繋がっていくことになる。次回78話は、この大規模なキリシタン弾圧事件に触れる。



 1549年(天文18年)8月15日、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来日した。ザビエルはマラッカで日本のことを薩摩武士のアンジロ-から聞き日本行きを決めた。アンジロ-は薩摩で殺人を犯してマラッカに潜行していた。

ザビエルに対面した島津貴久は南蛮貿易の利を考えて布教を許可した。しかし思惑通りに貿易船が来ないことから布教を禁止した。そこでザビエルは薩摩から京都に出て将軍に布教許可を得ようとする。しかし、京都は戦乱で荒廃しており、山口で布教し、次いで府内で布教を行った。

その後、ザビエルに続けとばかりに3人の布教者がやってくる。ガスパル・ビレラ、ルイス・フロイス、アレッサンドロ・ワリニャーニである。ビレラはイエズス会の生みの親であった。しかし京都で大道説教をして笑い者になって迫害されたが、三好長慶の目にとまって堺で布教し、堺を自由都市として評価した人物となる。

フロイスは信長と面会し質問攻めにされる。ここで信長は布教を公認し、京都に南蛮寺建設を許可する。後に「日本史」を著し、当時の日本の状況を知る好史料となっている。フロイスは信長を唯物論者と評価していた。

ワリニャーニはイタリア人で、長崎で布教して活字印刷術を伝える。これで聖書などを印刷し布教を行った。

歴史夜話76
織田信長が伴天連教(キリシタン)布教を公認すると、大名の中にも貿易の代償として領内での布教を許す者が続出する。そして更なる貿易利益の獲得を求めて自ら入信する大名も現れる。大村純忠、大友義鎮、有馬晴信である。大村 純忠は最初に洗礼を受けた大名で1580年(天正8年)、長崎をイエズス会 に寄進し「日本のマカオにしたい」といった。

大友義鎮は49歳で洗礼を受け、反対する妻を離婚した。洗礼名をドン・フランシスコと称した。国内での信者が増加すると各種の専門施設も建設された。有馬晴信はワリニャーニに日本最初のセミナリオ(布教のための神学校)を領地有馬に造らせた。コレジオは神父を養成する施設で府内に最初に建設された。神父は「Padre」が訛ってバテレ ンと呼ばれるが、日本人でバテレンになった者はいない。修道士はイルマンと呼び、日本人のイルマンはたくさん養成された。また南蛮寺という仏寺を教会にした施設も造られた。これは1552年の山口大道寺が最初で、1560年にはビレラが京都にも造った。

1582年(天正10年)大村、大友、有馬の3大名がワリニャーニの勧めで使節団をロ-マに派遣した。「天正遣欧使節」と呼ばれる使節団のメンバ-は、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、伊東マンショの4名で13~14歳だった。使節団はインドのゴア経由でリスボンに行き、1585年、グレゴリオ3世に面会、ローマ市民権を与えられた。しかし、1590年に帰国したときは秀吉の時代になっており伴天連禁止令が出ていた。不幸にも使節団は帰国と同時に犯罪者として束縛された。

その後、伊東マンショは病死。原マルチノは語学ができたので、一時秀吉に仕えて通訳や出版に従事したがマカオに追放される。千々石ミゲルはイルマン(修道士)になったが、改宗して大名に仕えた。中浦ジュリアンは布教して刑死した。

伴天連(キリシタン)は、民衆に対しては病気治しをおこなって信者を増やしたが、庶民的には仏教の一派と考えられていた面がある。1598年ごろには30 万人の信者を獲得したとの報告がある。その後増えて最大60万人とも言われている。


 濃尾平野を流れる三大河川の木曽川・長良川・揖斐川は、江戸時代には乱流河川となっていて、現在の大垣市墨俣(すのまた)町より南の地域は、一本の川になっていた。このため大雨のたびに氾濫し、地域住民はこの自然の威力にただただ逃げまどうばかりでした。

江戸幕府は大名統治の一環としていわゆる多くの土木工事を命じて莫大な財性負担を課しました。なかでも薩摩藩は、外様藩であり、関ケ原の合戦では豊臣方に参戦するなど、幕府を脅かす南海の雄藩でした。

幕府は薩摩藩に、藩の財政力を弱めるため、大規模な治水工事を計画しその工事を命じました。この事業が、「宝暦(ほうれき)の治水工事(堤防や洗堰の建設)」と呼ばれるものです。この工事で薩摩藩は、30万両とも40万両(現在の金額にして 300億円以上)とも言われる大金と多くの犠牲者を出し、幕府役人の圧迫や病に苦しめられながら、血と涙と汗で見事に完成させました。 
 
この治水工事を総奉行として指揮した薩摩藩士・平田靭負(ひらたゆきえ)は、工事中に多くの死病者を出し、また多額の費用を費やした責任を負い、1755年(宝暦5年)5月25日、工事完成の翌日に割腹し果てました。時に52歳でした。この事実は幕府によって140数年間、闇に伏せられたままでしたが、1900年(明治33年)薩摩義士の偉業として明らかになりました。

歴史夜話75
「宝暦の治水工事」は地元の人々に多くの恩恵を与えました。宝暦治水工事が行われた当時、桑名郡戸津村(現在の桑名市)の代官職であった西田喜兵衛は、薩摩藩士に住居を宿所として提供するなど、協力を惜しまない人でした。西田家では、「薩摩のご恩、忘るべからず」ということを言い伝え、代々、宝暦治水の顕彰活動に尽力しました。

1753年(宝暦3年)、幕府から宝暦治水を命じられた薩摩藩では、この工事を引き受けるか否かで紛糾し幕府との開戦論議さえ起こりました。この時、家老であった平田靭負は「幕府と戦えば、薩摩は戦場となり、罪もない子どもや百姓までもが命を落とす。ならばこの治水事業を引き受け、異国といえど美濃の民百姓を救うことこそ、薩摩隼人の誉れを後世に知らしめ、御家安泰の基となろう」と、いきりたつ家臣を説得、幕命を受けることとなりました。

1754年(宝暦4年)1月、総奉行・平田靭負は947名の薩摩藩士を率いて故国を出立しました。途中大阪に立ち寄り当座の工事費数万両を調達した後、美濃の大牧村(現在の岐阜県養老町内)の鬼頭兵内宅を本小屋とし、同年2月より工事は始まりました。

しかし、美濃のように大河のない薩摩藩士にとって、目前を流れる木曽三川はまるで手に負えません。刀を持つ手を鍬にかえ、暴れ狂う濁流に向かったのでした。しかも、薩摩藩士を待ち受けていたのは幕府による冷遇でした。「食事は一汁一菜、酒や魚は一切禁止」という日常的なことから、町方請負禁止などの工事上の難題にいたるまで、さまざまな悪条件のもとで、工事は行われたのでした。

1755年(宝暦5年)二年余りかけて工事は完成しました。その成果は、幕臣からも賞賛を受けるほど、見事な出来栄えでした。しかし、工事では、薩摩藩士の死者87名、うち、自刃した者54名という犠牲者がでたこと、洪水による竣工部の被災などの苦労や、幕命による度重なる計画変更、追加工事などの過酷な条件を乗り越えての完成でした。

5月24日国元の藩主宛に工事がすべてとどこおりなく終わったことを報告する手紙を書き、その翌日未明、大牧村(現・養老町)の薩摩藩役館で自害しました。52歳でした。藩主への報告の手紙には、一切自分の苦労を書かず、工事完成の喜びだけを書いています。

辞世の句
「住みなれし里も今更名残にて 立ちぞわづらふ美濃の大牧」

1938年(昭和13年)平田靭負をはじめ工事中に亡くなった薩摩義士の人々は治水神社(現・海津町油島)に祭られました。



 1862年(文久2年)3月23日、脱藩の決意を固めた龍馬は、酒をもって吉野の花見にと土佐高知神田の和霊神社に詣で、武運長久を祈願し水杯をもって、決別の覚悟を秘めたと伝承されている。

伊予宇和島藩の家老、山家(やんべ)公頼は通称・山家清兵衛と呼ばれていた。宇和島藩のお家騒動の渦中で命を落としたが「宇和島の菅公」とも云われ神様になった人物であった。

歴史夜話74
山家清兵衛の先祖は山形城主最上家の臣で最上義守の娘の義姫が伊達輝宗に嫁いだ時に清兵衛の父・公俊が付人として伊達家の臣となった。

1615年(元和元年)伊達政宗の長男(庶子)の伊達秀宗が、宇和島十万石に封じられた。その時、政宗が、家臣の中でも力量手腕の優れた「山家清兵衛公頼(やんべせえべえきんより)」を総奉行として藩政を委託した。清兵衛は藩の財政の立て直しに力を発揮し、宇和島藩は少しずつ豊かになっていくかのように思えた。
 
1619年(元和5年)幕府より大阪城石垣工事の命が下った。工事費用は、課役と言って宇和島藩で全て負担することになった。ようやく、藩の財政が落ち着きかけた時であり、この出費は頭の痛いものだった。このことがきっかけで、家老の桜田玄藩と山家清兵衛の各々のやり方が対立した。ついに桜田玄蕃は藩主秀宗に讒訴した。

1620年(元和6年)6月30日の夜、藩主伊達秀宗の意を受けた武士たちが山家邸を襲い、清兵衛を始め、二男、三男および縁故者までも殺害し、四男美濃(9歳)をも井戸に投げ入れて殺害した。更に清兵衛派の腹心・峯金三郎も殺害され、渡瀬太郎兵衛、小間木弥主膳らが逐電するという宇和島伊達騒動と呼ばれる事件が起こった。

ところが清兵衛を讒訴した桜田玄蕃は1632年(寛永9年)法事中に大風で落ちた本堂のハリで圧死、それ以後この事件に関与した者が相次いで海難や落雷で変死したため、人々は清兵衛の怨霊の祟りと恐れ、信ぜられるようになった。1653年(承応2年)藩主伊達秀宗はその霊を城北の地にまつり山頼和霊神社を建てて清兵衛を祀った。

仙台藩・四代伊達綱村の宇和島・二代伊達宗利宛の書状に「兼て及承候ハ、秀宗公山家清兵衛と申者御成敗(かねてうけたまわりおよびそうろうは、秀宗公山家清兵衛と申す者ご成敗)」とあり秀宗の密命により成敗されたことは明らかであり、父・政宗はその報告に激怒したという。

和霊神社は江戸中期から幕末・明治にかけ和霊信仰として流行して各地に伝播し、現在四国・中国地方瀬戸内海沿岸を中心に130社以上の和霊神社がある。


  日本国憲法は誰が書いたのか!? この議論は先の日中戦争や太平洋戦争が正義の戦争だったのか侵略戦争だったのかという論争にも関わってくる。自民党内の安倍一強体制は憲法9条を改正して、自衛隊を日本の正規軍にしようという企みを見せ隠してきましたが、改憲勢力が国会を牛耳ったことで表面上はト-ンダウンに見せかけて当面は国民懐柔路線へと切り替えたように見える。

