歴史夜話 79 ~ 85



歴史夜話79
家康は、立場上「秀吉の伴天連追放令」を尊重して貿易の相手国には宣教師の日本入国禁止を通達していた。しかし、国内でのキリスト教布教をなかば黙認していた。家康がそうした便宜を図っていた理由はただ一つ、通商貿易のためだけであった。そのことは、家康が江戸に呼び寄せたフランシスコ会士が、スペイン船の関東入港の便宜を図れなかったことで、日本人への布教を禁じ、キリシタンや宣教師への貸家禁止をも命じたことがあったからだ。

関ヶ原で主だったキリシタン大名が西軍についたことで、関ヶ原以降、表面上は10年ほど平穏に時が流れた。しかし、何かきっかけがあれば、大規模な禁教令が施行されるであろう事は大いにありえた。家康もまた一向宗徒などの一揆の恐ろしさを体感していたからだ。が、しかし、見た目上、江戸幕府の天下統一による平和実現の中で、キリシタン教界は順調に教勢を伸ばし、北は蝦夷の地まで布教の手が伸びていた。

1610年(慶長15年)デウス号事件と呼ばれる出来事が起こる。 キリシタン大名の有馬晴信が、マカオで家臣を殺された事の報復にポルトガル商船ノッサ・セニョーラ・デ・デウス号を焼沈させた。この事件の結果、ポルトガル船が2年の間来航せず、また、秀吉の頃からポルトガル商人との仲介を務め、家康の信任も厚かった通詞ジョアン・ロドリゲス神父もマカオに追放された。キリスト教布教のための幕府への重要な窓口役だったロドリゲス神父を失うことは、キリシタン教界にとって大きな痛手であった。

そして特筆すべきは、この頃オランダ商船が初来着し、宣教師を介さない貿易の可能性への幕府の期待感も生まれることとなった。

そうしたなか、1612年(慶長17年)、岡本大八事件が起こる。岡本大八はキリシタンであり、主君の幕臣・本多正純を通じて、キリシタン教界に便宜を与えてきた。この岡本大八と有馬晴信との間に所領問題による贈収賄事件が起こる。幕藩封建体制の根幹たる所領問題で、このような不正行為が行われ、またその当事者が二人ともキリシタンであったことで、家康は禁教令施行を決意した。ちなみに虚偽を暴かれた大八は火刑に処され、有馬晴信は謀反の嫌疑をかけられ改易され賜死した。

幕府の家臣団のなかに伴天連の勢力が浸透していることで、家康は禁教令施行を決意した。家康は、まず駿府の家臣団を検問し、キリシタンである者を検挙し、信仰を捨てない者を改易処分とした。そしてまず天領である京都・江戸・駿府に禁教令を布告した。キリシタン寺院の破壊を命じ、布教を禁じたのである。この禁教令によって江戸・京都の教会の破壊が行われ、武士のみならず一般庶民もキリスト教信仰が禁止された。

また改易されたキリシタン武士の抱え置きを禁止する旨を、全国の大名、畿内の社寺、京都・長崎のキリシタン教界に通達された。1612年(慶長17年)9月には、関東の幕領に対し、キリシタン禁制を含む禁令五箇条が発令される。これにより翌1613年、江戸の鳥越で、浅草の小屋にいた22人のキリシタンが殉教する。病人達を収容した病院のような物であった。

またこの時期、徳川幕府の幕藩体制の体制固めは大詰めを迎えつつあった。そのために反幕勢力の豊臣氏打倒が急がれていた。 関ヶ原の戦いの後、改易された多数のキリシタン武士達が、キリシタンに好意的な大坂方に仕官していること、キリシタンの大旦那・高山右近が加賀前田氏の元で重職を担いつつあったことが、家康の注目するところであった。キリシタン勢力と大坂・豊臣氏とが結びつくことを恐れていた。

1614年(慶長18年)12月、臨済宗の僧、金地院崇伝(こんちいんすうでん)起草による「伴天連追放文」が日本国中の人間が知るべき掟として公布された。いわゆる「慶長の禁教令」である。「日本は神国であり吉利支丹の教えは正宗なる神仏を惑わす邪宗である。吉利支丹国の者は日本に商船を来航させ、財貨をもたらすためだけでなく、邪法を広めて正宗を混乱させ、日本の政治を改変しようとしている、これは大きな禍の兆しである」といった内容だった。


