歴史夜話 86 ~ 100 & おまけ



  歴史夜話・おまけ
江戸時代初期、大名家の廃絶理由の多くを占めるのは後継問題であったが、江戸中期以降は末期養子が認められるなどの結果、後継による改易は激減した。また、後継問題の次に多い廃絶理由が乱心だった。乱心は今でいう心の病が高じて政務に耐えられなくなる場合ならまだしも、家臣や妻女を刃傷に及ぶなどというのもあって、その程度はいろいろだった。

もっとも乱心というのは都合のいい理由であって、開幕期ならともかく安定期に入ると反幕的な態度を示した大名であっても、さしたる落度がなければ簡単には取り潰せなくなったから、権力者側としては乱心、狂気に及びという理由を無理やりつけて取り潰したという例がでてくる。

1693年( 元禄6年)11月25日というから、将軍は五代綱吉、幕政はもっとも安定しているころのことである。下総国古河藩8万石の藤井松平家が改易となった。ときの藩主は松平忠之だった。藤井松平家というのは松平家5代長親の5男利長が三河国碧海郡藤井郷に領地を得て分家した、いわゆる十八松平と呼ばれる家柄のひとつであり、二代目の信一は家康の幼少期から仕えた歴戦の士であった。由緒ある家柄だった。

忠之はその六代目であり、父信之は老中を勤めていた。松平信之は老中就任とともに古河に移されたのだが、その前は大和郡山8万石、さらにその前は播磨明石で6万5千石を領していた。 明石では信之は民政に尽くして領民に慕われたといい、名君といっていい人物であった、この信之の明石時代に信之のもとに預けられたのが熊沢蕃山という陽明学者だった。

熊沢蕃山は野尻藤兵衛の子として、1619年(元和5年)に京で生まれ名を伯継(しげつぐ)、字を了介という。のちに母方の祖父である熊沢半右衛門守久の養子となった。蕃山というのは隠居した土地名である。1634年(寛永11年)丹後宮津藩主京極高広の紹介で、備前岡山藩主池田光政の小姓となったが、その後いったん池田家を離れ、近江聖人として高名であった中江藤樹の門下に入り陽明学を学んだ。

正保2年(1645年)に再び岡山藩に出仕したが、藩主光政は陽明学に傾倒していたために藤樹門下である蕃山を重用した。蕃山は庶民教育の場となる「花園会」(閑谷学校の前身)を設立したり、「諌め箱」を設けて領民の意見を求めたり、植林事業を行って治山治水につとめ、1654年(承応3年)の大洪水の際には米を残らず放出して領民を救済するなど活躍した。
一方で武士階級に対しては厳しい態度で臨み、禄の削減や帰農を主張したため家老職と対立し、やがて光政とも意見の喰い違いがみられるようになった。

さらに幕府の学問である朱子学と対立する陽明学を学んだ蕃山は、保科正之や林羅山らからも批判されることとなった。もっとも蕃山自身は「朱子にも陽明にもなじまず」と言っていたといい、現在の歴史学者によると一般的にいわれているような陽明学一辺倒ではなかったようである。蕃山の陽明学的なところは理論より実践という考え方のところだったが、当時奨励された新田開発に関しては、開発によってデメリットがあるようなら自然のままの方がよいという考えであった。

蕃山は新田開発に反対する理由として、山林がなくなると肥料の採草や薪の採集ができなくなり、保水能力が落ちて洪水になりやすく、また新田開発に人手が取られるからであって、これらの問題がなければ新田開発は良しとしていた。事実後年になって幽閉先の古河では新田開発を指導している。しかしながら発想はどうあれ新田開発一辺倒の幕府にとっては反幕的であったと見られたのは事実であり、退隠して備前国和気郡蕃山村に棲んだが、さらに幕府と藩から圧力がかかり、1657年(明暦3年)に岡山藩を去り京に移った。

京では私塾を開いたりして名声が高まり、京都所司代によって追放処分となった。大和吉野山や山城鹿背山に隠棲したが、1669年(寛文9年)に幕府により捕らわれ、明石藩主松平信之に預けられた。特に幕府が問題としていたのは山林保護、参勤交代の廃止、浪人の救済など幕府政策の根幹にかかわる部分であったようだ。

ところが預けられた方の信之は番山に傾倒し庇護してしまった。信之は学問好きでもあり、また農政にも熱心であったから、農政に明るい蕃山の意見を聞くうちに信頼するようになったのだろう。幕府の手前もあるから形式的には幽閉の形を取ったが、実質的には顧問格のようなものだった。信之が大和郡山、次いで古河に移ると蕃山もそれにしたがった。信之は幕府の中枢である老中の任ながら蕃山を庇護したのである。

信之は古河に入封して1年ほどで没している。老中在任のままの死であった。跡を継いだのが忠之であるが、忠之はこのとき13歳である。もっとも幼いころから、父信之ともども番山の教えを受けていたであろうことは間違いないだろう。帝王学とはそういうものだろうし、父信之が信頼した蕃山を忠之は無条件で信じたろう。

蕃山は古河に移ってから新田開発を指導し、そのときの溜池も現存しており蕃山堤まで残っている。この新田開発によって古河藩は4万石もの増産になったという。このくらいまでなら幕府としても黙認の範囲であったかもしれない。しかし1686年(貞享3年)に完成した経世済民の書である「大学或門」(だいがくわくもん)は見逃すわけにはいかなかった。 治山治水論、農兵論、貿易振興、参勤交代廃止、鎖国の緩和など見過ごすことのできない内容であり、1687年(貞享4年)に幕府は忠之に蕃山の捕縛と幽閉を命じ、蕃山は城内の立崎郭に幽閉された。

一方、将軍綱吉は年を追うごとに朱子学への傾倒を強めて行き、朱子学全盛の時代になっていく。1690年(元禄3年)には湯島に孔子廟が造られ、綱吉自ら孔子廟で林鳳岡の講義を聴いた。このような状況で蕃山は常に監視され、忠之の蕃山に対する扱いは生温いと批判された。1691年(元禄4年)8月、蕃山は73歳で没したが、その間、蕃山の思想に染まった忠之への圧力はやまなかった。

信之や忠之には幕政を批判する意図は毛頭なかったに違いない。藩主として領民を思い、蕃山の農政に対する知識、治山治水の能力を必要としたのであった。しかし幕府としては思想犯蕃山自体が悪なのであって、批判思想のもと蕃山の全てが忠之に受け継がれていると考えた。ましてや綱吉は偏執狂的な人物である。蕃山死後も忠之は監視下に置かれ、ことあるごとに圧力が加えられた。これが年若く経験不足の忠之には相当のストレスになったに違いない。

1693年(元禄6年)11月23日、老中戸田忠昌の使いとして秋田淡路守ら3名が江戸の忠之の屋敷に入った。ここで何が話されたのかはわからないが、その夜忠之は小刀を振りかざし自身の髪を切ったという。これが乱心と言われることの全てであった。翌朝、家臣の若山六郎左衛門が忠之の行為を幕閣に知らせ、その日のうちに忠之の改易が決まった。すさまじい早さであった。

自身の髪を小刀で切っただけで乱心改易というのも酷に過ぎるし、家臣たるもの隠すのが筋であろう。若山六郎左衛門は幕府の監視の密命を帯びていたかもしれないし、一方でどうせすぐに幕府に知れてしまうなら早い方がいいと判断したのかもしれない。いずれにせよ幕府の思惑通り忠之は改易となった。もともと幕府は忠之を反幕思想の持主の蕃山一派と考えていたから、乱心取り潰しは規定方針通りであったろうし、幕府の策謀があったことも間違いないと考えられる。

幕府も気がとがめたのか、藤井松平家は由緒ある家柄のためとして、分家していた忠之の弟信通に家督相続が認められ8万石のうち2万石が与えられた。信通は旧領の1万石と合せて3万石の所領となり備中庭瀬に移り、その後、出羽上山藩主となった。その子孫は明治維新まで上山藩主として続いた。一方の忠之は信通に預けられた後、1695年(元禄8年)4月19日に江戸において22歳の若さで世を去った。無念の死であったろう。



  歴史夜話100
人類の天文学が始まった頃の一番の目的は「暦(こよみ)」の作成だった。暦の重要性は季節のある地域での農業の指針であり、祭祀を含めた生活時間の定義を求めるものだった。暦に関しては、古代エジプトでは4000年の昔から天体観測が行われていた。欧米では太陽を中心とした文化が発達したが、東洋では月を中心とした文化が進んでいた。

物理学としての近代的な天文学は望遠鏡の発明から始まる。1609年の5月頃、イタリアの物理学者だったガリレオ・ガリレイは、あるオランダ人が遠方の物がごく近くにあるように見える特別な眼鏡を発明したという噂を聞いた。ガリレオは、レンズの屈折理論に基づいてこのオランダの器械の原理を見つけだし、ほどなく筒の両端に2枚のレンズを取りつけた装置である「望遠鏡」を製作した。そしてこの望遠鏡を星の世界に向けて、1609年の秋から1610年の1月頃まで天文学上の数々の新発見をなし遂げる。その成果は、1610年3月「星界の報告」として出版された。

1609年といえば日本では江戸幕府の黎明期にあたるが、この時代の中国や日本の暦は、月の満ち欠けと太陽の動きによる季節変化の両方を考慮した太陰太陽暦(いわゆる旧暦)であった。この暦は前漢時代の「四分暦」から始まり最後の太陰太陽暦である1645年の「時憲暦」に至るまで少しずつ改良されて、実に50近い暦(暦法)が行なわれた。

それらの内、日本では、唐代に作られた「宣明暦」が862年(貞観4年)から採用され、なんと800年以上もの間使い続けられた。そのため、宣明暦の影響は現在にまで及んでいる。例えば、昼の12時のことを宣明暦では「午(うま)の正刻」と呼んだが、現在の「正午」という呼名はこの宣明暦に由来している。また太陰太陽暦では、地球から観測して太陽と月が重なる「食」の予報が正確さの尺度であった。

江戸時代は、日本の天文学が少しずつ科学的理解に根拠をおく時代になった。「宣明暦」は800年の長きにわたって使われたため、誤差が積もり江戸時代の初めには度々「日月食」の予報を失敗するようになった。その結果、新しい暦に切替える「改暦」気運が高まった。この頃、日本には中国の元朝で作られた「授時暦」の暦法が伝わっていて、これは数理的にも、また暦の元になる太陽の観測方法も非常に優れた暦だった。

「授時暦」は、関孝和のような数学者も熱心に研究したが、改暦を検討し提案を行なったのは、なんと囲碁をもって将軍に仕えた囲碁四家の一人、保井春海(後に渋川と改姓)であった。数回の試行錯誤の後、1684年(貞享元年)に春海の新暦は正式に採用され、「貞享暦」と命名された。新暦の内容は授時暦を若干修正した程度だったが、科学的な立場で天文暦学を初めて研究したという意味で、春海は我が国最初の近代的天文学者と呼ぶことができる。

春海が改暦を成功させることが出来たのは、囲碁の家元として多くの幕閣・諸侯の間に人脈があったことも見逃せない。そして春海は暦学だけでなく天文観測にも熱心で、天文儀器の改良や考案にも努めた。1670年(寛文10年)には朝鮮星図を元にして春海が製作した「天象列次之図」が刊行された。日本最初の星図だった。


春海による改暦が進められてから100年後、大阪では、豊後国杵築藩の臼杵から出てきた麻田剛立という医者が天文暦学の私塾「先事館」を開いた。剛立は幼少の頃から天文暦学に興味を持ち、独学で勉強し、28才の時に日食の日時を予言して、的中させたと言われている。この塾「先事館」には優秀な弟子が多く集まり、中国書によって西洋天文学を研究した。

彼らが集中的に研究した主な中国書は、「暦象考成(上下巻)」というものだった。上巻は1633年に出版された西洋天文学の書「崇禎暦書」を、清朝の康熙帝の時に中国人天文学者らが再編した本で、円運動を組合わせた伝統的なギリシアの惑星運動理論を扱っていた。また、下巻は、清朝の天文台長にまでなった宣教師I. ケーグラーらが著した暦算書で、太陽・月の楕円運動理論を初めて中国語で紹介した本であった。

幕府は麻田剛立派メンバーの中でも特に優秀な高橋至時(たかはしよしとき)と間重富(はざましげとみ)とを、改暦作業を行なわせるために江戸に召し出した。高橋至時は大阪城を警固する下級武士であったが理論天文学に優れ、裕福な質屋の主人だった間重富の方は天文儀器の考案開発に才能を発揮した。至時は1795年(寛政7年)11月に天文方に任命され、「暦象考成下巻」によって改暦を行なう旨幕府に答申し、改暦事業はスタートした。このとき改暦された暦は「寛政暦」と命名された。この寛政の改暦は、西洋天文学に基づく改暦というだけでなく、多種類の新しい天文観測装置が用いられ、観測精度も従来より大幅に改善されたという意味で、江戸時代の天文学史上、重要な転換点となった。

寛政の改暦が済んでしばらく後、至時は幕府からオランダ語の新しい天文書を取調べるよう命じられる。それは、パリ天文台の天文学者ラランデが書いた著書をオランダ語に翻訳した本だった。至時はオランダ語がほとんど出来なかったにもかかわらず、ラランデ天文書の精緻な内容に感銘を受け、暦算に関係ある部分、自分が内容を理解できた章を、文字通り寝食を忘れて解読することに没頭した。

その成果は「ラランデ暦書管見」という本にまとめられたが、至時は翻訳を始めて約半年後の1804年(文化元年)1月5日、過労のために39歳で死亡した。この本を見ると一部を除いて至時は「ラランデ天文書」の内容を大部分正しく把握しており、分からないオランダ語を添付の図画から文章へと読み解いていた。彼の天才的な数理の理解能力で補ったことがわかる。

江戸後期から幕末にかけての日本天文学は若き天才学者・高橋至時の活躍で大きく発展する。そして至時の天文学から最も影響を受けたのは、日本全土の測量と地図作りで有名な伊能忠敬であろう。忠敬は、至時が天文方として赴任するとすぐに入門を果した。千葉県佐原で裕福な醸造業を営み、名主になる程の人望もあったが、若い頃から興味のあった天文測量の勉強に取組むため、51歳で隠居して江戸に出て来た。至時の指導のもと熱心に研鑽し、数年で日月食の予報計算が出来るまでに上達した。

彼らは観測儀器も全部自前で揃え、自宅で熱心に恒星の位置観測に励んだ。二人の師弟はやがて、緯度1度の長さを実測すること、つまり地球の大きさを決定したいと強く望むようになった。至時は、蝦夷地の地図作りを兼ねて往復の旅程で緯度1度の測定も行なう計画を作り上げ、幕府の承認を得て、忠敬を蝦夷の測量行に送り出した。忠敬が献上した蝦夷の地図は幕閣から高く評価されたため、その後17年間、10回に及ぶ日本全国の測量に忠敬は従事することになる。その集大成として忠敬の死後、1821年(文政4年)に完成し幕府に献上されたのが有名な「大日本沿海輿地全図」である。

また忠敬による緯度1度の測定値については、初めのうち至時が忠敬の結果に疑いを抱いたため忠敬は不満を募らせたが、至時が「ラランデ天文書」中の地球の大きさの値を見て忠敬の値とよく合っていることを知り、師弟は手を取り合って喜んだと伝えられる。

至時の死後、長男の高橋景保が幕府天文方の筆頭となったが、1828年(文政11年)シーボルト事件の主謀者として逮捕され獄死した。その後の天文方を率いたのは、天保の改暦を主導した次男の渋川景佑である。彼は浅草天文台とは別に九段坂に九段坂測量所を創立してもらい、そこで日本で初めて長期間の定常的天文観測を実施した。

天文方で忘れてはならないのは、「蕃書和解御用」である。天文方では1808年(文化5年)以来、高橋景保のもと、オランダ語の能力がずば抜けて高い長崎通詞の馬場佐十郎を江戸に出仕させて世界地図の翻訳刊行を行なっていた。景保はこの世界地理取調べの過程で、長崎のオランダ商館に頼ることなく、国際情勢の自主的な取得が幕府にとって外交上極めて重要な課題であることを認識し、翻訳センターの設立を幕府に進言した。景保、弱冠27歳の時であった。天文学の知識が幕末動乱の支えになったことも歴史的事実である。


江戸時代の支配階級は武士であった。その実効支配は文字通り武力であったが、治世を行うにはまた別の行動規範となる思想が必要であった。とくに江戸の世の中が平和になると文治ということが重要なテ-マとなった。幕府は儒教を重んじたがそのなかでも朱子学を中心に据えた。そして幕府の方針が決まると、それに反するものは排除されることになる。

