今よりも 幸せな時があった

台風が北上するとき 進路の東側は暑くなるという記述を目にしました

なるほど夏のような暑さが戻った嵐のあとの翌日は 再びカレンダー通りの秋の風を余計に冷たく感じ 冬用のベストを引っ張り出して 小雨降る中をガーデニングフェアへ行ってきました

目ぼしいものは見つからず 手ぶらは淋しいので 指先ほどの虫篭を吊り下げた食虫植物の苗を二つ持ち帰りました

DSCN2959.jpg


うっかり水切れを繰り返し なかなか住み着かなかった斑入りテリハノブドウも ようやく我が家の定番の植物となり 初めて特徴のある色をした二個の実をつけました

DSCN2952.jpg


香りで季節を告げる花で 金木犀も その一つ
ハッピーマンデーという祝日の改定があった以前に 10月10日の体育の日の前後が 私なりに金木犀が咲く目安となっていました

体育の日 イコール 金木犀 に纏わる思い出を脳裏に蘇らせながら 強い香りは好まない私の家に シンボリツリーとして植えたヤマボウシの落ち葉を掃き集めていると 前の歩道を自転車で通り行くご夫人と目が合いました
知り合いではなく自然と視線は反れて 車輪の回転を変えることなく過ぎ去った その方が 交差点でUターンし こちらへ戻ってくる気配
他人事ながら どうされたのかなと言う疑問も含みつ そのお姿を視界に受け入れていると 我が家の方向を見上げて

「実が生るんですねぇ ・・・」


今年もオリーブが色付き始めました 

ご近所ではないらしく ここで毎年 オリーブの実が生るのを目にされたのは初めてのようで ここのところ急に色付きが増えたタワワな枝を見つけては感慨深そうな様子に なにか引っかるものがあったのでしたが 
案の定
オリーブの実への思いがあるそうで お店の人に薦められるまま 異種2本を植えたとのこと

まだ苗なんですよ
今年の春に植えたばかりなんです

この木も 苗だったんですよ
こちらの木は私の背くらいで 3年目には花がいっぱい咲くようになり 最初は実が付いても落ちることが多いですが つい こないだのことのようですから

すぐですよ ・・・

すぐ とは言っても 現実には 春 夏 秋 冬 を 10たび通り越してきました

私よりも 少し年配と思われる奥様に 一日も早く 実の生る日が訪れますように ・・・
色付いたオリーブの実は いつもなら自分本位の私をも 他人様の幸せを願う私に変えてしまいます

食虫植物のブースでのできごと
テリハノブドウを育てた苦労話
体育の日のころに咲く金木犀の思い出 

語りたいことは山ほどあったのだけれど
通りすがりの方が さらに輪をかけた オリーブの実が生る家で暮らす私の幸せは 食虫植物 テリハノブドウ 金木犀  それらの全てを越えてしまいました

オリーブのある家で暮らしたい という私の夢を叶えようと 苗を求めに旅した小豆島
2004年の春 それは 人生に不幸と言う文字すら存在しないと思うほど 私が幸せに満ちたときでした



スポンサーサイト

<< 種を食べる  TopPage  18号に負け 19号に勝ち >>

コメント

麦さん、こんにちは。

麦さんのところには、ほんとに色んな植物がありますね!

わっ、オリ-ブの実が熟してきましたか~♪

うちにもいただきもののオリ-ブがありますが
まだ実がなりません。ちっちゃな花が咲きましたので期待しましたが・//www.

実が色づいたら写真を載せてくださいね~♪

2014.10.17   えんてつ   編集

えんてつ さん

えんてつさんの庭には負けますが、たくさんありますよ。
枯らすことも度々ですが、また新しいのが増えていきます(笑)

えんてつさんにはお馴染みの、今年もオリーブ自慢です。
今日も一人、通り掛った紳士が足を止められ、「これほどだと鼻が高いでしょう?」 とのお言葉を頂きました。

まだ実はなりませんか・・・。

写真、撮りましたが、これから出かけますので明日にでも、ご紹介しますね。

2014.10.17   麦   編集

麦さん、こんにちは。
今日は久々の梅雨の晴間です。これからモロコのいる田んぼの草刈りに出かけます。

大楠公の時代は価値観がゆらいで武将たちの心が定まらない時代でした。生き抜くためには強いもにつくということが実践しにくかった時代かな。そんな中で天皇一筋に働いた大楠公は特異な存在だといえるでしょう。