  伴天連追放が始まると1614年2月には京都から宣教師が去り、長崎へと護送されていった。4月京都に残り棄教を拒んだキリシタン達71名が奥州は津軽へ流罪となった。九州へ宣教師追放と教会破却のため伏見城番山口直友が派遣され、各地で宣教師や日本人信徒を摘発し、11月6日には高山右近の一族をマニラに追放し、長崎の11の教会を焼却した。その後有馬地方にも赴き、キリシタンの摘発と棄教を迫り、従わぬ者は処刑した。慶長禁教令による迫害はこれが最初の出来事だった。

こうして豊臣を滅ぼし、キリシタンを幕内から一掃して江戸幕府の基礎固めに奔走した家康も1616年に死去する。あとを継いだ秀忠は家康の引いたレ-ルを生真面目に爆走する。キリシタンへの対応も熾烈を極めることになる。秀忠の対応策は次回80話で。



   歴史夜話80
「慶長の禁教令」の結果、多くの宣教師達が国外追放されたが、どの修道会も日本キリシタンを見捨てたわけではなかった。日本に居残り潜伏してキリシタン教界を維持しようとする者、追放されたが再度日本に潜入して布教しようとする者もまた多かった。 彼らもまた、迫害の嵐にさらされ、次々と殉教していった。

1616年(元和2年)大御所家康が死去し、権力は将軍秀忠に集中する。家康の作った幕藩体制の基礎を固めに入った秀忠はキリスト教禁制も強化していく。「伴天連宗門御制禁奉書(元和禁教令)」を発し、日本の万民にキリスト教を厳禁し、外国商船の入港を平戸・長崎の二港に限定した。

九州・大村領に追放されたはずの宣教師がいる、との情報がはいると秀忠は領主大村純頼を叱責する。純頼は自らキリシタンであったにもかかわらず、棄教し、宣教師検索に乗り出す。その結果、4人の宣教師と2人の宿主のキリシタンが斬首された。この後、殉教事件が続くことになる。

秀忠時代の大きな殉教事件としては、1619年京都大殉教52人(火あぶり刑)、1622年長崎大殉教55人(火あぶり刑)、1623年江戸大殉教50人(火あぶり刑)、1624年東北大殉教109人殉教、1624年平戸大殉教38人殉教、 と際限がない。新井白石の「西洋紀聞」付録によると、殉教者の数は20~30万人にのぼったとなっている。

こうした事情から、幕府は、切支丹撲滅を徹底するため、従来の方針を変更する・・・・物語は81話に続く


  歴史夜話81
幕府は、最初こそキリシタンを次々と殉教させていったが、崇拝の対象となる栄光の殉教者を作ることを良とせず、拷問により棄教を迫ることに方針を切り替えた。これによりさらなる悲劇が生まれていくこととなる。その最大のものは、数々の拷問手段が生み出されたことだ。

1609年日本に到着したフェレイラは、他の宣教師と同じように熱心に布教活動を行った。1614年の宣教師追放の折には、日本に残り宣教活動を継続する事になった。その後フェレイラは日本準管区長として、潜伏司祭達の柱として活躍する。そんな彼も1633年ついに捕らえられることとなった。キリシタン教界は彼が殉教するものと信じて疑わなかった。

フェレイラは、元天正遣欧使節のひとりだった中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処される。穴吊りは、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものであった。そのやり方は、吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにし、頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜くなど、そう簡単に死なないようにし、穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神をさいなんだ。半日に及ぶ拷問の末、中浦ジュリアンは棄教せず殉死したが、フェレイラは転んだ。その棄教の時、吐いた言葉は「南無阿弥陀仏」であったと言われている。

幕府は家康の祖法を守るため、仏教中心の思想統制を行っていた。キリスト教否定のために仏教を用いるのが幕府のやり方であった。穴吊りで意識が朦朧とした者に刑吏が「念仏を唱えよ」と迫るのである。これが遠く異郷の地で布教する神父たちにとって、殉教ではなく、棄教し、転びキリシタンに成り下がることが、どれほどの精神的苦痛を与えたかは計り知れない。

転んだフェレイラを待っていたのは、さらなる生き地獄であった。江戸の小日向にある宗門改方・井上筑後守政重の下屋敷(通称切支丹屋敷)で通詞として余生を送ることとなった。フェレイラは 沢野忠庵という日本名をつけられ、日本人の妻を強制的に与えられた。そして屋敷に送られてくる捕らえられたキリシタンに棄教をすすめ、宣教師との通訳を務めた。 彼は1650年長崎で死亡、戒名をつけられ仏教徒として葬られた。