思想弾圧は今でも横行している。極論すれば国家の維持は思想の弾圧で成り立っている。そのことは日本も例外ではない。もちろん江戸時代にもそれはあった。朱子学に反するもの、朱子学以上に権威のあるものは存在することは許されなかった。

沖縄は米軍の軍事要塞となっている。沖縄の住民はそれに反対している。政府は国防という意味で沖縄住民の利益より国防の価値は上位であるとして、沖縄住民の意思を無視している。これは政権を独裁的に強化しようとすれば当然のことで、日本も北朝鮮と同じだといえる。民主主義の原則は多数決とされるがそれにも限界がある。

思想弾圧は、その思想そのものの学問的な論争ではなく、それを唱える人間の生命を奪うように動く。江戸時代、朱子学に対して陽明学なるものがもてはやされた藩があった。幕府は陽明学の中身ではなく、お上に楯突く藩があることを許すことができなかった。



 黒田騒動、伊達騒動、加賀騒動は、江戸初期の三大御家騒動と呼ばれている。そのなかで黒田騒動とは福岡藩黒田家で起きた騒動で、その主人公は栗山大膳という。黒田家は戦国末期に黒田孝高(如水)が播磨国で豊臣秀吉に仕えてから躍進した家柄であった。孝高は名軍師として名を挙げ、常に秀吉の側近くにいて豊前中津12万石の大名となった。

孝高は秀吉が没すると家康に即座に乗り換えて、孝高の子の長政は関ヶ原で調略でも武力でも大活躍し、家康から「忠節を感謝し、徳川家は黒田家の子孫を粗略には扱わない」との感状を得ている。長政は関ヶ原の功で一躍筑前福岡で50万石余りを得て、国持大名となった。長政が死去すると、その子の忠之が跡を襲った。この忠之の時に黒田騒動が起きる。

栗山家は、まだ孝高が秀吉に仕える前、播磨姫路にいたころ、栗山善助と名乗る若者が孝高のもとに出仕してきた家柄である。したがって黒田家中ではもっとも古くからの家臣であった。黒田家では栗山家のように播磨時代の取立ての家を大譜代、中津時代の取立てを古譜代、福岡に入部してからの取立てを新参と呼んで区別した。栗山善助は大譜代衆の中でももっとも黒田家に忠誠を尽くして働き、今日の黒田家あるは栗山善助のおかげと言っても決して言い過ぎではないほどであった。

したがって黒田家の福岡入部後、栗山家は家老職にあり、上座郡左右良の城を預けられ、1万5千石を得ていた。実力や能力はあまりなくとも家柄だけで重職に就ける家であり、こういう家を家柄家老という。家柄家老というのは先祖の功績で家老になれるわけだから、後代の藩主にとっては時として煙たい存在であった。確かに表面上は感謝はすれど、かといって心底は先祖の勲功をいつまでも鼻にかけてということになるのである。藩主とすればそんな家柄家老より、ある程度自分の思い通りになる重臣がほしい。また、家柄家老の能力が低く、新たに有能な重臣を据えなければ藩が持たないというケースも出てくる。こういう事情で藩主が新たに家老を取り立てる場合、そういう家老のことを仕置家老という。


歴史夜話99
栗山善助は黒田孝高が有岡城で1年近く監禁されたときに、有岡城に何度も忍んで孝高と繋ぎをつけ、最後には有岡城から救い出している。また関ヶ原役前夜に大坂屋敷から孝高と長政の両夫人を脱出させて中津に送り届けている。まさに黒田家の恩人でもあった。その善助の子が栗山大膳利章あった。黒田家の場合は、忠之が家柄家老の栗山大膳を忌避し、倉八十太夫なる児小姓を寵愛し、やがて仕置家老にまで取り立てた。

その過程で相当なごり押しをやり、それに大膳が反発し、忠之と大膳つまり藩主と筆頭家老の仲が険悪となった。ふたりはお互いに譲らず、ついには大膳が忠之に謀反の気配ありと幕府に訴えでて、幕府の評定が行われたのだ。評定の結果は、忠之は騒動を惹起したことを問題にされて所領は召し上げられたが、即日所領を同じ場所に封じられ、実質お咎め無し、大膳は盛岡藩南部家に預けられたが、終生150人扶持を貰うなど寛大な処分であった。

大膳の訴えも策略の一環であったと伝えられている。つまり黒田騒動とは、君臣間の対立が抜き差しならなくなって起きたものであり、真の悪者はいないのである。後世、栗山大膳に対する評価は分かれており、大忠臣というものもあれば、逆臣というものもある。ちなみに福岡藩では江戸期を通じて栗山は逆臣で栗山姓すら許されなかった。

黒田騒動の主人公栗山大膳は、1591年(天正19年)1月に栗山備後(善助)の子として生まれた。まだ黒田家が中津にあったころである。大膳は通称であり、名は利章という。
一方、大膳と対立することになる福岡藩二代藩主忠之は、1602年(慶長7年)11月9日に生まれた。忠之が誕生したのは福岡城東ノ丸にある栗山備後の邸であった。忠之が生まれたとき大膳はすでに12歳で、年齢的には元服前ではあった。

大膳は父の備後の致仕を待たずに、1617年(元和3年)27歳で家老職に列している。1623年(元和9年)8月に忠之の父で福岡藩祖長政が京都で没し、この年10月に忠之が正式に家督を継いだ。このとき忠之27歳、大膳は39歳で、大膳も首席家老となった。長政と備後という関ヶ原役を経験した老練なコンビから、忠之と大膳という新進のコンビにバトンタッチされ、福岡藩も名実ともに新世代となったわけだが、実際はこの新進コンビは性格からして合わなかった。

忠之は苦労知らずの若殿様という形容がぴったりに育った。忠之の生まれたのは関ヶ原役の2年後であり、このときすでに黒田家は筑前の太守になっている。ここまで黒田家を育て上げた祖父如水や父長政のことを身近に見ているわけではない。大坂の陣では出陣前に病に倒れ、結局戦闘には間に合わなかった。しかし、このとき黒田家のことを警戒した家康に仮病ではないかと疑われ、忠之は意地でも出陣した。フラフラになって大坂に着いた忠之を家康も秀忠もねんごろにねぎらったというから、面目は保ったものの、参陣は形式的に終わった。

じつは、長政も忠之のことを嫌っていた。わがままで短気で粗暴で思慮が浅いと思ったらしい。廃嫡を真剣に考えて、その弟の長興を世子にしようとした。このとき間に入って忠之を救ったのは忠之の傅役でもあった大膳である。大膳は長政に忠之廃嫡の意志が固いと知ると、忠之を謹慎させ、同志を糾合して忠之廃嫡となれば同志一同切腹して果てると長政に申し送った。驚いたのは長政で、藩の主要な家臣が一度に切腹されては藩政は成り立たなくなるどころか、幕府に知れたらどんな咎めを受けるかわからない。 やむなく忠之廃嫡の件はとりやめとなった。長興は長政の遺言で支藩である秋月藩初代を藩主となるが、忠之からはこの件で仲はよくなかった。

忠之は一般にいわれるほど暗愚ではなかった。たしかに長政に比べれば格段に落ちることは否めないが、三代目の馬鹿殿ではなく、事実この後の騒動における対処も見事な面もあり、騒動後は問題なく藩主としての勤めを果たしている。ただ短気であるが故に血気に逸り、さらに我が強くて好き嫌いが激しい人物ではあったらしい。長政は死去する際に忠之の将来を心配して、大膳と家老の小河内蔵允を呼んで忠之の将来を懇ろに託した。その際に関ヶ原のときの家康からの感状を大膳に預け「不心得者あって取り潰されるような重大なことあれば、この感状を老中方に見せ祖先の功を申し述べて嘆願せよ。謀反以外の罪なら赦されるだろう」と語ったとされる。

さて、一方の大膳である。大膳の父備後は風格があり温厚篤実を絵に描いたような人であった。 好学であり努力家であり責任感もあり、儒学や漢学、詩文などの教養も身につけていた。ただ、藩政のなかでは、押し付けがましく傲岸なところがあった。忠之に対しても、微に入り細に入る諌書を何度も出している。朝は早起きをせよとか、客扱いは丁寧にせよとか、しかも一々諸子百家や経書などの文句を引用して書いた。

相手は主君しかも筑前一国の太守である。しかも武芸好みの性格で漢学や儒学の素養もそれほどではなかった。大膳にすれば忠之のためを思ってしているだけで他意はないのだが、忠之はたまったものではない。大膳のことがだんだん疎ましくなってきた。家柄家老というのは藩主にとってもともと煙たいものだ。藩主の思い通りになるわけではないし、まして罷免や隠居などおいそれとはできない。大膳は一回りも年長であり、首席家老である。そうなると自分の思い通りになる仕置家老を置きたくなるのが自然で、忠之もそうした。

まず忠之は側近グループというべき近衆を形成する。側近グループというと聞こえはいいが、ようは忠之の我儘が何でも通る、追従者の集まりである。その中でも特に忠之の寵愛を受けたのが、倉八十太夫であった。十太夫の父は倉八長四郎といい、黒田家が中津から福岡に入る際に200石で召抱えられた。十太夫は、はじめ忠之の小姓として上がったが、眉目秀麗であり忠之の男色の相手になった。

このころはまだ戦国の気配が色濃く残り、武士の世界も男色が流行していた。したがって十太夫が男色の相手を勤めるのは当時としては異常でもなんでもないが、忠之の傾倒ぶりは異常であった。十太夫が初めて小姓になったころ、倉八家は1500石くらい得ていたが、十太夫が忠之の小姓になると加増に次ぐ加増を受け、最後には9000石にまでなったという。忠之が十太夫をいかに寵愛したかという話が、いくつか伝わっている。十太夫はやがて家老職になるのだが、十太夫が家老になった直後に大膳の父備後が死去した。栗山家には備後が如水から拝領した合子の兜と唐皮威の鎧があった。どちらも如水が着用したもので、如水が死去するときに「この兜と鎧を我と思って長政をよろしく頼む」と付言した由緒あるものであった。

忠之はこの兜と鎧を主家に返せと言った。黒田家にとって由緒ある宝を備後なき今、他家で私蔵するのは忍びないという理由であった。大膳はおかしいとは思いつつも、忠之の言うことにも一理あるので、これを返した。すると忠之は兜と鎧をなんと十太夫に下賜してしまった。 十太夫も家老職にあり9000石の大身であるので、それなりの家宝も必要であるとの理由であった。これを聞いた大膳は激怒した。十太夫の屋敷に自ら乗り込み兜と鎧を奪い返して、本丸の宝物庫に入れてしまった。

これだけのことをやるのに大膳は一言も忠之に断らなかった。また事件を聞いて忠之は一言も大膳に自分への報告のなかったことを持ち出さなかったという。ただ、後世、十太夫というのは巷間では俗悪な奸臣として描かれているが、事実はそうではなかったらしく、この事件のときも大膳の剣幕に押されたとはいえ拝領した兜や鎧を返しているし、そのことを忠之に恨みがましく訴えた形跡もない。 なお、この事件は俗説黒田騒動では長政の水牛の兜ということになっているが、事実は如水の兜と鎧であった。俗説ではことさら十太夫を悪玉にするために例えば大船鳳凰丸の建造も十太夫の甘言に忠之が乗せられたものとされている。

このころ幕府の許可なく大船を作ることは違法であった。それを敢えてしたというのであるが、このことは許可を受けていたともいうし、よしんば許可を得なかったとしても十太夫ごときの責任ではなく、首席家老たる大膳の責任である。ましてや大船の建造を首席家老が知らないはずはなく、のちに幕府が問題にしていないことから見ても、許可を得ての建造であったのであろう。ただ鳳凰丸というのは藩政には何の役にも立たず、完全に無駄使いであった。その罪を十太夫が着せられた可能性が高い。十太夫は騒動が結着して高野山に追放されるが、その後島原の乱の際には高野山を降り黒田家に陣借りしている。このことからも根っからの悪人ではないことがわかる。

藩主と首席家老の対立、藩主が寵愛する小姓上がりの出世という騒動の条件が整ってきた。忠之と大膳の対立は激しくなるばかりで、必要なとき以外は会うこともなくなった。こんな状態に嫌気が指したのか大膳は1628年(寛永5年)(1628年)に家老職の辞任を申し出た。忠之はこれを許し、大膳は所領の左右良に引きこもった。

ところがこのことが幕府に聞こえ、翌寛永6年に大膳は幕府から召喚され調べを受けた。その結果、幕府より大膳の家老職復帰が命ぜられた。大藩の首席家老ともなれば幕府の監視を受け、その進退は藩主の一存では決められなかったのである。いかに大藩の家柄家老の地位がすごいものかがわかる。いずれにしても大膳は首席家老として復職したが、このことは忠之との仲をさらに悪くしただけであり、対立はより根深くなっていった。

そんなとき将軍秀忠が死去し、江戸で葬儀が行われた。兜と鎧の事件の翌年1632年(寛永9年)正月のことである。忠之も葬儀に列席し形見分けを受けて福岡に帰国した。藩主の帰国の際には城外に重臣が居並んで出迎えるのが慣例であった。だが、そこに大膳の姿はなかった。忠之は大膳の姿が見えないので、大膳はどうしたかと尋ねた。すると重臣の一人が大膳は病気で臥せっていて出迎えができない。大膳からもしお尋ねのことあれば、よろしく申し上げてくれ、とのことであったと返答があった。

忠之はなおも詳しく尋ねたうえ城内に入り、大膳の邸の前を過ぎるときに山下平兵衛というのものを使者に差し向け、大膳を見舞ったという。これまでの忠之と大膳の間柄を考えれば不思議なことではあるが、忠之も大膳が病気と聞いて今までの経緯を反省したのかもしれない。忠之はその後も度々見舞いの使者を出したが、大膳は一向に登城しない。医師に様子を尋ねてみると、大膳の病気というのは重いものではなく、登城しても一向差し支えない程度のものと知れた。

これには諸説があって、忠之の態度が掌を返したように優しくなったので、大膳は毒殺されるのではないかと疑ったとも言われている。忠之の反省が裏目に出た形だが、この大膳の病状を聞いた忠之が気分を害したのは言うまでもない。いったんすれ違うと、何事もすれ違うという典型であった。この寛永9年というのは肥後の加藤家が取り潰されたときでもあった。加藤家は清正の跡を忠広が継いでいたが、いわゆる豊臣系の大名であり、幕府にとっては取り潰したくてしょうがない家であった。

当時の幕府の政策は、徳川家安泰の為に外様大名はできるだけ取り潰すというのが基本方針であった。とはいえまったく落ち度がなければいくらなんでも取り潰せないから、些細な落ち度を見つけたり、ときには落ち度を作ったりした。加藤家の取り潰しも理由ははっきりせず、どちらかといえば落ち度を作って大げさに騒ぎたてた類のものであった。このことは外様であった黒田家にも緊張を生んだ。

理由はどうあれ加藤家は取り潰されることになり、5月になると上使として老中稲葉正勝が熊本に向った。この正勝というのは将軍家光の乳母春日局の子であり、したがってその力たるやたいへんなものであった。正勝は5月下旬に黒田領内の遠賀郡山鹿を通過することになった。黒田家としてもここは多いに機嫌を取っておかなければならないところである。忠之は山鹿に接待の使者を出すことにして、正使に十太夫を副使に黒田市兵衛を選んだ。十太夫は張り切って総勢350人という大人数で山鹿に入ったが、市兵衛の方はわずか38人という少人数だった。黒田家から挨拶の使者が来たとの報せに正勝は「倉八十太夫という名は聞いたことがない。黒田市兵衛は筋目のものと聞く。市兵衛だけを通せ」と、十太夫は会ってももらえず面目丸つぶれとなった。

こういう話は世間にパッと広まるものだ。福岡に隣接する商人町の博多では、寄ると触ると十太夫のことを笑い話にした。忠之にすれば十太夫に箔を付けるために行ったことであり、自分が笑われているようなものと感じた。忠之はもともと短気だからこうなると頭に血が上って逆上し、この話をしているものは見つけ次第に討ち取れと命じた。商人や漁師が討ち殺され、博多の町は一時恐怖が支配した。おさまらない忠之は同年6月13日に焚火の間に出て、黒田市兵衛らに大膳の邸に行ってすぐに登城するよう申し渡せと命じた。

ところが大膳はあいも変わらず病を楯にして動かない。これを聞いた忠之はますます逆上して意地でも登城させようとする。何度か使者が往復するが埒が明かないと見ると忠之は自ら大膳の邸へ押しかけるとわめく始末となった。老臣の井上道柏と小河内蔵允が急遽まかり出て、なんとか忠之を宥めた。この騒ぎの翌日に大膳は剃髪し、さらに夫人と二男の吉次郎を人質に出した。