いまアメリカでは次期大統領の候補者選びが終了して本選に向けての論戦のまっ最中です。そんななか、ジョセフ・バイデン米副大統領が8月15日、ペンシルベニア州スクラントンで開かれた民主党大統領候補のヒラリー・クリントン氏の集会に初めて参加した。そこで行った演説の中には日本にとって非常に重大な発言があった。

歴史夜話73
その重要な発言は対立候補であるドナルド・トランプ氏の発言内容に関連したものだった。共和党大統領候補のドナルド・トランプ氏はかつてインタビューの中で「日本が在日米軍駐留経費を全額負担しないと言うのであれば、日本は自力で国を守るべきだ。そのために核兵器を保有するというのであれば、それはそれで結構だ」といった趣旨のこと語った。

バイデン副大統領はこの発言に反論する形でこう発言した。「トランプ氏は、私たちが書いた日本の憲法で(日本は)核兵器保有国になれないことを理解していない」・・・・・・英語の原文では「Does he not understand we wrote Japan’s constitution to say they couldn’t be a nuclear power?」とあり、確かに、「私たち(米国)が書いた」と書かれていたのだ。政治集会での過激な発言?だとしても、現職の米国副大統領が「私たちが日本国憲法を書いた」と表現するのは極めて異例のことだ。

しかし、不思議なことに、インタ-ネットで流れてくるだけのニュ-スで、どの国内メディアも大きく取り上げることもなく、護憲派からの強い反発も、改憲派からの「やはり占領軍の押し付け憲法だった」といった類のコメントも出て来てはない。

安倍首相は右翼・日本会議のメンバ-で、言わずと知れた憲法改正論者である。安倍首相の根底には、日本の戦争放棄を謳った憲法9条の成立過程について、連合軍最高司令部(GHQ)から押し付けられたものであるとの認識がある。安倍首相は戦後生まれではあるが、憲法に関しては安倍首相の敬愛する祖父・岸信介元首相の強い影響が見られる。

岸信介氏は1948年12月に巣鴨刑務所から釈放されてから1953年4月に政界復帰するまでの期間、故郷・山口県田布施町に隠遁していたが、当時の後援会小冊子に「憲法は云ふまでもなく独立国の拠つて立つ根本法である。現行の憲法が占領下に於て時の占領軍の最高司令官から押し付けられたものであり、原文が英語で書かれた翻訳憲法であることは今日では公知の事実である。斯くの如き憲法を持つて居る独立国は古今東西に其の例を見ざるところである。」と書いている。

岸信介氏は政界復帰後の54年3月、当時の自由党内に発足した憲法調査意会の初代会長に就任するが、そのはるか前から「現行憲法はGHQの押し付け」という認識を抱いていたのは明らかで、そして、安倍首相はそれを確実に継承している。

しかし、安倍首相自身も安倍内閣の閣僚も今回のバイデン米副大統領の発言に我が意を得たりというコメントもなく談話のひとつも流れて来ないのは不思議なことだ。一体全体なぜなのか。

その理由があるとすれば・・・一つしか考えられない。先般流された天皇陛下の「お気持ち」表明に込められた生前退位の問題が、事実上の政治意味を持ったからだろう。いま我が意を得たりという改憲問題を天皇の生前退位問題よりも先んじて論ずれば国民の支持を失う危険があるという判断を安倍政権サイドの小姓たちが下したのだろう。

日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 


 1602年(慶長7年)2月1日、井伊直政は関ヶ原の合戦での過労と島津義弘軍の追撃で受けた鉄砲傷の破傷風が元で、43歳で死去した。このとき直政は家老の木俣守勝を枕頭に呼び後事について遺言した。「井伊家は徳川殿のお取り立てによって今日があることを忘れてはならぬ。徳川家へのご奉公第一につとめること、忠節一筋を心掛けよ。これは代々家を継ぐものに申し送って、違反の無いようにさせよ。また井伊家では将軍家やその一門など、権勢高い家とは婚姻を結ばないよう」であったと伝えられている。

歴史夜話72
井伊直政は関が原の合戦の功で近江佐和山18万石の大名となった。しかし、合戦で受けた傷がもとで藩主として国を治めることができなかった。彦根藩は直政の後を次男の万千代 (幼名・直継のちの直勝)が継ぐことになった。直勝は13歳だった。

このとき、家康は彦根藩筆頭家老の木俣守勝を幼主直勝の補佐役に命じた。この時期は彦根城築城も始まっており、木俣守勝は総奉行を務めていた。木俣は彦根藩の後継体制が整うと徳川家康を御礼に訪ねた。その時、家康は木俣をそば近くに召して、「佐和山城は東西南北の各地にわたり、諸国の押さえ足るべき要地であるから、ことさら重要視している。汝はいよいよ幼君を守護せよ。天下の大事はここにあるぞ」と告げた。

木俣守勝は、徳川家康が佐和山を重要視しているのかと、その守りを我が井伊家に託されていること、その責任の重大さに身を震わせて御前を退出したという。

木俣守勝は1555年(天文24年)三河に生まれ、父の代より徳川家康に仕えた三河譜代の家柄であったが、家族と仲違いをして、一時明智光秀に仕える。光秀配下で軍功があり、強制的に家康から帰参を命じられた。本能寺の変後の甲州平定において、守勝は北条との交渉の副使になった。このときの正使は直政である。守勝は年下の直政をよく補佐し、北条家との交渉をうまく進めた。

また1582年(天正10年)の本能寺の変では、家康の伊賀越えを警護した。また旧武田軍の武将をまとめて井伊直政付とし、直政を侍大将とする軍団を創った。このとき兵士のまとめ役として木俣が専任された。家康は、守勝が武田旧臣らを統率できると見込んで井伊直政隊の隊長とした。直政亡き後の彦根藩を支えたのは木俣守勝の力が大きい、隠れた名武将だろう。


  御殿場村(現・静岡県御殿場市)は1615年(元和元年)徳川家康の旅宿として建てられた「御殿」を中心に作られた新しい町だったが、翌年家康の死によって御殿は一度も使われることなく終わった。この新しい町は付近の旧集落を再編成して移住政策でつくられた。

この新しい町を発展させたのは奥住新左衛門というひとりの浪人だった。この土地は、江戸時代には駿河国駿東郡鮎沢庄御厨領竈新田と呼ばれていた。新左衛門は信州真田氏の浪人であったがもとは越前浅井氏の家臣で、浅井氏滅亡後、真田氏に仕えたらしい。その後浪人して川中島付近に隠棲していた。

1837年(天保8年)この土地で「二宮尊徳」という啓蒙家が教訓を残した。少し前までは国内の多くの学校に二宮尊徳の像が立っていた。

歴史夜話71
竈新田完成の4年後の1642年(寛永19年)新左衛門は小田原城主の稲葉丹後守正勝に仕官した。この時新左衛門は自ら開発した竈新田を、そのまま所持地と認められ、稲葉氏の家臣となった。この土地は、1632年(寛永9年)領主忠長が家光によって改易され、小田原城主に封ぜられた稲葉丹後守正勝が、1万石の替地として支配するところとなっていた。

1837年(天保8年)春、稲葉氏の所領の御殿場御厨領において二宮尊徳が村人に話をした記録が残されている。

その内容は以下のとおり。

家を保つも身を治むるも、金銀のできるも、何の不思議はない。誠の一つをもって貫くのじゃ。誠は天の道、これを誠にするは人の道というものじゃ。粟を蒔けば粟が生え、麦を蒔けば麦が生え、米を蒔けば米が生え、皆その通りに性命を正しうする。これを天の道という。

それをおのれおのれが勝手に朝寝をしたり、遊んで食ったり、寝ていて食ったり、ぐたついて過ぎようとは、粟を蒔いても麦を蒔いても、米を取ろうとするようなもので、田にも畑にもろくろくな肥料もなさずにおいて、働かせようとするゆえ、去年のような凶作には人より先へ、食糧を天からお取り上げじゃ。これが粟を蒔いて粟が生えたのじゃ。田畑を飢えに及ばしたからおのれおのれも飢えに及ぶのじゃ。何の不思議はない。これが天の道じゃ。かように善悪ともに報うのじゃ。

さすれば飢えるともくたばるとも勝手次第にするがよい。平生田畑へ肥料をたんとやっておいた人は、去年も今年も食糧に差し支えはない。米を蒔いておいたから米が取れたのじゃ。皆々銘々精根次第の手細工じゃ。

それじゃによって、飢えるものは飢えても、くたばるものはくたばってもよけれども、同じ村に生まれて、同じお百姓同志なれば、同じ家内も同然のようなれば、家内の肉のけずれるのを見ていても済まぬによって、有る者はこの節融通してやるがよい。50年に1度のことなれば、この節、人の命の救い時じゃ。救うた者は忘れるがよし、救われた者は子々孫々まで忘れぬがよし。

また、御拝借5か年賦は、銘々その日その日の家業の外に、夜、縄なりワラジなり、または山付きならば定まりの外に朝起きして炭なり何なり、それぞれ得手得手の余業を励み勤めるなり。その上一統申し合わせ大倹約をいたし、また祭礼仏事等も、寺々への付け届け厚く相勤め、そのほか普請(ふしん)家作(かさく)・月待・日待・振舞いごと、その外何によらず、不用の事、不用の品を少分たりとも求めること一切慎むのじゃ。

このたび露命をつなぎし事を忘れずば、5年や10ヵ年は何でも勤まる倹約じゃ。この所をよくよく感心して、本心に立ち返り勤めさえすれば、何ほどの凶作でも、凶年もないが別に豊年もない。ぜんたい年々豊凶は6,7月より知れてあることじゃ。いよいよ今年5分6分、2分3分作の陽気と見えたら、それぞれの暮らしを付けねばならぬ。ことに去年のこの辺は、2分3分見定めても、それをうかうかと平年の7,8分の暮らしをしておるによって、さあ狂言が違うて来たのじゃ。

田畑の事ばかりじゃない、何事もこの通り、前々より商売が不景気なら、その通り不景気の暮らし方を付け、その時々を計って暮らせば間違いないのに、その振舞いが違うゆえ、凶作が来たらにわかに目が覚めたのじゃ。皆、天の思召(おぼしめ)しに背いたによって、かく難渋つかまつるのじゃ。

今日より天の言い付けどおりに守りさえすれば、返す返すも言う通り、粟を蒔けば粟が実り、米を蒔けば米が実り、善い種を蒔けば幸いが実り、悪い種を蒔けば害実るが、天の誠の道、これを誠にするは人の道なりとは報徳の事なり。