すこし長編になりますが、一応完結篇です。



その昔、名神高速道路の京都と大阪の間に「桜井」というサ-ビスエリアがありました。今は名神の車線拡張で無くなりましたが、この桜井という土地は楠木正成が息子の正行(まさつら)と最後の別れをしたところということで戦前は唱歌として歌われました。

https://www.youtube.com/watch?v=qPcrhHT3Eww  

1333年、鎌倉幕府の重要御家人で源氏の棟梁の血筋にも当たる足利高氏が幕府に叛旗を翻し、またその他の有力な御家人たちが後醍醐天皇の令旨に従ったことで倒幕は大成功を収めました。しかしその後の天皇による親政は武家の満足するところとなりませんでした。

強大な朝敵を前に正成が息子と別れた史蹟桜井駅跡には石碑が建てられ「楠公父子訣別之所」の字は明治の忠臣乃木将軍が書いたものです。


歴史夜話18
 護良親王や後醍醐天皇の令旨による正成らの反幕府の動きを抑えるため鎌倉宰相北条高時は総大将として足利高氏に出陣を命じました。しかし、高時は幕府の命運を託す出陣の大将に対し、妻子を人質に差し出すように命じました。このとき高氏は叛旗の決意で出陣したと伝えられています。なんと京に上る途中にいる御家人たちに幕府に反旗する事に同意を得ながら進軍したのです。そして後醍醐天皇に密使を送り、総大将自ら謀反という前代未聞のクーデターを起こしたのです。

高氏による攻撃で幕府の京の拠点の六波羅探題の壊滅が決定的になると、楠木正成軍を包囲していた千早城攻めの幕府軍までが一斉に各々の郷里に引き上げてしまいました。それは恩賞目当ての寄せ集め軍にとって恩賞の相手がいなくなった今、楠木正成と戦う意味など無くなってしまったのです。

逆に後醍醐天皇についた武者たちもまたそれぞれの思惑がありました。倒幕軍の主力は三勢力で、ひとつは後醍醐天皇軍として錦の旗を中心に戦った山陰の勢力で、中心は千種忠顕(ただあき)でした。ひとつは足利高氏軍で武家の頭領として源氏の旗頭を軸に戦った坂東軍、ひとつは護良親王の令旨をよりどころに戦った赤松円心などの山陽の勢力でした。そのなかで楠木正成軍はどこにも属さない謂わば天皇親衛隊?のような存在でした。

後醍醐天皇の京への還幸にあわせて、全国から倒幕に貢献した有力武士団が、ぞくぞく集まってきました。天皇の最初の政務は武士たちへの恩賞でした。武士たちは朝廷から大恩賞の沙汰が言い渡されることを期待していました。なにしろ北条の領地だけでも全国に膨大なものがあり、それに加えて幕府と命運を供にした有力な御内人達の領土も恩賞の対象だったからです。それは倒幕に貢献した全ての武士団に大判振る舞いしてもまだ余るほどの量だったのです。

しかし現実には倒幕の中心勢力だった武士団への恩賞はほとんどありません。足利高氏、新田義貞、名和長年が2国以上の領土を与えられた恩賞だけが目立つ程度でした。「恩賞は望み通り」という天皇の言葉とはうらはらに、まるで敗北した幕府方への情けのような恩賞になりました。これに反して、鎌倉幕府や北条家の膨大な領地の大半は千種忠顕、護良親王ら貴族や公家たちに分割されました。中には公家のただの女官などといった倒幕とは無縁な者にまで莫大な領地が与えられたりしました。

不満をぶつける先を持たない各地の武士団は、足利高氏の元へ集まりました。高氏に呼応して源氏の旗の元に戦った者達は、高氏に鎌倉へ入って旧幕府の新代としての采配を取り各地に号令するように直訴したのです。この流れは天皇と武士の二重の支配構造の形成という形になりつつありました。後醍醐天皇は、旧公家の政事を復活させましたが、実際各地の勢力は足利高氏の出す報償を実効ある詔勅の如くありがたがって領国に帰り、後醍醐天皇の綸旨はトラブルを避けるための添え状程度の威力しかないとの感覚だったようです。