1632年(寛永9年)6月15日、先日の騒ぎの翌々日、大膳の邸から飛脚体の者が出て行った。目付が見つけて後をつけて捕らえ、調べてみるとふところから大膳の書状が出てきた。宛名は豊後府内城主竹中采女正で、「忠之が謀反を企み、それを諫言したところ不届きとして成敗しようとしている。ここに至って、この大膳は公儀一途に思い、忠之を訴えることにした」と、とんでもないことが書いてある。

竹中采女正は全九州の目付役であり、いってみれば九州探題とも言うべき立場にあった。飛脚は取り調べに対して、昨日も竹中采女正のところに飛脚が立ったと述べた。 これで大膳の処分は勝手にできなくなった。処分をすれば公儀に対して罪を認めるようなものだ。訴えの内容が事実かどうかは別として、公儀の裁決を仰がなければならない。おそらく大膳はこの二度目の飛脚をわざと見つかるようにしたのであろう。

そもそもこの訴えは事実無根であった。忠之は謀反など考えたこともなかった。そのこと事態は大膳も知っていた。大膳は肥後の加藤家の取り潰しを見て、このままでは黒田家も危ないと感じ、先手を打って訴えでたのである。裁決で忠之に謀反の疑いなしとなれば、少なくとも取り潰しは免れると思い切った手段に出たのだった。ところが、これには家中一同が怒った。家中一同は大膳の考え思惑を知らないし、また首席家老であれば謀反の事実があったとしても、公儀に訴える前に他の手段があろうということだろう。

黒田家のほうでも対抗手段として竹中采女正の許に使いを立て、事情を述べて徹底的に取り調べてくれるように申し立てたという。7月に入って竹中采女正が福岡に入り、3日まで井上道柏や小河内蔵允と語らい府内に帰っていった。その翌日に大膳が福岡を立退いた。大膳の立ち退きは鉄砲には弾を込めて火縄に火をつけ、槍で取り巻くという物々しいものであったという。

8月15日に幕府から使者が来て忠之に参府を命じた。忠之は黒田美作と小河内蔵允を供にして江戸に急ぐ。箱根まで来ると江戸からの飛脚に会い、急ぐ必要はないとのことだったので、そこからは普通に道中した。江戸近くまで来ると、ひとまず品川の東海寺に入るよう公儀の意向が伝えられた。忠之は「どうせ囚われの身となり破滅するならば本邸で果てたい」と言い出し、もっともな申し出なので小河内蔵允が工夫して、忠之は単身桜田の藩邸に向った。

その後、藩主忠之なしで正式の行列を組んで品川口まで来ると東海寺に入れとの指示が待っていた。小河内蔵允はとぼけて、主人忠之は公儀の命令をかしこんで道中を急ぎ、すでに昨夜のうちに藩邸に入っているはずと言い、待ち構えていた旗本衆を呆れさせた。そうこうするうちに今度は黒田家と親しい尾張家付家老・成瀬隼人正と紀伊家付家老・安藤帯刀が藩邸に来て、忠之を説得して郊外の長谷寺に移させた。これらのことが福岡に知らされると、福岡では大騒ぎになり籠城戦の準備を始めたという。

11月17日に老中よりの使者が来て、18日に西ノ丸へ出頭するように言ってきた。18日に西ノ丸に出頭すると老中立会いの下で大目付による取調べが行われた。忠之の取調べはこの18日と翌寛永10年3月4日の2回行われているが、もともと事実無根の訴えだからボロの出ようがない。さらに忠之の返答もなかなか見事であり、老中らも感心したという。

一方、大膳の方はこの年の正月10日に江戸に入っていた。君臣の対決が予定されたが、これには忠之が反発した。「君臣の対決など古来から聞いたことがない。臣下と対決するような不面目なことは忍びがたく、疑いあらば切腹して果てるのみ」と毅然として言い切った。これには列席の老中らも申し出でもっともということになり、君臣の対決はなくなった。
3月11になって大膳と黒田美作、井上道柏、小河内蔵允らとの対決が行われた。大膳は弁舌を駆使して黒田家の重臣らと対決し、ときにはやり込めた。

だが所詮は事実無根の訴えであり、状況証拠やこじつけ的なものばかりである。聞く側にも大膳の訴えは事実無根というのが明らかだった。大膳対黒田家重臣対決の翌日の寛永10年3月12日、大膳一人が井伊家の邸に呼ばれた。ここで大目付から大膳に対して「謀反の訴えは偽りと認む。なぜ事実無根の訴えをしたか」と問い詰められた。大膳は涼しげな顔で「忠之が諫言を聞かぬため、このままでは取り潰されかねないと考え、計略として訴えを起こした。さすれば忠之は成敗かなわず、公儀の面前で悪政を申したてられ、深く反省することになろう」と述べたという。

さらに裁判の最初からこのことを申し出れば、さほど苦労なく育った忠之の心根は改まらず、また諫言一つしない重臣たちも何事もなく済んでしまうとも申し述べた。これを聞いて老中らは一様に感心し感動したという。3月16日に忠之は重臣らと供に酒井雅楽頭の邸に出頭を命ぜられた。忠之に対して「はなはだ仕置よろしからず。また君臣遺却の段、不届きにつき領地を召し上げる。さりながら代々忠節を尽くした家であり、筑前の国を新に賜う」という裁決が言い渡された。早い話がお咎めなしであった。

一方、同日大膳も井伊家の邸に呼ばれ、南部山城守へお預けの処分が言い渡された。ただし終生150人扶持を与えられ、4里四方お構いなしという破格の処遇であった。大膳は南部家でも大切にされたという。もうひとりの役者倉八十太夫は高野山へ追放されたが、島原の乱が起きると山を降りて黒田家の陣に加わったという。

これが黒田騒動と呼ばれる江戸初期に起きた大騒動であるが、結末を見ても明らかなように悪者が一人もいないし、その裁決は改易転封や切腹などがなく陰惨なものではない。唯一倉八十太夫だけが追放されたが、前に書いたように十太夫も悪人ではなく、本人は追放されなかったとしても黒田家にはいられなかったろう。ただ江戸時代を通じて福岡藩では栗山姓は不忠者として評判が悪く、福岡では名乗れなかった。また長政が大膳に預けた家康の感状は結局使われないままになった。この感状は黒田家家臣の梶原某に預けられ、のちに六代藩主継高に献上されている。


   加藤清正が秀吉一辺倒であり豊臣恩顧の人物であったことは間違いないことである。しかし、大坂の陣のとき清正が生存していたとしても秀頼に味方して戦ったとは考えにくい。江戸幕府の情勢を目にして清正というのはそれほど無分別な男とも思えない。だが清正が秀吉のもとに奉公してから肥後熊本54万石の太守になったのは、秀吉の贔屓があったことも、また事実であったから内心はいかばかりだったろうか。

地盤も何もない人間が一代での出世である。清正一代記は自身の槍一筋と秀吉の贔屓で成り立っている。そんな清正だから家中の仕置もワンマンであった。加藤家では家老を置かず、何事も清正一人が判断して政治をしていたという。戦場では勇将であった清正だが、民政でもまた勇将な名君でありえたのだろうか。

歴史夜話98
豊臣秀吉子飼いの勇将加藤清正が、熊本城で没したのは1611年(慶長16年)6月24日のことであった。すでに関ヶ原の戦いで徳川家康の覇権が確立し、豊臣秀頼の今後がどうなるか、というときのことで、清正は二条城での秀頼と家康との対面の場で秀頼のことを終始守護し、無事に対面を済まして帰国する船中で発病、回復することなく死去したのだった。

二条城の対面の場で秀頼の姿を見た家康は、思いのほか立派に成長した秀頼に内心驚き、このままでは豊臣恩顧の大名たちが秀頼をかつぎ上げることを心配したあまり、豊臣大名の筆頭格である清正を毒殺したとの説もあるほどで、清正の死は家康にとってタイミングのよすぎることであった。

清正の跡を継いだのは二男の虎藤だった。虎藤は、清正没後に元服して将軍秀忠の一字を賜り、忠広と名乗る。ときに10歳とも16歳ともいわれている。忠広は、勇将にして名君加藤清正が一代で築き上げた54万石を得、2年後に将軍の養女となった蒲生秀行の娘を正室に迎え、将軍家の縁戚となる。

ところがこの二代目の忠広というのが苦労知らずの凡庸であったことが、加藤家の運命を分けた。凡庸なうえに幼い忠広では大国の統治は難しいし、無き清正は独裁体制を布き家老職を設けていなかった。したがって幕府は藩政に介入して家老職を置くことを命じた。

家老職に就いたのは加藤与左衛門、加藤右馬充、加藤美作、並河金右衛門、下川又左衛門の5人で、藤堂高虎が監察役となった。さらに1613年(慶長18年)には、藤堂高虎に替えて幕臣の阿部正之、朝比奈正重が監察役として熊本に送り込まれた。加藤家は間接的に幕府の支配下に置かれることとなったのである。というのは、いよいよ大坂の豊臣家との間が風雲急を告げつつあったからで、ここで豊臣恩顧の加藤家に下手な動きをされてはたまらないというのが家康の本音だったろう。翌慶長19年の大坂冬の陣、このとき忠広は大坂に向かったが、途中で講和が成立して帰国した。つまり何もしなかったのであり、これは幕府の望むところでもあったろう。

1615年(元和元年)大坂夏の陣では島津在国中は守りを固めよ、との命を受け在国した。つまりあてにはされていなかった、というより出陣する必要なしとされたのだ。そして大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると当面の憂いがなくなり、翌元和2年に家康が死去すると幕府は豊臣恩顧の大名に何の遠慮もいらなくなった。

幕府は豊臣氏が大坂にあることを前提にして諸大名の配置や政策を考えていたのだが、幕府の都合だけで大名政策を実行すればよくなった。それは豊臣恩顧の大名だけでなく、譜代大名や徳川一門にも及んだ。家康没後に越後高田の家門松平忠輝(家康六男)や安芸広島の福島正則が改易されたのは、まさに政策の一環であった。秀忠政権にとって忠輝や正則は憂いでしかなく、ささいな落度、それもなければ冤罪を着せてでも改易して憂いを絶ち、同時に将軍家の権威を高める必要があった。

ところが、この重大なときに加藤家では家老達が対立して派閥を競い、権力闘争を始めた。家老達は錚々たるメンバーで、苦労知らずの忠広に抑えられるはずもなかった。当時、出羽山形の最上家が改易されたのも、幼君を補佐すべき重臣達の権力闘争が原因であったが、加藤家もまったく同じ道をたどり始めた。加藤家の熊本藩は戦国時代の気風をそのまま受け継ぎ、家老職は時代の流れを読めず役割をはき違えた。

家中内の派閥争いは激しさを増し、その一方は加藤美作を筆頭に、その子息の丹後、中川周防、玉目丹波、和田備中ら。他の一派は加藤右馬充を頭に下川又左衛門、並河志摩、加藤平左衛門、下津棒庵、庄林隼人、森本儀大夫などであった。対立が激化する中、1618年(元和4年)加藤右馬充派の木造左京とその子の内記が脱藩した。

その原因は忠広が大名の織田信良の招待を受けたときのことにある。当時は、このような時は料理や給仕は招かれた側がするのが風習であった。理由は暗殺や毒殺の用心のためである。もちろん信良もそのつもりでいたが、忠広はそのような配慮は無用のことと挨拶した。ところが信良の方も引かなかったので、忠広は小姓2人だけを連れて行くことにした。

このことを伝え聞いた加藤右馬充派の木造内記と左京の親子は相談して、当日織田家の勝手方に詰めた。もともと木造父子は信良の親戚であり、よかれと思ってやったことだし、対立していた家老の加藤丹後の許可も得ていた。当日、忠広は勝手方に詰めている木造父子を見て不快に感じ、帰邸後に2人を呼び叱責した。織田信良に対して嘘を言ったことになるからである。

叱られた2人は丹後の許可も得ていると答えたが、忠広に問われた丹後は「許した覚えはない」と逃げた。これが左京と内記の脱藩の原因で、左京の義父の下津棒庵も家を立退いた。しかもこれだけに留まらずに下津棒庵は、加藤家の政治の乱れや家老職の私曲を幕府に訴え出たのだ。

幕府の方でもおそらく加藤家の政治の乱れを掴んでいたのだろうが、向こうから訴えが出たのだから内心喜んだだろう。幕府では関係者を呼び出して、秀忠が親裁することとなった。この席で両派の頭目である右馬充、美作とも一歩も譲らずに相手方の私曲専横を主張したが、つい右馬充の口から聞き捨てならない発言が飛び出した。

それは、美作と丹後の父子が大坂冬の陣の際に、藩の海運のためと称して建造した大船2艘をもって、大坂方に兵糧と援軍を送ろうとしたというのだ。しかも美作父子は忠広出陣の際には、国元で豊臣方に拠って挙兵を企てたともいうのだ。これが事実かどうかはともかく、この発言で美作父子は言葉も無く狼狽し、秀忠は気分を害して席を立ったという。美作派の敗北であった。

この結果、美作父子はじめ中川周防ら33名が流罪となり、大坂方に内通したとされる横江清四郎、橋本掃部介、同作太夫は斬罪となった。忠広は若年の故をもって、また将軍家の姻戚でもあったために許され、今後は右馬充らが国政を輔導すべしとされた。宿敵美作一派が排除されたことで、熊本藩政は右馬充一派に牛耳られた。

1622年(元和8年)幕府は加藤家の領内にあった八代城を出雲松江に移すことにし、加藤家にその作業を命じた。この移転費用で加藤家の財政は急激に悪化し、これに対処するために1624年(寛永元年)領内総検地を行い、その結果として苛酷な年貢を領民に課した。このとき総検地で打出されたのは96万石であったという。54万石の石高に対してである。新田開発などにより若干の増加を見るのは当然としても、96万石というのは異常に過ぎた。

このことは年貢を納める領民の反感をよび、周辺諸大名もその実態を批判して、幕府の知るところとなった。もちろんこうなることは幕府の筋書き通りといってもいい。八代城移転も加藤家の財政悪化を目論んで命じたことだったし、目的はいかに加藤家を取り潰すかにあったのだから、領内のゴタゴタは幕府の歓迎するところであった。

やがて秀忠が隠居し、家光が三代将軍となった。家光は生まれながらの将軍と公言したというが、それはまた家康や秀忠のように戦場疾駆や幕府創設の苦労がないということである。それ故に幕府の権威を確立し、絶対君主としての地位の裏付けとする必要があった。したがって絶対君主確立の妨げになるものは排除しなければならなかった。それが弟の駿河大納言忠長の改易であり、加藤忠広の改易であった。

忠長は幼少時から聡明の誉れが高く、秀忠の寵愛も深かった。一時は三代将軍は忠長との噂もしきりであったが、それを家光に引き戻したのは、家光の乳母春日局と家康であった。
忠長は駿府50万石に封ぜられたがなおも不満は大きく、兄である家光を軽んじた。やがて傍若無人な振る舞いが目立つようになった。家光は秀忠生存中は我慢したが、1632年(寛永9年)秀忠が死去すると、直ちに忠長を改易した。不孝なことに忠広は、この忠長と親しかった。

豊臣恩顧、重臣間の騒動、苛政、さらに忠長との親交とくれば加藤家の運命は決した。幕府の大名に対する政策では、とくに中国、四国、九州は豊臣恩顧の大名の整理が遅れ、外様大藩がひしめいていた。そのために幕府としては隙あらば外様大名を改易して、譜代大名を配置したかった。そういう流れの中で加藤家が、改易の標的になったというのが真相であり、それが家光の将軍としての権威確立に寄与することになったのだが、表向きはそんなことは言えない。それが加藤家改易の不明朗さになっている。

加藤家改易にはいくつかの俗説はある。そのひとつは、寛永9年4月10日、旗本室賀源七郎の屋敷に侍がやってきて文箱を差し出した。差出人のわからぬ文箱は受取れぬと断ると、その侍は文箱を隣家の井上新左衛門の屋敷に捨てて逃げて行った。新左衛門の家臣が文箱を見ると、将軍家に対する謀反の密書である。驚いた井上家では老中に届け出て、その侍を探索し、やがて発見捕縛した。その侍は加藤光正家臣前田五郎八と名乗った。光正とは忠広の嫡男で、当時14歳になり江戸屋敷にいた。これがもとで忠広、光正が糾弾されたという。

また「武家盛衰記」では光正の家臣に広瀬庄兵衛という愚鈍な男がいて、いつも光正のなぶりものになっていた。あるとき光正は広瀬を召し出して「このたび密かに謀反を企て、挙兵することとした。ついては汝を一方の大将とする」とからかったが、愚鈍な広瀬は疑うことを知らず震え上がって逃げ出した。光正はさらに数日後に広瀬に再び謀反の相談をする。広瀬は「我君御一人でかような大事は無理」と真剣な顔で諫止した。光正は内心大笑いしながらも真面目な顔で偽作した謀反の廻状を見せて、「各大名も連判している上、間違いのないこと」とさらに広瀬をからかった。

