日本史に残る瞬間

 

家康の江戸で開幕には ぜんぜん及ばない 小さな歴史かもしれないけれど

日本では半世紀ぶり 遊覧飛行としては 日本で初という水陸両用飛行機が 離水する瞬間のとき

それは 2016年 平成28年08月10日 午前11時55分 

去年から ご縁ができて以来 このところ たびたび訪ねている福山で たまたま この日 現地にいたことから 「せっかくのチャンスだから見て行けばいい」 という助言により 帰京を遅らせ 尾道の 境が浜ベラビスタマリーナに向かいました
 
今回の福山訪問は 外を出歩く予定がなかったため 帽子も日傘も持たず
それで 念のため大きめのタオルを手に 開業のセレモニー会場から 少し離れた日陰で その時を待つ


歴史を担う一号機

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厳かに 「オープン」 
司会者の合図で 来賓 関係者により開いた幕を確認したのち この辺りで離水かと思われる位置に移動して デジカメを構えました 

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予想外に滑走距離が長くて 離水の瞬間は 関連会社の大きな船の陰になってしまったが この数秒後には 間違いなく水面から飛行機が飛び立つという 歴史の瞬間があったはず

ネットで  「めっちゃかっこいい 水上飛行機の基地」  という つぶやきを発見

かっこいい基地 と ご縁ある私も いつか 水面から飛び立って瀬戸内海の上空を かっこよく飛行してみたいけど まずは しまなみ海道サイクリングを 今治まで制覇かな





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コメント

麦さん、こんばんは。

歴史的瞬間は見えないのがいいと思います~♪

で、今夏、うちではカキ氷を作る機械を買おうとしたんです、あればいつでも食べられるしね。
ところが、なんと否決されました。


いよいよ98話目です。



加藤清正が秀吉一辺倒であり豊臣恩顧の人物であったことは間違いないことである。しかし、大坂の陣のとき清正が生存していたとしても秀頼に味方して戦ったとは考えにくい。江戸幕府の情勢を目にして清正というのはそれほど無分別な男とも思えない。だが清正が秀吉のもとに奉公してから肥後熊本54万石の太守になったのは、秀吉の贔屓があったことも、また事実であったから内心はいかばかりだったろうか。

地盤も何もない人間が一代での出世である。清正一代記は自身の槍一筋と秀吉の贔屓で成り立っている。そんな清正だから家中の仕置もワンマンであった。加藤家では家老を置かず、何事も清正一人が判断して政治をしていたという。戦場では勇将であった清正だが、民政でもまた勇将な名君でありえたのだろうか。

歴史夜話98
豊臣秀吉子飼いの勇将加藤清正が、熊本城で没したのは1611年(慶長16年)6月24日のことであった。すでに関ヶ原の戦いで徳川家康の覇権が確立し、豊臣秀頼の今後がどうなるか、というときのことで、清正は二条城での秀頼と家康との対面の場で秀頼のことを終始守護し、無事に対面を済まして帰国する船中で発病、回復することなく死去したのだった。

二条城の対面の場で秀頼の姿を見た家康は、思いのほか立派に成長した秀頼に内心驚き、このままでは豊臣恩顧の大名たちが秀頼をかつぎ上げることを心配したあまり、豊臣大名の筆頭格である清正を毒殺したとの説もあるほどで、清正の死は家康にとってタイミングのよすぎることであった。

清正の跡を継いだのは二男の虎藤だった。虎藤は、清正没後に元服して将軍秀忠の一字を賜り、忠広と名乗る。ときに10歳とも16歳ともいわれている。忠広は、勇将にして名君加藤清正が一代で築き上げた54万石を得、2年後に将軍の養女となった蒲生秀行の娘を正室に迎え、将軍家の縁戚となる。

ところがこの二代目の忠広というのが苦労知らずの凡庸であったことが、加藤家の運命を分けた。凡庸なうえに幼い忠広では大国の統治は難しいし、無き清正は独裁体制を布き家老職を設けていなかった。したがって幕府は藩政に介入して家老職を置くことを命じた。

家老職に就いたのは加藤与左衛門、加藤右馬充、加藤美作、並河金右衛門、下川又左衛門の5人で、藤堂高虎が監察役となった。さらに1613年(慶長18年)には、藤堂高虎に替えて幕臣の阿部正之、朝比奈正重が監察役として熊本に送り込まれた。加藤家は間接的に幕府の支配下に置かれることとなったのである。というのは、いよいよ大坂の豊臣家との間が風雲急を告げつつあったからで、ここで豊臣恩顧の加藤家に下手な動きをされてはたまらないというのが家康の本音だったろう。翌慶長19年の大坂冬の陣、このとき忠広は大坂に向かったが、途中で講和が成立して帰国した。つまり何もしなかったのであり、これは幕府の望むところでもあったろう。

1615年(元和元年)大坂夏の陣では島津在国中は守りを固めよ、との命を受け在国した。つまりあてにはされていなかった、というより出陣する必要なしとされたのだ。そして大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると当面の憂いがなくなり、翌元和2年に家康が死去すると幕府は豊臣恩顧の大名に何の遠慮もいらなくなった。

幕府は豊臣氏が大坂にあることを前提にして諸大名の配置や政策を考えていたのだが、幕府の都合だけで大名政策を実行すればよくなった。それは豊臣恩顧の大名だけでなく、譜代大名や徳川一門にも及んだ。家康没後に越後高田の家門松平忠輝(家康六男)や安芸広島の福島正則が改易されたのは、まさに政策の一環であった。秀忠政権にとって忠輝や正則は憂いでしかなく、ささいな落度、それもなければ冤罪を着せてでも改易して憂いを絶ち、同時に将軍家の権威を高める必要があった。

ところが、この重大なときに加藤家では家老達が対立して派閥を競い、権力闘争を始めた。家老達は錚々たるメンバーで、苦労知らずの忠広に抑えられるはずもなかった。当時、出羽山形の最上家が改易されたのも、幼君を補佐すべき重臣達の権力闘争が原因であったが、加藤家もまったく同じ道をたどり始めた。加藤家の熊本藩は戦国時代の気風をそのまま受け継ぎ、家老職は時代の流れを読めず役割をはき違えた。

家中内の派閥争いは激しさを増し、その一方は加藤美作を筆頭に、その子息の丹後、中川周防、玉目丹波、和田備中ら。他の一派は加藤右馬充を頭に下川又左衛門、並河志摩、加藤平左衛門、下津棒庵、庄林隼人、森本儀大夫などであった。対立が激化する中、1618年(元和4年)加藤右馬充派の木造左京とその子の内記が脱藩した。

その原因は忠広が大名の織田信良の招待を受けたときのことにある。当時は、このような時は料理や給仕は招かれた側がするのが風習であった。理由は暗殺や毒殺の用心のためである。もちろん信良もそのつもりでいたが、忠広はそのような配慮は無用のことと挨拶した。ところが信良の方も引かなかったので、忠広は小姓2人だけを連れて行くことにした。

このことを伝え聞いた加藤右馬充派の木造内記と左京の親子は相談して、当日織田家の勝手方に詰めた。もともと木造父子は信良の親戚であり、よかれと思ってやったことだし、対立していた家老の加藤丹後の許可も得ていた。当日、忠広は勝手方に詰めている木造父子を見て不快に感じ、帰邸後に2人を呼び叱責した。織田信良に対して嘘を言ったことになるからである。