棄教を迫るための拷問は、どれも凄惨を極めるものであった。「火あぶり」は、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける。苦しみを長引かせ、信仰を捨てさせるため、薪は柱から離してとろ火で焼いた。背教したければ逃げ出せるよう、くくる縄は弱く縛ってあったという。また「簑踊り」という火刑は、手足を縛り簑を着せ、火をつける、と言うものであった。苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いた。「雲仙地獄責め」というのは、雲仙の硫黄沸き立つ熱湯を、柄杓に入れて少しずつかける、という熱湯責めであり、気絶したり死にそうになったら手当てして同じ拷問を繰り返したという。「竹鋸引き」というのは、路傍の柱にキリシタンを括りつけ、首に刀傷を付けておく。そばに竹鋸を置いておき、通行人にそれを引かせた。竹鋸のため切れが悪く、苦しみが長引いた。他にも、「木馬責め」、「切・支・丹の焼印押し」、「穴吊り」、など苦しみが長くなかなか死なないような拷問が数多く採用された。

これらの拷問を考え出したのは、島原領主松倉重政、唐津領主寺沢広高、長崎奉行竹中重義らであった。彼らの非人道的な拷問はキリシタンに反感を買わせ、過酷な重税による圧政は農民達に反感を買わせた。




  名誉ある「殉教」をさせないで「棄教」を迫り、転びキリシタンに成り下げるような残酷な拷問が行われたのは、キリシタン達の心を砕き殉教の栄光を味わわせない事、凄惨な拷問を見せ他のキリシタンに棄教させることがねらいであった。この方法は、戦前に共産主義者や自由主義者が拷問により、自らの信念を棄てさせ「転向」を迫まったやり方にそっくりである。

歴史夜話82
またキリシタンは邪教であるから、どんな残酷な処刑も当然、というキリシタン邪教観を民衆に植え付けようとしたのである。そして幕藩体制固めのための神仏中心の思想統制と、鎖国の口実作りに、キリシタン禁制は大いに役立った。

幕府はキリシタンへの弾圧を強化する一方、段々と鎖国体制を固めていく。 日本人の海外渡航・出入国禁止、海外船の入港制限、外国人の日本国内移動禁止、混血児追放、などが段階的に押し進められていった。そして1639年(寛永16年)のポルトガル船来航全面禁止で鎖国体制は完成する。この事態を打破しようとやって来たポルトガルの使者船に対し、乗組員を処刑、船を焼却したことから、その体制の厳しさがわかる。日本の周りは監視船が巡回し、外国船渡来に目を光らせ、発見すれば攻撃も辞さなかった。

1614年の禁教令から1644年までの30年間で、密入国しようとした宣教師は100名以上にのぼった。彼らは、キリシタン禁制がゆるく、流刑にあったキリシタンも多くいた東北地方などで布教を行っていた。1629年までにフランシスコ会は東北で26000人の信者を獲得した、と自認しているし、1626年までにイエズス会も20000人以上の受洗者を獲得している。しかしそれも禁教令が強化されていく中、迫害は厳しく、殉教者、棄教者が次第と増えていった。

1638年(寛永15年)イエズス会士で日本巡察使に任命されたアントニオ・ルビノは、転んだ(棄教した)フェレイラを立ち返らせようと、日本潜入を計画し二つの宣教隊を組織した。ルビノを含む宣教師5人と小者4人の一行(ルビノ第一隊)は、1642年マニラを出発したが、薩摩の下甑に着いたとたん捕縛され、長崎で全員が穴吊り刑で殉教した。

一年後、日本管区長ペドロ・マルケスを頭とし、ジュゼッペ・キャラ神父を含む十人の一行(ルビノ第二隊)は、筑前の大島で捕らえられ、江戸の切支丹屋敷に護送される。ここで彼らは立ち返らそうとしたフェレイラこと沢野忠庵に会っている。こちらは十人そろって棄教するはめになった。彼らはフェレイラと同じく、日本名を与えられ、妻を強制的に娶らされ、小日向の屋敷で生涯を送ることとなった。キャラは岡本三右衛門と名付けられ、フェレイラと同じ宗門改方となり余生を過ごした。 十人の宣教師が全員棄教し、日本人にならされ、念仏を唱え、死して戒名をつけられた。