広瀬はもはやこれまでと、大老土井利勝の屋敷に駆け込んで訴えたが、さすがに利勝は光正の戯れと推察した。しかし、これを改易の理由にしない手はないとして、忠広、光正を喚問したとする。いずれにせよ幼稚な話であり本当とは思えないが、そんな話がでるほど忠広の改易の理由は不明朗なのだ。

加藤家改易は幕府の既定方針となり、1632年(寛永9年)夏に帰国中の忠広に対して21ヶ条の詰問状を渡して、速やかに出府して弁明せよとの命令が出された。その21ヶ条の内容が何であったかは不明だが、加藤家の方でも事情は把握しており、一部では命令を拒否して籠城するのが良策との意見も出たようだ。幕府でも周辺大名に動員準備を命じたという。

しかし家老加藤右馬充は、「籠城して反逆者の汚名を残すのは末代までの恥」とし、忠広もその言を容れて出府した。しかし幕府は忠広を品川宿で止め江戸に入るのを許さず、池上本門寺に待機させた。幕府は嫡子光正の不届き、母子を無断で国許に送ったこと、さらには平素の行跡よろしからずとして肥後一国を収公、忠広は出羽庄内酒井忠勝に預けられ1万石が宛行われ、光正は飛騨高山金森重頼に預けられた。

光正はこの翌年に忠広に先立って死去したが、自害であったともいう。一方、忠広は庄内丸岡村で22年暮らして、1653年(承応2年)57歳で死去した。丸岡村での暮らしは幽閉そのもので、幕府は悪地を選んで与えるよう酒井家に命じたという。

加藤家改易の跡には豊前小倉から細川忠利が移された。細川家も外様大名であったが幕府との関係はよく、好感をもたれていた。そして細川家の跡の小倉には譜代大名である小笠原氏が入り、小笠原氏は九州諸大名の監察の役目も負った。



 琵琶湖は滋賀県に広がっている湖で、日本で最大の面積と貯水量を誇っています。その面積は約670平方キロメートル、貯水量は約28平方キロリットル、周囲長は241キロに及び、滋賀県の全体面積の約6分の1をも占めています。琵琶湖は中栄養湖に分類され、水の性質は淡水です。湖を取り囲む山々から流れ込む大小460本の河川水が源流となっています。

琵琶湖が形成されたのは、今から約400万年から500万年前ぐらいだと推察されています。
現在の三重県伊賀市付近で起こった地殻変動により、地上に大きな穴が出来あがり、そこに水が流れ込む形で湖が出来ました。これが琵琶湖のもともとの起源となった湖で古琵琶湖と呼ばれています。その後、度重なる地形変動や風水の影響を受け、この湖は長い期間をかけながら徐々に北へと移動していきました。そして今から約100万年から40万年前頃に、比良山系まで到達しました。現在は比良山系がそれ以上の湖の北上を止める形となり、現在の琵琶湖の位置が完成しました。

琵琶湖は周囲を山々によって取り囲まれており、琵琶湖から流れ出る河川は瀬田川だけです。瀬田川のある流出地域にあたる南西部を除く全ての方面から河川が流入しています。それらは大小合わせておよそ460本を数えますが、最長の河川は「野洲川」です。従って、この川の水源地である鈴鹿山脈の御在所岳(御在所山)が「最も遠い琵琶湖の源流」に該当します。琵琶湖に注ぐ川は、あまり曲がりくねったりはしませんが天井川を形成するものが多い傾向があります。

琵琶湖は縄文時代や弥生時代という大昔から交通路として利用されてきました。琵琶湖は都や海に近かったために利便性が高く、古来から栄えてきました。西暦600年頃には、時の天皇であった天智天皇により、琵琶湖西側に大津宮が置かれたりしました。戦国時代になると瀬田の唐橋を制する者が天下を制すると言われました。

江戸時代には、若狭湾沿岸から年貢の輸送路としても利用され、湖周辺にも大津から若狭湾へ向かう西近江路や若狭街道、京都から北陸道につながる北国街道などの主要交通路が次々と整備されました。江戸の交通網として栄えると近江八景という形で観光名所も生まれ、近江商人が全国に展開するようになりました。

湖上交通による荷物の輸送も活発に行われ、大津は湾岸都市として大きく栄えました。但し、こうした繁栄は明治時代までは続きましたが、昭和に入ってからはその他の陸上交通の発達や整備が進んだことを受け、地域経済は徐々に衰退していく事になりました。湖周辺では現在も経済活動は行われていますが、大都市圏に比べると劣るというのが実情です。
尚、琵琶湖という名前がつけられたのは江戸時代中期以降であり、測量技術が発達しその形状が果物の琵琶に似ていることから、この名前がつけられたと言われています。

歴史夜話97
琵琶湖は日本で最大の面積と、最大の貯水量を誇る巨大湖ですが、もともとは現在ほどの大きな湖ではありませんでした。琵琶湖の起源となったのは、現在の三重県周辺エリアに出来た湖で地質学上は「大山田湖」と呼ばれています。これは現在の琵琶湖の大きさの10分の1の大きさにも満たない小さな湖でした。この小さな湖は、今から約400万年から600万年前に、三重県周辺で起こった断層活動により出来ました。断層活動により、数キロ平方メートル規模の大きなくぼみが生じ、そこに雨水が流れ込み、小さな湖を形成したのです。

そして、その後この湖が地殻変動の影響を受け北上していき、現在の琵琶湖の位置まで移動していったのです。何故、その小さな湖が現在のような大きな湖になったかと言うと、地殻変動を受け北上していく過程の中で、周辺に存在していた幾つかの湖と合体していったからです。北上の過程で他の湖とぶつかり、合体し大きくなりながら、さらに北上していったのです。

起源となった小さな湖「大山田湖」が、最終的に現在の琵琶湖を形成するまでの過程において、少なくとも3つの湖と合体したことが分かっています。まず最初に合体したのは、「阿山湖」と呼ばれる湖でした。阿山湖と合体したのは今から約270万年から300万年前だと言われています。この阿山湖と合体した事で、現在の琵琶湖の約2分の1の大きさになりました。

その次に合体したのは「甲賀湖」です。甲賀湖も阿山湖に匹敵するほど大きな湖でした。これと合体した事により、ほぼ現在の琵琶湖と同じぐらいの大きさになりました。この甲賀湖と合体したのは、今から約250万年から270万年前だと言われています。

そして最後に合体したのが、「蒲生湖」です。こちらは阿山湖や甲賀湖に比べると比較的小さな湖ではありましたが、それでも起源となった大山田湖の2倍の大きさはあった湖です。
蒲生湖と合体したのは今から約160万年から250万年前だといわれており、この合体を経て、現在の琵琶湖は誕生しました。

琵琶湖は古くから人々の交通や物資の輸送路の要として重宝され、特に物資の輸送路としては非常に重要な役割を果たしてきました。琵琶湖が淀川となって大阪湾に流れる位置関係から、若狭湾で陸揚げされた物資が琵琶湖上の水運を介して、京都や大阪に輸送されていったのです。京都や大阪は古くから非常に栄えてきましたが、もし琵琶湖が存在しなければ、それほどまでには栄えなかったと指摘する専門家もいる程です。

しかし、重要な輸送路として位置づけられていたのは近代に入る前までの話です。
若狭湾から京都や大阪への輸送は、明治時代以降も暫くは隆盛でしたが、昭和に入ると他の陸上交通の発達によって次第に衰退して行きました。昭和に入ると、自動車や鉄道の整備が急速に進んだため、もはや水運に頼らなくても簡単にこれらの都市に物資を輸送することが可能となった為です。特に若狭湾から京都・大阪はそれほど距離があるわけでもない為、陸運の方が水運よりも早く物資を運べたのです。

琵琶湖を介した水運が衰退していくに連れて、かつては栄えていた周辺都市も徐々にその活況を失っていく事になりました。特に1940年代や1950年代に入るとその衰退は一層顕著となりました。その後、高度経済成長期に入ると、こうした衰退を食い止めようと、琵琶湖から運河を掘削し、日本海と太平洋、さらには瀬戸内海をも結ぶという運河構想が持ち上がりました。

この計画は1962年(昭和37年)にまとめられ中部横断運河計画と呼ばれ、福井県・滋賀県・岐阜県・愛知県・三重県等が協力し、実行に移そうと調整を開始しました。この大計画は、総工費2500億円から3500億円にも及ぶものであり、周辺都市の衰退を食い止める起死回生の一手として大きな注目と期待を集めました。しかしながら、多くの都道府県を跨る計画であったために費用負担等の調整が難航し、また調整期間中に計画を立ち上げた中心人物が相次いで死去した事などが影響し、最終的には実現することなく、中止されました。

その後は、琵琶湖の水が「近畿の水瓶」として注目されるようになり、1972年(昭和46年)から琵琶湖総合開発計画として実施されました。事業は、琵琶湖の水質や恵まれた自然環境を守るための「保全対策」、琵琶湖周辺の洪水被害を解消するための「治水対策」、琵琶湖の水をより有効に利用できるようにするための「利水対策」の3つの柱で構成され、国、地方公共団体が実施する「地域開発事業」と水資源開発公団が行う「琵琶湖治水及び水資源開発事業」(琵琶湖開発事業)により、事業相互に調整を図りながら進められました。

この事業は20年以上の歳月を経て、平成8年度に、地域開発事業も終了し、琵琶湖総合開発事業が終結しました。施策の3つの柱の中には、「自然保護」という名目がありますが、それは人間中心の観点で、琵琶湖の生き物を主眼にしたものではありませんでした。琵琶湖の護岸のかなりの部分が舗装道路となり、これにより生態系が大きく破壊されました。


   幕末の動乱時、頼りは武術という場面がいたるところであらわれた。時事を論じるまえにある程度の武芸の術を心得ておかないと真っ先に身が滅びるということになる。武道の腕は自信に直結だった。そういう状況下の幕末であったから、名の通った道場は人気を博した。

江戸の数ある道場の中で「幕末江戸三大道場」と呼ばれた道場があらわれた。それらは、斎藤弥九郎の「練兵館(神道無念流)」、千葉周作の「玄武館(北辰一刀流)」、桃井春蔵の「士学館(鏡新明智流)」である。巷の評判は「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」といわれた。

歴史夜話96  
桃井春蔵(ももいしゅんぞう)は、1825年(文政8年)駿河国沼津藩藩士・田中豊秋の次男として生まれる。幼名は甚助、名は直正という。沼津藩で直心影流剣術を2年ほど学び、1838年(天保9年)に江戸に出て、14歳で鏡新明智流の道場である士学館(3代目桃井春蔵)に入門した。17歳で初伝目録を得て、才能を師匠に見込まれ、その婿養子に取り立てられる。23歳で皆伝、25歳で奥伝を得て、1852年(嘉永5年27歳で士学館4代目桃井春蔵を継いだ。「桃井春蔵」の名は士学館道場で代々受け継がれる名跡であり、直正は4代目桃井春蔵である。

1856年(安政3年)土佐から武市瑞山が岡田以蔵らを伴って江戸に出てきて、士学館に入門する。春蔵は武市の腕前と人物を高く評価して、塾頭に任じる。1862年(文久2年)幕府から与力格二百俵に登用され幕臣となり、翌年には幕府講武所剣術教授方出役に任じられる。

1865年(慶応元年)12月暮、稽古納めを終えた春蔵と高弟8人が市谷田町を歩いていると、新徴組の隊列と出くわす。隊士たちが「(道の)片側に寄れ、もっと寄れ」と凄んだため、高弟のひとり・上田馬之助が非礼だと怒ると、隊士たちが抜刀し、あわや斬り合いになりかける。そこで春蔵が「私は公儀与力・講武所教授方桃井春蔵という者、ここにいるのは士学館の弟子である。ご希望ならばお相手する」と言うと、新徴組が謝罪してその場は収まった。

1867年(慶応3年)春蔵は幕府陸軍遊撃隊頭取並に任じられ、将軍・徳川慶喜の上洛に護衛役として同行した。そして大坂玉造臨時講武所剣術師範となる。しかし同年、大坂城での軍議で戊辰戦争の開戦に反対し、開戦派の幕府軍人と対立して幕府軍を離脱した。幕府軍人に命を狙われることとなり、士学館の高弟数名とともに大雪の夜、南河内の幸雲院という寺に落ち延びる。

翌慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが開戦となる。幕軍は敗れ、将軍・慶喜は江戸へ逃亡し大坂城は炎上した。京・大坂は官軍に占拠された。同年5月、幕府から桃井に彰義隊への入隊勧誘があったがこれを断り、逆に官軍からの要請で川崎東照宮(建国寺)境内(現・大阪市北区天満)に道場を建て、大坂の治安維持に当たる薩長芸の兵に撃剣を指導した。

また同年、大阪府が設置されると、大坂与力と同心を中心とする府兵80人が治安維持を担当することとなり、浪花隊(浪華隊)と命名された。春蔵は浪花隊の監軍兼撃剣師範に就任し、事実上の隊長となり隊を率いる。翌1869年(明治2年)、隊員は600人以上に増えた。この頃、北桃谷町(現大阪市中央区)に士学館道場を再興し、高弟で浪花隊隊員でもある秋山多吉郎を師範代兼塾頭に置いた。その後、浪花隊は1870年(明治3年)に解散し、後に大阪府警察部となる。

浪花隊解散後、春蔵は大阪府権大属を経て1874年(明治7年)10月、堺県の等外吏になり応神天皇陵・仲姫皇后陵の陵掌を務め、1875年(明治8年)、誉田八幡宮の祠官となり境内に道場を建て撃剣や儒学を教授した。晩年は神に仕える穏やかな生活を送ったが、刃物で襲いかかってきた強盗3人を大和川に投げ込んだり、狩猟中に誤って応神天皇陵に発砲した大阪府知事の胸ぐらをつかんで怒鳴りつけるなど、豪快な逸話も残している。1884年(明治17年)11月、大阪府御用掛剣道指南方に任ぜられたが、1885年(明治18年)、コレラで死去した。享年61歳。4代目桃井春蔵の剣術は「品格随一」の剣術といわれた。



千葉周作(ちばしゅうさく)は、北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範。姓は平氏、通称は周作、諱は成政という。周作は、1794年(寛政6年)1月1日、陸前高田市気仙町字中井の天満宮下で生まれたという。父は千葉忠左衛門成胤で馬医者であった。曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辞して栗原郡長岡村荒谷(現宮城県大崎市古川荒谷)へ移り、その子の吉之丞常成が北辰夢想流剣術を創始した。父・成胤もいったんは指南役に推挙されたが、辞して馬医者になったという。その後、松戸(現千葉県松戸市)に移り、馬医者を開業する。

周作5歳の頃、父は妻を捨て周作だけ連れて家を出て宮城県栗原郡長岡村荒谷へ移る。まもなく周作は親元を離れ中西派一刀流の浅利義信に入門した。浅利義信に入門した後も、他にも浅利義信の師匠の中西子正などの指南を受けて腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待された。しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、妻(浅利の養女)を連れて独立し新たに北辰一刀流を創始した。この際に中西子正から受けた伝書を焼き捨てたとする伝承もあるが伝書の実物が現存しているため、これは誤りである。

その後、武蔵・上野などを周って他流試合を行い門弟数も増え、伊香保神社に奉納額を掲げることを企画したが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し、掲額は断念した。この騒動で周作自身は名を挙げたが、北辰一刀流は事実上、上野から撤退し、上野(群馬県)では明治中期まで北辰一刀流を教える者はいない状態となったという。

1822年(文政5年)江戸に帰り、日本橋品川町に玄武館と言う道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興した。この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得た。それまでの剣術は習得までの段階が8段階で費用も時間も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴であった。現在では竹刀を使った訓練が普通になっているが、これを始めたのは周作だった。

1839年(天保10年)周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、天保12年には馬廻役として100石の扶持を受けた。弟の千葉定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称された。次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。

千葉周作の門下からは幕末の重要人物を多数輩出した。主な人物として坂本龍馬や浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられ、門弟の井上八郎、塚田孔平、海保帆平らは優れた剣客として名を上げた。墓所は、東京都豊島区の本妙寺に現存している。



斎藤弥九郎(さいとうやくろう)は、江戸時代後期から幕末にかけての剣術家、流派は神道無念流で幕末江戸三大道場の一つ「練兵館」の創立者である。諱は善道(よしみち)。号は篤信斎。本来の表記は「齋藤彌九郎」である。弥九郎の門下からは明治維新の原動力となった人材を多く輩出している。