叱られた2人は丹後の許可も得ていると答えたが、忠広に問われた丹後は「許した覚えはない」と逃げた。これが左京と内記の脱藩の原因で、左京の義父の下津棒庵も家を立退いた。しかもこれだけに留まらずに下津棒庵は、加藤家の政治の乱れや家老職の私曲を幕府に訴え出たのだ。

幕府の方でもおそらく加藤家の政治の乱れを掴んでいたのだろうが、向こうから訴えが出たのだから内心喜んだだろう。幕府では関係者を呼び出して、秀忠が親裁することとなった。この席で両派の頭目である右馬充、美作とも一歩も譲らずに相手方の私曲専横を主張したが、つい右馬充の口から聞き捨てならない発言が飛び出した。

それは、美作と丹後の父子が大坂冬の陣の際に、藩の海運のためと称して建造した大船2艘をもって、大坂方に兵糧と援軍を送ろうとしたというのだ。しかも美作父子は忠広出陣の際には、国元で豊臣方に拠って挙兵を企てたともいうのだ。これが事実かどうかはともかく、この発言で美作父子は言葉も無く狼狽し、秀忠は気分を害して席を立ったという。美作派の敗北であった。

この結果、美作父子はじめ中川周防ら33名が流罪となり、大坂方に内通したとされる横江清四郎、橋本掃部介、同作太夫は斬罪となった。忠広は若年の故をもって、また将軍家の姻戚でもあったために許され、今後は右馬充らが国政を輔導すべしとされた。宿敵美作一派が排除されたことで、熊本藩政は右馬充一派に牛耳られた。

1622年(元和8年)幕府は加藤家の領内にあった八代城を出雲松江に移すことにし、加藤家にその作業を命じた。この移転費用で加藤家の財政は急激に悪化し、これに対処するために1624年(寛永元年)領内総検地を行い、その結果として苛酷な年貢を領民に課した。このとき総検地で打出されたのは96万石であったという。54万石の石高に対してである。新田開発などにより若干の増加を見るのは当然としても、96万石というのは異常に過ぎた。

このことは年貢を納める領民の反感をよび、周辺諸大名もその実態を批判して、幕府の知るところとなった。もちろんこうなることは幕府の筋書き通りといってもいい。八代城移転も加藤家の財政悪化を目論んで命じたことだったし、目的はいかに加藤家を取り潰すかにあったのだから、領内のゴタゴタは幕府の歓迎するところであった。

やがて秀忠が隠居し、家光が三代将軍となった。家光は生まれながらの将軍と公言したというが、それはまた家康や秀忠のように戦場疾駆や幕府創設の苦労がないということである。それ故に幕府の権威を確立し、絶対君主としての地位の裏付けとする必要があった。したがって絶対君主確立の妨げになるものは排除しなければならなかった。それが弟の駿河大納言忠長の改易であり、加藤忠広の改易であった。

忠長は幼少時から聡明の誉れが高く、秀忠の寵愛も深かった。一時は三代将軍は忠長との噂もしきりであったが、それを家光に引き戻したのは、家光の乳母春日局と家康であった。
忠長は駿府50万石に封ぜられたがなおも不満は大きく、兄である家光を軽んじた。やがて傍若無人な振る舞いが目立つようになった。家光は秀忠生存中は我慢したが、1632年(寛永9年)秀忠が死去すると、直ちに忠長を改易した。不孝なことに忠広は、この忠長と親しかった。

豊臣恩顧、重臣間の騒動、苛政、さらに忠長との親交とくれば加藤家の運命は決した。幕府の大名に対する政策では、とくに中国、四国、九州は豊臣恩顧の大名の整理が遅れ、外様大藩がひしめいていた。そのために幕府としては隙あらば外様大名を改易して、譜代大名を配置したかった。そういう流れの中で加藤家が、改易の標的になったというのが真相であり、それが家光の将軍としての権威確立に寄与することになったのだが、表向きはそんなことは言えない。それが加藤家改易の不明朗さになっている。

加藤家改易にはいくつかの俗説はある。そのひとつは、寛永9年4月10日、旗本室賀源七郎の屋敷に侍がやってきて文箱を差し出した。差出人のわからぬ文箱は受取れぬと断ると、その侍は文箱を隣家の井上新左衛門の屋敷に捨てて逃げて行った。新左衛門の家臣が文箱を見ると、将軍家に対する謀反の密書である。驚いた井上家では老中に届け出て、その侍を探索し、やがて発見捕縛した。その侍は加藤光正家臣前田五郎八と名乗った。光正とは忠広の嫡男で、当時14歳になり江戸屋敷にいた。これがもとで忠広、光正が糾弾されたという。

また「武家盛衰記」では光正の家臣に広瀬庄兵衛という愚鈍な男がいて、いつも光正のなぶりものになっていた。あるとき光正は広瀬を召し出して「このたび密かに謀反を企て、挙兵することとした。ついては汝を一方の大将とする」とからかったが、愚鈍な広瀬は疑うことを知らず震え上がって逃げ出した。光正はさらに数日後に広瀬に再び謀反の相談をする。広瀬は「我君御一人でかような大事は無理」と真剣な顔で諫止した。光正は内心大笑いしながらも真面目な顔で偽作した謀反の廻状を見せて、「各大名も連判している上、間違いのないこと」とさらに広瀬をからかった。

広瀬はもはやこれまでと、大老土井利勝の屋敷に駆け込んで訴えたが、さすがに利勝は光正の戯れと推察した。しかし、これを改易の理由にしない手はないとして、忠広、光正を喚問したとする。いずれにせよ幼稚な話であり本当とは思えないが、そんな話がでるほど忠広の改易の理由は不明朗なのだ。

加藤家改易は幕府の既定方針となり、1632年(寛永9年)夏に帰国中の忠広に対して21ヶ条の詰問状を渡して、速やかに出府して弁明せよとの命令が出された。その21ヶ条の内容が何であったかは不明だが、加藤家の方でも事情は把握しており、一部では命令を拒否して籠城するのが良策との意見も出たようだ。幕府でも周辺大名に動員準備を命じたという。

しかし家老加藤右馬充は、「籠城して反逆者の汚名を残すのは末代までの恥」とし、忠広もその言を容れて出府した。しかし幕府は忠広を品川宿で止め江戸に入るのを許さず、池上本門寺に待機させた。幕府は嫡子光正の不届き、母子を無断で国許に送ったこと、さらには平素の行跡よろしからずとして肥後一国を収公、忠広は出羽庄内酒井忠勝に預けられ1万石が宛行われ、光正は飛騨高山金森重頼に預けられた。

光正はこの翌年に忠広に先立って死去したが、自害であったともいう。一方、忠広は庄内丸岡村で22年暮らして、1653年(承応2年)57歳で死去した。丸岡村での暮らしは幽閉そのもので、幕府は悪地を選んで与えるよう酒井家に命じたという。

加藤家改易の跡には豊前小倉から細川忠利が移された。細川家も外様大名であったが幕府との関係はよく、好感をもたれていた。そして細川家の跡の小倉には譜代大名である小笠原氏が入り、小笠原氏は九州諸大名の監察の役目も負った。

