るりとうわた色の空に

このブログのリンク&ブックマーク そして書かれた内容の持ち出しは コメント欄を含めて禁止です


なんちゃって歴女のガンバリ


問題六十一

 七たび生まれ変わっても天皇国家に忠誠を尽くすという誓を立て、明治時代に皇居外苑に銅像が建てられた武将とは誰でしょう?

・ 楠正成


問題六十二
 江戸時代後期に世に出た作品で、全編怪談が書かれている本とはなんでしょうか? また作者はだれでしょうか?

・ 雨月物語
・ 上田秋成 


問題六十三
 関ヶ原の決戦は、徳川家康と石田三成との戦いだと言われることがありますが、見方を変えると豊臣家内の内輪もめ?から権力争いへとエスカレ-トしたとの見方もあります。では、豊臣家五大老たちは関ヶ原の合戦では、家康、三成のどちらに付いたでしょうか?

・ 豊臣家五大老は、徳川家康、 前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元 ?
  宇喜多も毛利も三成に付いたけれど消極的。
  

問題六十四
 中国の歴史書によれば、古代日本には卑弥呼という女性がいたという記録があります。では卑弥呼の死後、後継者となった人物は誰でしょうか?

・ 台与


問題六十五
戦国時代後期から江戸初期にかけて、世界の銀の1/3を産出して世界的に知られていた銀山とはどこでしょう? またこの銀山で産出される銀には呼び名がありました、さて何銀と呼ばれていたのでしょう?

・ 石見銀山
・ ソーマ銀


問題六十六
 では、ちょいと横道に外れた問題、余興というかこじつけ(故事付け)です(笑)。
・本能寺の変、明智光秀をそそのかして信長を討たせたのは秀吉だという説は成立する可能性はありますか?

光秀の口を封じるため?中国大返しの早業を思えば、有り得るかと、、、。

・太平洋戦争、開戦の真珠湾攻撃はアメリカは事前に知っていたという説は成立する可能性はありますか?

解りません。

・桶狭間の戦い、信長は刺客を放って今川義元を殺害したという説は成立する可能性はありますか?

そのような説があるのですか?
今川軍の油断の隙と風雨の偶然としか。

・豊臣秀頼、じつは石田三成の子ではないかという説は成立する可能性はありますか?

三成かどうかですが、秀吉の子でない可能性は高いのでは?

・上田攻め、なぜ徳川秀忠は関ヶ原に遅刻するまで上田攻めを続けたのか、秀忠は関ヶ原の戦は行われないと考えていたという説の可能性はありますか?

秀忠は、家康に反抗したかっただけじゃないですか(笑)

と言いますか、この余興のこじつけは難し過ぎです (´_`。)


問題六十七
奈良時代、女帝と姦通したのではないかという伝説がある。妖僧というレッテルをつけて呼ばれることも多い。天皇になれというお告げ(神託)があったということで和気清麻呂が調査をして陰謀を暴いたという。この妖僧とは誰でしょう?

・ 道鏡


問題六十八
 1054年7月4日のこと、地球からおよそ7000光年の彼方で超新星爆発があった。この爆発を日記に記録した人物はだれか? またこの爆発で誕生した星雲とは何か?

・ 藤原定家
・ かに星雲


問題六十九
およそ100年毎に噴火を繰り返し、特に、延暦の大噴火、貞観の大噴火、宝永の大噴火で知られている日本の火山とはどこでしょう?
また、宝永の大噴火の前年に起こった討ち入り事件とはなんでしょう?

・ 富士
・ 元禄赤穂事件


問題七十
昭和20年春、風雲急を告げる戦況から本土決戦が想定されていた、本土決戦の前に時間稼ぎの為に行われた日米間の最後の大きな戦いとは何か? またその戦いでの日本側の司令官はだれか?

・ 沖縄戦
・ 牛島 満


 
スポンサーサイト

<< 困ったアナログ人間  TopPage  種を食べる >>

コメント

こんにちは。

たしかに、よく頑張っていますね~♪ 正解を当てるのももちろん楽しみで大切ですが、自分なりの解釈というのもまた楽しみです。

いつの時代も権力者はときの最高の文化人を手元に置いて、その技を独占しようとしてきました。なので、あいつは何を独占しようとしたのか~!という視点で眺めるのも一興です(笑)。