弥九郎は、1798年(寛政10年)越中国射水郡仏生寺村(現在の氷見市仏生寺)の組合頭であった斎藤新助(信道)の長男として生まれた。斎藤家は加賀国守護冨樫氏の末裔と伝えられる。12歳の時に越中の高岡に赴き、油屋や薬屋の丁稚となったが、思うところあって帰郷した。

1812年(文化12年)銀一分(一両の四分の一)を持って江戸に出て、旗本能勢家の屋敷に奉公に上がった。昼は仕事、夜は勉強に熱心なため、主人は感心し、文武を極めよと激励した。そして、古賀精里・赤井厳三に儒学を、平山行蔵に兵法を、高島秋帆に砲術を、品川吾作に馬術を、岡田十松に剣術(神道無念流)を学んだ。特に剣術では門下随一の実力者となり、岡田の道場「撃剣館」の師範代に任じられ、岡田亡き後、同門の藤田東湖や武田耕雲斎、江川英龍らの推薦で撃剣館を継承した。

江川英龍から資金援助を受けて独立し、江戸九段坂下の俎橋(まないたばし)近くに新たな道場「練兵館」を開いた。その後、練兵館は、千葉周作の玄武館や桃井春蔵の士学館と並んで幕末江戸三大道場の一つに数えられた。

1837年(天保8年)大坂で大塩平八郎の乱がおこると、江川の命により、大塩の行方を調べるため、大坂へ赴いた。江戸へ戻ると、その状況をいち早く水戸藩の藤田東湖に伝えた。また4月には江川とともに、刀剣商の装いで甲斐国の状況を見て回った。(「甲州微行」と呼ばれる)この時、わざわざ商人を装ったのは、当時甲斐国では博徒が多く、治安が悪かったためとされる。

1847年頃、練兵館は対外試合を始める。長男の斎藤新太郎が全国剣術修行のため東北に出立し、その後2年をかけて、東海、関西、四国、中国、九州を巡り、1849年(嘉永2年)に萩に到着した。そしてこのころから長州藩との関わりが始まる。吉田松陰が江戸へ出て、弥九郎や新太郎と交流し、同年12月に東北遊歴に向かった松陰は、新太郎から受け取った紹介状を持って、水戸の永井政介等を訪れている。

新太郎は越前国の大野藩での剣術指南の後、9月に再び長州藩を訪れている。目的は練兵館への留学生をもとめるためで、長州の各道場から5名の藩費留学生が選ばれた。またその時、私費で江戸へ留学することとなり、新太郎とともに江戸へ向かったのが桂小五郎である。

1853年6月、黒船が浦賀に来航し、来春の再来航を告げて出航した。幕府は急きょ江戸湾内の防備を固めるため、江川らに対策を命じた。江川は台場築造の場所を選定する必要性から、江戸湾岸を巡視した、このとき弥九郎や桂小五郎も同行している。また品川沖に台場の築造が計画されると、弥九郎はその実地測量や現場監督を行ったとされる。併せて、高島秋帆らとともに、湯島馬場で大砲鋳造を行っている。

黒船が江戸湾に再来航すると、幕府は江川に対して、江戸湾最奥部である品川沖まで黒船が侵入した場合に備え、船で乗り付けて退去交渉を行う役目を任じた。このとき弥九郎は江川に従って退去交渉に同席するつもりだったという。2月15日、弥九郎らは、長州藩邸に招かれ、藩士に対する剣術教授の功績を讃えられた。また4月3日には福井藩邸へ70名余りの門人とともに赴き、邸内の馬場で試合と西洋銃陣を披露した。
享年74。墓は福泉寺。生前の功績により、より従四位を贈位された。

斎藤の練兵館は長州や水戸など幕末の重要な藩と広く関わりを持った道場で、幕末三大道場のなかでは一番政治的な動きをした道場だった。




  相撲の歴史は野見宿禰(のみのすくね)に遡るというから神代に近い。相撲を格闘技と捉えると歴史があることも頷ける。さて、そんな長い相撲の歴史であるから強い力士も大勢出現した。そのなかで史上最強の力士は誰だろうか、もしかしたら白鵬かもしれないと思ったりもするがどんなもんでしょうか。

歴史夜話95
のちに天下無双力士と称えられ、後世までその名を轟かすことになった雷電為右衛門は、1767年(明和4年)信濃国小県郡大石村に生まれた。幼名は太郎吉という。太郎吉は子供の頃から体も大きく力も強かった。ある夏の夕刻、母親が庭に据え付けた風呂に入っていると、突然、雷鳴と稲妻をともなう激しい夕立がやってきた。すると、太郎吉は母親を風呂桶ごと抱え挙げ、家の土間に運び込んだのだそうである。

太郎吉の怪力ぶりを伝えるいまひとつのエピソードはもっと凄まじい。背中に荷物を積んだ馬を引いて細く険しい碓氷峠の山道に差しかかったところ、加賀百万石の大名行列と行き合わせてしまった。狭い道のためによけることもでず困った太郎吉は、荷を積んだままの馬の足を掴んで頭上に差し上げ、無事に大名行列を通過させた。そして加賀の殿様から「天晴れじゃ!」とのお褒めの言葉を賜わったのだという。

またひとつは、お百姓が遠くから大きな桶を前後にぶらさげ天秤棒で水を運んでいたとき、転んで水がぜんぶ流れ出てしまった。そのとき通りがかった太郎吉は、天秤棒の端に桶をぶらさげ、片方の先を片手で持って、竿一杯のところを落ちる滝の水を桶いっぱい汲んだという。

その頃、千曲川を挟んで大石村と向かい合う長瀬村に上原源五右衛門という相撲好きの庄屋がいた。学問にも造詣の深かった上原源五右衛門は自ら寺小屋の師匠となり勉学を奨励するとともに、近隣の相撲好きな若者たちの世話をして彼らを育てることにも余念がなかった。たまたまそのことを知った太郎吉は上原源右衛門のもとを訪ねて温かく迎え入れられ、ほどなく同家に寄食するようになった。そしてそこで学問を修め学識を深めるとともに相撲の技を磨き鍛えたのだそうだが、太郎吉の勤勉ぶりは尋常なものではなかったらしい。

後世、ともすると怪力ぶりばかりが強調されがちな雷電だが、相撲その他に関する優れた直筆文記録書類が残されていることから、きわめて高い学識を身につけた人物でもあったと言われている。文武両道に秀でた大力士としての礎はこの子供の時期に培われたものに違いない。

あるとき、江戸相撲の浦風林右衛門の一行が地方巡業で上原家を訪れた。このとき相撲取りとしての天賦の才を見込まれたという。1784年(天明4年)17歳になった太郎吉は、江戸に上り江戸相撲の門を叩くことになった。このときすでに身長198センチ、体重188キロだったという。当時としては日本人の男子の身長は155センチ程度だったので目を見張るような巨漢力士であったのは間違いない。その四股は鋼鉄のごとく強靭そのものだったというが、それにもかかわらず実に柔和な相貌をしており、性格も温厚そのものだったらしい。

天賦の資質とそれを磨く猛稽古の甲斐あって太郎吉はめきめきと頭角を顕した。その力量と学徳をかわれて21歳の時に雲州松江藩のお抱え力士となった。そして、その時から、松江藩にゆかりのある「雷電」という四股名を名乗るようになった。2年後の1790年(寛政2年)には関脇として初優勝する。その後は無類の強さを発揮して優勝を重ね、1795年(寛政7年)に大関昇進を果したのだった。それから実に16年の長きにわたり大関の地位を守り続けた。当時は今でいう「横綱」は名誉呼称で番付には無く「大関」が最高位だった。

雷電は通算21年にわたる力士生活において、江戸相撲で285番、京都・大阪相撲で228番、合計513番の取組み(勝敗の明確な分)を行なっているが、その間に負けたのは19番のみで、その勝率はじつに九割六分一厘という驚異的なものだった。当時の相撲はお抱え藩どうしの対面もあって、今で言えば八百長ともいえる、「引き分け」というのがあり、真剣勝負なら雷電の戦績はもっと良かった可能性がある。

その上、雷電の力があまりに強烈で相手力士を負傷させてしまうというので、雷電は「張り手」、「突っ張り」、「かんぬき」の三手の技を禁じ手とされてしまった。もしそうだったとすれば雷電の勝率はそのぶんいっそう驚異的だと言わざるをえないだろう。

雷電が大関になった頃、横綱としては引退間近な小野川喜三郎がいるだけだった。その横綱小野川との上覧相撲の対戦で雷電は相手を投げ飛ばしたが、藩同士の体面や小野川の名誉問題などもあって、結局、その一番は勝負預かり(勝敗なし)になってしまった。ところが、事実上息子が敗れたのを知った小野川の母親は、そのことを苦にして自害して果てた。そのことに心を痛めた雷電は、小野川の母親のための追善供養として梵鐘を造り、松江藩とも縁の深かった江戸赤坂の報土寺に寄進したと伝えられている。

名を挙げ名力士となってふる里大石村に住む母のために家を新築したことがあった。このとき幼い頃からお世話になった上原源五右衛門の屋敷より大きな家は建てなかったらしい。これも雷電の心使いで、成功したといえども富に任せて威勢を張るようなことはしなかった。

そんな無敵の雷電が名誉の称号である横綱を頂くことなく終ったのはいまだに謎であるという。横綱小野川の引退のあと40年間ほど横綱は不在だった。横綱の称号の認定と授与を司る肥後細川藩の吉田司家が当時の飢饉などさまざまな理由から容易には江戸に上るのが困難だったからとか、横綱という称号そのものがその頃はまだそれほどには重要視されていなかったからだとか諸説いわれている。また、雷電自身が横綱の称号を辞退したからだとか、雷電を抱える松江藩松平家と吉田司家を擁する肥後藩細川家とが不仲だったからだとかいう見方もあるが、ほんとうのところはよくわからないらしい。

東京深川の富岡八幡宮に初代横綱明石志賀之助以下、代々の横綱の名を刻んだ「横綱力士碑」が立っているが、むろんその中に雷電の名前はない。ただ、そのかわりに、「無類力士雷電為右衛門」の碑が特別に設けられている。おそらく、それは雷電にまつわる特別な事情を配慮してのことだったのだろう。

江戸時代、力士は「一年を十日で過ごす好い男」などと謳われていたが、現実にはそれほど生易しいものではなかったらしい。当時一場所は十日制だったが、江戸だけでも年二場所おこなわれることもあり、さらに京都や大阪での場所にも出向かねばならなかったし、その他の地方への巡業などもあったから、事実上は年間を通じフルスケジュールで活動していたらしい。なにせ現代みたいに飛行機や車、電車などに乗るわけにもいかず、もっぱら巨体を揺すっての徒歩による旅だったのだろうから、容易なことではなかったに相違ない。また、一場所十日だったといっても、土俵は野外ということで雨天には取組みが行なわれないのが決まりだった。天候不順の折などは一場所終えるのに1ヶ月を要することもあったという。

1825年(文政8年)2月雷電は他界した。59歳だった。雷電の亡骸は荼毘に付されたあといくつにも分骨された。そのひとつは生まれ故郷の大石村(現東御市大石)の地に埋葬された。雷電の墓の右隣にはその父親の関半右衛門の墓が並んで立っているが、面白いことにその墓石は酒枡に大盃を裏返しにして積み重ねた格好になっている。無類の酒好きであった父親の霊を弔うために雷電がわざわざ墓石をそのような風変わりな形にしてもらったものらしい。

雷電の墓はこのほかに松江市にある元松江藩主松平家累代の霊廟の一隅に現存している。また一つは東京都港区赤坂の三分坂脇の報土寺境内にあり、そこの墓前には雷電の手玉石と称される砲丸形の見るからに大きく重そうな玉石が並べ置かれている。雷電がお手玉に用いた石だとの言い伝えがある。

最後の一つは、雷電が相撲界から身を引いたあとの実質的な生活の場となった千葉県佐倉市臼井にある。そこには雷電夫妻のほか彼らの間にできた女児の墓などもあり、ほかに江戸時代の錦絵に描かれた雷電の雄姿を彫り刻んだ石碑なども立っているそうだ。雷電の妻はかつて成田山へ向かう街道の宿場町だった臼井の茶家の看板娘であったという。無双力士と謳われた鬼の雷電も、美人娘の魅惑的な瞳の輝きに一目惚れしたという。

雷電が他界してから三十六年後の1861年(文久元年)には佐久間象山の直筆文と揮毫になる雷電の顕彰碑が建立された。かつてその碑は名碑中の名碑と謳われていたらしいが、いつしかその碑の一部を欠き取り身に着けると立身出世したり勝負ごとに強くなったりするという俗信がはやり、表面が削り取られてついには碑文が読めない状態になってしまったのだという。そのため、明治28年に新しい碑が再建された。象山の献辞が文字通りの雷電への絶賛であることからすると、雷電という人物は想像していた以上に偉大な存在であったようだ。

雷電為右衛門が本番の江戸相撲で負けたのは、生涯で、たった10回だけだった。そして同じ相手に二度負けたのは市野上浅右エ門ただ一人だけだった。

相撲といえば、昭和の大横綱と称される双葉山は69連勝を記録したが幕内成績は276勝68敗だった。双葉山の70連勝を阻止した安藝ノ海がこれを師匠出羽海に報告した際、有頂天になった安藝ノ海に出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と言ったという有名な話がある。


 江戸の3大悪女といえば誰でしょうか? とりあえず一般的には「姐妃のおひゃく」「鬼神のお松」「生首のおせん」の3人ということになっています。いずれもおどろおどろしい枕詞がついておりまする。で、この3人、明治時代の中ごろまでは、強面のおにいさんおねえさんの背中の刺青の定番だったのです。

歴史夜話94は、このうちの「鬼神のお松」と「姐妃のおひゃく」に登場してもらいましょう。

歴史夜話94
石川五右衛門、児雷也と並んで日本三大盗賊のひとりとうたわれた「鬼神のお松」。残忍な犯罪で、旅人を震え上がらせた「悪のヒロイン」だ。お松は仇討ちの途上で毒婦に変貌した美人強盗だった。

お松は深川の遊女をしていた頃、その美貌に一目ぼれした仙台藩士・立目丈五郎に見初められて妻となる。しかし夫は、剣道指南役・早川文左衛門に御前試合のもつれから殺されてしまった。そこで、お松は夫の仇を討つために仙台を出奔し、早川文左衛門を追って放浪の末京に出る。しかし助太刀を頼った夫の友人に手込めにされそうになり殺害した。これを契機に、お松は毒婦に生まれ変わる。

放浪の旅に出たお松は、強請(ゆす)り・窃盗・殺人などの悪事を重ねた末に盗賊になった。その手口は、「老人と見れば持病の癪(しゃく)を装い、出家なら話しかけ、若者なら色仕掛けでたらし込む」というものだった。そして、たかりや窃盗を繰り返しながら一関に向かう道のりで、ついにお松は武者修行に出ていた仇の文左衛門を見つける。渡川の途中で「持病の癪」を装って文左衛門に背負わせ、油断しているところを後から刺し殺したのだ。

その後、お松は奥州・笠松峠を根城に手下70人あまりを従え旅人を次々に襲い、「小野小町のような美人なのに、顔に似合わぬ心は鬼よ」と恐れられたという。付近の村々を襲撃し、盗賊退治に来る腕自慢の侍も返り討ちにする。そんな女鬼神も、とうとう最期を迎えることになる。「父の仇」と付け狙う早川文次郎に殺されてしまうのだ。ただしこれには、お松自ら文次郎に首を差し出し、父の仇を討たせてやったという説もある。

ところで、「鬼神のお松」の、その悪行は江戸庶民の格好の話題となり、お松の派手な悪事の数々はかわら版や草双紙、読本、歌舞伎、錦絵などにも登場する。これほどまでに江戸庶民に語り継がれた「鬼神のお松」だが、その実像を伝える公式史料は存在しない。一説によると、お松が没したのはあの長谷川74平蔵が火盗改メに任じられる4年前の14783年(天明3年)ごろだったらしい。

江戸を騒がせた女に「姐妃(だっき)のおひゃく」という人物がいる。宝暦年間に秋田佐竹藩で相続問題からお家騒動が起きた。1753年(宝暦3年)藩主である義真(よしざね)が23歳の若さで急死した。義真には子供がなかった。その後継者問題で藩内が分裂し、対立が起きた。このときにおひゃくは義真の側室であった。
 
 おひゃくを側室に上げたのが重臣の那珂忠左衛門であって、反対派の言い分では、おひゃくは那珂の妾であり、2人はお家乗っ取りを策したのだという。義真が急死したのも、那珂忠左衛門の指示でおひゃくが毒殺したと疑われた。