2016.09.07   えんてつ   編集

えんてつ さん

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歴史的瞬間!
そうですか?
私は、見たいですが、、、。

かき氷機、我が家にありますが、家で作っても美味しくないんですね。
家庭の冷蔵庫で作った、氷が違うのか、あるいは、氷をかく刃が違うのかな? と思います。

98話、カウントダウンですね!
あと少し、頑張ってください(*^-^*)

2016.09.07   麦   編集

麦さん、こんばんは。

団子虫かぁ~ 「虫の秋、夜長夜長に冴える二胡」
頑張ってお稽古してくださいね。


歴史夜話99話目は、福岡藩黒田家の物語です。
ちょい長いので、お暇なときにでもどうぞ・・・・
そして、あとひとつで有終となりました。





黒田騒動、伊達騒動、加賀騒動は、江戸初期の三大御家騒動と呼ばれている。そのなかで黒田騒動とは福岡藩黒田家で起きた騒動で、その主人公は栗山大膳という。黒田家は戦国末期に黒田孝高(如水)が播磨国で豊臣秀吉に仕えてから躍進した家柄であった。孝高は名軍師として名を挙げ、常に秀吉の側近くにいて豊前中津12万石の大名となった。

孝高は秀吉が没すると家康に即座に乗り換えて、孝高の子の長政は関ヶ原で調略でも武力でも大活躍し、家康から「忠節を感謝し、徳川家は黒田家の子孫を粗略には扱わない」との感状を得ている。長政は関ヶ原の功で一躍筑前福岡で50万石余りを得て、国持大名となった。長政が死去すると、その子の忠之が跡を襲った。この忠之の時に黒田騒動が起きる。

栗山家は、まだ孝高が秀吉に仕える前、播磨姫路にいたころ、栗山善助と名乗る若者が孝高のもとに出仕してきた家柄である。したがって黒田家中ではもっとも古くからの家臣であった。黒田家では栗山家のように播磨時代の取立ての家を大譜代、中津時代の取立てを古譜代、福岡に入部してからの取立てを新参と呼んで区別した。栗山善助は大譜代衆の中でももっとも黒田家に忠誠を尽くして働き、今日の黒田家あるは栗山善助のおかげと言っても決して言い過ぎではないほどであった。

したがって黒田家の福岡入部後、栗山家は家老職にあり、上座郡左右良の城を預けられ、1万5千石を得ていた。実力や能力はあまりなくとも家柄だけで重職に就ける家であり、こういう家を家柄家老という。家柄家老というのは先祖の功績で家老になれるわけだから、後代の藩主にとっては時として煙たい存在であった。確かに表面上は感謝はすれど、かといって心底は先祖の勲功をいつまでも鼻にかけてということになるのである。藩主とすればそんな家柄家老より、ある程度自分の思い通りになる重臣がほしい。また、家柄家老の能力が低く、新たに有能な重臣を据えなければ藩が持たないというケースも出てくる。こういう事情で藩主が新たに家老を取り立てる場合、そういう家老のことを仕置家老という。


歴史夜話99
栗山善助は黒田孝高が有岡城で1年近く監禁されたときに、有岡城に何度も忍んで孝高と繋ぎをつけ、最後には有岡城から救い出している。また関ヶ原役前夜に大坂屋敷から孝高と長政の両夫人を脱出させて中津に送り届けている。まさに黒田家の恩人でもあった。その善助の子が栗山大膳利章あった。黒田家の場合は、忠之が家柄家老の栗山大膳を忌避し、倉八十太夫なる児小姓を寵愛し、やがて仕置家老にまで取り立てた。

その過程で相当なごり押しをやり、それに大膳が反発し、忠之と大膳つまり藩主と筆頭家老の仲が険悪となった。ふたりはお互いに譲らず、ついには大膳が忠之に謀反の気配ありと幕府に訴えでて、幕府の評定が行われたのだ。評定の結果は、忠之は騒動を惹起したことを問題にされて所領は召し上げられたが、即日所領を同じ場所に封じられ、実質お咎め無し、大膳は盛岡藩南部家に預けられたが、終生150人扶持を貰うなど寛大な処分であった。

大膳の訴えも策略の一環であったと伝えられている。つまり黒田騒動とは、君臣間の対立が抜き差しならなくなって起きたものであり、真の悪者はいないのである。後世、栗山大膳に対する評価は分かれており、大忠臣というものもあれば、逆臣というものもある。ちなみに福岡藩では江戸期を通じて栗山は逆臣で栗山姓すら許されなかった。

黒田騒動の主人公栗山大膳は、1591年(天正19年)1月に栗山備後(善助)の子として生まれた。まだ黒田家が中津にあったころである。大膳は通称であり、名は利章という。
一方、大膳と対立することになる福岡藩二代藩主忠之は、1602年(慶長7年)11月9日に生まれた。忠之が誕生したのは福岡城東ノ丸にある栗山備後の邸であった。忠之が生まれたとき大膳はすでに12歳で、年齢的には元服前ではあった。

大膳は父の備後の致仕を待たずに、1617年(元和3年)27歳で家老職に列している。1623年(元和9年)8月に忠之の父で福岡藩祖長政が京都で没し、この年10月に忠之が正式に家督を継いだ。このとき忠之27歳、大膳は39歳で、大膳も首席家老となった。長政と備後という関ヶ原役を経験した老練なコンビから、忠之と大膳という新進のコンビにバトンタッチされ、福岡藩も名実ともに新世代となったわけだが、実際はこの新進コンビは性格からして合わなかった。

忠之は苦労知らずの若殿様という形容がぴったりに育った。忠之の生まれたのは関ヶ原役の2年後であり、このときすでに黒田家は筑前の太守になっている。ここまで黒田家を育て上げた祖父如水や父長政のことを身近に見ているわけではない。大坂の陣では出陣前に病に倒れ、結局戦闘には間に合わなかった。しかし、このとき黒田家のことを警戒した家康に仮病ではないかと疑われ、忠之は意地でも出陣した。フラフラになって大坂に着いた忠之を家康も秀忠もねんごろにねぎらったというから、面目は保ったものの、参陣は形式的に終わった。

じつは、長政も忠之のことを嫌っていた。わがままで短気で粗暴で思慮が浅いと思ったらしい。廃嫡を真剣に考えて、その弟の長興を世子にしようとした。このとき間に入って忠之を救ったのは忠之の傅役でもあった大膳である。大膳は長政に忠之廃嫡の意志が固いと知ると、忠之を謹慎させ、同志を糾合して忠之廃嫡となれば同志一同切腹して果てると長政に申し送った。驚いたのは長政で、藩の主要な家臣が一度に切腹されては藩政は成り立たなくなるどころか、幕府に知れたらどんな咎めを受けるかわからない。 やむなく忠之廃嫡の件はとりやめとなった。長興は長政の遺言で支藩である秋月藩初代を藩主となるが、忠之からはこの件で仲はよくなかった。

忠之は一般にいわれるほど暗愚ではなかった。たしかに長政に比べれば格段に落ちることは否めないが、三代目の馬鹿殿ではなく、事実この後の騒動における対処も見事な面もあり、騒動後は問題なく藩主としての勤めを果たしている。ただ短気であるが故に血気に逸り、さらに我が強くて好き嫌いが激しい人物ではあったらしい。長政は死去する際に忠之の将来を心配して、大膳と家老の小河内蔵允を呼んで忠之の将来を懇ろに託した。その際に関ヶ原のときの家康からの感状を大膳に預け「不心得者あって取り潰されるような重大なことあれば、この感状を老中方に見せ祖先の功を申し述べて嘆願せよ。謀反以外の罪なら赦されるだろう」と語ったとされる。