小人は小金ができると上を見はじめる。それよりだんだん奢りが始まり、衣食住、髪形、諸道具類、唐物(からもの:中国からの輸入品)、和物(わもの:京都西陣織など)を好み、遊芸、盤芸(碁・将棋)、茶の湯、俳諧、生け花・立花と、所々の遊客寄り集まり、それより家業は次第に不精(ぶしょう)になるほど、飲食をよくして色欲と、次第次第、貧乏不如意となるにしたがって、いよいよ奢りが強くなっては、人のいさめも聞かず、凶作が来ると人より先へ飢える。

その裏は小金ができるほど吝嗇になり、おのが勝手を好み、利欲が強く、人を見下げ、人は心柄じゃとおのが自慢し、小金ができるほど道を失う。それより貧乏人はおのれが不精(ぶしょう)、不始末、惰弱はいわず、人をそしり恨みて、小言が始まり、悪いたくみが次第につのり、押し借り打ちこわし、その小言が止むと色が悪くなり、いよいよ飢えに及ぶのじゃ。その時に至り後悔しても仕様がない。これから本心に立ち返り、家業を励むよりほかはない。福者のためには貧乏人が福の神じゃ。貧乏人が寄り集まりて、売ってはふやしてやり、買ってはふやしてやり、」つまるところは皆、福者の果報になるじゃによって、少しは借り倒されても、もらい倒されても了簡(りょうけん:勘弁)したがよい。

これが世界中金持ちばかりでは、売りに来る人も買いに来る人もないが、その時は田も畑も預ける人ばかりで作る人がなくては、その時は福者も金持ちも、貧乏人に引き換えて、渇命に及ばにゃならぬ。ここをよくよく考えてみれば、貧乏人じゃとても見捨てにはならぬ。また貧者も去年より引き続いて種々恵みをうけても、有る者は当たり前などと冥理(みょうり)を知らぬ大罰当たりのものもまれにはあるものじゃが、心得が悪いと貧する上にも、またまた子々孫々までも貧する種をまくじゃ。よって有り難いという事を少しも忘れてはすまぬ。貧者と福者とは話が違う。皆、耳にばかり聞かぬように、腹の中へ聞き込むがよい。

天照大神宮様は、田も畑も鍬も鎌も何もないところへ天降りましまして、ご丹誠遊ばされたのじゃ。それを今、望み次第に、田でも畑でも、鍬鎌でも諸道具でも、困らぬようにできているのじゃ。ただ誠の一つさえ取り失わねば何も不足を言うことはない。不足言うはおのれが皆嘘ばかりつくしておいたその報いじゃ。



 1600年(慶長5年)7月18日、徳川方が守る伏見城を石田三成率いる西軍勢が攻撃をした。いわゆる関ヶ原の前哨戦である。この戦いは伏見城の落城により勝負は着いたが、少人数を残して城を守らせていた徳川家康からしてみれば想定内のことだった。この伏見城の戦いで守将鳥居元忠が討ち死にをしたことを知った家康は、上杉の会津討伐中の小山において軍議を開いた。

この時大半の武将は徳川方につくことになったが、小山から少し離れた犬伏というところで親子会議を開いていた真田家は親兄弟敵味方に別れる事により、真田家を守る事を決意する。そして上田城の攻防のなかで島田兵四郎の逸話も後世に伝わることになった。

歴史夜話70
西軍についた真田昌幸・幸村親子はすぐさま軍を上田に向け西に進軍した。そして東軍についた真田信幸はそのまま家康のもとに駆けつけ忠誠を誓った。昌幸はまず信幸の居城沼田城へ立ち寄り、あわよくば沼田城を乗っ取り合戦を有利にしようと考えた。昌幸は沼田城に開門をするように呼びかけたが、門はピクリとも動かない。

そして門の上に姿を表したのが信幸の正室小松姫だった。小松姫は何故義父上(昌幸)がここに居るのか?夫はいないのか?など聞き、門を開ける気配は全くなかった。そこで昌幸は沼田城乗っ取りを諦め、孫の信吉、信政と会わせて欲しいと頼む。小松姫は最初はこれを断りましたが、門の上から月明かりの下に2人を連れてきて昌幸と顔を合わせることを受け入れたのです。昌幸・幸村親子は1晩沼田城下の寺に宿を取り、翌早朝上田へ向け出発をした。その後に、小松姫は石田三成挙兵の知らせを知り、見事、夫信幸の名目を守ったのだった。

1600年(慶長5年)8月24日宇都宮を出発した秀忠軍は9月2日に小諸城に入城した。ここはまず昌幸を降伏させようと信幸と本田忠政(本多忠勝の嫡男)を使者に送り出し、9月3日に国分寺で秀忠と正幸との会見を提案した。この席に昌幸は頭を丸めて現れ、開城する旨を伝えた。ただし開城の準備をしたいので1・2日だけ準備をさせて欲しいと申し出た。これに忠政は喜んだが、信幸は父がこんなに簡単に降伏するとは思えないと感じたが、昌幸の言葉を秀忠に伝えた。

しかし、何時までたっても上田城は開城する気配を示しません。不審に思った秀忠は開城催促の使者を送ると驚きの返答が返ってきました。「戦の準備時間をいただきありがとうございます。既に籠城の準備は出来ましたのでいつでも攻めて開城させてください。」なんと、開城ではなく宣戦布告をされて戻ってきたのです。

これには秀忠も大激怒! 9月5日まず手始めに幸村が守る砥石城を信幸に攻略するように命じた。幸村は信幸が進軍して来たのを見て戦わず砥石城を明け渡し、上田城に戻ってきた。これにより信幸は兵力を失わず砥石城を攻略したことになる。実はこれは昌幸の考えで、信幸に砥石城攻略の手柄を立たせると同時に信幸を砥石城に封じるものだった。同じ真田の兵で同士打ちを避けるためだったが、もし信幸以外が攻め込んできた場合は叩きのめすように幸村に命じていた。

そして9月6日、徳川秀忠を総大将とする徳川軍主力部隊3万8千が上田城に立て籠った真田昌幸・幸村親子に対し攻撃命令を出した。このとき真田籠城軍はわずか2千~4千だったと言われている。

まず6日に秀忠は上田城外の染谷台に陣を敷き上田城を包囲した。秀忠は真田軍をおびき出すために実り始めた稲を刈り、慌てて出てきたところを叩く作戦をとった。しかし、これは昌幸によまれ、逆に挑発をされ徳川軍は上田城へ独断攻撃を仕掛けることになった。徳川軍は上田城深くまで攻め込んだ時に、真田軍の伏兵があちらこちらから襲いかかり大混乱に陥り、総崩れこそまぬがれたものの大損害を受けた。

こうした状況のなか徳川秀忠軍はなかなか攻撃をすることができなくなり、無駄に時間だけが過ぎていくことになった。そして秀忠に「家康が岐阜に入った」という知らせが届く。上田で足止めをしている間に決戦の日が刻一刻近づいていたのです。流石にこれに焦りを感じ秀忠は急いで関ヶ原へと向かいますが、道中の悪天候などによりなかなか軍を進める事ができず、9月15日の関ヶ原の戦いが終わってから4日後に家康のもとに到着をします。

この戦いにより真田の名はさらに高まる。これについて徳川方にとって不運だったのが前回の上田合戦の参加者が信幸を除いて秀忠軍に誰一人としていなかった事と、秀忠に家康が岐阜に到着したという使者が到着したのが9月9日とかなり遅れた事があげられる。さらには関ヶ原へ向かう際悪天候に見舞われ行軍がうまくいかなかった事など不運もあった。

昌幸と幸村は二度の上田合戦で勝利を収めましたが、関ヶ原の戦いで家康に敗れたため、敗将となった。まさに死罪とされるところ、信幸と小松姫の父本多忠勝の懇願により高野山に流罪になった。上田から高野山へ行く際、昌幸は「さてもさても口惜しきことかな。内府をこそ、このようにしてやろうと希うておったものを」とつぶやき涙を流したと言われている。


最後に、この戦いの時のあるエピソードです。
秀忠が冠が岳にいる先陣の石川康長、日根野吉明に連絡をするため島田兵四郎という者に伝令として出します。しかし、兵四郎は地理がよく分からず、不慣れなため敵の籠る上田城を通って行かなければ目的地に到達することができませんでした。このとき兵四郎がとった行動はなんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(秀忠)の家来の島田兵四郎という者です。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいきたく、どうか城内を通してくだされ」と叫びました。

味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話です。前代未聞の出来事だったため番兵たちは、真田昌幸に報告すると、「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けて敵の伝令を通すように指示しました。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言って冠が岳へ向かいました。

その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ。」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったといいます。

城内を一覧した兵四郎は礼を述べ、大手門を出て味方の陣に戻り、秀忠に復命した。道を借りる武士も武士なら、貸した大将も大将である。


  食い逃げとはいわゆる無銭飲食のことだが、食うという言葉には他にも深い意味があったようだ。たとえば「据え膳食わぬは男の恥」のように使われる。ただし、無銭飲食を決行するにはそれなりの度胸がいるものである。

歴史夜話69
吉原は幕府公認の遊廓だった。吉原で開業している遊郭が火事で全焼するなどして営業できなくなった場合、妓楼が再建されるまでの間、250日とか300日とか期限を区切って、浅草や深川などの料理屋、茶屋、商家、民家などを借りて臨時営業をすることが認められていた。これは「仮宅」と呼ばれていた。

1812年(文化9年)11月21日、吉原は火事で全焼し、浅草と深川の各地に仮宅ができた。翌文化10年5月のなかば、浅草の隅田川のほとりで仮宅営業していたある妓楼に、恰幅のよい男が登楼した。男は女郎と一緒の座敷に、芸者や幇間も多数呼び寄せ、ドンチャン騒ぎをした。

途中、男は「お針」を呼んで、懐中からずしりと重い包みを取り出し、「こんなものをふところに入れたまま酒を呑むのは無粋だ。あずかっておいてくれ」と手渡した。「お針」は、妓楼の裁縫や繕い物を引き受ける、いわゆる裁縫女のことである。大金を渡されたお針は驚き、とても自分が保管することはできないため、事情を話して、楼主にあずけた。

その後、身軽になった男は大いに呑み、陽気に騒いだ。しばらくして、川風に当たりたいと、庭伝いに隅田川のほとり向かった。あとから、女郎、芸者、幇間はもちろんのこと、遣手(やりて)や若い者などもぞろぞろ従う。遣手とは、遊女を監督する女性のことだ。

「ちょいと、泳ぐかな」男はその場に着物を脱ぎ捨て、ふんどしひとつの素っ裸になった。皆は口々に、「おやめなさいませ」と、止めようとした。「心配するな。俺は水練は達者じゃ。向こう岸に着いたら、すぐに戻ってくる」と言い捨て、じゃぶじゃぶと水のなかにはいっていった。抜き手を切って泳ぎ、やがて、その姿は闇に消えた。

その後、いつまで待っても男は戻ってこない。皆は心配になり、若い者が吾妻橋をとおって対岸に渡り、あたりをさがしまわったが、男の姿はどこにも見えなかった。楼主も心配になってきた。そこで、あずかっていた紙包みを開いてみたところ、中身は金ではなく、重さと形をそれらしく見せかけただけの代物だった。けっきょく、妓楼の大損となった。 