皮肉にも棄教した十人は、長生きしてしまった。キャラはこの小日向の屋敷で42年間過ごし、84歳で死亡した。他にも80歳前後まで生きた者が3人もいた。潜入当時21歳であった同宿トナトは、78歳、1700年まで生きた。人生の三分の二以上を切支丹屋敷という名の生き地獄で過ごしたのである。


  歴史夜話83
こうした弾圧政策の結果、1643年から1708年のジョヴァンニ・シドッティ宣教師までの65年の間、日本への宣教師潜入は途絶えた。この間、有名なキリシタン一揆と言われる島原の乱が起こる。

過去、島原は有馬晴信、天草は小西行長というキリシタン大名の領地であったため、領民もキリシタンが多かった。しかし関ヶ原役と岡本大八事件を通して、この大旦那たちは失われ、かわりに赴任した領主、松倉氏と寺沢氏はキリシタンを過酷に弾圧した。

原の古城に立て籠もった一揆勢に対して、九州諸藩からも幕府軍への援軍が到着するが、城を落とすことが出来ない。幕府は上使松平信綱を派遣して事に当たるが、それでも落城しなかった。幕府軍の総勢は12万人余であった。松平信綱はオランダ商館に、原城砲撃の命を下した。オランダ商館は「オランダ人忠節」を実行し、海上から.原城に砲撃を加え、その見返りとして、ポルトガル船の日本からの締め出しを計ったのである。この大乱の成り行きは全国を駆けめぐり、九州や東北諸藩に一揆を警戒するよう、幕府が呼びかけている。

1638年(寛永15年)4月、幕藩連合軍の一斉攻撃により原城は落城した。老若男女の別無く、皆殺しとなった。一揆勢の中にはキリシタンは多かったが、武器を持って戦った為に殉教とは見なされず、列聖も列福もされていない。

幕府は島原の大乱を大いにキリシタン一揆であると宣伝した。キリシタンが国を奪おうと乱を起こしたのであり、キリスト教は国憂であり邪教であるとの観念を国民に植え付けていった。崇伝起草の家康の祖法を証明する絶好の機会であった。これを名目とし、幕府はポルトガル船の全面来航禁止を実施、キリシタン改めの制度を整備していく。

日本のキリシタン達は禁教法制度の中、身動きできなくなり、また国外から宣教師もやって来ない状況下におかれた。彼らは信仰を持ちつつ潜伏しひたすら夜明けを待つしか無くなったのである。

では次回84話は、潜伏しているキリシタンへの弾圧政策を覗いてみよう。



  1638年(寛永15年)の島原の乱をきっかけとし、全国的に宗門改め制度が確立した。その確立に力を注いだのが、1640年に初代宗門改方に就任した大目付井上筑後守政重であった。国民は必ずどこかの仏寺に属さなければならないという宗門改め制度は戸籍の役目もするようになり、その蟻の這い出る隙も無いと言われたキリシタン検索制度を築き上げていく。

歴史夜話84
隠れたキリシタンを見つけ出す手段として取られた方法は徐々に工夫というか巧妙になる。

「懸賞訴人の高札」・・・・キリシタンを見つけた者に懸賞金を与える制度である。最初は伴天連のみ銀30枚であったが、1633年には伴天連・銀100枚、1638年には、伴天連・銀200枚、修道士100枚、宗門の者30~50枚となり、その後も増え続けた。1682年には伴天連・銀500枚、修道士300枚、宗門者100枚、そして立ち返り者300枚となった。立ち返り者とは、いったん転んだが立ち返って再度キリシタンとなった者のことで、罪は重かった。

「五人組連座制」・・・・元々は、年貢徴収のための連帯責任制度だったが、キリシタン検索・摘発にも利用された。相互監視と密告のため利用され、組外から訴えられキリシタンが見つかれば、その五人組だけでなく周辺の家々とその一族も罰せられた。

「寺請制度」・・・・住民はどこかの仏寺の檀徒にならなければならず、それが毎年調べられ、宗門改帳とか、宗旨人別帳とか言われるものに記載されるようになった。これは絵踏の時の台帳ともなった。また旅行するときの往来手形にも仏寺の檀徒であることの証明が必要であった。

「絵踏」・・・・ 1631年に雲仙地獄で行われたのが最初と言われる有名な制度である。キリストやマリアの像を踏ませて、キリシタンで無いことを証明させるのである。 最初は転びキリシタンに転びの証明として、または転ばせるために行われたが、次第にキリシタン摘発の手段となっていった。絵踏の効果は、踏んだことでもうキリシタンに立ち返ることが出来ないと言う失望感を与え立ち返りを防ぐことにあった。長崎では1657年から1858年までの200年間続けられた。