さて、一方の大膳である。大膳の父備後は風格があり温厚篤実を絵に描いたような人であった。 好学であり努力家であり責任感もあり、儒学や漢学、詩文などの教養も身につけていた。ただ、藩政のなかでは、押し付けがましく傲岸なところがあった。忠之に対しても、微に入り細に入る諌書を何度も出している。朝は早起きをせよとか、客扱いは丁寧にせよとか、しかも一々諸子百家や経書などの文句を引用して書いた。

相手は主君しかも筑前一国の太守である。しかも武芸好みの性格で漢学や儒学の素養もそれほどではなかった。大膳にすれば忠之のためを思ってしているだけで他意はないのだが、忠之はたまったものではない。大膳のことがだんだん疎ましくなってきた。家柄家老というのは藩主にとってもともと煙たいものだ。藩主の思い通りになるわけではないし、まして罷免や隠居などおいそれとはできない。大膳は一回りも年長であり、首席家老である。そうなると自分の思い通りになる仕置家老を置きたくなるのが自然で、忠之もそうした。

まず忠之は側近グループというべき近衆を形成する。側近グループというと聞こえはいいが、ようは忠之の我儘が何でも通る、追従者の集まりである。その中でも特に忠之の寵愛を受けたのが、倉八十太夫であった。十太夫の父は倉八長四郎といい、黒田家が中津から福岡に入る際に200石で召抱えられた。十太夫は、はじめ忠之の小姓として上がったが、眉目秀麗であり忠之の男色の相手になった。

このころはまだ戦国の気配が色濃く残り、武士の世界も男色が流行していた。したがって十太夫が男色の相手を勤めるのは当時としては異常でもなんでもないが、忠之の傾倒ぶりは異常であった。十太夫が初めて小姓になったころ、倉八家は1500石くらい得ていたが、十太夫が忠之の小姓になると加増に次ぐ加増を受け、最後には9000石にまでなったという。忠之が十太夫をいかに寵愛したかという話が、いくつか伝わっている。十太夫はやがて家老職になるのだが、十太夫が家老になった直後に大膳の父備後が死去した。栗山家には備後が如水から拝領した合子の兜と唐皮威の鎧があった。どちらも如水が着用したもので、如水が死去するときに「この兜と鎧を我と思って長政をよろしく頼む」と付言した由緒あるものであった。

忠之はこの兜と鎧を主家に返せと言った。黒田家にとって由緒ある宝を備後なき今、他家で私蔵するのは忍びないという理由であった。大膳はおかしいとは思いつつも、忠之の言うことにも一理あるので、これを返した。すると忠之は兜と鎧をなんと十太夫に下賜してしまった。 十太夫も家老職にあり9000石の大身であるので、それなりの家宝も必要であるとの理由であった。これを聞いた大膳は激怒した。十太夫の屋敷に自ら乗り込み兜と鎧を奪い返して、本丸の宝物庫に入れてしまった。

これだけのことをやるのに大膳は一言も忠之に断らなかった。また事件を聞いて忠之は一言も大膳に自分への報告のなかったことを持ち出さなかったという。ただ、後世、十太夫というのは巷間では俗悪な奸臣として描かれているが、事実はそうではなかったらしく、この事件のときも大膳の剣幕に押されたとはいえ拝領した兜や鎧を返しているし、そのことを忠之に恨みがましく訴えた形跡もない。 なお、この事件は俗説黒田騒動では長政の水牛の兜ということになっているが、事実は如水の兜と鎧であった。俗説ではことさら十太夫を悪玉にするために例えば大船鳳凰丸の建造も十太夫の甘言に忠之が乗せられたものとされている。

このころ幕府の許可なく大船を作ることは違法であった。それを敢えてしたというのであるが、このことは許可を受けていたともいうし、よしんば許可を得なかったとしても十太夫ごときの責任ではなく、首席家老たる大膳の責任である。ましてや大船の建造を首席家老が知らないはずはなく、のちに幕府が問題にしていないことから見ても、許可を得ての建造であったのであろう。ただ鳳凰丸というのは藩政には何の役にも立たず、完全に無駄使いであった。その罪を十太夫が着せられた可能性が高い。十太夫は騒動が結着して高野山に追放されるが、その後島原の乱の際には高野山を降り黒田家に陣借りしている。このことからも根っからの悪人ではないことがわかる。

藩主と首席家老の対立、藩主が寵愛する小姓上がりの出世という騒動の条件が整ってきた。忠之と大膳の対立は激しくなるばかりで、必要なとき以外は会うこともなくなった。こんな状態に嫌気が指したのか大膳は1628年(寛永5年)(1628年)に家老職の辞任を申し出た。忠之はこれを許し、大膳は所領の左右良に引きこもった。

ところがこのことが幕府に聞こえ、翌寛永6年に大膳は幕府から召喚され調べを受けた。その結果、幕府より大膳の家老職復帰が命ぜられた。大藩の首席家老ともなれば幕府の監視を受け、その進退は藩主の一存では決められなかったのである。いかに大藩の家柄家老の地位がすごいものかがわかる。いずれにしても大膳は首席家老として復職したが、このことは忠之との仲をさらに悪くしただけであり、対立はより根深くなっていった。

そんなとき将軍秀忠が死去し、江戸で葬儀が行われた。兜と鎧の事件の翌年1632年(寛永9年)正月のことである。忠之も葬儀に列席し形見分けを受けて福岡に帰国した。藩主の帰国の際には城外に重臣が居並んで出迎えるのが慣例であった。だが、そこに大膳の姿はなかった。忠之は大膳の姿が見えないので、大膳はどうしたかと尋ねた。すると重臣の一人が大膳は病気で臥せっていて出迎えができない。大膳からもしお尋ねのことあれば、よろしく申し上げてくれ、とのことであったと返答があった。

忠之はなおも詳しく尋ねたうえ城内に入り、大膳の邸の前を過ぎるときに山下平兵衛というのものを使者に差し向け、大膳を見舞ったという。これまでの忠之と大膳の間柄を考えれば不思議なことではあるが、忠之も大膳が病気と聞いて今までの経緯を反省したのかもしれない。忠之はその後も度々見舞いの使者を出したが、大膳は一向に登城しない。医師に様子を尋ねてみると、大膳の病気というのは重いものではなく、登城しても一向差し支えない程度のものと知れた。

これには諸説があって、忠之の態度が掌を返したように優しくなったので、大膳は毒殺されるのではないかと疑ったとも言われている。忠之の反省が裏目に出た形だが、この大膳の病状を聞いた忠之が気分を害したのは言うまでもない。いったんすれ違うと、何事もすれ違うという典型であった。この寛永9年というのは肥後の加藤家が取り潰されたときでもあった。加藤家は清正の跡を忠広が継いでいたが、いわゆる豊臣系の大名であり、幕府にとっては取り潰したくてしょうがない家であった。