 武士の世界では、身内の者が殺害された時に仇討ち(敵討ち)をすることが認められていた。もっとも実現のためには役所に仇討の願書を出さないといけない。江戸も末期の頃に「護持院ケ原の敵討」という事件があった。敵討ちは武士道の精華とも理解されていたようだ。

事件は先に登場した妖怪・鳥居耀蔵の時代に起こった。天保の改革は老中水野忠邦が失脚することで終息し、水野の腹心として辣腕をふるった町奉行の鳥居耀蔵も罷免され、終身禁錮を言い渡された。鳥居耀蔵の現役時代の家来が仇とされた事件である。

歴史夜話68
鳥居耀蔵の家来に、本庄茂平治という男がいた。茂平治は「悪党」で、鳥居はそれを承知の上で、政敵を追い落とす工作などに利用していた。じつは本庄茂平治には暗い過去があった。茂平治は入門した剣術道場の師範である井上伝兵衛に、いかがわしい借金の取り立てを依頼した。ところが、伝兵衛はきっぱり断わると同時に、茂平治の行為をきびしく叱った。

これを根に持った茂平治はひそかに伝兵衛を付け狙い、1828年(天保9年)12月23日の夜、下谷の御成小路で突然斬りつけ、闇討ちにして殺害した。この日、伝兵衛は門人の家で酒を呑み、かなり酔ってひとりで夜道を歩いて帰るところだった。伝兵衛の横死を知り、実弟で伊予松山藩士の熊倉伝之丞と、その子の伝十郎は敵討ちを決意し、江戸に出た。

このことを知った茂平治は先手を打ち、人を使って熊倉伝之丞を謀殺した。結果、熊倉伝十郎にとっては、伯父と父を殺されたことになる。一方、伝兵衛の弟子のひとりに、小松典膳という浪人がいた。諸国武者修行の旅先で師匠の非業の死を知り、やはり敵討ちを決意して江戸に戻った。熊倉伝十郎と小松典膳は協力して調べを進め、本庄茂平治が怪しいと見当をつけたが、その行方が知れない。

天保の改革が終わったあと、鳥居耀蔵の悪事を暴く証人として、本庄茂平治も召し捕られた。取調べの過程で、茂平治は井上伝兵衛の闇討ちと熊倉伝之丞の謀殺も自供し、茂平治は遠島を言い渡された。これで犯人は茂平治であることが明らかになったのだが、熊倉伝十郎と小松典膳は牢内にいる人間には手を出せない。ふたりは地団太踏んで悔しがった。

たまたま小伝馬町の牢の近くで火事があり、囚人を解放する解き放ちがおこなわれた。解き放ちでは、いったん逃げても、期日までに牢に戻ってこなければならない。本庄茂平治は神妙に期日までに牢に戻ったことから、遠島から中追放に刑を軽減された。熊倉伝十郎と小松典膳にとって、ようやく仇討ちの機会がめぐってきたのだった。

敵討ちの願書はすでに役所に提出していたため、町奉行所の役人が内々で、茂平治が牢から出る日を熊倉と小松に知らせた。1846年(弘化3年)8月6日、本庄茂平治は牢を出た。
駕籠を雇い、江戸を離れようとしていた。じつは茂平治は長期の牢屋暮らしで体が衰弱して、ほとんど歩けない状態だったのだ。

駕籠が護持院ケ原まできたところで、熊倉伝十郎と小松典膳が声をかけ、茂平治を駕籠から引きずりおろした。茂平治は地面にへたり込み、動くこともままならない。そこを、ふたりがかりで殺害した。このとき、本庄茂平治四十五歳、熊倉伝十郎三十三歳、小松典膳四十七歳だった。町奉行所の役人の検使によると、本庄茂平治の体には、右脇腹に切り傷、右の喉に突き傷、左の耳の下に突き傷、胸の横に切り傷、左のあごにかすり傷、左の二の腕に突き傷、右の二の腕に切り傷、左の肩先に切り傷、左の腕に切り傷があったという。


 江戸時代は「天下太平の世」などといわれて、庶民は安穏に暮らしていたように思える。しかし、その半面、大江戸は「悪の華」咲く犯罪都市でもあった。むろん、当時の正確な犯罪統計があるわけではないから、どの程度の犯罪が発生していたかはわからない。

歴史夜話67
1816年(文化13年)に成立した「世事見聞録」には、当時の刑死者や牢死者の数を紹介しているところがある。それによると、江戸で御仕置となった死刑以上の者は年間で300人、牢死者は1000人以上となっている。また、縊死や身投げ、自殺、変死の者は1000人以上で、行き倒れも1000人以上いる。

大坂は死刑以上が年間100人で、牢死者は400人、変死者は200人ほどで、京都は死刑以上が約60人で、牢死者は約200人、変死者と行き倒れは300人となっている。また、東海道筋の変死者、行き倒れは1000人以上という。

この数字は「天下太平の世」といわれながらも、犯罪もかなり発生していたことをうかがわせる。「世事見聞録」は、つぎのように指摘している。 「罪人を捜し求めて一人一人を捕えるならば、たとえ数百軒の牢屋があっても足りないし、死刑以上の者が何千人となるか、計算するのはむずかしい。いまは目につく罪人だけを捕え、なるべく死刑を省略しても、いまの世の中、百人に九十九人までは罪科を逃れ、実際に御仕置を受けるのは百人に一人なのだ」と。

もしそうだとすれば、実際の犯罪件数は死刑者や牢死者といった数字の数百倍もいたことになる。実際、この江戸の犯罪に立ち向かったのは、町奉行をはじめ、与力や同心、岡っ引(目明し)といった人びとだった。では、江戸に警察官は何人いたのか? 江戸の町人は江戸中期、ざっと五、六十万人はいたのに、町奉行所の役人は北町奉行所、南町奉行所を合わせても三百五十人くらいだった。これだけの人数で江戸市中の治安を守り、あの手この手で犯罪捜査を行ない、罪人を捕縛したのである。

実際に現場で活躍した町方役人は、与力と同心だった。人数は時代によって異なるが、南北両町奉行所にそれぞれ与力25騎、同心は100人から120人がいた。与力の人数に「騎」を用いるのは「馬上の侍」、すなわち士官クラスの身分だからである。しかし、同心は「御徒」(徒歩で行動する侍)であり、身分は「足軽」でしかない。つまり、武士の最下位ということになる。


与力は200石以上で、奉行所に詰めて裁判記録を調べるとか、容疑者の犯罪事実を詮議し、自供させるといった仕事をした。むろん、江戸市中の見廻りという役目もある。同心は与力の下につく職で、30俵2人扶持だった。いまの警察官の働きをするのが、この同心だった。もっとも、実際に捕物にたずさわるのは「三廻同心」と呼ばれる役人たちで、1840年ごろの天保年間には南北両町奉行所を合わせて、犯罪の捜査や罪人の召し捕りにあたる「定廻」が9人、定廻を補佐する「臨時廻」が12人、つねに変装して市中を巡回する密偵役の「隠密廻」が4人で、あわせて25人体制だった。

三廻同心の筆頭は隠密廻で、とくに権威ある役人とみなされた。必要があれば、江戸市中から外に出て、相模(神奈川県)や下田(静岡県)などにも足をのばすほど行動範囲は広かった。

では、当時の大江戸の人口はどうだったか? 徳川家康が入府したころ、江戸はまだ小さな町にすぎず、家康が当初、ひきいた軍勢は約一万人程度だった。その後、職人や商人、人足などがやってきたがそれでも数万人程度です。江戸の町づくりが進み、じょじょに人口は増えていきました。江戸初期、日本に漂着したドン・ロドリゴの「日本見聞録」によると、1614年(慶長19年)ごろ、「江戸の人口は15万人」だったと書いています。

その後、1672年(寛文12年)ごろには約40万人、1695年(元禄8年)ごろには町方人口が約35万人、武家人口が約40万人、寺社人口は約5万人で、江戸の総人口は約80万人だったと推定されている。日本ではじめて全国的な人口調査が行なわれたのは、1721年(享保6年)のことですが、その結果、江戸の人口は501,394人であることがわかりました。しかし、、これは町奉行の支配地のため、武家や寺社人、出稼人などは含まれていません。

ということで、それらのすべてを加えると、江戸の人口は町方の約50万人、武家が約50万人、寺社その他が約10万人で、合計約110万人に達すると推定されています。当時、ヨーロッパ第一の大都市ロンドンが約70万人、パリが約50万人、ウィーンが約25万人のため、なんと江戸は世界最大の都市だったのです。

しかし、大江戸人口は大きな特徴がありました。それは女性にくらべて、圧倒的に男性が多いのです。享保6年の人口調査では、町方だけの資料ですが、男性が約323,000人なのに、女性は約178,000人でしかなかったのです。おおまかにいって、女性1人にたいして男性2人弱の割合です。こうした傾向になったのは、単身で奉公や出稼ぎにくる男性が多かったからです。これに武家人口を加えると、圧倒的に男性が多くなります。諸藩の江戸詰武士は、ほとんど単身者だし、幕臣の旗本や御家人の家臣にも単身者が多いのです。

こういうことで、大江戸は、世界一の大都市で、非常に女性の少ない町になったのでした。



皿の枚数を数える怪談はけっこう多い。有名なのは、江戸の番町のお菊の井戸だろう。じつは近江国・彦根藩にも同じような話が伝わっている。ただし、現在は井戸は身近なものでなくなっているので、怪談としての迫力がなさそうだ。

誤って奉公先の家宝の皿を割ってしまった使用人のお菊は、怒った主に手討になってしまい、その亡骸は井戸に捨てられます。それからと言うもの、丑三つ時になると、井戸からお菊の霊が現れて「い~ちまい、に~まい、さ~んまい」と数を数える声が聞こえて、9枚数え終わると、恨めしそうな声で「一枚足りない」と言いすすり泣く声が聞こえるようになるそうです。

そんな中で、全国で唯一お菊が割った皿が残っているのが彦根藩のお菊の物語です。

歴史夜話66
1664年(寛文4年)彦根藩の武士に500石取の重臣に孕石政之進という美男子がいました。政之進は、自分の屋敷に下働きに来ている足軽の娘お菊に恋をしていました。しかし、身分の差があり正式な結婚が認められませんでした。こうして政之進は身分に合った女性との婚約が決まりますが、お菊に対して「俺はお前しか見ていない」みたいなことを言います。お菊は政之進の本心を確かめようと、孕石家の家宝であった皿を割って政之進に自分と皿とどっちが大切なのかを尋ねました。

しかし、この皿は、彦根藩二代藩主・井伊直孝が徳川家康から褒美として受けた物を当時の孕石家当主・備前守秦時に分け与えた物でした。直孝に仕えた孕石家の祖先の孕石泰時は大坂の陣に出陣し奮戦のすえ戦死しますが、その武功によって直孝から孕石家に与えられた10枚の皿でした。