「類族帳」・・・・転んだキリシタンを監視する制度。転びキリシタン本人、転び前に出生した類族、転び後に出生した類族に分け、死骸の吟味などを行い類族帳に記載し、年2回提出する。生死・結婚・離婚・転居・改名など男子は6代、女子は3代先までの一族が監視されることとなった。 1687年に始まったこの制度をもって、幕府の宗門改制度は完成する。

「転び証文」・・・・ 絵踏や拷問で転んだキリシタンたちは、キリシタンに立ち返らないことを誓約した文書を書かねばならなかった。これを転び証文と言い、南蛮誓詞と日本誓詞の二種類があった。 南蛮誓詞には、デウス、サンタ・マリア、アンジョ(天使)、ベアト(福者、聖人)にかけて再びキリスト教に立ち返らない、と自らが棄てた神に誓約する事を書き、日本誓詞には、梵天、帝釈天など日本六十余州の大小神祇にキリスト教を棄てたことを誓わねばならない。 信じていた神にその神を棄て去ったことを誓い、信じたくない神に今まで信じた神を棄てたことを誓わせた、いかに幕府がキリシタンを憎み、精神的弾圧をかけ、さらに立ち返らせないようにしたかがわかる。

しかしこの凄まじいキリシタン検索制度の中でも、転んだふりをして信仰を持続させた、キリシタン達がいた。潜伏キリシタンと呼ばれる人達である。潜伏キリシタン達は、洗礼の仕方、オラショを唱えることを伝承し、キリシタン遺物や聖画像を大切に伝え、殉教地や教会跡に密かに祭った。キリシタンの祝日にはオラショを唱え、信仰を伝えていった。しかし初代の潜伏キリシタン達はともかく、司祭や修道士に会ったこともない者たちの代に変わり、相変わらず潜伏したままでは、その信仰の伝承は難しく、次第に隠れ蓑の仏教や神道、民間信仰が混ざり合った一種特殊な宗教へと変容していった。



  在野のキリシタン達は潜伏し、「いつか海の向こうから司教がやってくる」事を信じて祈り続けたのであった。しかし、潜伏したとはいえ、幕府のキリシタン検索は厳しく、各地で潜伏キリシタンが発見されたり、発見されそうになったりしていた。これを「崩れ」という。「崩れ」が起こると根絶やしが原則だった。

歴史夜話85
最初の「崩れ」は、潜入宣教師もなくなり、キリシタンの殉教事件もほぼ無くなった1657年に起こった。場所は、九州・大村藩だった。かつてキリシタン大名大村純忠によりキリスト教信仰が栄えた土地で、その子純頼の背教で迫害は起こったものの、なお多くのキリシタン達が潜伏生活を続けていた。 結局、総計608人の人間が捕らえられ、その内411人が転ばず斬罪となった。捕らえられた牢で病死した者78人、永牢の者20人、無関係又は転んで赦免された者99人であった。永牢の者の内には11歳で牢に入れられ、75歳で死亡と、64年間牢で過ごすという、文字通りの永牢となった者もいた。

1660~62年にかけて豊後地方でも「崩れ」が起こる。220人が捕らえられ、57人が死罪、牢死者59人、江戸送り3人、永牢者36人、赦免者65人であった。続いて1660年代には、「尾張・美濃崩れ」がおこる。キリシタンを保護していた織田信長の領域であったこの地方は布教も盛んで、九州に次いで多くのキリシタンがいた。まず尾張で、江戸の旗本の密告によってキリシタンが発覚、200余人が捕らえられ斬罪に処せられる。首を切り落とされた胴体は、試し切りのために藩士に配られた。老中には生きたままのキリシタンが試し物として差し出されたという。同じ頃、美濃の笠松でもキリシタン数十人が磔刑となった。木曽川堤の殉教地は今でも大臼塚と呼ばれている。

尾張藩山澄淡路守は老中に呼び出されキリシタンについて詰問を受ける。これを期に尾張藩ではキリシタン殲滅を図り、次々とキリシタンを捕らえ、斬首、磔刑にし、結局、約3000人の殉教者を出すこととなった。彼らもまた、試し物として死体が足軽以上の藩士に配られたという。