当時の幕府の政策は、徳川家安泰の為に外様大名はできるだけ取り潰すというのが基本方針であった。とはいえまったく落ち度がなければいくらなんでも取り潰せないから、些細な落ち度を見つけたり、ときには落ち度を作ったりした。加藤家の取り潰しも理由ははっきりせず、どちらかといえば落ち度を作って大げさに騒ぎたてた類のものであった。このことは外様であった黒田家にも緊張を生んだ。

理由はどうあれ加藤家は取り潰されることになり、5月になると上使として老中稲葉正勝が熊本に向った。この正勝というのは将軍家光の乳母春日局の子であり、したがってその力たるやたいへんなものであった。正勝は5月下旬に黒田領内の遠賀郡山鹿を通過することになった。黒田家としてもここは多いに機嫌を取っておかなければならないところである。忠之は山鹿に接待の使者を出すことにして、正使に十太夫を副使に黒田市兵衛を選んだ。十太夫は張り切って総勢350人という大人数で山鹿に入ったが、市兵衛の方はわずか38人という少人数だった。黒田家から挨拶の使者が来たとの報せに正勝は「倉八十太夫という名は聞いたことがない。黒田市兵衛は筋目のものと聞く。市兵衛だけを通せ」と、十太夫は会ってももらえず面目丸つぶれとなった。

こういう話は世間にパッと広まるものだ。福岡に隣接する商人町の博多では、寄ると触ると十太夫のことを笑い話にした。忠之にすれば十太夫に箔を付けるために行ったことであり、自分が笑われているようなものと感じた。忠之はもともと短気だからこうなると頭に血が上って逆上し、この話をしているものは見つけ次第に討ち取れと命じた。商人や漁師が討ち殺され、博多の町は一時恐怖が支配した。おさまらない忠之は同年6月13日に焚火の間に出て、黒田市兵衛らに大膳の邸に行ってすぐに登城するよう申し渡せと命じた。

ところが大膳はあいも変わらず病を楯にして動かない。これを聞いた忠之はますます逆上して意地でも登城させようとする。何度か使者が往復するが埒が明かないと見ると忠之は自ら大膳の邸へ押しかけるとわめく始末となった。老臣の井上道柏と小河内蔵允が急遽まかり出て、なんとか忠之を宥めた。この騒ぎの翌日に大膳は剃髪し、さらに夫人と二男の吉次郎を人質に出した。

1632年(寛永9年)6月15日、先日の騒ぎの翌々日、大膳の邸から飛脚体の者が出て行った。目付が見つけて後をつけて捕らえ、調べてみるとふところから大膳の書状が出てきた。宛名は豊後府内城主竹中采女正で、「忠之が謀反を企み、それを諫言したところ不届きとして成敗しようとしている。ここに至って、この大膳は公儀一途に思い、忠之を訴えることにした」と、とんでもないことが書いてある。

竹中采女正は全九州の目付役であり、いってみれば九州探題とも言うべき立場にあった。飛脚は取り調べに対して、昨日も竹中采女正のところに飛脚が立ったと述べた。 これで大膳の処分は勝手にできなくなった。処分をすれば公儀に対して罪を認めるようなものだ。訴えの内容が事実かどうかは別として、公儀の裁決を仰がなければならない。おそらく大膳はこの二度目の飛脚をわざと見つかるようにしたのであろう。

そもそもこの訴えは事実無根であった。忠之は謀反など考えたこともなかった。そのこと事態は大膳も知っていた。大膳は肥後の加藤家の取り潰しを見て、このままでは黒田家も危ないと感じ、先手を打って訴えでたのである。裁決で忠之に謀反の疑いなしとなれば、少なくとも取り潰しは免れると思い切った手段に出たのだった。ところが、これには家中一同が怒った。家中一同は大膳の考え思惑を知らないし、また首席家老であれば謀反の事実があったとしても、公儀に訴える前に他の手段があろうということだろう。

黒田家のほうでも対抗手段として竹中采女正の許に使いを立て、事情を述べて徹底的に取り調べてくれるように申し立てたという。7月に入って竹中采女正が福岡に入り、3日まで井上道柏や小河内蔵允と語らい府内に帰っていった。その翌日に大膳が福岡を立退いた。大膳の立ち退きは鉄砲には弾を込めて火縄に火をつけ、槍で取り巻くという物々しいものであったという。

8月15日に幕府から使者が来て忠之に参府を命じた。忠之は黒田美作と小河内蔵允を供にして江戸に急ぐ。箱根まで来ると江戸からの飛脚に会い、急ぐ必要はないとのことだったので、そこからは普通に道中した。江戸近くまで来ると、ひとまず品川の東海寺に入るよう公儀の意向が伝えられた。忠之は「どうせ囚われの身となり破滅するならば本邸で果てたい」と言い出し、もっともな申し出なので小河内蔵允が工夫して、忠之は単身桜田の藩邸に向った。

その後、藩主忠之なしで正式の行列を組んで品川口まで来ると東海寺に入れとの指示が待っていた。小河内蔵允はとぼけて、主人忠之は公儀の命令をかしこんで道中を急ぎ、すでに昨夜のうちに藩邸に入っているはずと言い、待ち構えていた旗本衆を呆れさせた。そうこうするうちに今度は黒田家と親しい尾張家付家老・成瀬隼人正と紀伊家付家老・安藤帯刀が藩邸に来て、忠之を説得して郊外の長谷寺に移させた。これらのことが福岡に知らされると、福岡では大騒ぎになり籠城戦の準備を始めたという。

11月17日に老中よりの使者が来て、18日に西ノ丸へ出頭するように言ってきた。18日に西ノ丸に出頭すると老中立会いの下で大目付による取調べが行われた。忠之の取調べはこの18日と翌寛永10年3月4日の2回行われているが、もともと事実無根の訴えだからボロの出ようがない。さらに忠之の返答もなかなか見事であり、老中らも感心したという。

一方、大膳の方はこの年の正月10日に江戸に入っていた。君臣の対決が予定されたが、これには忠之が反発した。「君臣の対決など古来から聞いたことがない。臣下と対決するような不面目なことは忍びがたく、疑いあらば切腹して果てるのみ」と毅然として言い切った。これには列席の老中らも申し出でもっともということになり、君臣の対決はなくなった。
3月11になって大膳と黒田美作、井上道柏、小河内蔵允らとの対決が行われた。大膳は弁舌を駆使して黒田家の重臣らと対決し、ときにはやり込めた。

だが所詮は事実無根の訴えであり、状況証拠やこじつけ的なものばかりである。聞く側にも大膳の訴えは事実無根というのが明らかだった。大膳対黒田家重臣対決の翌日の寛永10年3月12日、大膳一人が井伊家の邸に呼ばれた。ここで大目付から大膳に対して「謀反の訴えは偽りと認む。なぜ事実無根の訴えをしたか」と問い詰められた。大膳は涼しげな顔で「忠之が諫言を聞かぬため、このままでは取り潰されかねないと考え、計略として訴えを起こした。さすれば忠之は成敗かなわず、公儀の面前で悪政を申したてられ、深く反省することになろう」と述べたという。

さらに裁判の最初からこのことを申し出れば、さほど苦労なく育った忠之の心根は改まらず、また諫言一つしない重臣たちも何事もなく済んでしまうとも申し述べた。これを聞いて老中らは一様に感心し感動したという。3月16日に忠之は重臣らと供に酒井雅楽頭の邸に出頭を命ぜられた。忠之に対して「はなはだ仕置よろしからず。また君臣遺却の段、不届きにつき領地を召し上げる。さりながら代々忠節を尽くした家であり、筑前の国を新に賜う」という裁決が言い渡された。早い話がお咎めなしであった。