封建制度の強い当時としては藩主から賜ったものの代償に出来るものは他にはありません。政之進はお菊に「なぜ割った!」と問い詰め、真実を知り「誤って割ったのなら許せるだろうが、自分の勝手で皿一枚と拙者を秤に掛けられたのでは武士としての面目が立たない、成敗するしかない」と、その場で残りの皿の全てを割り、お菊を刀で斬り捨てました。

話は戻りますが、徳川家康がまだ幼い頃、人質として駿河今川家に置かれていました。この時に家康の隣に住んでいたのが孕石泰時の父親の元泰でした。元泰は家康を虐めて虐めて虐め続けます。こうしたことで、今川家が滅び家康が無事に国元に帰還しますが、孕石家は武田家に仕え武田家の城のひとつの高天神城に入ります。

この高天神城は天正9年3月に家康によって落とされ、その時に武田の家臣のほとんどを家康の配下として迎えるのですが、孕石元泰には切腹を申しつけたのです。ですから孕石家は家康に恨まれた存在だったのです。そんな家康が井伊家に与えた皿を孕石家が貰うのは、徳川に許されたという意味があったのです。

その後、残りの皿をすべて割って手討ちとなったお菊の遺体と共に実家に還されたのです。お皿は継ぎ合わされて幾つかの移転を経て彦根城近くの長久寺に移されました。当初9枚あったお皿は、大正展示の際に3枚が紛失し、今は6枚が残っています。

お菊の霊は孕石家の屋敷の井戸に、これから孵化しようとする蛾の幼虫がいたのでそれに乗り移り、蛾になって政之進に女性が近付こうとするとその邪魔をしました。政之進はお菊の愛の深さを知って屋敷にお稲荷様を作り、自分は出家してお菊の霊を弔うために全国を行脚し駿河で亡くなります。駿河には政之進が残した刀があるとも言われています。


戦国の三大梟雄といえば、斉藤道三、松永久秀、宇喜多直家の三人を指します。

道三は一介の油売りから身を起こし、権謀術数を駆使して主家の土岐家から美濃一国を奪い取り国主となりました。美濃の蝮(マムシ)と呼ばれ、下克上によって成り上がった人物として名高い人物です。

直家が生まれた宇喜多家は、備前を治める浦上家の重臣として、暗殺、毒殺、乗っ取りなどあらゆる手段を尽くして、浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たしました。とても用心深い性格のため、つねに担当者を二人配置するなど常に万全の態勢を準備していました。そして、なりふり構わない策謀によって勢力を拡大した直家は毛利元就と手を結び、主君の浦上宗景を追放すると、備前・美作二国と備中の一部を手にする戦国大名に成り上がりました。

歴史夜話65
松永久秀は、和歌をたしなみ、茶の湯の道でも数多くの名物茶器を所持していた教養人でありながら、信長から「三悪をやってのけた物騒な老人」と家康へ紹介された人物です。三悪とは「将軍殺害・主君への謀反・奈良の大仏焼き払い」のことです。

1563年(永禄6年)正月11日、松永久秀は居城の多聞山城に新しく作った茶室で開庵記念の茶事を行いました。招かれた客人は成福院の住職・真名瀬道三・若狭屋宗可・松屋久政・竹内下総守秀勝の5名でした。このうち松屋久政は当時の茶会の様子を「松屋会記」に残しています。

九十九茄子の茶入、平蜘蛛の釜を使用した茶会は濃茶→薄茶→会席料理と進行し会席料理の品揃えは以下のようなものでありました。

「本膳 煮昆布 汁チサ 揉み瓜 牛蒡 飯 塩 山椒 箸の台に白い箸」 
「二之膳 蓮 独活 芹焼 汁、各々土器に 干瓢・漬け物 アツメ五黄 上に結び昆布
 ツクツクシ」
「三之膳 絵を書きて金の桶 宇治梅漬けて 亀足に刺して蒟蒻 金箔にて飾り 煎麩
 菓子は七種 結び昆布に作り花二種刺して青芽 美濃柿 慈姑 銀杏 焼栗 亀足刺して胡桃 楊梅」

(備考)
チサはチシャでレタスの仲間 芹焼は芹の炒め煮 土器(かわらけ)は、使い捨ての素焼きの器で当時最も清浄な器とされた アツメ五黄は棗(ナツメ)・牛黄 ツクツクシは土筆
亀足(きそく)は串焼き等の串の持ち手部分に紙を巻き、捻って留めたもの

松永久秀は三好家の重臣として知られている武将で、後に大和を治めた戦国大名でもありました。歴史上は織田信長と複数回争った事もあり、知名度の高い人物でもありますが、その出生については謎が多く、出身地についても「阿波」「播磨」「京西岡」「近江」など複数の説があります。

1540年、松永久秀は、三好長慶(みよしちょうけい)の祐筆(ゆうひつ)となり、後にその才を買われて長慶に代わって家政を取り仕切る重要な片腕として家臣に抜擢されます。その後の久秀は長慶の敵対勢力であった者達を次々と退け、長慶から高い信頼を得て、長慶の妻をも娶る事となります。

1559年には大和に入って信貴山城を本拠とし、その周辺を固めていき、大和を平定します。しかし、野心に満ちていた久秀はこれにとどまらず、長慶に安宅冬康(あたぎふゆやす)などを誅殺させるなどして、三好家最大の実力者にまで上り詰めます。

主君である長慶の死後は、時の将軍であった足利義輝を三好三人衆らと共に暗殺し、次の当主として三好義継(みよしよしつぐ)を担ぎ上げて畿内の実権を掌握しようと考えますが、足利義輝の弟であった義昭を奉じて織田信長が上洛すると、「名器・九十九髪茶入」、「名刀・吉兆の脇差」などを携えて降伏し、信長に臣従する事となります。

しかし、臣従の構えを見せながらも信長を出し抜くチャンスを伺っていた久秀は武田信玄の上洛が始まると、足利義昭の信長包囲網に参加し、信長に反旗を翻します。この信長包囲網は信玄の急死により、失敗に終わります。しかし、その後も久秀は上杉謙信に呼応するなどして信長と対立します。

居城である信貴山城を織田軍に攻められると、約ひと月の間、籠城し、勝ち目がない事を悟ると天守閣にて「名器・平蜘蛛茶釜」と共に爆死します。こうして、将軍を暗殺し、大仏殿を焼いた稀代の大悪党と呼ばれた梟雄・松永久秀はその生涯を閉じたのです。


武田信玄は父・信虎を今川に追放して信濃の領主になった。その信玄がこんどは嫡子・義信の謀反に出会う。このとき、義信の側に付いたのは信濃の猛将のひとり飯富虎昌だった。信玄はこの苦難を無事に乗り越え戦国の雄となった。父と子、兄と弟の戦国物語があった。

歴史夜話64
信濃の武田信玄の物語は甲陽軍艦に依るところが多い。戦国の世に知られた「武田の赤備え騎馬軍団」の首領、飯富兵部少輔虎昌は、「甲山の猛虎」として恐れられ、豪勇、老練な荒武者であった。武田家譜代の重臣として板垣信方、甘利虎泰らとともに信虎、信玄の二代に渡って活躍し、数々の戦功をあげた宿将の一人である。

飯富の赤備えは日本における元祖赤備えである。彼の戦ぶりは、「火の玉が飛んでくるようである」といわれた。武田家滅亡後、家康は信玄の戦陣に臨む用兵術などを武田の遺臣達に言上させた。これが後に井伊家に伝承され、「井伊家天正記」として伝えられた。虎昌の武勇は弟昌景、井伊直政を経て今日まで伝わることになる。真田幸村の赤備えも祖父、父が武田家の重臣であることから、赤備えのルーツは武田信玄、それも元祖飯富虎昌にあるようだ。

1538年(天文7年)の元旦のこと。武田信虎の館に二人の息子の晴信、信繁が挨拶に来た。
信虎は杯を交わすにあたって、最初に渡したのは信繁の方へであった。これは信玄より弟を優遇すると見なされ、後継者として信繁を選んだことになる。正月12日、信虎は配下の武将、板垣と飯富虎昌に使者を立てて以下のように伝えた。「晴信は今川義元の後見で信濃守大膳大夫になれたのだから、今川のところに挨拶に行くのがよろしかろう」

晴信は「承知」とのみ答えた。これは明らかに晴信を追いだすための策略であった。しかし板垣、甘利、飯富は晴信を主君に擁することを決めていた。その後、信虎が駿河今川のもとに行くことになった。今川義元と晴信幽閉について談合するためである。信虎は甘利虎泰に晴信の監視を命じ自身は今川へ下っていった。

しかし、ここで待ち受けていたものは信虎にとって驚愕せざるを得なかった。息子を幽閉するつもりが自分が幽閉されてしまうのだから。晴信の用意周到さには勝てなかったのである。これ以後、飯富虎昌は、甘利虎泰、板垣信方らとともに武田家の石柱になる。

 青年国主信玄からも引き続いて北信地方の備えをゆだねられた虎昌は、小諸城を重要拠点てして佐久地方の守備にあたり、やがて信玄によって遠からず断行される東北信濃進攻の地場固めに専念、内山城(南佐久郡中込)も確保した。この地方の当面の敵は、北信の雄、村上義清であったが、合戦ではつねに戦陣を引き受け、村上、小笠原長清軍らを苦しめ、その豪勇ぶりは敵味方区別無く知れ渡っていた。

 武田家の信濃進出のなかで、虎昌の活躍は「甲山の猛虎」と恐れられた。村上義清、小笠原長時らはそうとうに苦汁をなめさせられた。注目すべきは虎昌が上杉謙信率いる 8000 の兵をたった 800 にて打ち破っていることである。これはまさに「甲山の猛虎」と異名された虎昌の武勇を象徴している。信玄は虎昌に元服近い嫡男太郎義信の守役を命じた。つまり、後継者の教育係りに任じられたわけで、武門にとってこれ以上の名誉はない。それほどに虎昌は信玄の信頼を得ていたわけである。

しかし十年後、義信に謀反をそそのかした張本人としてのレッテルを貼られてしまうことになる。1565年(永禄8年)10月、飯富昌景は兄の虎昌と信玄の嫡男・太郎義信の間に「信玄排斥の陰謀」があるのを察知した。「灯篭流しを見物する」と義信は言い、長坂源五郎、曽根周防などの面々が飯富邸に集まった。そして「主君信玄を謀殺し、義信を甲斐の守護にしよう」と謀議した。ふすま越しに昌景は聴き、「いかに兄といえども、御大将に弓引く謀反の企ては許すことは出来ない」と信玄に訴え出た。