後醍醐天皇は、そんな実態に必死で逆らい天皇親政を誇示しようと公家一統(公家の団結)をことさら叫びつづけました。都の情勢は一気に暗雲が立ち込めてきました。公家と武士の思惑の違いは地方でも一触即発の状況となり、ついに各地で抑圧された旧北条勢力が次々と立ち上がったのです。その中でも北陸の名越時兼と、諏訪の北条時行の力は強大でした。1335年(建武2年)7月、北条時行は上野国を経て鎌倉に迫り足利軍を打ち破って鎌倉奪還に成功してしまったのです(中先代の乱)。北条時行には、日和見な関東の豪族達がことごとく従い、一気に京都を目指すかに見えました。

しかし、高氏は鎌倉へ出兵し中先代の乱を収拾し、そのまま鎌倉にとどまり、本格的な新しい幕府創設の準備にとりかかりました。このとき関東武士を懐柔させるため、高氏は、新田義貞の上野の領地を無断で中先代の乱の恩賞に利用したのです。これは新田義貞の怒りを買うことになり、鎌倉の足利高氏、京の新田義貞の対立が表面化しました。

両者による対立は、互いに相手の非を天皇に訴える奏状に始まり相手方討伐の綸旨を乞うというものでした。天皇は双方の扱いに苦慮しましたが、鎌倉に幽閉の身であった護良親王を高氏の弟の足利直義が殺害したとの情報がはいると一気に「逆賊足利高氏追討」と決定し新田義貞に追討命令が出されたのです。新田義貞は官軍として足利高氏の待つ鎌倉に向かいました。

官軍との正面衝突を避けたいと計る足利高氏の方策に、甲冑姿で評定の席に出席していた諸将はいずれも納得しませんでした。上杉道勤、細川和氏、佐々木道誉、足利直義らを中心とした強行派により三河方面への出兵が決定しました。そして、ついに両軍は三河国矢矧(やはぎ)川をはさみ激突します。新田軍は常に優勢に戦い、足利直義を大将とする足利軍は徐々に東へと退却してゆくと同時に、途中の足利軍の味方が続々と新田軍に寝返り、側近の佐々木道誉までも寝返るありさまとなりました。

こうした情勢からついに高氏自ら出陣します。高氏は新田義貞本軍と弟の足利直義軍の激戦の行われている箱根峠には向かわず、新田義貞の弟の脇谷義助が少ない軍勢で戦っている竹ノ下へと向かいました。足利高氏軍の総力を挙げて敵の弱い部分に突進する戦法は、高氏が経験であみだした方法で、これで形成は一気に逆転しました。一度敗走を始めると、たとえ錦の御旗の大儀を持った新田義貞軍といえども引くしかありません。勢いで京に攻め上る足利高氏軍に対して、敗走してきた新田義貞軍が市中になだれ込んで、京都は大混乱となります。これを見ていた各地の諸豪も、次々と高氏に応じて朝廷に反旗を翻しました。

あちこちからの高氏に呼応する大軍勢の前に、まだ無傷で健在だった楠木正成軍や名和長年軍が主力となって京都防衛の要である宇治、勢多、山崎にその大半の勢力を集中させ防衛にあたりました。しかし官軍は総くずれとなり、後醍醐天皇もろとも比叡山に敗走しました。じつに足利軍大勝利と思われましたが・・・・

このころ奥州を短期間で統一し、後醍醐親政の危機に、奥州の勢力をひきつれて都に登ってきたのが北畠顕家軍です。北畠顕家は弱冠二十歳にも満たない少年でした。後醍醐天皇のそばに仕える父親の北畠親房の命で奥州を束ねるため、未開の地に入り、苦闘の末に短期間で奥州統一を果たし。そして後醍醐天皇に背いた足利高氏の後を追い京都に向かったのです。

新たな援軍に力を回復した後醍醐天皇の官軍の前に、こんどは足利高氏の敗走が始まります。近江園城寺の戦い、神楽岡の戦い、糺河原(ただすがわら)の戦いと、いずれも高氏軍は撃破され、高氏は兵庫に向かいました。そして1336年(建武3年)2月、楠木正成は兵庫・打出浜(うちでがはま)にて足利高氏を破り、高氏・直義の兄弟は周防の大内軍や長門の厚東軍らに守られながら瀬戸内の海上を九州方面へと敗走しました。

このとき正成はこの勝利を単純に祝えなかったのです。それは敗走する高氏軍に、天皇側を見限って多くの武士が加わっていく光景を見たからです。自軍の武士までが、ここまで高氏を慕っている。天皇親政から人々の心が離反した現実を痛感した正成は、戦場から戻ると後醍醐天皇に対して「どうか高氏と和睦して下さい」と涙ながらに進言します。ところが、公家達は「なぜ勝利した我らが高氏に和睦を求めねばならぬのか。不思議なことを申すものよ」と正成を嘲笑したのです。