一方、同日大膳も井伊家の邸に呼ばれ、南部山城守へお預けの処分が言い渡された。ただし終生150人扶持を与えられ、4里四方お構いなしという破格の処遇であった。大膳は南部家でも大切にされたという。もうひとりの役者倉八十太夫は高野山へ追放されたが、島原の乱が起きると山を降りて黒田家の陣に加わったという。

これが黒田騒動と呼ばれる江戸初期に起きた大騒動であるが、結末を見ても明らかなように悪者が一人もいないし、その裁決は改易転封や切腹などがなく陰惨なものではない。唯一倉八十太夫だけが追放されたが、前に書いたように十太夫も悪人ではなく、本人は追放されなかったとしても黒田家にはいられなかったろう。ただ江戸時代を通じて福岡藩では栗山姓は不忠者として評判が悪く、福岡では名乗れなかった。また長政が大膳に預けた家康の感状は結局使われないままになった。この感状は黒田家家臣の梶原某に預けられ、のちに六代藩主継高に献上されている。



2016.09.07   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

マツムシはチンチロリン
鈴虫は、リンリンリン
では、ダンゴムシは?
ニコニコ、笑っているだけ(*´▽`*)


有終の手前で、お気に入り官兵衛の登場ですね。
となると、さらに100話に期待できますね!
プレッシャー( *´艸`)

2016.09.08   麦   編集

麦さん、おはようさんです。

それでは100話目とおまけを送ります。
コメント欄荒らしになりましたがどうかお許し願います。

これに懲りずにまたいつか歴史の話題ができることを願っています。





歴史夜話100
人類の天文学が始まった頃の一番の目的は「暦(こよみ)」の作成だった。暦の重要性は季節のある地域での農業の指針であり、祭祀を含めた生活時間の定義を求めるものだった。暦に関しては、古代エジプトでは4000年の昔から天体観測が行われていた。欧米では太陽を中心とした文化が発達したが、東洋では月を中心とした文化が進んでいた。

物理学としての近代的な天文学は望遠鏡の発明から始まる。1609年の5月頃、イタリアの物理学者だったガリレオ・ガリレイは、あるオランダ人が遠方の物がごく近くにあるように見える特別な眼鏡を発明したという噂を聞いた。ガリレオは、レンズの屈折理論に基づいてこのオランダの器械の原理を見つけだし、ほどなく筒の両端に2枚のレンズを取りつけた装置である「望遠鏡」を製作した。そしてこの望遠鏡を星の世界に向けて、1609年の秋から1610年の1月頃まで天文学上の数々の新発見をなし遂げる。その成果は、1610年3月「星界の報告」として出版された。

1609年といえば日本では江戸幕府の黎明期にあたるが、この時代の中国や日本の暦は、月の満ち欠けと太陽の動きによる季節変化の両方を考慮した太陰太陽暦(いわゆる旧暦)であった。この暦は前漢時代の「四分暦」から始まり最後の太陰太陽暦である1645年の「時憲暦」に至るまで少しずつ改良されて、実に50近い暦(暦法)が行なわれた。

それらの内、日本では、唐代に作られた「宣明暦」が862年(貞観4年)から採用され、なんと800年以上もの間使い続けられた。そのため、宣明暦の影響は現在にまで及んでいる。例えば、昼の12時のことを宣明暦では「午(うま)の正刻」と呼んだが、現在の「正午」という呼名はこの宣明暦に由来している。また太陰太陽暦では、地球から観測して太陽と月が重なる「食」の予報が正確さの尺度であった。

江戸時代は、日本の天文学が少しずつ科学的理解に根拠をおく時代になった。「宣明暦」は800年の長きにわたって使われたため、誤差が積もり江戸時代の初めには度々「日月食」の予報を失敗するようになった。その結果、新しい暦に切替える「改暦」気運が高まった。この頃、日本には中国の元朝で作られた「授時暦」の暦法が伝わっていて、これは数理的にも、また暦の元になる太陽の観測方法も非常に優れた暦だった。

「授時暦」は、関孝和のような数学者も熱心に研究したが、改暦を検討し提案を行なったのは、なんと囲碁をもって将軍に仕えた囲碁四家の一人、保井春海(後に渋川と改姓)であった。数回の試行錯誤の後、1684年(貞享元年)に春海の新暦は正式に採用され、「貞享暦」と命名された。新暦の内容は授時暦を若干修正した程度だったが、科学的な立場で天文暦学を初めて研究したという意味で、春海は我が国最初の近代的天文学者と呼ぶことができる。

春海が改暦を成功させることが出来たのは、囲碁の家元として多くの幕閣・諸侯の間に人脈があったことも見逃せない。そして春海は暦学だけでなく天文観測にも熱心で、天文儀器の改良や考案にも努めた。1670年(寛文10年)には朝鮮星図を元にして春海が製作した「天象列次之図」が刊行された。日本最初の星図だった。


春海による改暦が進められてから100年後、大阪では、豊後国杵築藩の臼杵から出てきた麻田剛立という医者が天文暦学の私塾「先事館」を開いた。剛立は幼少の頃から天文暦学に興味を持ち、独学で勉強し、28才の時に日食の日時を予言して、的中させたと言われている。この塾「先事館」には優秀な弟子が多く集まり、中国書によって西洋天文学を研究した。

彼らが集中的に研究した主な中国書は、「暦象考成(上下巻)」というものだった。上巻は1633年に出版された西洋天文学の書「崇禎暦書」を、清朝の康熙帝の時に中国人天文学者らが再編した本で、円運動を組合わせた伝統的なギリシアの惑星運動理論を扱っていた。また、下巻は、清朝の天文台長にまでなった宣教師I. ケーグラーらが著した暦算書で、太陽・月の楕円運動理論を初めて中国語で紹介した本であった。

幕府は麻田剛立派メンバーの中でも特に優秀な高橋至時(たかはしよしとき)と間重富(はざましげとみ)とを、改暦作業を行なわせるために江戸に召し出した。高橋至時は大阪城を警固する下級武士であったが理論天文学に優れ、裕福な質屋の主人だった間重富の方は天文儀器の考案開発に才能を発揮した。至時は1795年(寛政7年)11月に天文方に任命され、「暦象考成下巻」によって改暦を行なう旨幕府に答申し、改暦事業はスタートした。このとき改暦された暦は「寛政暦」と命名された。この寛政の改暦は、西洋天文学に基づく改暦というだけでなく、多種類の新しい天文観測装置が用いられ、観測精度も従来より大幅に改善されたという意味で、江戸時代の天文学史上、重要な転換点となった。

寛政の改暦が済んでしばらく後、至時は幕府からオランダ語の新しい天文書を取調べるよう命じられる。それは、パリ天文台の天文学者ラランデが書いた著書をオランダ語に翻訳した本だった。至時はオランダ語がほとんど出来なかったにもかかわらず、ラランデ天文書の精緻な内容に感銘を受け、暦算に関係ある部分、自分が内容を理解できた章を、文字通り寝食を忘れて解読することに没頭した。