この事件の背後には信州川中島合戦で越後の上杉謙信と決着を見た信玄が、上洛を意識して東海地方への本格的な進出を考え始めたのに起因する。今川攻めを画策しているのを知った嫡男・義信は猛反対した。義信の妻は今川氏真の妹であり、いかに弱体したとはいえ、今川を攻めることが若い義信には耐えられなかった。これにより信玄、義信の父子の対立が表面化した。さらに追い討ちをかけるように、弟勝頼の婦人に織田信長の血筋である遠山氏の娘を迎えることが決まった。信長は今川義元を討ち取った張本人である。


虎昌ら義信側近達が義信を新国主に擁立し信玄を謀殺しようと企てた陰謀が発覚、義信は総領の座から下ろされ東光寺に幽閉され、首謀者の虎昌ら主だったもの八十人が処刑、または追放された。昌景は「兄を裏切るより、子に裏切られる父の方が、はるかに心の傷は深い」と言ったと言われている。信玄も過去に父信虎を駿河に追放した経験がある。大儀すなわち、大きな目的のためには、肉親の情も時には断ち切る必要がある。

信玄の言う大儀が「国を守り領民を安んずる」ことであったのなら、昌景の大儀は「引き立ててくれた主君への忠誠と武田家を守る」ため、たとえ実の兄であっても肉親としての情に溺れてはならないということになる。信玄は心中の慟哭を押し殺してまで訴えでた昌景の忠誠を賞し、三百騎の侍大将に昇進するとともに、甲斐の名門山県氏の名跡を継がせた。


 歴史夜話63
曽根昌世は、武田氏譜代家臣の曽根虎長の嫡子であったと推定されていますが、確かな史料はありません。生没年についても確かな史料はなく、その詳細は明らかではありません。真田昌幸らとともに武田信玄の奥近習の一人にその名があり、信玄子飼いの武将として、決して華々しい活躍は少ないものの、信玄・武田勝頼の軍略・領国支配を支えました。

そもそも曽根氏は、武田氏の祖武田信義の弟の厳尊が、八代郡曽根に拠り、曽根姓を称したことから始まったと考えられてします。曽根昌世はこの甲斐源氏曽根氏の流れを汲む人物であると伝えられています。

ただし、武田氏滅亡後、曽根昌世は武田旧臣の徳川家康帰順に際して、その起請文奉行として取りまとめを務める一方で、自身は武田氏親類衆として署名していることから、いつ何時か定かではありませんが、武田氏との血縁が曽根氏にはあったと考えられます。

曽根氏は、代々武田氏仕えた側近で、曽根昌世の祖父にあたる曽根縄長、父虎長ともに武田氏の重臣として、朱印状奉者も務めています。奉者とは、朱印状の発行責任者であり、武田氏譜代家臣や武田氏当主の直臣が務めています。そのことから、曽根氏が武田氏家臣の中でも、重要なポストを担っていたと思われます。

さて、曽根昌世ですが、三枝守友や真田昌幸らとともに、信玄の奥近習衆の一人として出仕し、永禄年間後期頃までに足軽大将衆に取り立てられたといわれています。

1565年(永禄8年)武田氏を襲った、信玄嫡子武田義信謀叛事件では、義信の乳人子(めのとご)であった昌世の嫡子曽根周防が信玄に成敗されたことにより、一時武田氏を離反しました。やがて、1569年(永禄12年)頃、信玄の要請に応え、再び武田氏に帰参しています。

曽根昌世は、武田二十四将にも挙げられることがありますが、目立った武勇は少ない武将です。それはすなわち、曽根昌世は合戦の折には、戦況を観察し味方の将兵に怠慢者はいないか、軍律違反を犯しているものはいないか、将兵達の挙げた手柄はどうであったかを記録する検使役(軍陣における監督者の立場の人物)を務めていたため、最前線で合戦に望むことが少なかったことが理由です。

唯一ともいえる目覚しい活躍は、1569年(永禄12年)相模国三増峠での北条氏との合戦でした(三増峠合戦)、こととき曽根昌世は検使役として参戦していました。武田軍が北条氏の本拠小田原城の包囲を解き、甲斐へと撤退している折に、武蔵国からの北条氏の援軍が武田軍を襲撃しました。

この際、武田軍の殿(しんがり)部隊を指揮していた浅利右馬助信種が討ち死すると、部隊は混乱に陥りました。検使役として戦場を見回っていた曽根昌世は、浅利信種に代わりただちに殿(しんがり)部隊を指揮し、北条軍の追撃を食い止めて、武田軍の甲斐帰国を成功させました。

また、甲陽軍鑑が伝えることによると、1570年(永禄13年)の駿河国花沢城攻めでは、三枝守友についで二番槍、同年9月の伊豆国韮山城攻めでは、真田昌幸とともに物見(戦況を観察し、敵方の動きや状況を見張り、適宜進言する役目)を務め、信玄からは「我が両眼の如き者」と評されました。

これらの功績により、駿河国興国寺城城代に任ぜられました。曽根昌世は、父虎長同様、信玄の竜朱印状奉者として十数点の竜朱印状が現在明らかとなっており、また一説には、曽根昌世は武田領周辺諸国の情報収集の役も務めていたといわれています。これらのことから推測するに、曽根昌世は興国寺城城代に任ぜられたというより、信玄の側近として、武田氏の軍略・領国支配を補佐していたと考えられます。

1573年(元亀4年)信玄が没すると、曽根昌世は後継の武田勝頼に仕えました。そして、1581年(天正9年)に勝頼が、これまで武田氏の本拠としていた躑躅ヶ崎館を廃して、新たに新府城建設に乗り出すと、曽根昌世は真田昌幸とともに縄張り(なわばり・・・城の曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう)を作ります。

1582年(天正10年)織田信忠、徳川家康による武田討伐の際には、時勢を読みいち早く徳川家康方へ帰順し、後に甲斐国領有権を徳川家康と北条氏政が争うと、武田旧臣を率いて徳川家康方として武功をあげたといわれています。そして、 武田の遺臣を、赤鬼こと「井伊直政」の部隊「赤備え」の再編成へと成功させています。

1590年(天正18年)羽柴秀吉がほぼ天下統一を成し遂げ、最後の抵抗勢力であった北条氏を小田原で滅ぼした小田原合戦後、曽根昌世は徳川氏から離れて、新たに蒲生氏郷に仕え、蒲生氏郷が会津へ転封になると、これに帯同して会津へと移りました。余談ですが、京に程近い伊勢を統括していた氏郷は、東北に飛ばされることを嘆き「天下人の夢が費えた」と涙したと言いました。

蒲生氏郷が会津転封後、本拠として、会津若松城の建設に乗り出すと、曽根昌世は縄張りを作成したといわれています。そのため、会津若松城には甲州流築城術が取り入れられています。曽根昌世は、馬場信春、春日虎綱、内藤昌秀、山県昌景、秋山信友といった歴戦の兵ほど武勇はないものの、観察力、洞察力に才があり、また築城術にも長けていた優秀な武将であったと評価できます。秀吉に仕えてからは、「大坂城」の縄張りにも貢献しています。

晩年には伊達政宗に招待されたことがありました。 政宗は武辺話を大層好み、自分の嫡子等に聞かせることで、成長を期待しました。曽根昌世の武辺話中に、嫡子がトイレに立ったため、政宗は激怒します。「尿を垂れても良いから、席を立つな!」と。



  清洲会議で主導権を得た秀吉は冬が到来すると北陸勢の動きが止まることを見抜いて、12月、清洲会議の領地分けを無視して、勝家の養子の勝豊が治める長浜城と織田信孝の岐阜城を攻め落とした。これに対して翌1583年(天正11年)正月、伊勢の滝川一益が反秀吉の兵をあげた。これに対して秀吉は2月に伊勢に向けて大軍を差し向けた。

北陸の雪解けを待ちかねたように1583年(天正11年)3月3日柴田勝家旗下の北陸軍が北庄を進発した、やがて勝家も北庄をたって近江伊香郡柳ケ瀬に本陣を構えた。すでに秀吉の大軍が伊勢の長島・桑名などの城に龍城する滝川一益に対する攻撃を開始していたからである。秀吉はかねてより勝家軍を阻止すべく羽柴秀長・堀秀政等の軍総勢を余呉湖周辺に配置していたが、勝家の出兵を聞くと滝川攻撃は信雄に委ね、3月17日近江に戻った。

その後、秀吉方の丹羽長秀が若狭口より敦賀に乱入するなど小競り合いがあったが、両軍にらみ合いのまま日を過ごし、戦は長期戦の様相になっていた。4月16日になり、織田家の足軽であった秀吉の下風につくことを潔しとしない信孝は、岐阜城で秀吉討伐の兵をあげた。

秀吉は翌4月17日20000の兵を率いて、織田信孝の挙兵した岐阜城に向かって出発した。出発に先立ち、安土に置いてあった信孝の人質、信孝の生母坂夫人と妹それに家臣岡本良勝、幸田彦右衛門尉両人の母親の4人の女たちを後手に縛り上げ、次々と斬り捨てたのであった。

歴史夜話62
1583年(天正11年)4月13日、勝豊配下の山路正国が佐久間盛政に寝返り秀吉軍の防備の弱点を告げた。山路正国は秀吉方の堂木砦を守備していたが、もとは柴田勝豊の配下にあった。秀吉が勝豊を降伏させる時は、秀吉に味方して、勝豊に降伏を説得した一人であったが、いよいよ勝家と対陣の時は最前線におかれ更に隣の神明山の砦には木村定重(小隼人)が監視の目を光らせているのを見ると、秀吉陣営の中では信頼のおかれていないのが不満であった。

勝家は、山路正国と親交をもっている宇野忠左衛門を密使として誘いをかけさせた。誘いの条件は「丸山城12万石」を与えるというものである。丸岡城は主君柴田勝豊の城で、長くこの城下に暮らしていたので懐かしい、目をつむれば城内の様子、城下の様子がありありと浮かんでくるのであった。自分があの城の主となれるのだと思うと、心よく柴田方の内通を約した。

秀吉が岐阜城の不審な動きを察知し出動の準備をしているとの知らせが入ると、正国は好期来たれと判断、日頃の計画を実行しようとした。それは同族・家族の脱出と寝返りを証明する手土産として秀吉軍の武将・木村小隼人の首だった。ところが、4月13日この寝返りが露見してしまった。慌てた正国は数人の部下と佐久間盛政の陣に走った。

秀吉は木村小隼人に正国の人質どもを逆さはりつけにさせた、7人の女、子供を柱に逆さに縛りつけ、老母より順に下から突き殺していったという。戦国の世は、武家一門に生れ、嫁いだというだけで、戦のなかでは、何の罪もない女、子供までが、地獄絵の如く殺されていったか知れない。 