おひゃくは京都九条通りの貧しい家に生まれた。8歳のときに祇園町の「山村屋」に売られ、14歳のときに芸妓としてデビューした。美人で利発だと、たちまち人気が出た。ところが芸妓となって2年後、江戸から大坂に下ってきた役者の津打(つうち)門三郎とデキてしまった。そして門三郎に従って江戸に出た。
 
門三郎の兄が松本幸四郎、後の4世市川団十郎となる人物です。おひゃくは幸四郎を好きになり、その想いのたけを打ち明けたが、「弟の女房に手を出せるか。ええい、気持ち悪い。おまえとは絶縁だ」と、おひゃくを突き放した。当時、松本幸四郎は3世市川団十郎と人気を分け合う人気役者でした。いっぽう門三郎は病気がちで、舞台を休むこともしばしばで、役どころも脇役ばかりの中堅役者に過ぎなかった。

1751年(宝暦元年)門三郎が病死すると、一年忌も終えないうちにおひゃくは吉原の揚屋である尾張屋の清十郎に見初められていっしょになる。この尾張屋に出入りしていたのが秋田佐竹藩の江戸留守居役の那珂忠左衛門であって、会うなりおひゃくは忠左衛門に心を寄せ、尾張屋を飛び出して忠左衛門の妾となる。そして、忠左衛門が秋田に下ると、同行して、名前は「りつ」、年は19歳という触れ込みで佐竹藩上屋敷の御側女中に登るのである。宝暦2年ごろのことで、おひゃくの実年齢は30歳近くになっていたはず。


当時の京都と秋田では比較にもならないほどの文化格差があった。おひゃくは京都祇園で遊女となるための特訓を受けていたので、田舎殿様の佐竹義真はおひゃくに夢中になってしまったのだろう。もしも、ここでおひゃくが男子を産んでいれば、これが佐竹藩の跡継ぎとなるところであった。

おひゃくの野望はもう一歩で実現するかにみえたが、子供が出来ないままに佐竹義真は病死する。藩内を二分する後継者問題が起き、那珂忠左衛門はこれに敗北する。そして反対派が擁立した佐竹義明が7代当主となり、那珂忠左衛門は切腹、おひゃくは秋田から追放された。その後、江戸に出た彼女は米問屋の高間磯右衛門の妾となって一生を終えたという。

おひゃくの人生を見れば、そんなに凶悪な悪女とも思えない。実はおひゃくを悪女に仕立て上げたのは講談本でした。講談本が自分の野心と欲望のために邪魔になる人間を次々と殺し、ついには佐竹藩乗っ取りを策すという稀代の悪女に仕立て上げたのでした。表の顔は虫も殺さぬなまめかしい美人、裏の顔は「姐妃」と呼ばれる冷酷無慈悲な殺人鬼。講談本がおもしろ、おかしくおひゃくを稀代の悪女に作り上げたのでした。



 「やくざ」という言葉がある。語源辞典によれば、めくりカルタの遊びのなかで「三枚」というのがあって、その中のル-ルに三枚の合計が10または20なると「無得点」になるというのがあって、三枚の組み合わせが「八九三」になると役に立たないことから「やくざ」という言い方になったそうだ。

さて、いざと言う時、女性の方が度胸があるということをよく聞く。か弱いはずの女性が場数を踏み経験を重ねるとそういう風になるのだろうか。あるとき医学の道に進んだ友人が女性は生物として、少なくとも男性よりもはるかに「苦労」をしていると言っていた。もしかして女性の「度胸」は初潮から出産、閉経へという女性特有の生命の流れのなかで逞しくなるのかも知れない。でも、いわゆるヤクザの「女親分」はあまり聞いたことがない。

江戸の初期の幡随院(ばんずいん)長兵衛という人は、「やくざ」の大親分で水野十郎左衛門を頭とする旗本たちと争って殺される。長兵衛は就職口を世話する「口入れ」を稼業にしていたが、とても「八九三」とは思えない。当てはまる言葉を探せば「侠客(おとこだて)」だろうか。

江戸中期の講釈師であった馬場文耕(ぶんこう)という人は巷の雑学者でもあった。文耕は講談のなかで、美濃・郡上金森(ぐじょうかなもり)家の騒動を実録風に仕立てて講釈し幕府の忌諱(きい)に触れ、処刑された。その文耕の「当世武野(ぶや)俗談」という本には江戸市中のゴシップ事が記録されている。

歴史夜話93
江戸は宝暦のころ、本所入江町の鐘撞堂のそばに、道源小僧吉五郎という男が住んでいた。本所では知らない者がないほどの顔役だった。入江町には岡場所があり、大いに繁盛していた。両側に女郎屋が並んだ路地は四十一におよび、女郎の人数は千三百人を越えた。岡場所で喧嘩などのもめごとがあっても、吉五郎が乗り出すとすぐにおさまった。

なにかもめごとがおきるたび、女郎屋も、「吉五郎さん、お願いしますよ」と、頼りにするようになる。いつしか、吉五郎が岡場所を仕切るようになり、女郎ひとりにつき四文ずつ徴収した。千三百余人から毎日四文ずつ取り立てるのだから、ふところにはいる金は莫大である。たちまち、吉五郎は大金持ちになった。

ところが、そののさばりぶりは目に余るとして、吉五郎は町奉行所に召し捕られ、鈴が森の刑場で獄門の刑に処せられた。首を切られ、その首は獄門台に晒された。

吉五郎の女房のおよしは、夫に勝るとも劣らない女傑だった。夜中、ひとりで鈴が森の刑場まで歩いていった。そこで刑場で首の番をしている男に会い、「これで、目をつぶっていておくれ」と、かなりの金を渡した。番人は金を受け取り、見て見ぬふりをする。およしは獄門台にのっている夫の首を取りあげ、風呂敷に包むや、たったひとりで本所まで戻ってきた。

その後、本所の本仏寺に首を葬り、大金を出して多数の僧侶を集め、盛大な法要をおこなった。人々はおよしの豪胆に驚嘆した。以来、およしが吉五郎の跡目を継ぎ、道源およしと名乗った。本所では知らないものがないほどの女親分だという。跡目を継いだとき年齢は三十四、五歳で、容貌は十人並みだったとか。  


   気象学者によると江戸時代の日本は気温が低い時期に当たっていたと分析している。主食の稲は熱帯起源の植物なので低温になると冷害が起こり凶作や飢饉を生じた。冷害が発生すると東北地方の被害は最も深刻で、冷害が続くと、間違いなく凶作となりたちまち飢饉になった。今でこそ米の品種改良などで一大収穫地となっているが、東北地方は、その頃は決定的に食えない地域であったのだ。

江戸時代の日本は、そうした犠牲者を数多く出した経験を何度もしている。大飢饉は江戸時代だけでも6回もあり、そのうち亨保、天明、天保と呼ばれるものは江戸の三大飢饉とまで呼ばれ、全国的な規模で各地に甚大な被害をもたらした。

今般話題のTPPは食料を自由市場原理に基づいて海外の生産地に委ねるというシナリオになっているが、これは歴史的に見ればリスクの増大以外のなにものでもない。

歴史夜話92
1782年(天明2年)から約8年間凶作が続いた天明の大飢饉は、有史以来の大量死を記録した悲惨な飢饉である。長期間にわたって全国で天候の不順や天変地異が続いた天明間は、天変地異の時代とも言われ、人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどだった。特に東北地方では、やませ(冷たい風)による冷害で壊滅的被害を受けおびただしい餓死者を出した。1783年(天明3年)3月に岩木山が噴火し、7月には浅間山が大爆発を起こし、火砕流によって、ふもとにあった村を焼き尽くし多くの人々が犠牲になった。浅間山の噴火は3か月間続き噴煙は成層圏まで達し、東北地方の冷害に追い討ちをかけ大凶作に拍車をかけたのである。

 江戸でも異常気候の大風のため大火災が続発し、1786年(天明6年)3月には箱根山が噴火し地震が相次いだ。4月になると長雨と冷気によって稲作に悪影響を及ぼした。7月には大洪水が起こり家々を押し流し、あたり一面海のように変わり果てた。水害は、江戸だけでなく関八州に及ぶほどの広範で、あらゆる河川が氾濫したとある。

この現象は全国的規模で起こり、各地の田畑に大被害を与えたのであった。天明6年の日本国中の米の収穫は、例年の1/4以下と言われ、米価が数十倍にまで跳ね上がった。この飢饉の様子を記録した「後見草(のちみぐさ)」によると、津軽地方が特にひどく、日々2千人前後の流民が発生し、他領に逃散していった。しかしそこでも一飯もない状態ですべて餓死に追い込まれた。ここでは、先に死んだ人間の屍体から肉を切り取って食べる者もあらわれ、人肉を犬の肉と称して売る者もいたという。 田畑は荒れ果て原野のようになり、そこら
中、腐乱した白骨死体が道ばたに積み上げられる惨状であったという。

この有り様について、「後見草」では、戦国時代に限り無く続いた戦での死者と言えども、このたびの飢饉の餓死者に比べたら大海の一滴に過ぎないと評している。ある説では200万以上の人間が、この飢饉によって餓死したとも述べられており、戦乱や他の自然災害を含めても、有史以来の未曾有の大量死であったと考えられている。

秋田県立博物館にある「不納別帳によれば、1784年(天明4年)の下仙道村(現、秋田県羽後町)では、凶作のため、年貢を納めることができない農家が全村の4分の1を占めた。中でも天保4年は、田植え後に低温が続き、いつもなら草取り作業は暑さのためつらい作業となるのだが、何と寒さのため綿入れを着て作業を行い、作業の合間には、ワラを燃やして暖をとらないと手がかじかんで作業ができなかったという。そして稲の開花期には低温のうえに暴風が続き、稲刈りの時期に雪がちらつくき、例年より積雪期も早く訪れるなど、まさに異常気象であった。当時の農民は、その約半数が5月以降になると自家飯米もなくなり、この秋の収穫も良くても半作、被害の大きい地域は収穫皆無であった。

「天明卯辰簗(てんめいうたてやな)」という飢饉の様子を記録した書には、飢餓下における人間の身の毛もよだつ恐ろしい話が残こされている。
「・・・この頃になると、人を殺して食うことも珍しくなくなった。村人の一人が墓を掘り起こして人肉を食べたのがきっかけで、ついには人肉を得るための殺人があちこちで起こっている。ある一家が、人を殺して食べたという罪で処刑されたが、この家を捜索してみると恐怖の真実が明らかとなった。大量の骸骨が散らばり、桶には塩づけにした人肉が山盛り保存されていたのである。人肉は焼き肉や干物にもされていた。首だけでも38個も見つかったのだ・・・」このような話が実話であると言うこと自体信じられないことだが、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図を見るようである。

こうしたなか、江戸では天明7年1月になると米価はますます高騰し、従来百俵五両前後であった米価が五十両となった。そして5月になるとさらに高騰し、百三、四十両にもなった。数ヶ月の間に30倍に値上がりした。この高騰は米不足はもちろんだが、一部の商人がまだまだ値があがると見て、米を売り惜しんだことが原因のひとつだった。

こうなると、ついに、徒党を組んだ人々が米屋に押しかけ、建物を打ちこわした。あちこちで百人、二百人が徒党を組み、鬨の声をあげて米屋に押しかけ、滅茶苦茶に打ちこわした。その後は、米屋にかぎらず、めぼしい商家に押しかけては、略奪をおこなった。

当時、北町奉行は曲淵甲斐守、南町奉行は山村信濃守だった。江戸のあちこちで打ちこわしがおきているのを知り、曲淵と山村はそれぞれ大勢の部下を引き連れて市内の視察に向かった。西河岸町のあたりまで来たところ、五百人近い人数が瓦などを積みあげて道を封鎖していた。そして、ふたりの奉行に向かい、「いつものときこそお奉行さまは恐ろしいが、いまとなっては、もう、なにも怖くねえや。これ以上近づくと、ぶち殺すぞ」と、人々が口々にののしる。その勢いに恐れをなし、曲淵と山村はすごすごとその場から引き返したという。

大地震や大津波は自然災害だと言われるが、現代でも「備え」が重要だと繰り返し耳にする。憲法改正の必要性のひとつとして、危機管理として強権による治安維持の実施が検討されている。国民の食料の安定的確保は国家の存続基盤のひとつであることは間違いない。日本の農業を守って食料自給率を確保することこそ、危機管理であることを安倍政権は理解すべきだ。



     よく時代物の映画やドラマで大岡越前守忠相が登場して、極悪非道の罪人に対し、「市中引き回しの上、獄門に処す」と言い渡す場面があり、これでドラマは一件落着として終結に向かいます。市中といえば当然江戸の町なかですが、どこを引き回されたのでしょうか。

江戸時代の死刑とは、どんな犯罪に該当するのでしょうか? また死刑の方法はどういうものだったのでしょうか?

歴史夜話91
江戸時代の刑は初期のうちは、お目付の裁量に任されていましたが、1747年(寛保2年)にそれまでの法律が整理され「公事方御定書」が制定され、それ以降はこれに基づき裁判は行われました。しかし、「公事方御定書」という法典を持つのは町・勘定・寺社の三奉行のみで内容は秘密にされていました。「犯罪を犯せばどのような刑罰に処せられるかわからない」というある意味、恐怖心を煽り犯罪を抑制する秘密主義を採っていたのです。ただ、誰かが意図的に漏らすことで犯罪の抑止効果を狙ったりしました。たとえば「十両盗めば死刑」などは案外世間に知られていました。

ただし、死罪や遠島など重罪判決は老中の裁可が必要でした。老中は各司法機関が出そうとする重罪判決が妥当か評定所で公事方御定書を持つ三奉行に審議させ、老中がその意見を元に裁可し将軍が容認することになっていました。重罪人を裁くために形式的とはいえ政権トップの老中や将軍まで関わっていました。

そして、各司法機関はそれぞれ独自の権限のみで判決が出せる刑の範囲が決められていました(専決権)。専決権を越える刑の判決を出すには町奉行所は老中、京都町奉行所は京都所司代、代官は勘定奉行など各役職の上級司法機関に伺いを出し、承認を受けることになっていました。

特筆すべきは、理由は不明ですが、町奉行所では女性には刑を一等減ずる慣習があり、よほどの重罪でなければ女性に死刑判決が下ることはありませんでした。ちなみに武士に切腹が許されるのは「武士は自身の罪を自らが裁くという自裁ができる能力がある唯一の身分」という理由です。他の身分の者は「自裁できないから御上の手を煩わせて裁いてもらう」というのが基本的な考え方でした。

江戸時代の死刑の種類
鋸挽(のこびき)・・・主殺しなど重罪に適用される極刑。市中引き回しの上、首だけ箱の上に出し埋められ二日間生きたまま晒し者にされ、千住小塚原か深川鈴ガ森の刑場で磔にされる。 見物人に鋸挽きの真似事をさ
せたが本当に行った者がいた。それ以降は横に血の付いた鋸を添える。鋸挽きでは処刑はしない。

磔(はりつけ)・・・・刑場で刑木に磔にされ、突き手が槍や鉾で数十回突き刺す。死後三日間晒される。

獄門(ごくもん)・・・・牢内で処刑後、刑場で罪名を書いた木札とともに首を三日二夜、台木の上に晒す。木札は首が捨てられた後も三十日間晒された。

火罪・・・・放火犯に適用される。馬で市中引き回しの後、刑場で刑木に磔にされ火あぶりで処刑される。火あぶりにする前に絶命させていた説もある。死後三日間晒される。

死罪(しざい)・・・・牢内で斬首され、様物(ためしもの)にされる。財産を没収される闕所が付加刑に付く。

下手人・・・・過失致死や喧嘩など故意ではない殺人に適用される。死刑の中では最も軽い刑。牢内で処刑される。死骸は家族に下げ渡され様物(ためしもの)にされない。ドラマなどでは犯人のことを下手人と呼んでいるが、「死罪になるべき悪人」という意味合い。

切腹(せっぷく)・・・・武士は体面を重んじ自分の罪を認め自らが裁くという意味で切腹が許されている。武士としての尊厳を保ったものである。 公事方御定書には「切腹」は未記載のため厳密に
言えば刑罰ではない。本人が罪を認めていない場合や政治的事件を終息させるため責任をとらせる形で無理やり切腹させることがあるため事実上刑罰に近い性格を持つ。

斬首(ざんしゅ)・・・・武士のみ適用。様物(ためしもの)にされない。刑場で行われ徒目付か小人目付が検視をする。様物(ためしもの)とは、処刑後の遺体を刀の試し切りや研究材料に供することです。