その成果は「ラランデ暦書管見」という本にまとめられたが、至時は翻訳を始めて約半年後の1804年(文化元年)1月5日、過労のために39歳で死亡した。この本を見ると一部を除いて至時は「ラランデ天文書」の内容を大部分正しく把握しており、分からないオランダ語を添付の図画から文章へと読み解いていた。彼の天才的な数理の理解能力で補ったことがわかる。

江戸後期から幕末にかけての日本天文学は若き天才学者・高橋至時の活躍で大きく発展する。そして至時の天文学から最も影響を受けたのは、日本全土の測量と地図作りで有名な伊能忠敬であろう。忠敬は、至時が天文方として赴任するとすぐに入門を果した。千葉県佐原で裕福な醸造業を営み、名主になる程の人望もあったが、若い頃から興味のあった天文測量の勉強に取組むため、51歳で隠居して江戸に出て来た。至時の指導のもと熱心に研鑽し、数年で日月食の予報計算が出来るまでに上達した。

彼らは観測儀器も全部自前で揃え、自宅で熱心に恒星の位置観測に励んだ。二人の師弟はやがて、緯度1度の長さを実測すること、つまり地球の大きさを決定したいと強く望むようになった。至時は、蝦夷地の地図作りを兼ねて往復の旅程で緯度1度の測定も行なう計画を作り上げ、幕府の承認を得て、忠敬を蝦夷の測量行に送り出した。忠敬が献上した蝦夷の地図は幕閣から高く評価されたため、その後17年間、10回に及ぶ日本全国の測量に忠敬は従事することになる。その集大成として忠敬の死後、1821年(文政4年)に完成し幕府に献上されたのが有名な「大日本沿海輿地全図」である。

また忠敬による緯度1度の測定値については、初めのうち至時が忠敬の結果に疑いを抱いたため忠敬は不満を募らせたが、至時が「ラランデ天文書」中の地球の大きさの値を見て忠敬の値とよく合っていることを知り、師弟は手を取り合って喜んだと伝えられる。

至時の死後、長男の高橋景保が幕府天文方の筆頭となったが、1828年(文政11年)シーボルト事件の主謀者として逮捕され獄死した。その後の天文方を率いたのは、天保の改暦を主導した次男の渋川景佑である。彼は浅草天文台とは別に九段坂に九段坂測量所を創立してもらい、そこで日本で初めて長期間の定常的天文観測を実施した。

天文方で忘れてはならないのは、「蕃書和解御用」である。天文方では1808年(文化5年)以来、高橋景保のもと、オランダ語の能力がずば抜けて高い長崎通詞の馬場佐十郎を江戸に出仕させて世界地図の翻訳刊行を行なっていた。景保はこの世界地理取調べの過程で、長崎のオランダ商館に頼ることなく、国際情勢の自主的な取得が幕府にとって外交上極めて重要な課題であることを認識し、翻訳センターの設立を幕府に進言した。景保、弱冠27歳の時であった。天文学の知識が幕末動乱の支えになったことも歴史的事実である。











江戸時代の支配階級は武士であった。その実効支配は文字通り武力であったが、治世を行うにはまた別の行動規範となる思想が必要であった。とくに江戸の世の中が平和になると文治ということが重要なテ-マとなった。幕府は儒教を重んじたがそのなかでも朱子学を中心に据えた。そして幕府の方針が決まると、それに反するものは排除されることになる。

思想弾圧は今でも横行している。極論すれば国家の維持は思想の弾圧で成り立っている。そのことは日本も例外ではない。もちろん江戸時代にもそれはあった。朱子学に反するもの、朱子学以上に権威のあるものは存在することは許されなかった。

沖縄は米軍の軍事要塞となっている。沖縄の住民はそれに反対している。政府は国防という意味で沖縄住民の利益より国防の価値は上位であるとして、沖縄住民の意思を無視している。これは政権を独裁的に強化しようとすれば当然のことで、日本も北朝鮮と同じだといえる。民主主義の原則は多数決とされるがそれにも限界がある。

思想弾圧は、その思想そのものの学問的な論争ではなく、それを唱える人間の生命を奪うように動く。江戸時代、朱子学に対して陽明学なるものがもてはやされた藩があった。幕府は陽明学の中身ではなく、お上に楯突く藩があることを許すことができなかった。


歴史夜話・おまけ
江戸時代初期、大名家の廃絶理由の多くを占めるのは後継問題であったが、江戸中期以降は末期養子が認められるなどの結果、後継による改易は激減した。また、後継問題の次に多い廃絶理由が乱心だった。乱心は今でいう心の病が高じて政務に耐えられなくなる場合ならまだしも、家臣や妻女を刃傷に及ぶなどというのもあって、その程度はいろいろだった。

もっとも乱心というのは都合のいい理由であって、開幕期ならともかく安定期に入ると反幕的な態度を示した大名であっても、さしたる落度がなければ簡単には取り潰せなくなったから、権力者側としては乱心、狂気に及びという理由を無理やりつけて取り潰したという例がでてくる。

1693年( 元禄6年)11月25日というから、将軍は五代綱吉、幕政はもっとも安定しているころのことである。下総国古河藩8万石の藤井松平家が改易となった。ときの藩主は松平忠之だった。藤井松平家というのは松平家5代長親の5男利長が三河国碧海郡藤井郷に領地を得て分家した、いわゆる十八松平と呼ばれる家柄のひとつであり、二代目の信一は家康の幼少期から仕えた歴戦の士であった。由緒ある家柄だった。

忠之はその六代目であり、父信之は老中を勤めていた。松平信之は老中就任とともに古河に移されたのだが、その前は大和郡山8万石、さらにその前は播磨明石で6万5千石を領していた。 明石では信之は民政に尽くして領民に慕われたといい、名君といっていい人物であった、この信之の明石時代に信之のもとに預けられたのが熊沢蕃山という陽明学者だった。

熊沢蕃山は野尻藤兵衛の子として、1619年(元和5年)に京で生まれ名を伯継(しげつぐ)、字を了介という。のちに母方の祖父である熊沢半右衛門守久の養子となった。蕃山というのは隠居した土地名である。1634年(寛永11年)丹後宮津藩主京極高広の紹介で、備前岡山藩主池田光政の小姓となったが、その後いったん池田家を離れ、近江聖人として高名であった中江藤樹の門下に入り陽明学を学んだ。

正保2年(1645年)に再び岡山藩に出仕したが、藩主光政は陽明学に傾倒していたために藤樹門下である蕃山を重用した。蕃山は庶民教育の場となる「花園会」(閑谷学校の前身)を設立したり、「諌め箱」を設けて領民の意見を求めたり、植林事業を行って治山治水につとめ、1654年(承応3年)の大洪水の際には米を残らず放出して領民を救済するなど活躍した。
一方で武士階級に対しては厳しい態度で臨み、禄の削減や帰農を主張したため家老職と対立し、やがて光政とも意見の喰い違いがみられるようになった。

さらに幕府の学問である朱子学と対立する陽明学を学んだ蕃山は、保科正之や林羅山らからも批判されることとなった。もっとも蕃山自身は「朱子にも陽明にもなじまず」と言っていたといい、現在の歴史学者によると一般的にいわれているような陽明学一辺倒ではなかったようである。蕃山の陽明学的なところは理論より実践という考え方のところだったが、当時奨励された新田開発に関しては、開発によってデメリットがあるようなら自然のままの方がよいという考えであった。