山路正国の話は佐久間盛政の血を沸かすには十分であった。それは、秀吉は今長浜から岐阜に兵を進めており、木之本には本隊はいないこと、神明、堂木の砦は堅固で攻めるには困難である。その上木村小隼人は、内通の噂以来、予備隊として木之本方面にいた。蜂須賀家政を神明砦に入れ警備を厳重にしているので攻撃は不利である。それに比し、賤が岳、大岩山、岩崎山の砦は未だ土塁も固まらず、兵達も油断しているので攻め易い。大岩山の砦を落とせば、賤が岳、岩崎山は連絡を絶たれ孤立し、たやすく陥落するであろうということだった。

 これを聞いた盛政は、すぐに勝家の本陣に駆けつけた。そして山路正国の一件を報告し、直ちに大岩山砦の中川瀬兵衛清秀攻撃の許しを願い出た。しかし勝家の腰は重かった。敵の陣中深く攻め入ることは勝家の長い戦歴から見て最も危険な戦法であった。これは敵の包囲に落ちることは必至で、後方によほど信頼できる支援部隊が控えている時にのみ功を奏することができるものである。また秀吉の本隊が今日木之本にいなくとも、常識では考えられない神速で引き返してくることもある。ようやく永陣の構えができた時軽率な動きは慎まなければならないというのが勝家の意見であった。

軍議の結果、条件付でこれを許すことになった。その条件というのは、第一に後詰を十分にして、敵に退路を絶たれることなきようにすること、大岩山を落とし入れたら必ず、元の陣に退きさがることの二つの条件であった。盛政もそれに異存なく、直ちに主な武将たちが勝家の本陣に召しだされた。勝家より山路正国の伝えたことについて一応詳しく説明があり、続いて地図が広げられると、大岩山の攻撃について指示があり、

「これはあくまで大岩山攻略についてのみのことであれば、大岩山陥落後は直ちにそれぞれの陣地に退かれたい」

 盛政も最初から賤ヶ岳にとどまる気はなく、勝家の命に従い退くつもりでいたようである。大岩山攻撃の本隊は佐久間盛政を総大将として、此の下に徳山則秀、原彦次郎、不破勝光、拝郷五左衛門ら8000の兵がこれに従った。

 後詰として、東野山の堀秀政と中之郷方面の敵の抑えとして、勝家自身が7000の兵をもって今市の狐塚まで進出する。神明、堂木山の敵の抑えとしては前田利家、利長父子が2000の兵をもって、神明山と権現峠の間にある茂山に陣をおくこと、更に賤ヶ岳の敵の抑えとして柴田勝政が3000の兵をもって賤ヶ岳西の対山、飯ノ浦切通しの上に陣を取ることにした。

4月20日の午前1時を待って一斉に行動が開始された。8000の盛政軍を動かす奇襲作戦だったが、ほとんど計画通りにことが運んだ。地図を手に流れをたどると、ここはどうしたのだろうと疑問に思うところもあるが、もしかして、秀吉の大返しが不成功に終わっていれば、この奇襲が歴史に残ったことは間違いない。盛政の大部隊を安全に余呉湖畔に降ろしたこれらの行動はすべて夜の明けぬうちに、暗の中で行われたので、全員が余呉湖畔に出るまでは大変な苦労があっただろう。とくに柴田勝政の兵がどのようにして切り通しの上に出たか明らかでないが、ここは敵の陣の狭間になるところなので兵士たちはどういう心境だったのだろう。

佐久間盛政の奇襲をうけて油断していた中川清秀の大岩山砦は大混乱をした。たまりかねた清秀は、急使を賤ヶ岳の桑山重晴や岩崎山の高山右近に出し救援を求めたが、いずれからも救援は来なかった。その筈である。賤ヶ岳砦の桑山重晴も、岩崎山砦の高山右近も戦う意志は毛頭なかった。

山麓から余呉湖辺までは乱戦となり決戦が続いたが、砦の本丸に火がかかると、中川清秀本丸近くで最後まで防戦したが、先手はことごとく討死、清秀支配の名だたる射手熊田孫七、木戸口に立ち塞がり、寄せ来る敵を狙い撃ちにしていたが遂に矢種つき、大薙刀を振って討って出たがまもなく討死、熊田兵部も盛政めがけ突き進んだが忽ち敵の手にかかり討死する。清秀の弟の中川淵之助、清秀の鎧の袖に取りつき「もはや味方悉く討死、これ以上雑兵の手にかかるもどうかと思われる。ここは本丸に入りて心静かに自害なされよ」
と無理に本丸の中に圧し入れた。

奇襲が大成功した盛政は勝家との約束に従わず大岩山で夜を明かすことにした。これを知った勝家は大いに怒った。盛政が大岩山に駐屯したのは、美濃に出兵している秀吉がまだ引き返しては来ないだろうという情勢分析に基づいていたが、20日の昼過ぎ大岩山攻撃を知った秀吉は大垣城より52キロメートルの道程をわずか5時間で引き返すという信じがたい機動力を発揮し、翌21日午前2時より20000の軍を率いて盛政追撃戦に移った。

盛政はなんとか権現坂まで撤退し、また後世に賎ケ嶽の七本槍として知られるような秀吉軍の猛兵の追撃を受けた三左衛門勝政軍も大きな打撃を受けながら、盛政軍と合流しようとしていた。しかし昼前に盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家・利長父子が兵をまとめて戦場離脱を始め、次いで金森長近、不破勝光もまた戦場から遁走を始めた。

これを機に勝家軍は総崩れの状態となり、狐塚で堀秀政・羽柴秀長の軍と戦っていた勝家の回りの兵も減少し、秀吉軍に決戦を挑むこともできなくなっていた。そこで家臣の毛受勝照が勝家の金の御幣の馬標を受け取り、身代りとして奮戦している間に勝家は北庄へと落ちのびたのである。


  賎が岳の戦いでは、思いがけない流れで戦端が開かれることになった。その内容は柴田勝家が一番恐れ、秀吉が狙った流れだった。

歴史夜話61
賎が岳の戦いでは、双方とも長期戦を予想して、最低限の人員で陣を守る「永陣の構え」をとった。しかし、秀吉側の山路正国が柴田軍の佐久間政盛に寝返った事情から、政盛は大岩山の中川清秀の奇襲を決行した。もちろん柴田勝家の了解を得ての攻撃だった。

このころ、秀吉陣は兵を一番から14番隊までに編成して、順次柳ヶ瀬方面に進出させ陣地を築いていた。ここに登場する武将は当時いずれも名のある大名格の顔ぶれなので、麦さんも憶えておくと良い。ちなみに堀秀政はわたしの贔屓の武将で秀吉の小田原攻めのとき若くして陣中で亡くなった惜しい武将です。

一番  掘秀政、
二番  柴田伊賀守勝豊の家臣(山路正国、木下半右衛門、大鐘藤八郎)、
三番  木村小隼人重茲、堀尾茂助吉晴、
四番  前野勝右衛門尉長康、加藤作内光泰、浅野弥兵衛長政、一柳一助直末、
五番  生駒親正近世、黒田官兵衛孝高(小寺官兵衛)、明石与一、木下勘由左衛門尉利匡、大塩金右衛門尉正員、黒田甚六長基、山内猪右衛門一豊、
六番  三好孫七郎秀次、中村孫平治一氏、
七番  羽柴小市郎秀長、
八番  筒井順慶、
九番  赤松弥三郎広英、
十番  神子田半右衛門尉正治、
十一番 長岡与市郎忠興、高山右近長房、
十二番 羽柴御次丸秀勝、仙石権兵衛尉秀久、
十三番 中川清秀、
十四番 羽柴秀吉。

 平地戦では兵力に物を言わせ、秀吉の方が一歩長じていたが、山岳戦では勝家の方が一歩長じていた。勝家は隘路の山岳を十分に利用して、万全の構えをしていた。この構えは近代戦になってもよき参考とされ、旧陸軍等も研究の対象としていた。山中の至る所に鉄砲隊の陣が張られ、狭い谷間を攻め入る秀吉軍は格好の標的とされる。

秀吉もその点十分に心得ており、勝家軍を山中から平野へと誘き出さんとして、山に向かって一斉に鉄砲を撃たせて見たが、勝家のほうからは何の対応もなく、一兵も山を降りる者はなかった。秀吉軍が谷間に攻め入るのをじっと待っているようであった。


賎が岳における柴田方の兵力は、・・・・・
柴田勝家(北の庄城主57歳,)50万石
前田利長(府中城主) 3万石 不破勝光(府中城に同居)2万石
金森長近(大野城主60歳)3万石 原彦次郎(大野城に同居)2万石
柴田勝政(勝山城主)2万石
安井家清(足羽郡東郷城主)1万石
武藤助十郎(敦賀城主)5万石
佐久間盛政(尾山(金沢)城主30歳)29万石
徳山則秀(松任城主40歳)4万石
村上長頼(前田利家の家臣)7万石
拝郷五左衛門(大聖寺城主)4万石
前田利家(七尾城主46歳)19万石 長連竜(利家与力)3万石
佐々成政(富山城主45歳)36万石 神保氏春(成政与力)7万石
菊池武勝(阿尾城主)1万石

柴田郡所領合計178万石となる。1万石の領地から徴収可能の兵力は250人と言われているので、上記所領が集めえる兵力は44500人となる。更にこのとき柴田軍に協力可能の兵力があり、神戸信孝(岐阜城主26歳)58万石、滝川一益(桑名城主) 伊勢北部と尾張の一部 15万石となる。

羽柴秀吉軍の兵力は、さきほどの人員で合計146万石で、兵力36500人となります。



  天下分け目の戦いというと関ヶ原の合戦を思い浮かべる人が多いと思う。家康の視点からすれば関ヶ原はまさしく天下分け目だといえるだろう。そうした見方でいえば、秀吉にとって賎が岳の戦いは天下分け目の戦いだった。家康はそれなりの富も地位もあったが秀吉はそうではなかった。

賎が岳の戦いのあと秀吉は七本槍の手柄を褒賞した。秀吉はなぜこの9人のみに一番槍の感状と3千石の領地を与えたのであろうか。この9人の者は、ほとんど子飼いの小姓達で秀吉が日頃から目をかけ、将来股肱の臣としての大きな期待をかけていた者達ばかりである。この機会に戦功を顕彰すると共に、今後への激励でもあった。そして、その通りに賤が岳の合戦後これらの衆は戦功を競うようにして、秀吉のために働いた。

歴史夜話60
賎が岳にたなびいていた七本槍の旗に書かれていた武将たちは、その後の秀吉の時代と家康の時代を担った。

福島正則が秀吉からいただいた一番槍の感状は次のような賞状だった。
「今度三七殿(信孝)依謀濃州大垣令居陣処柴田修理亮至柳瀬表罷出候条為可及一戦一騎懸に馳向之処心懸深候て早懸付秀吉於眼前合一番槍其働無比類候条為褒美5千石宛行訖 弥向後奉公之依忠勤可遣領知者也仍如件  天正11年  6月5日   秀吉(判) 」