さて、江戸時代、どのような犯罪を犯すと死刑になったのでしょうか?
(1)殺人
①尊属殺人は「市中引廻しの上磔 」
②卑属殺人(子供殺しなど)は「死罪あるいは遠島 」
③主殺し(自分の主人あるいは上司、目上)は「鋸引きの上磔 」
④地主、名主殺しは「市中引廻しの上獄門 」
⑤辻斬りは「引廻しの上死罪」
⑥嘱託殺人は「下手人」
⑦一般的殺人は「下手人」
⑧過失致死(自分の過ちが原因は「死罪~遠島」
ただし、殺人でも罪にならないものがあった。
・武家の主人が死刑判決を下した場合。主人には家来・奉公人の生殺与奪権があり屋敷内で彼らが犯罪を起こせば主人に裁く権限があった。
・武士が主人の命で家中のものを処刑する上意討ち。
・武士が非礼をはたらいた庶民を手打ち。 ただし、非礼を証明できる第三者の存在があり、かつその場で行った場合に限る。後から手打ちすることはできない。
・敵討ちにより敵を討つ。仇討ちは届けが必要。
・武芸の試合と果し合い。
・犯罪者捕縛時に犯人が抵抗しやむなく斬り捨てた場合。
・戦闘や死刑執行など職務行為によるもの。
・姦通罪の規定に基づき夫が姦通した妻と間男を殺害、姦通目的で不法侵入してきた間男を殺害すること

(2)傷害
①親への傷害は「磔か死罪」
②主への傷害は「晒し又は市中引廻しの上磔、死罪」
③尊属への傷害は「死罪」
④師匠への傷害は「死罪 」
一般的に相手に後遺症が残るほどの傷害を負わせた場合は「中追放か遠島」だった。

(3)犯罪
〇強盗殺人は「市中引廻しの上獄門」
〇追はぎは「獄門か死罪」
〇強盗傷害は「死罪 」
〇十両以上の窃盗は「死罪」
〇放火は「馬で市中引廻しの上火罪」
〇依頼放火は「市中引廻しの上死罪」
〇普通の詐欺は「窃盗と同じ扱い」
〇官名詐称は「死罪」
〇文章・貨幣偽造は「引廻しの上獄門」
〇秤・枡の偽造は「引廻しの上獄門」
〇依託品取逃がしは「死罪」
〇偽薬販売(毒物)は「引廻しの上死罪」
〇印章偽造による詐欺は「引廻しの上獄門 」
〇飛脚が現金輸送中に客の金を横領すると「死罪」
〇普通の姦通(いわゆる不倫)は「両者死罪」
〇主人の妻との姦通は「獄門」
〇有夫の女を強姦すると「死罪」     
〇複数で強姦すると「獄門か重追放」     
〇親族(近親)との和姦は「獄門か遠国非人手下」
〇僧侶の姦通は「獄門」     
〇一般の誘拐は「死罪」
〇関所を通らず脇道に行く(関所破り)は「磔 」
〇贈収賄は額により「双方軽追放から獄門」
儒教の考え方でしたから性犯罪も厳しい取り決めがありました。姦通とは、配偶者があるものが他人と性交渉をもつことで、現代風に言うと不倫に当たるものです。姦通の場合は両方が死刑になりました。ただし、遊郭はあくまでも娯楽と捉えられ、お金を払って遊ぶ分には罪には問われなかったのです。また独身どうしの場合は強姦でないかぎり死罪にはなりませんでした。いずれにせよ確たる浮気の証拠がないことが多いので奉行所は「内済」という示談をさせることが多かったようです。

「市中引き回し」はこれでひとつの刑罰ですが、死罪以上の罪になった者のなかで極悪者を対象に付け加えられました。罪人は、日本橋の小伝馬町牢屋敷に収容されているので、ここが出発点になります。罪人は馬に乗せられ罪状と氏名を書いた札とともに刑場まで連行されました。引き回しのコ-スは、死罪となって牢屋敷で斬首されるような場合は、小伝馬町牢屋敷を出て江戸城を一周りして元に戻るコ-スでした。もう一つの磔や獄門のような場合は、小伝馬町牢屋敷を出て江戸城まわりの四ヶ所の御門を通って小塚原や鈴ヶ森の刑場まで行くコ-スです。いずれも距離にして20キロから30キロはあるので一日がかりでした。



 「異人」という言葉は昭和中頃までは普通に使われていた。なにせ、背が高くて鼻が高くて髪の色が違う。日本人の標準からみて白人は「異人」そのものだった。江戸末期、日本は鎖国政策をすてて開国した。通商条約が結ばれると各国の公使館ができて、日本人が白人に遭遇する機会が増えた。

歴史夜話90
1858年(安政5年)幕府はアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと通商条約を結んだ。これにともない、江戸の高輪や麻布に各国の公使館ができた。

江戸の千駄木に大きな醤油醸造元があった。隠居は六十代の初めくらいだったが、芝居街や色町ではちょっとした有名人だった。隠居の趣味は、人がいやがるのを見て喜ぶことだった。出かけるときは、いつも引戸の古駕籠に乗る。白麻の細布を駕籠につけ、樒を一本挿して、さも寺の迎い駕籠と見せかけて、茶屋や料理屋に乗りつけた。茶屋や料理屋の女たちがゲンが悪いと顔をしかめ、いやがるのを見て、ひとり悦に入っていた。

そのころ、各国公使館の外交官たちが王子村や浅草観音あたりに馬で遠乗りに出かけ、評判になっているのを知って、隠居は一計を案じた。偉人さんに変装して驚かせてやろう。トウモロコシの毛でヒゲをこしらえ、顔をおおった。更紗のこはぜ掛けの筒袖の胴服を着込み、白い麻の股引をはいて、洋服のようにした。頭には鼠色の頭巾をかぶり、帽子をよそおった。

夜がふけてから、隠居は吉原を冷やかして歩いた。昼間ならともかく、薄暗いなかでは本物の異人に見える。張見世の格子の前に立つと、遊女たちが、案の定「異人だ。異人だ」と、大騒ぎをする。吉原をそぞろ歩きしていた男たちも、「異人だ、異人だ」と、ささやきながら、ぞろぞろとあとをついてくる。隠居はおかしくて仕方がない。

ところがあまりに騒ぎが大きくなったため、吉原会所の番人などが駆けつけてきた。みなで引き立て、調べると、異人どころか、醤油屋の隠居であることがわかった。

吉原は町奉行所の支配下にあり、面番所という出張所があって、同心が常駐していた。吉原会所も初めての事態であり、隠居の処分に困った。そこで、面番所にうかがいを立てた。「あまりに、たわけたことである。我らは聞かなかったことにする。そのほうらで、適当に処置せよ」というのが、面番所の同心の答えだった。けっきょく隠居は放免されたが、各方面にお詫びとしてかなりの礼金を払う羽目になったとさ。


 我が苦境を救ったならば我が姫をやろうという約束をして、それを叶えた忠犬に姫を与えたという物語は有名だが、大坂の陣の終焉、大坂城落城の際、豊臣秀頼の正室となった孫娘・千姫のことを想い、家康は兜を脱いで「千姫を助けた者には、姫を嫁に与える!大名にもしてやる!」と言ったという。

歴史夜話89
これを受けた石見津和野藩主・坂崎出羽守直盛が燃え盛る大坂城へ突入し、山姥の槍を振るって奮戦、見事千姫を救い出した。その際、顔に火傷を負い、醜い面相になってしまったという。

さて、その後、約束通り千姫を嫁に貰おうと徳川家に申し入れた坂崎であったが、千姫は、醜い面相の坂崎を嫌ったため、祖父・家康も言を左右し、なかなか話がまとまらなかった。そして、当の約束の本人である家康が死んでしまった。後を継いだ秀忠は、千姫を譜代の名門、伊勢桑名城主本多忠政の嫡男・忠刻の元へ嫁がせることに決めてしまった。

怒りに狂った坂崎は家康との約束を盾に猛抗議するも、約束の当の本人である家康が亡くなっているため、話が通らない。結果、武士の面目も潰された坂崎は、こうなったら嫁ぐ途中の千姫を強奪しようと挙兵した。

1616年(元和2年)9月10日 直盛は家臣百十数人全員に髪を剃らせ、江戸湯島台の屋敷に立て籠もった。幕府では酒井家次、堀直寄、松平信吉らの諸大名に旗本を加えた1万人規模で坂崎の屋敷を包囲し、説得にかかった。豊臣家が滅亡し、家康が死去した直後の不安定な時期に江戸市中での騒乱はまずいと思われた。

最初は直盛の切腹と引き換えに、弟大膳に跡目を立てさせようと説いたが、意地になっている直盛が聞くはずがない。それではと、家臣を説得して直盛を殺させようとしたが、これは君臣の道に外れるということで取りやめとなった。

そこで最後の説得にあたったのが、将軍家の兵法指南役で直盛とも親交のある柳生宗矩であった。宗矩は単身丸腰で直盛の屋敷を訪れ、最期は直盛の死をもって騒乱は治まった。しかし、直盛は自害したか、殺されたのかはわからない。殺されたとする説も、家臣によって殺されたとするものと、宗矩が斬ったとするものがある。

ただ宗矩が説得し直盛が死を受け入れたことだけは間違いないだろう。その説得もどのようにやったのか、直守と宗矩にしかわからない。宗矩のことだから、意地を貫く直盛の自尊心をくすぐるようなことを、例えば千姫も秀忠も深く詫びているというようなことを言ったのかもしれない。幕府は反逆だとして、直盛の死をもって坂崎家は断絶となった。

直盛は元は宇喜多一族で、宇喜多秀家を補佐した家老的な立場だった。ところが1597年(慶長4年)に宇喜田家に御家騒動が起きる。騒動の原因は、派手好みで豪奢な生活をした秀家とその取巻き長船綱直や中村次郎兵衛の専横に対する、他の重臣の不満のほか、秀家の正室豪姫(前田利家女で秀吉の養女)が切支丹であったために、秀家が家臣に対して切支丹への改宗を迫ったことなどがあったとされる。

もともと秀家は秀吉から可愛がられ、その猶子(契約上の親子関係、擬制的なもので姓も代らないし、相続権もない)となったほどであった。名前の秀家も秀吉から一字を賜ったもので、のちには豊臣一門の扱いを受けた。秀家の派手好きは多分に秀吉の影響であり、家中でも鼻息が荒かったらしい。この騒動で宇喜田家の重臣や一門が宇喜多家を退去した。先代直家の頃からの優秀な人材も多く、このことが宇喜田家の弱体化を招いたのは間違いないが、この退去組の中に直盛もいた。




歴史夜話88
徳川忠長は1606年(慶長11年)二代将軍徳川秀忠を父として生まれた。のち三代将軍となる家光は兄で、家光と忠長は同母の兄弟であった。母は於江与の方で、織田信長の妹で浅井長政に嫁し、長政滅亡の後は柴田勝家に再嫁して勝家とともに越前北庄で死んだお市の方の娘である。

於江与には姉が2人いて、長女が秀吉の側室となり秀頼を産んだ淀殿、次女が京極高次に嫁した初であった。於江与は美しくもあり、また勝気であったが、そんな於江与に秀忠は頭が上がらなかったらしい。秀忠は生まじめで律儀な男であり、於江与に遠慮して側室すら置かなかった。於江与は1604年(慶長9年)に男子を産み、その子は竹千代と名付けられたが、のちの家光である。

竹千代には乳母がつき、もっぱら乳母の下で育てられた。乳母の名はお福、のちに春日局と呼ばれる人物である。お福は信長を本能寺に襲った明智光秀の重臣斉藤利三の娘であった。於江与から見れば母お市の方の兄に謀反を起した人物に連なるわけだから嫌悪感を覚え、お福と於江与は対立していったとする説も根強いが、浅井長政も信長に反逆して滅ぼされているし、長姉の淀殿などは柴田勝家を滅亡させた張本人の秀吉のところに側室として入っている。時代的な感覚からいっても、於江与がお福を本能寺にまで遡って恨んでいたとも思えない。もしそれほど恨んでいたなら、乳母になることを反対すればいいだけだが、そんな形跡もない。

江戸幕府は家康、秀忠と経て、その体制が磐石なものになったのは三代将軍家光のときであったが、その功績は家光によるものではない。家光将軍の能力は並であり、けっして卓抜したものではなかった。家光が実績を残しえたのは、家康と秀忠の治世の余光と、秀忠時代からの有能な重臣がいたためである。

家光の少年時代、まだ竹千代と称していたころは、どちらかというと陰気であったらしい。おっとりしていて無口であったという。 一方、竹千代の弟で国千代と称していた忠長の方は、兄に
比べて才気煥発、明朗闊達であったという。国千代は於江与のもとで育てられ、於江与は国千代を溺愛した。

こうなると問題となるのが秀忠の後継ぎである。竹千代か国千代か、側室も置かない秀忠の正室が国千代を愛しているのである、周囲は敏感になる。この時代はまだ長子相続制は必ずしも確立していなかった。理由はあるにせよ秀忠自身も兄秀康を差し置いて将軍になっている。この時点において国千代が三代将軍になることは、おかしいことではない。

秀忠自身も於江与の影響で、国千代を後継ぎに考えていたらしい。とにかく後継ぎは国千代有利に展開し始めていた。この情勢にお福は起死回生の策に出た。竹千代対国千代というのはお福対於江与の戦いでもあるのだ。2人とも勝気であり、頭もいいし、男勝りの性格だから、意地を張り合って妥協などありえなかった。

お福はまず幕閣の実力者土井利勝を味方にする。利勝こそ幕府の体制固めの功績第一といっていいほどの人物であったから、長幼の序を誤っては世の乱れの基と冷静に判断して、竹千代に軍配を上げる。利勝の後援を得て次にお福は駿府の家康に直訴した。家康の裁定は明確であり、竹千代後継は確定した。1615年(元和元年)10月頃のことというから大坂の陣が終った、家康最晩年のことである。家康の最後の仕事のひとつとなった。

父家康を畏怖する秀忠のこと、於江与がなんと言おうが、この裁定は絶対であった。於江与はがっかりしたろうが、こればかりはどうしようもない。しかし、どちらにしても国千代は将軍の直弟であり、しかるべく処遇はされるから、その処遇をできるだけ有利にするしかない、これは国千代の取り巻き連中も同じで、しかるべく処遇されるはずと思い込んだ。

物心つかないうちから父母に溺愛され甘やかされて、何の苦労もなく育ち、一時は次期将軍かもしれないと噂されて周囲がチヤホヤし、後継競争には破れたとはいえ二代将軍の子であり、三代将軍の弟であるという境遇である。こういう過程で育ったわけだから我がままであり傲慢にならざるをえない。それは必ずしも本人が意識しているわけではなく、本人の責任でもなく、そういう世界観しかもてないのだろう。それを補正して、しかるべき人物にするのが帝王学であり周囲の役目なのだが、国千代の場合は父母の溺愛、偏愛の情が強すぎたから周囲が遠慮してしまったのだろう。ここに国千代の不幸があった。

有名なエピソードがある。国千代8歳のとき、というから1618年(元和4年)の頃になる。江戸城西の丸の堀で国千代が鉄砲で鴨を撃ち落した。於江与は喜んでその鴨を料理させ秀忠に供した。鴨を国千代が射たと聞き最初秀忠は目を細めたが、場所が西の丸とわかると顔色を変えて「自分が大御所からいただき、後に竹千代に譲るべきこの城に鉄砲を向けるとはもってのほかだ」と、荒々しく席を立った。温厚な秀忠にしては珍しいことだった。

1617年(元和3年)信濃小諸10万石を賜ったのを皮切りにして、国千代(忠長)は将軍の弟らしいスピードで出世する。翌元和4年に元服して忠長と名乗り、従四位下左近衛権少将に叙され、甲斐一国を加増された。1623年(元和9年)秀忠は将軍位を家光に譲り西の丸に移って大御所と呼ばれる。このとき同時に忠長は従三位権中納言に進む。
1624年(寛永元年)には駿河、遠江両国を与えられ、55万石の領主となり駿府に居住した。駿府は東海道の要衝であり、家康が隠居城とした特別の地である。駿府は家康没後、家康にお気に入りの子供であった十男頼宣が領していたが、頼宣を紀伊に移して忠長に駿府が与えられたのである。55万石といえば御三家筆頭の尾張家62万石に次ぎ、紀州家と同じ禄高である。

さらに1626年(寛永3年)には従二位権大納言に昇る。それ以後、忠長は「駿河大納言」といわれた。この身分は21歳の青年には申し分ない待遇といっていいだろう。しかし本人には不満であったようだ。駿遠両国加増の際に上使として、それを伝えに来た青山幸成が「おめでたき事」と祝ったのに対し、「将軍の実弟であれば当然のこと、何がめでたい」と言い放ったという。ただ、このときは付家老のひとり鳥居成次が直諌して、忠長を御礼言上に向わせたという。