1336年(建武3年)4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得た高氏が大軍を率いて東進を開始しました。後醍醐天皇は「湊川(みなとがわ)で新田軍と合流し高氏を討伐せよ」と正成に命じました。「討伐」といっても、今や高氏側の方が数十万の大軍勢、正面からぶつかっては勝てない。正成は「私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めしますゆえ、帝は比叡山に移って頂き、京の都に高氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」と提案する。しかしこの案は「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」という公家たちの意見で却下され、彼が得意とした山中での奇策も公家たちから認められなかったのです。

失意の中、正成は兵庫・湊川に向かって出陣する。正成はそれまで皇軍として数々の戦功を挙げてきましたが、その時ばかりは討死を覚悟し、同行してきた息子正行(まさつら)に「桜井の驛」(現:大阪府三島郡島本町桜井)で「国へ帰れ」と命じます。高氏は数十万の軍勢をもって山陽道を東進してきました、それを数万の朝廷側の軍勢をもって決戦しようとしたのです。

この「桜井の訣別」のあと湊川での決戦では高氏軍数万に対し、正成軍はたったの700騎です。正成は決戦を前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きました。「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」。彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈ったに違いありません。

5月25日、湊川で両軍は激突。海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、陸路の正成に合流できなかったばかりか、配下に足利軍に加わる兵まで現れました。戦力の差は歴然としており即座に勝敗がつくと思われましたが、高氏は正成軍に対し戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移りません。高氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていた節があります。しかし、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、このままでは高氏自軍の損失も増える一方になりました。

高氏はついに一斉攻撃を命じ、6時間後、正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。正成は弟・正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、天皇への忠誠を誓いながら互いに相手の腹を刺していたと伝えられています。享年42歳。

正成の首は一時京都六条河原に晒されましたが、死を惜しんだ高氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられます。高氏側の記録である「梅松論」では、敵将・正成の死を「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と記録しています。


2016.06.18   えんてつ   編集

えんてつ さん

i-7i-1i-7

今年は雨が長続きしませんが、梅雨の合間の貴重な晴れ間ですね。
お忙しい中で、楠木正成の完結編に至る長いお話を、ありがとうございます。


ここにも一人、蛤御門の変の久坂玄瑞を思い出させる、安政の大獄と同様の無念な死を遂げた英雄がいるのですね。
六条河原といえば、石田三成、安国寺恵瓊も、そうでしたね。
一度、訪ねてみたいような、、、やめといたほうが良さそうな、、(笑)
 

楠木正成ということで、歴史夜話(13)話へ戻り、横井小楠について、振り返りました。
尊王、今は、右翼と言われる思想と考えてよろしいでしょうか。

微妙で大切な部分ですから、私の解釈が間違っていたら、ご忠告くださいね。


2016.06.18   麦   編集

麦さん、こんばんは。

きょうは選挙はがきの準備に、草刈りと梅の収穫で一日がばばっと過ぎました。で、いまごろ正気に戻りました(笑)

ダ-ウインがビ-グル号で航海したとき、ガラパゴス諸島のような孤立した地域では、生物は独自の進化をするものだと思いつきました。
人間の思想も外的な刺激が絶たれると独自に醸成されてしまうようです。
江戸時代の鎖国政策は日本ってどんな国なんだということを内向きに深く考えるきっかけになりました。
そして国学といわれる分野が生まれました。
この国学こそが日本の右翼の源流です。

ただし、現代社会のなかで「右」と呼ばれたり自称したりしているものは、単なる政治的詐称であることが多いです。

2016.06.19   えんてつ   編集

えんてつ さん

こんばんは

こちらは、自分のための外出続きで、お疲れさん、、(*´▽`*)
うたたねから目覚めても、正気にもどれず、、、。

ガラケーの言葉を生んだガラパゴス諸島、ですね。
携帯電話の源流は、「右」の源流!

「右」の、単なる政治的詐称。
夜話も届いていますね。
正気に戻って、ゆっくり読ませていただきますね (ノД`)・゜・。

2016.06.20   麦   編集


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

トラックバックURL
http://maririn620.blog.fc2.com/tb.php/57-24b13edb




Copyright ©るりとうわた色の空に. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha.

FC2Ad