100問までもうリーチになってきましたね~。


では、答え合わせです。

問題六十一
 正解! 高村光雲作の像。太平洋戦争後にはこの皇居の楠木正成像も戦争責任を取らされそうになったとか(笑)。嫡男の正行(まさつら)との「桜井の別れ」は有名ですよね。
その昔には、名神高速に「桜井パ-キングエリア」がありましたよ。神戸には「湊川神社」があり色んな行事に利用されています。


問題六十二
 正解!  雨月物語は九つの話が書かれている。そのなかで「菊花の約」というのが三島由紀夫のお気に入りだったとか・・・・・(笑) 雨月物語の原点は、中国伝統の白話物語の影響ではないかと言われています。


問題六十三
 およそ正解! 関ヶ原の決戦時は、前田利家は亡くなっていました。利家が生きていたら関ヶ原は無かったという人もいますね。時間をかけて、ゆっくりと、関ヶ原の下地をこしらえた家康はすごいと思います。
  

問題六十四
 正解! 将来、小渕さんが女性宰相になるのではという話題がありましたが、みずからの政治資金のお守も出来ていなかった、というか、していなかったのには驚きです。どこかの兵庫県議が泣きわめいて有名になりましたが、やってることは同じ。政党助成金という税金の一部が小渕さんの支持者に供与されていたとしたら、「犯罪」です。


問題六十五
正解です。 石見銀山は今は観光地になっていますね。


問題六十六
 わっはっは~♪ もしかして・・・・は誰の歴史でも考えさせられる、というか、歴史の教えるところです。もしかしたら、現在定説とされていることも横道に外れた解釈になっている可能性は否定できないしね。そして、もしもあのとき~そうでなければどうなったかもまた、歴史が学問たる所以です。



問題六十七
正解! 道鏡は巨根の持ち主だったという説もある(笑)。重要なのは、宇佐八幡の神託を利用というか大義名分にしようとしたことです。何かを為すに大義名分がないことは致命的な弱点になってしまう。大義名分のためのでっち上げは古来よりの常套手段だというのは歴史の指し示すところです。和気清麻呂が見破ったとされていますが、どういう方法で見破ったのでしょうね、これも不思議です。


問題六十八
 正解!定家は明月記という日記のなかで1054年7月4日の時のことを書いています。20日ほどの間は夜も明るく、昼間もこの星が見えていたとか。その頃は、どんな形だったのか興味ありますね。


問題六十九
正解!富士山の大噴火は、大地震、大津波とセットであることが確認されています。そして、いつ大噴火をしてもおかしくないという人もいます。もし、明日大噴火したとして、あとで大噴火を説明できる異変がいま発生しているのかどうかです。これは病気の発病経過とおなじで、あのときが・・・・そうだったのか・・・・という世界です。う~ん、「元禄赤穂事件」という表現は都会人ですね、田舎者は「赤穂浪士の討入り」です。


問題七十
 正解!
沖縄戦は住民を巻き込んで悲惨そのものです。
沖縄戦での死者についての公式見解では・・・・・
日本人188136人 → 沖縄県人122228人  沖縄県外人65908人
(沖縄県人122228人 → 一般人94000人  軍関係人28228人)
アメリカ軍 →12520人
日本、アメリカ合わせて合計200656人が亡くなりました。

1945年6月23日に沖縄守備隊の最高司令官・日本軍第32軍司令官の牛島満中将と参謀長の長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決しました。この5日前の18日には、アメリカの沖縄上陸軍最高指揮官でアメリカ第10軍司令官のサイモン・バックナ-中将が日本軍の砲撃を受けて戦死しています。

これより先の6月13日に日本海軍の沖縄根拠地隊司令官の大田実中将が自決しましたが、こととき大本営・海軍次官宛に発信された電報では、沖縄戦の内情についての説明の最後に、「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれていたことで知られています。沖縄については、まず一番に本土の国民がお墓参りに行く必要があるでしょう。



では、引き続いて問題です。


 昨今、集団的自衛権容認議論が盛んですが、ひとたび武力を持つとそれをどのように使うのかが政治問題になります。平安時代に朝廷や公家たちの警護や領地の見回りとして武士が誕生したといわれています。しかし、こうした武装集団の誕生はときとして反乱の火種になりかねません。また武装集団としての野望が生れてくることも必定です。そして、ときには武将集団の支配者の座を巡っての争いも起こりました。


問題七十一
 平安時代、関東一円に勢力を張り、常陸国で始まった争いを切り抜け、最終的に関東一円を支配し、みずから「新皇」と名乗った武将は誰か? またこの武将が関東一円を支配した期間はどれぐらいだろうか?
 そして、この武将の起した兵乱を朝廷の命令で平定した武将とは誰か?