1791年には、長崎浦上村で「崩れ」が起こる。この村では江戸通期で計四回の崩れが起こっている。1805年には天草で「崩れ」が起こる。この頃には切支丹禁令の高札が掲げられているとは言え、捕らえる方も、切支丹とは何?といった感じであり、キリシタン政策の制度も風化しつつあった。

さて、このような迫害の嵐が吹き荒れる中、1643年のルビノ第二隊以来、宣教師の潜入は無かった。しかし彼らは日本の信徒達を見捨てたのかと言うと、そうではなく、何度も日本渡航を試みていた。ローマ教会は日本に司教、大司教を赴任させようと、何度も派遣するがその計画はいずれも頓挫した。日本の外国船排除の姿勢がいかに強硬だったかわかる。
そんな中、1708年にただ一人日本にたどり着いた宣教師がいた。

宣教師ジョバンニ・バッティスタ・シドッティは、少年の頃日本に関心を持ち、日本布教を夢見ていた。鎖国を国是とした日本は入国出来る状態ではなかったが、一隻のポルトガル船が彼の熱意に負け、日本近海に接近したのである。こうして夢見た日本にやって来た彼だったが、直ちに捕らえられ長崎に送られる。この時、彼を取り調べることになったのは、時の宰相・新井白石であった。その審問の内容が「西洋紀聞」として残されることになる。西洋の知識がまた別のところで価値を持つようになる。




1708年(宝永5年)8月、シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、サムライの格好に変装して単身で屋久島へ上陸しますが、言葉が通じないのですぐに捕まりました。しかし、幸運かどうかは別にして新井白石の尋問を受けることができたのです。

将軍家最高顧問であった新井白石はシドッティの人格と学識の高さに感銘を受け敬意を持って接しました。「凡そ其人、博聞強記にして、彼方多学の人と聞えて、天文地理の事に至りては、企及ぶべしとも覚えず (その人は多くの知識をもって、またそれが多方面に及んでいた、とくに天文学と地誌についてはわたしは足元にも及ばないほどだった)」

またシドッティも白石を信頼し、白石のことを「五百年の間に一人ほど、世界の中に此の如き人の生れ出づるものなり(こういう素晴らしい人は、世界で500年に一度生まれるかどうかでしょう)」と評しました。

 白石はシドッティの処分として、上策「国外追放」中策「拘禁継続」下策「処刑」という考えを提案します。幕府は「中策」を実施しました。

白石の主張です。「かれ蛮夷の俗に生れそだつ、其習其性となり、其法の邪なるをしらずして、其国の主と其法の師との命をうけて、身をすていのちをかへりみず、六十余歳の老婆ならびに年老たる姉と兄とにいきながらわかれて、万里の外に使として六年がうち険阻艱難(けんそかんなん)をへてこゝに来れる事、其志のごときは尤あはれむべし。君のために、師のために、一旦に命をすつる事は有べし。六年の月日、万里の波濤をしのぎしは難きに似たり。臣又、仰を蒙(こう)り、かれと覿面(てきめん)する事己に二度、其人番夷にして其ムシ番夷なれば、道徳のごときは論ずるに及ばず。されど其志の堅きありさまをみるに、かれがために心を動かさゞる事あたはず。しかるを、我国法を守りてこれを誅せられん事は、其罪に非ざるに似て古先聖王の道に遠かるべし」・・・・・シドッティがキリシタンであるのは生まれた国の習わしであって、命を顧みず、老齢の親や兄弟と別れて、6年の困難を乗り越えて日本にやってきた志は立派なことだ。国のため、学問のために命をかけることは意義のあることだ。生まれた国が違っていれば道徳や考え方も違って当たり前だ。わたしはこれで二度ほど尋問したが、彼のその志の堅さに心を動かさない人はいないだろう。そして本人の罪ではないのに国法だからといって処刑してしまうのは古来より統治者が行うべきことではない」

1712年(正徳2年)10月、将軍家宣が病死しました。これに合わせて新井白石は政治の中枢から遠ざかることになりました。シドッティが拘禁されてから4年後のことでした。この翌年、シドッティの世話役の老夫婦に洗礼を授けたことで牢屋にいれられついに獄死することになりました。






スポンサーサイト

<< 過酷な週末だったけど  TopPage  ムラサキシキブの記憶 >>

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

トラックバックURL
http://maririn620.blog.fc2.com/tb.php/390-3717a054




Copyright ©るりとうわた色の空に. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha.

FC2Ad