蕃山は新田開発に反対する理由として、山林がなくなると肥料の採草や薪の採集ができなくなり、保水能力が落ちて洪水になりやすく、また新田開発に人手が取られるからであって、これらの問題がなければ新田開発は良しとしていた。事実後年になって幽閉先の古河では新田開発を指導している。しかしながら発想はどうあれ新田開発一辺倒の幕府にとっては反幕的であったと見られたのは事実であり、退隠して備前国和気郡蕃山村に棲んだが、さらに幕府と藩から圧力がかかり、1657年(明暦3年)に岡山藩を去り京に移った。

京では私塾を開いたりして名声が高まり、京都所司代によって追放処分となった。大和吉野山や山城鹿背山に隠棲したが、1669年(寛文9年)に幕府により捕らわれ、明石藩主松平信之に預けられた。特に幕府が問題としていたのは山林保護、参勤交代の廃止、浪人の救済など幕府政策の根幹にかかわる部分であったようだ。

ところが預けられた方の信之は番山に傾倒し庇護してしまった。信之は学問好きでもあり、また農政にも熱心であったから、農政に明るい蕃山の意見を聞くうちに信頼するようになったのだろう。幕府の手前もあるから形式的には幽閉の形を取ったが、実質的には顧問格のようなものだった。信之が大和郡山、次いで古河に移ると蕃山もそれにしたがった。信之は幕府の中枢である老中の任ながら蕃山を庇護したのである。

信之は古河に入封して1年ほどで没している。老中在任のままの死であった。跡を継いだのが忠之であるが、忠之はこのとき13歳である。もっとも幼いころから、父信之ともども番山の教えを受けていたであろうことは間違いないだろう。帝王学とはそういうものだろうし、父信之が信頼した蕃山を忠之は無条件で信じたろう。

蕃山は古河に移ってから新田開発を指導し、そのときの溜池も現存しており蕃山堤まで残っている。この新田開発によって古河藩は4万石もの増産になったという。このくらいまでなら幕府としても黙認の範囲であったかもしれない。しかし1686年(貞享3年)に完成した経世済民の書である「大学或門」(だいがくわくもん)は見逃すわけにはいかなかった。 治山治水論、農兵論、貿易振興、参勤交代廃止、鎖国の緩和など見過ごすことのできない内容であり、1687年(貞享4年)に幕府は忠之に蕃山の捕縛と幽閉を命じ、蕃山は城内の立崎郭に幽閉された。

一方、将軍綱吉は年を追うごとに朱子学への傾倒を強めて行き、朱子学全盛の時代になっていく。1690年(元禄3年)には湯島に孔子廟が造られ、綱吉自ら孔子廟で林鳳岡の講義を聴いた。このような状況で蕃山は常に監視され、忠之の蕃山に対する扱いは生温いと批判された。1691年(元禄4年)8月、蕃山は73歳で没したが、その間、蕃山の思想に染まった忠之への圧力はやまなかった。

信之や忠之には幕政を批判する意図は毛頭なかったに違いない。藩主として領民を思い、蕃山の農政に対する知識、治山治水の能力を必要としたのであった。しかし幕府としては思想犯蕃山自体が悪なのであって、批判思想のもと蕃山の全てが忠之に受け継がれていると考えた。ましてや綱吉は偏執狂的な人物である。蕃山死後も忠之は監視下に置かれ、ことあるごとに圧力が加えられた。これが年若く経験不足の忠之には相当のストレスになったに違いない。

1693年(元禄6年)11月23日、老中戸田忠昌の使いとして秋田淡路守ら3名が江戸の忠之の屋敷に入った。ここで何が話されたのかはわからないが、その夜忠之は小刀を振りかざし自身の髪を切ったという。これが乱心と言われることの全てであった。翌朝、家臣の若山六郎左衛門が忠之の行為を幕閣に知らせ、その日のうちに忠之の改易が決まった。すさまじい早さであった。

自身の髪を小刀で切っただけで乱心改易というのも酷に過ぎるし、家臣たるもの隠すのが筋であろう。若山六郎左衛門は幕府の監視の密命を帯びていたかもしれないし、一方でどうせすぐに幕府に知れてしまうなら早い方がいいと判断したのかもしれない。いずれにせよ幕府の思惑通り忠之は改易となった。もともと幕府は忠之を反幕思想の持主の蕃山一派と考えていたから、乱心取り潰しは規定方針通りであったろうし、幕府の策謀があったことも間違いないと考えられる。

幕府も気がとがめたのか、藤井松平家は由緒ある家柄のためとして、分家していた忠之の弟信通に家督相続が認められ8万石のうち2万石が与えられた。信通は旧領の1万石と合せて3万石の所領となり備中庭瀬に移り、その後、出羽上山藩主となった。その子孫は明治維新まで上山藩主として続いた。一方の忠之は信通に預けられた後、1695年(元禄8年)4月19日に江戸において22歳の若さで世を去った。無念の死であったろう。


これで歴史夜話100は終わります~♪

2016.09.09   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-308 100話 達成!

私にできるなら、1話から100話までを、年代順に並べ替えたら、さらに貴重な記録になりますね。

ありがとうございました。
ゆっくりと、折々に、楽しませていただきます。

2016.09.09   麦   編集

麦さん、こんばんは。

約束通り100まで到達できて一安心しました。

年代順に並べてみるのも面白いと思います。
物語の番号だけではなくて、副題を付けたら良かったかな~と・・・・反省の弁。
あとはご自由にお任せいたします~♪

100題ということでは、宇宙100題とか地球100題とか、少し具体的なほうがやりやすかったかなと思います。なので、同じ歴史でも、戦国100題というほうが良かったかもしれませんね。

わたしのほうは、9月12日から、DIY100題というのに挑戦します。日曜大工で100種類のものをこしらえようということなんですよ(笑) 政治活動をやりながらということなので軽く一年はかかるでしょう。
第一作目はロケットスト-ブを製作します。

麦さんのブログはこれからも覗かせていただきます~♪


今日の一日・・・・・・
朝一はえさやり多し我が暮らし ~生き物
一休み見上げる空に雲ひとつ ~農村
あの人はビラを取るかと謎かける ~駅前
桃太郎ハンドマイクで路地をゆく ~街中
有終と少しさびしく記録する ~物語

2016.09.10   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-306
守れなくても問題ない約束でも、やはり一安心ですね(*^-^*)

楽しむだけなら構わないのですが、歴史を身に付けるという目的で読むとしたら、年代順のほうが良いと思います。
確かに副題があれば、最初から仕分けて、まとめられたかもしれませんね。

9月12日から長期旅行とかの、お出かけかと思いましたが、そういうことでしたか。
後半は押し詰まってきたので、楽しむというより、歴史夜話のスレッドとして記録する作業に追われてしまいました。

お忙しくなりそうですが、いずれも意義ある毎日になりそうですね。
完成品のお披露目はあるのでしょうか?
楽しみにしております。

昨日、レンゲショウマをいただく機会があり、ついでに知人3人でランチしまして、えんてつさんの話題が出ました。
どのような分野にも長けている方で、歌を詠む才能もおありだということも。

作文に書くより、たった17文字で十分に内容のある表現方法は、勉強しても身に付くものではないような気がします。

2016.09.10   麦   編集


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