問題七十二
桓武天皇が、奥州征服のために征夷大将軍に任命した人物とは誰でしょう? また日本最初に征夷大将軍に任命された人は誰でしょう?


問題七十三
平安時代、国土の増大と軍政改革により朝廷の軍事力は相対的に衰退しました。逆に地方に分権的動きが生じ、日本全体の中央集権的な安全保障を行うことが難しくなりました。
この時代までの日本の軍事組織は何と呼ばれたでしょうか?


問題七十四
平安時代、領土の拡大とともに、地方諸国の政治は中央から離れて国司・郡司・地方の豪族が行う分権的なものへと変化します。そして、ついにはそれも変質して、任官されても地方へは赴任しない者まで現れました。国司に代わって地方を治めた代官はなんと呼ばれたでしょうか?


問題七十五
平安時代後期の人で、京都の男山八幡宮で元服式をあげ八幡太郎と呼ばれ、白河法皇により昇殿を許された武将とは誰でしょう?


問題七十六
弓を引けば天下無双といわれ、京の都では豪の者、暴れ者として、その名を轟かせた武将。身長は2メ-トル以上あり、弓の剛腕のため左の腕が右より10センチ以上長かった。保元の乱の勃発にさいしては、兄の義朝と戦ったが破れ、伊豆に流された。伝説も多く、伊豆から琉球へ渡り王になったという。この武将とはだれでしょう?


問題七十七
朝廷を二分した争いとなり、源為義は子供の義朝によって捕らわれ処刑された。また西暦810年以来執行されていなかった「死刑」の復活は政争に残忍さを付け加えた。さて、この時代にいっきに勢力を拡大した武士勢力とは何でしょう?


問題七十八
戦の途中で、鹿が崖を降りるのをみて、「鹿も四足、馬も四足! 鹿がおりられるところは馬でも降りられるとして行われた戦とは何でしょう?


問題七十九
朝日将軍と呼ばれ、木曾で挙兵した武将が、討ち死にした場所はどこでしょうか?


問題八十
 海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の敵軍もはるか遠くに流されたため、戦に勝利したという伝説がある武将とは誰か? またこの武将が打たれた場所はどこでしょう?

2014.10.22   えんてつ   編集

えんてつ さん

思いのほか、正解が多かったですね。
答えまでの過程が面白くて、時間があるときは楽しんでいます。

問題六十六の正解はないのですね。
秀忠が関が原に遅れたのは、上田城で真田に足止めされたからで、秀忠の意志ではないですよね。

では、明日、次の問題へ!


2014.10.23   麦   編集

歴史問題 回答

えんてつ さん

採点、有難うございました。
あとで纏めるとき解りやすいように、ここに転記しておきますね。
ブログジャックされたからには、最後まで(笑)

次の問題も、どこからでも受け止めます ^^


問題七十一
 正解。平安時代には朝廷の勢力範囲が関東から東北地方へと広がってゆきますが、都より遠くなるに従って統治と治安維持が難しくなるのは仕方がありません。そして朝廷が国司を任命しても任地へは行かずに、受領と呼ばれる国司の代理人が代わりに治めるということが普通になりました。平将門は、関東一円に勢力を張り、常陸国で始まった争いを切り抜け、939年に関東一円を支配し「新皇」と名乗りました。調停はこの異常事態を切り抜けるため、神仏に願をかけるとともの名うての武将を派遣して平定を図りました。
平将門  939年から940年の1年間  
将門の乱を平定した藤原秀郷は「俵の藤太」と呼ばれて、一説には近江の国栗太郡の生まれと言われて、三上山のムカデ退治の伝説で有名なんです。


問題七十二
正解。坂上田村麻呂は、平安初期の武人で、天性の才能に優れ、兵を用いるに神の如くであったと伝えられ、 桓武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三代に仕えた。その忠勲と蝦夷征伐
等のご功績は後世まで高く顕彰され、有史以来およそ匹敵するものはありません。桓武天皇から征夷大将軍に任ぜられたことは、あまりにも有名です。


問題七十三
間違いかな~ 30点。律令制度の中での軍事組織は、「軍団兵士制」という制度で、戸籍に登録された成年男子のなかから朝廷が任命した兵士からなる軍団が派遣されました。しかし、平安時代、国土の増大により地方での朝廷の軍事力は相対的に衰退し、地方の有力豪族に依存する「健児の制」「国衙軍制」となりました。
正解は「軍団兵士制