正則は七本槍中でも格別に5千石の恩賞を受けた、これはいろいろ異説があり正則は働いた場所が、賎が岳に至るまでの手柄が秀吉に認められたので、七本槍から除くべきであると説かれた資料もある。正則は賎が岳の戦いがはじまる前に軍法を破った罪で、刀・脇指を取り上げられ蟄居を命ぜられていたが、密かに隠出て槍を持って、目覚しい戦いぶりを見せた。秀吉も信長に仕えていた若き頃、同じような経験を持ち、叱られると思った所が信長に喜ばれた事があるので、それを思い表面では叱っていても心の中では喜んでいたのであろうと言われている。槍一本のみで戦ったので、他の七本槍の衆と同じように一番槍の賞を与えた。

正則のあげた首数のうち、大聖寺城主の拝郷五左衛門を討ち取ったのも福島正則という説もあり、拝郷を討ち取ったのは糟屋武則との説もあり明らかではない。福島正則5千石には、同じように槍をもって福島にも劣らぬ働きをした加藤清正らから大変不満の声が出た。正則は秀吉の伯母の子で秀吉と従兄弟に当たり、父は樋屋であった。


加藤清正は秀吉の出陣の下知下るや一番に賤ヶ岳を駆け下り、庭戸浜の上に立ちはだかる拝郷五左衛門に「一番槍」と叫びつつ突っ込んだが、五左衛門に馬上から払いのけられ、たじだじとよろめいたが、再び槍を持ち直し少し離れて、鉄砲に薬を詰めんとしていた拝郷五左衛門の鉄砲頭、礪波隼人を一突にしてその首を討ち取った。
 
清正に与えられた感状も、福島正則に与えられたものと全く同じ文面で、ただ5千石のところが3千石となっているだけである。清正の母は秀吉の母大政所と従姉妹で秀吉と清正は又従兄弟である。父は武士であったが戦いに傷つき武士をあきらめ鍛冶職をしていた。

清正は9歳の時伯父加藤喜左衛門に連れられ、秀吉の元に来た。喜左衛門は秀吉に清正を見合わせ、「甥だが台所に置いて飯食わせて給われ」といって置いていった。以来虎、虎と呼ばれ子供のない政所、ねねに可愛がられ成人した。

片桐且元は、拝郷五左衛門を討ち取ったといわれる。拝郷五左衛門は信長配下では剛勇をもって鳴らし、信長より大聖寺の城主に命じられていた。尾野呂浜近くで五左衛門を見つけた七本槍の面々群がって突きかかっていった加藤清正の槍は一撃ではね除けられ、続いて突いて出た、石川兵助は拝郷五左衛門の突き出す槍に突き伏せられてしまった。

七本槍の面々は、拝郷五左衛門に寄ってたかって右から左から正面からと突いて出る。五左衛門も右に左に払っていたが多勢にはかなわず、力尽きて遂に討たれた。七本槍の面々が一団となって突きかかかって行ったのであるから、誰の槍にかかったかは明確でなく、片桐且元に討たれたとも言われているが、いや福島正則だ、いや糟屋武則だと説はまちまちだ。

且元の一番槍の感状も清正らと同じ文面である。且元の父孫右衛門直貞は近江の出身で、浅井長政の家臣であった。須賀谷に屋敷を持ち且元も弟の貞隆もここで生れたが、片桐直貞は姉川合戦後浅井を見限り織田に寝返り、秀吉の配下になった。したがって且元も幼名を助作と呼ばれ、弟貞隆と共に子供の頃から秀吉に仕えていた。賤が岳の戦功をはじめ、その後の戦功により豊臣家の家老にまでなったが、方広寺の鐘銘問題などから徳川家康と淀君の中に挟まれ不幸な最後を遂げた。

脇坂安治は槍をもって群がる敵の中に飛び入り、十字の長柄の槍を縦横に振り廻し、賤が岳山頂から見ていた秀吉の目を見張らせたという。柴田勝家の城下福井県勝山市を訪ねると、勝政は脇坂安治の槍にかかって死んだという説が一般的である。

 一番槍の感状は他の者と同文である。脇坂安治は東浅井郡脇坂村(湖北町丁野)の出身で代々京極家に仕えていたが、父戦死後16歳の時信長に仕え、明智光秀の配下に置かれたが、更に信長より秀吉の配下に廻された。終身3万石程度の小大名に終わったが、最後は播州竜野城主となり、脇坂家は明治まで続いた。


糟屋武則は、清水谷近くで桜井佐吉が宿屋七左衛門と戦っていたが、佐吉次第に追い詰められ、あわや宿屋の槍に突かれようとした時、横から糟屋武則突いて出、桜井を助けて宿屋七左衛門を討ち取ったという。

秀吉の一番槍の感状の文面は同じだが、8月になって「播州賀古郡内2千石、河州河内郡内1千石、都合3千石事、目録別紙相副令扶助畢 永代全可領地候 如件 加須屋助右衛門殿」という書付を秀吉からもらっているので、領地は播磨、加古川で3千石を与えられた。関ヶ原の合戦の時は西軍についたため領地を没収されたが、子孫が江戸幕府に小禄で起用され、その時姓を糟屋と改めたので、賤が岳合戦の時の正しい姓は加須屋と書くのが正しい。


加藤左馬助嘉明は槍一本で功名をたててきた戦国武将で賤が岳合戦にも槍をもって功を立てた。しかし、具体的には誰の首を取ったというようなことは、どの資料にも出ていない。

秀吉一番槍の感状は他の者に同じである。嘉明は三河の長良に生れ、秀吉に使えたのは15歳の時であった。父加藤藤三之丞朝明は美濃斉藤氏に仕えていたが斉藤氏滅亡のあと、徳川氏に仕えたが、その後秀吉に仕えた。嘉明ははじめ秀吉の養子秀勝に配されたが許可なく勝手に抜け出し、秀吉の兵に混ざっていた。秀吉も仕方なく配下にした。以来秀吉の期待を裏切ることなく、秀吉の行く所必ず嘉明あって戦功を高めた。清正と同じ加藤なので何らか血縁的に関係があるのかと思う人もあるが全くの別人である。

平野遠江守長泰も賤ヶ岳で一番槍の賞を受けたとのみで、どのような働きをしたのかについては何の記録も残っていない。むしろ弟の長重の方の記録が残っている。盛政の軍散々に敗れ、今は防ぎようもなくなったとき、政盛配下の山路正国、浅井吉兵の二人は清水谷を余呉の方に落ちんとした。これを見つけた平野長泰、渡辺勘兵衛、浅井喜八郎らは、大音声にて「見知りたるぞ、返して勝負あれ」と叫ぶと山路ら「おぅー」と言って引き返してくる。

山路正国の一族は正国が盛政に通じた罪で全員捕らえられ、逆さつりにされ堂木山で殺されているので、恨み骨髄に徹し、弔い合戦とばかり、死を覚悟で縦横に斬りまくったので、秀吉方の兵どれだけを斬ったか数えられなかった。もはや首を取って手柄を立てる気もなく、恨みだけが一念で朝より手当り次第に斬ってきたのである。しかし、体は疲れはて今は歩くがやっとであった。そこを数人の者で突いて出たので、最後の力を振り絞って太刀に手をかけ、岩の上に足を踏ん張った途端、運悪くも谷下に逆落しに落ち、半死の状態の所を谷下にいた大塩金右衛門の手の者に首を取られた。

長泰も秀吉から同じ一番槍の賞状はもらったが、その後他の同輩は戦いの度に功をあげ10万石20万石と稼ぎを重ねていくのに、長泰だけは功もなく禄も5千石止まりで秀吉の最盛期にも加増されることはなかったので、賤ヶ岳の合戦は怪我の功名でなかったのかと悪口をいう人もある。

石川兵助は秀吉の旧臣で賤が岳合戦には秋田助右衛門と共に旗奉行を勤めていたが、加藤嘉明に思いをかけていたが、出陣に当り自分の冑を脱ぎ嘉明に着けてやったが、嘉明怒って冑を脱ぎ捨てたので、冑を着けずに槍を持って勇ましく一番に突いて出たはよいが、最初に余りに大物拝郷五左衛門を狙って「われこそ石川兵助尋常に勝負致さん」と突いて出たが、拝郷の敵ではなく、五左衛門の突き出した槍に左の目を突き刺され討死した。

秀吉哀れに思い、その勇を賞して一番槍の賞状を、弟長松を召出して1千石を与えた。したがって文面は3千石の所が千石となっており、宛名も石川長松殿となっている。兵助は前夜、福島正則と口論致し刺違えんという所までいったが、明日の戦いを前にして何事ぞと他の面々に諭され「明日は真先に功名立てん」と、福島正則の手前もありただ一人で真先に飛び出して行ってこの難にあった。

桜井佐吉ははじめは秀吉の小姓をしていたが、後、秀長の臣に廻された。佐久間盛政が中川清秀を討った時、木之本田上山の秀長の陣より、秀吉にこの事を知らせる早駆の飛脚として出されたのが、この佐吉であった。この時佐吉の馬は大垣についた時は倒れてしまったので、帰りは大垣から木之本まで本隊と共に素足で走り続けて帰ったという。秀吉はそれを聞いて早速秀吉の換え馬にしていた栗毛の名馬「菊額」を与えたという。

佐吉も他の七本槍の面々と共に賤ヶ岳を余呉湖畔に駆け降りたが、敵の大将らしい姿が川並側の山の中腹に見えたので、再び急斜面を駆け上がっていった。秀吉はじめ賤ヶ岳の上からは、何と無理な事をするものぞと同輩が見ていると、木陰に隠れていた敵から、さっと槍が突き出され佐吉の胸板を突き抜いたかに見えた。佐吉は馬から落ちると共に30mもあろうと思われる崖下に真っ逆様に落ちて頭蓋骨が割れたのか動かなくなった。

あっと叫んで見ている者皆固唾を飲み、佐吉は死んだものと思った。ところがしばらくすると、その佐吉がむくむくと起き上がってきた。見ると兜の前立は砕け、顔は擦り傷から血が出ているのに、槍を拾い上げ、今度は徒歩で腹ばいながら急坂を登って行った。登りつめた所で、木陰に向かって槍先が光ったと思うと、しばらくして先程の敵の首を槍先に突き刺し、賤ヶ岳の方に向かって振っていた。

秀吉は無論佐吉にも同じ一番槍の感状を与えた。太閤記などにはその功を賞して秀長は3万石、秀吉は2万石都合5万石が与えられたなどと書いてあるのは誤りで、他の七本槍の者同様に丹波で3千石を与えられた。

秀吉から一番槍の感状と3千石宛(福島正則のみ5千石)を与えられたのは以上9人で、ただ石川兵助のみが戦死のため、幼少の弟長松の名で千石となっている。秀吉の感状の文面も与えられた禄も同じで、甲乙何の差別もなく、秀吉が7人だけを特別扱った点はどこにも見当たらない。無論秀吉が七本槍などとは一言も言っていないのだ。




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