1626年(寛永3年)7月の家光上洛の際に大井川に舟橋を架けた。見方によっては家光の渡渉の便を図ったと取れなくもないが、無許可でやったのがまずかった。大井川は幕府の防衛線の重大なポイントである。無許可で橋を架けるなどとんでもないことであり、不興をかった。

また駿府では武家屋敷造成のために寺社を郊外に移そうとして、反対されて摩擦を生じた。舟橋の件といい本人は深く考えずに地位をバックにして命じただけかもしれないが、周囲はそうは見ない。家光への挑戦であり、ますます両者は不和となる。この年9月には忠長の最大の庇護者であった於江与が亡くなった。これは家光にとっても忠長に遠慮しなければならなかった最大の障害がなくなったということだが、忠長は気がつかない。

こうして 1630年(寛永7年)以降、忠長の乱 行とされる事件が続く。まず同年11月の浅間神社の猿狩りである。駿河の浅間社は806年(大同元年)平城天皇建立以来800年の歴史を持つが、この一帯には多くの野猿が棲んでいた。この野猿たちは神獣とされていて、神域は殺生禁断の地だった。だから猿が田畑を荒らしてもどうしようもなかったのだが、忠長は浅間山に入って猿狩りを行ったのだ。家臣は諫止したが、「駿河の領主が領国の猿を狩るのに、何の不都合があるのか」と言い切り、1240匹といわれる猿を殺した。

ところがその帰途にわかに神経が狂い、輿の中から担ぎ手の尻を刀で刺した。驚いた担ぎ手が逃げ出すと忠長は「首を討て」と叫び、とうとう担ぎ手を殺してしまったという。また翌1631年(寛永8年)12月には小浜七之助手討の一件が起こる。鷹狩りに出た忠長であったが、天候が急変し雪が舞いだしたので、小さな寺に入って休息した。忠長は七之助に火熾しを命じたが、薪が雪に濡れていてなかなか火がつかない。いらだった忠長が催促すると狼狽した七之助が炉の中に首を突っ込むようにして火を吹こうとした、すると忠長は刀を引き抜いて一太刀で七之助の首を落としたという。

この件は七之助の父である旗本小浜忠隆によって幕府に訴えられた。幕閣では捨て置けずに付家老朝倉宣正を呼び出して責めた。宣正は一身に責めを負い酒井忠行に預けられたが、忠長はこれを聞いて罪は全て自分にあるといい、御三家や千姫、天海僧正などを介して宣正の赦免を願った。この願いは聞き入れられたが、忠長は甲府に蟄居させられた。この頃、大御所秀忠はすでに病身であり、忠長を後見することも出来なかった。

かつて忠長は駿遠両国が与えられたときに秀忠に対して、「百万石か、大坂城をいただきたい」と書面で訴え、これを見た秀忠が忠長を見限ったともいわれている。その秀忠も1632年(寛永9年)正月24日に死去し、家光は完全に天下を握り、忠長を庇うものはひとりもいなくなった。ここから翌1633年(寛永10年)12月6日に忠長が自刃するまでの9ヶ月間の経緯はいろいろ情報が錯綜し明朗さを欠いている。

結論的には、秀忠の死去により家光は忠長処分を誰に遠慮することもなく行ったということで、それはもともと忠長処分ありきということだったのだろう。情報のなかには謀反説もあった。ひとつは付家老朝倉宣正が謀反を進めたとし、または忠長が宣正を嫌い幕閣に専横を訴えたのに対し、宣正が忠長謀反を訴えたというものだ。朝倉宣正は忠長に連座して改易されるが、終始忠長に尽くした家臣だから、陰謀説はまったくの虚説だろう。

陰謀説としてもっともらしいのが土井利勝の陰謀に乗せられたというものだ。秀忠死去の際に利勝はわざと家光との不和を装い、そのことを噂に流した。しばらくして利勝の名で諸大名に対して、「家光を除き忠長を将軍に立てよう」という内容の秘密の廻状が廻った。この書面を受取った各大名は直ちに幕府に届けたが、なかで忠長と加藤忠広だけが届けなかったというものだ。もちろん史実上は、利勝にはそのような事実はない。忠広がこの年6月改易となったのは家政の乱れが原因であり、忠長事件とは無関係であろう。

どちらにしても今や忠長の運命は決まっていた。家光、春日局、利勝など実力者すべてが忠長処分を決めていたのだ。甲府に蟄居していた忠長のもとに内藤伊賀守、牧野内匠頭が上使としてやって来て、「上州高崎の地で心静かに病気保養をさせるべし」と伝える。これは早い話が高崎藩主安藤左京進重長に預けられたということだった。忠長は小姓数名と槍一本、馬一頭で高崎に移った。

間髪を入れず幕府は永井信濃守、北条出羽守を駿府に、青山大蔵少輔、水野監物を甲府に遣して忠長の所領を没収した。付家老鳥居成次、朝倉宣正以下家臣20余名は流罪となった。これが秀忠の死去から9ヶ月間に起きたことである。

1633年(寛永10年)家光は側用人阿部重次を呼び、忠長の切腹を命じた。少年時代の悔しさであろうが、家光の冷酷さであろうか、重次に不首尾のときは刺し違えて死ねとまで厳命したという。重次は高崎に向い、高崎藩主安藤重長に面会して忠長切腹の意向を伝える。重長は、「これほどの大事、口上だけではなく御墨付をいただきたい」と言う。これはたぶん時間稼ぎであっただろう。重次も家光が冷静になって翻意するかもしれないと考えて、江戸に戻り重長の意を伝える。ところが家光は翻意どころか、直ちに一筆認めたという。

安藤重長は雪の日に忠長の居館の周囲に鹿垣を結った。一説には板囲いであったともいう。これを見た忠長は、その日の夕刻、童女2人を残して侍臣たちを下がらせ酒を飲んでいた。そのうち童女ひとりに「酒をもう少し持ってまいれ」と命じ、もう一人には「肴をもってまいれ」と下がらせた。童女2人が戻ったとき、忠長は短刀で頸の半ばを刺し貫いて自害して果てていた。

忠長の死は、まさに家光の執念によると言っていいだろう。忠長には幸いなことに正室にも側室にも子はなかった。遺骸は高崎の大信寺に葬られた。


  応仁の乱が泥沼化すると京都の幕府・朝廷の威令が地方に届かなくなり、公的な官職である守護・地頭が有名無実化してしまう。そして、領国を実力で統治する「戦国大名」と呼ばれる勢力が公然化する。とはいえ、戦国大名の多くは公式の守護・守護代・地頭から戦国大名へと成長した人物が多いのが現実だった。前回86話に登場した北条早雲も、最近では由緒ある家柄の出身ではないかという考証がなされている。

戦国時代を平定した信長や秀吉は低い身分ということで、結果的に室町幕府政権下の有力守護の家々は覇権を唱えることが出来なかった、このことが「戦国時代」が実力勝負だったことの証だろう。

ところで、戦国時代は、いまの現代社会で話題になっている地方分権が成り立っていた時代だと見ることができる。支配地域で力を蓄えたところが他の地域を征服して最終的に全国支配を狙う。現代風に置き換えるとすると有効施策の多い有能な知事さん数人を選び出して、そのなかから国民投票で首相を選ぶような感じだろうか(笑)

さて歴史夜話87は、戦国の梟雄・斎藤道三ということで話を進めよう。

歴史夜話87
斎藤道三は油売りから戦国大名にのし上がった下剋上を象徴する人物である。道三の娘の濃姫(帰蝶)を正室にした織田信長が「美濃の蝮(まむし)」と呼んでその計略と野心を警戒した武将だった。ところで、近年、道三の国盗りの企みは道三一代の事績ではなく、道三の父・長井新左衛門尉との共同作業であった可能性が示唆されています。

道三は子供時代に妙覚寺に出家して油売りの娘と結婚し、買収・計略で守護代の斎藤家を乗っ取って美濃国を統治するようになったというのが通説ですが、道三の下剋上の事績は道三一人のものではなく、父の人生の履歴と混同されたものである可能性がでてきている。

さて、峰丸(道三の幼名)は山城国乙訓郡西岡で、北面の武士の血筋である松波左近将監基宗の子として生まれ、11歳で日蓮宗の京都・妙覚寺に出家させられ法蓮房と称した。その後、妙覚寺を出奔した道三は松波庄五郎と名乗り、油商人の娘と結婚して全国を行商する「山崎屋」となる。

油商人として順調な人生を送っていた道三だったが、1510年頃に妙覚寺時代の知人であった美濃国・常在寺の住持・日運上人の紹介で、美濃国の国人・長井家や守護代・斎藤家と親交を持つようになった。

歴史夜話87 (後半)

油商人として順調な人生を送っていた道三だったが、1510年頃に妙覚寺時代の知人であった美濃国・常在寺の住持・日運上人の紹介で、美濃国の国人・長井家や守護代・斎藤家と親交を持つようになった。


当時、美濃国では守護の土岐氏の家督争いの内紛が激しくなっていた。美濃守護・土岐成頼は、嫡子の土岐政房を廃して四男・土岐元頼に家督を継がせようとし、この兄弟間の家督相続争いが1495年の船田合戦へと発展した。船田合戦では、土岐政房側に斎藤利国や尾張の織田氏、北近江の京極氏、越前の朝倉氏が味方したので、土岐元頼側について戦った斎藤家の重臣・石丸利光は元頼と共に自害に追い込まれた。

船田合戦で勝利して美濃国の有力者となった斎藤利国・斎藤利親の親子は、1496年に京極政高の要請で、石丸利光に味方した近江の六角高頼の討伐に参加しますが、その帰りになんと郷民・馬借の土一揆にあって命を落としてしまう。

美濃国では、土岐政房から土岐政頼へと守護職が移りますが、政頼は斎藤道三と結んだ弟・土岐頼芸(よりなり,)に家督争いで敗れてしまう。この頃、松波庄五郎と名乗っていた道三は、1536年に長井家を掌握して長井新九郎利政と名乗り、1538年には守護代・斎藤利良が死去するとその翌年に斎藤家をのっとって斎藤左近大夫利政と名乗っていた。

こうして美濃守護・土岐頼芸を擁立して政権の中心人物となった斎藤道三は、頼芸の子を毒殺するなどの謀略を張り巡らし、遂に1542年に主君の頼芸を攻撃して敗走させる。1548年には対立関係にあった尾張の織田信秀と和解して、信秀の子・織田信長に娘の濃姫(帰蝶)を嫁がせた。そして鷺山城に隠居し「道三」を名乗るようになった。

道三は嫡子の斎藤義龍に家督と稲葉山城を譲って隠居したが、その後、義龍を廃して義龍の弟・孫四郎を立てようとしたことから道三と義龍の対立が激化してくる。義龍は弟を殺害して父の道三と戦争をすることになり、1556年の長良河畔の戦いで道三を討ち滅ぼした。しかし、美濃国の支配者になった斎藤義龍は1561年に35歳の若さで病死した。義龍の後を継いだ斎藤龍興(たつおき,)も1567年に織田信長に敗れて稲葉山城を去ることになる(稲葉山城の戦い)。

龍興は伊勢長島へと落ち延び、一向一揆などと協調しながら粘り強く信長に対する抵抗を続けるが、1573年(天正元年)8月に朝倉義景と同盟して織田信長と戦って討ち死にした。斎藤道三が下剋上の果てに掴み取った美濃国主としての栄華も、「長井新左衛門尉・道三・義龍・龍興」の四代であっけなく終焉となった。道三は戦国時代を語るときなくてはならない役者だろう。 




  足利8代将軍義政は、妻の日野富子との間に子供ができなかったことや政事よりも文芸ごとに熱を入れようと、弟ですでに出家していた足利義視を還俗させて将軍位を譲ろうとした。ところが、そのうちに富子との間に息子の足利義尚が誕生してしまった。当然のことながら、日野富子は次の将軍は我が息子と考えた。足利義視のほうは兄義政のもと将軍職を継ぐ気でいた。こうした状況の中、義政は決断を下せずにいた。夫婦、親子、兄弟が絡んだ骨肉の争いになった。

義尚と義視はお互いに有力な味方を得ようと争いになった。そしてその争いが有力守護家内の内部争いを誘発して、都を二分した勢力争いとなった。

足利義政、足利義視側・・・・細川勝元、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、赤松政則、京極氏など
足利義尚側・・・山名宗全、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など

細川勝元は、本陣を京都室町の幕府将軍の屋敷である「花の御所」におき、山名宗全は、花の屋敷よりも西側にある自分の屋敷を本陣としたことから、その位置関係より「東軍」「西軍」と呼ばれていた。

結局、室町幕府の権威は地に落ちる。さらに、地方では守護の家臣である守護代や、地元の国人たちが着実に力をつけ、中には守護を追い出すような例も出てきた。こうして、応仁の乱となり、戦国時代とも呼ばれる騒乱の時代へと突入することになった。

こうした争いなか、全国各地で下校上や成り上がりで国取りをする者が現れる。

北条早雲は超有名な成り上がり戦国大名ですが、国取りの最初は「伊豆討入り」という物語から始まった。

歴史夜話86
戦国の幕開けといえば北条早雲! 北条早雲は、一介の素浪人から、一躍関東を制覇する一大大名にのし上がった国盗りの盟主だ。そして、その国盗りには、いつも巧妙な謀計が用いられた。その手始めが1491年(延徳3年)からの「伊豆の横領」だろう。

当時、伊豆で最大の勢力を誇っていたのは堀越公方であった。堀越公方というのは、本来は鎌倉府のトップとして鎌倉公方になるべく、将軍足利義政の弟の政知が関東に下ってきたのだが、鎌倉に入ることができず、手前の伊豆の堀越(現在の静岡県田方郡韮山町)に居を定めたため、まわりから堀越公方の名でよばれていた。

初代堀越公方足利政知には3人の男子がいた。長男が茶々丸(ちゃちゃまる)、二男が潤童子(じゅんどうじ)、三男が清晃(せいこう)である。茶々丸だけが先妻の子で、あと2人は後妻の円満院の子だった。円満院はわが子潤童子を後継にしたいため、先妻の子茶々丸をささいな罪で牢に入れてしまう。

1491年(延徳3年)4月、足利政知が病死したとき、そのどさくさにまぎれ、茶々丸が牢から脱出し、円満院と潤童子を殺し、自分が二代目堀越公方になることを宣言した。ところが、茶々丸と先代の堀越公方の重臣たちとの間はしっくりいっていなかった。早雲はそのあたりの情報をつかんだ。「北條五代記」によると早雲自ら老人になりすまし、修善寺の湯につかりながら、伊豆の情報収集をしたというのである。そして、こうして得た情報から、早雲は堀越公方の内紛を知る。

1493年(明応2年)興国寺城で作戦を練り、今川氏親、さらに葛山氏からも兵を借り、500ほどの兵で堀越御所を夜襲した。茶々丸はそこで討たれたとも、近くの守山に逃れ、そこで自刃したとも、さらには落ちのびたともいわれる。しかし、その時点で堀越公方の政治生命が絶たれたことはまちがいない。

伊豆を討ち取った早雲は、伊豆の国中に「風病」が蔓延しているのをみて、薬を取りよせて治療させたり、年貢をそれまでの五公五民から四公六民に軽減した。つまり民に目を配るということをやってのけた。「民政」に意を用いたことで領地は治まり、堀越御所の近くに新たに城を築き、そこを居城として移った。これが韮山城である。実に鮮やかな国盗りだった。

早雲の前半生は謎に包まれているが、若い頃は伊勢新九郎盛時と称し、35歳の時に6人の浪人仲間と東国へ武者修行に出かけた。旅立ちの時、この仲間は神水を飲み交わし「もしも将来この中の一人が大名になった暁には他の6人は家来になって助け、主君となった者も6人を取り立てる」と誓い合ったといわれている。

早雲の出世のきっかけは、姉の嫁ぎ先であった今川家中の内紛を平定させたことだった。この功績により、早雲は富士群下方荘十三郷と興国寺城を得る。浪人仲間は約束通り、早雲のもとに集結し、御家老衆となった。仲間の力を得て、ここから早雲の国盗りの野望は燃え盛っていく。

その最初が伊豆だった。まず湯治という触れ込みで修善寺温泉に逗留し、そこに伊豆の木こり達を呼んでは話を聞き、伊豆四郡の地理から内情まで、つぶさに調べ上げていった。

堀越公方を攻め滅ぼしたあとは伊豆周辺の伊東氏の婿・狩野介をはじめ、名の聞こえた武士を次々に攻め落とした。最後に関戸播磨守・吉信の深根(下田市)の居城を打ち破った時は、城に籠った者は、女、子供、法師に至るまですべて首を刎ね、その首を城の周りにかけさせた。その徹底したやり方に領民は震え上がったことはいうまでもない。


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