問題七十四
✖! 正解は「受領」
国司は朝廷から任命されて地方へ赴いて「租庸調」という税を徴収する役目であり、制度の初期は真面目に赴任していた。しかし、領土の拡大で遠地の国司に任命されると拒否する貴族も現れてくるようになる。そうなると下級貴族がその役をこなすようになり「受領」と呼ばれるようになった。任官されながら実際には任国に赴かず名前だけの国司で、給付だけ受けるというずるい国司を「遥任」と言った。遙任はおおむね高級貴族だった。


問題七十五
正解! 京都の男山八幡宮は岩清水八幡とも呼ばれていますね。八幡太郎源義家は源頼朝の直系の先祖であることからそうとう美化されて伝わっている可能性が大きい。でも、武士という階級が公然と公認されたという意味では重要な人物です。比叡山の僧兵に手を焼いた白河法皇に代わって比叡山を睨んでいた人でもあります。


問題七十六
正解!為朝伝説は太平洋沿岸に点在しているようです。特に若武者として九州で大暴れしたので鎮西八郎為朝と呼ばれています(実際は手を焼いた父が九州へ行かせたとか)。保元の乱では、為朝の守る崇徳上皇の御所の門に攻め寄った平清盛も部下を射抜かれて恐れおののいて退散したとか。しかし、兄義朝に敗北し逃亡の途中で近江坂田郡で捕縛された。朝廷ではその武勇を惜しんで、二度と弓が引けないように肘の健を切った上で伊豆に流刑となった。 しかし、流刑のあともまた弓を引いたとか~♪


問題七十七
保元・平治の乱は、天皇と上皇、それぞれの配下の公家、そのまた配下の武士たちが戦いましたが、武士階級では、親兄弟入り乱れての争いとなりました。そして、平家と源氏を代表とする武士階級台頭のきっかけとなりました。答えは、平家と源氏


問題七十八
正解! JR三田駅から神戸電鉄という鉄道が出ていまして神戸方面につながっています。その神戸電鉄沿線には平家と源氏の戦った地名の付いた駅があります。「鵯越」とか「一の谷」とか。就職して初めて乗って神戸へ行ったときに、ええっと思い嬉しくなったことを今でも覚えています。


問題七十九
正解! 木曽義仲は木曽から北陸まわりで京都に攻め上がり平氏を京都から追い落としました。しかし、京の都をうまく占領できずに立ち往生してしまいます。そして義経軍に追捕される運命になります。近江国粟津は今の大津市です。「粟津の晴嵐」といって琵琶湖近江八景のひとつに数えられるところです。義仲が打たれるときには、今井の四郎兼平と主従二騎になってしまいますが、平家物語の名場面として有名です。


問題八十
正解! 「鎌倉」という唱歌の最初に出てきます・・・名将の剣投ぜし古戦場~♪ 
鎌倉幕府を倒すべく鎌倉に攻め上がった新田義貞でしたが、稲村ヶ崎で海に行く手を阻まれてしまいました。燈明寺畷は今の福井県福井市になります。お墓はお堂になっていて「新田塚」と呼ばれています。

2014.10.30   麦   編集

麦さん、こんにちは。

先日、ふたり目の孫娘が生まれましてね。
マリナという名前になったようです(笑)


さて、歴女への関門、いよいよ山場ではないでしょうか~♪

100問完了したらさらいに行きたい気分なんですが・・・・・


問題八十一
武士が台頭してくると、ときにユニ-クというか怪物のような逸話を生む武将がでてくる。いつの時代も英雄の登場や新記録の誕生は人々を興奮させてきた。さて、そのような武士たちの夢というか権威は、「昇殿」でした。今でも皇居での園遊会に呼ばれることは名誉なことになっている。そしてまた武士にとって最高の任務は「朝家の守護」でした。
では、問題です。後世の「今昔物語」「御伽草子」などの読物に妖怪退治の専門家、ヒーロ-として登場するウルトラマンのような武将とは誰でしょう?


問題八十二
源平合戦を描いた平家物語の有名な伝説の場面。
治承・寿永の乱(源平合戦)の屋島の戦いにて負けて追い詰められた平氏方は軍船に女房を乗せて扇の的を掲げ、射落としてみよと源氏へけしかけた。そして、源義経は味方に射落とすように命じた。
このとき、 源義経に命じられ、およそ72m先にある海上の揺れる船の上に掲げられた扇の的を見事射抜き、ときに源平両軍は、歓声を上げて褒め讃えたという伝説の武将とは誰でしょう?


問題八十三
御醍醐天皇の皇子。世が世なら天皇の皇子として何不自由のない生活を送れるはずだったが、時は南北朝時代で皇子が身を置く南朝方は劣勢にあった。皇子は各地を流転し、南朝方の勢力を挽回するべく奮闘、生涯を戦乱の中に身を置くことを余儀なくされた。しかし、状況悪化のなか、それまで皇子に媚びいっていた連中が次々と皇子のそばから離反した。
そうした状況で皇子が謳った和歌がいまに伝わっている・・・・
偽りの 言の葉にのみ ききなれて 人のまことぞ なき世なりける
さて、この皇子とは?


問題八十四
「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」

 出家した人たち、自分は世捨て人だといいながら、それでも悟りとか救いとかいろいろ求めたりしているから本当は世捨て人だとは言えないな、世を捨てられずでも生きなければならない人こそ世を捨てているのだと思う・・・・・さて若くして出家したこの歌の作者は誰でしょう?




問題八十五
紀元前219年、中国は秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団の先導者とは誰でしょう? 彼が行きついたとされる場所はどこでしょう? そして彼の目的は達せられたのでしょうか?


問題八十六
江戸時代、品川の漁民は、徳川家康から将軍家に毎日新鮮な魚を献上することを命じられ ました。そのため、漁民たちはいつでも新鮮な魚を献上できるように、 魚を生かしておく「生簀(いけす)」を考え出しました。そのとき生簀を囲う柵(ひび)として使用した竹笹にあるものが付着していました。この発見をヒントに浅草の弥平という人物が養殖をはじめました。当初、江戸幕府はこれを保護し江戸漁民の独占漁業としました。この海産物とは何でしょう?


問題八十七
源平一の谷の戦いで、副大将として東の前衛基地であった生田の森の守りを固めていた。しかし源氏の激しい攻撃に総崩れになった平家の軍勢は退却を余儀なくされました。そんなときに味方の船に乗り退却しようとしましたが、須磨寺の近くで馬を射られ生け捕りになりました。その後、鎌倉に引き渡されましたが、その器量に源頼朝は感心し厚遇されたと言われている平家の武将とは誰でしょう?


問題八十八
豊臣家の跡継ぎとして秀吉から関白職を譲られて豊臣二世となったが、秀頼誕生後に謀反の疑いをかけられ伏見城から高野山へ追放され、1595年に自刃。妻子一族三十九名は京都三条河原に集められ、そこで処刑された。この人物は誰でしょう? また秀吉とはどういう関係だったのでしょう?


問題八十九
ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

現代にも伝わる名うてのプレイボ-イであり、また超一流の歌人でもあった。享年55歳、当時としては決して短命とはいえませんが、死を自分のこととして捉えることは死の直前までできなかったようです。この「ついに行く」で始まる辞世で有名なこの中世の人物とは誰でしょう?


問題九十
江戸幕末は敵味方とも動乱のなかでさまようという時代でもあった。そのなかでも、みずからを正規の江戸討幕軍と信じながら、行軍途中で偽官軍とされる事件があった。
1868年1月8日に近江国松尾山の金剛輪寺において結成された。隊長は相楽総三で、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主としていた。隊は一番隊、二番隊、三番隊で構成されていた。
部隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら行軍したが、なぜか新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。同年2月部隊は信濃国へ進み、2月6日には中山道と甲州街道の分岐点である下諏訪宿を拠点とし、碓氷峠を占拠して北陸雄藩と江戸の連絡を遮断すること計画した。

しかし、新政府の本体東山道軍は信濃各藩に先方部隊の捕縛の命令を下した。これに及んで、部隊は崩壊した。そして、1868年3月3日、下諏訪宿の外れで隊長の相楽総三ら8名が処刑された。この相楽総三を隊長とする部隊は何と呼ばれていたでしょう?

2014.10.31   えんてつ   編集

えんてつ さん

おじいちゃん、おばあちゃん、孫、、、
別の世界の他人事でしたが、
えんてつさんも、いつの間にか、おじいちゃんの貫録ですね。
あらまあ、なんとも可愛いお名前です ^^
お勉強ができて、美人、間違いなしですよ!

歴史問題にリーチ!
得意の分野が出てこないですね。
ま、歴女を磨くには、得意の分野では面白くないですが。

これから、「秀吉」鑑賞ですので、回答は、また、、、^^;

2014.10.31   麦   編集


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

トラックバックURL
http://maririn620.blog.fc2.com/tb.php/59-a49b3276




Copyright ©るりとうわた色の空に. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha.

FC2Ad