るりとうわた色の空に

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歴史問題も 追い込みです

いよいよ 80台に昇りつめた 歴史問題
一問だけ オマケがありましたが 他は難題が予想された割に 意外にも早く回答に行きつきました


問題八十一
武士が台頭してくると、ときにユニ-クというか怪物のような逸話を生む武将がでてくる。いつの時代も英雄の登場や新記録の誕生は人々を興奮させてきた。さて、そのような武士たちの夢というか権威は、「昇殿」でした。今でも皇居での園遊会に呼ばれることは名誉なことになっている。そしてまた武士にとって最高の任務は「朝家の守護」でした。
では、問題です。後世の「今昔物語」「御伽草子」などの読物に妖怪退治の専門家、ヒーロ-として登場するウルトラマンのような武将とは誰でしょう?

・ 源頼光


問題八十二
源平合戦を描いた平家物語の有名な伝説の場面。
治承・寿永の乱(源平合戦)の屋島の戦いにて負けて追い詰められた平氏方は軍船に女房を乗せて扇の的を掲げ、射落としてみよと源氏へけしかけた。そして、源義経は味方に射落とすように命じた。
このとき、 源義経に命じられ、およそ72m先にある海上の揺れる船の上に掲げられた扇の的を見事射抜き、ときに源平両軍は、歓声を上げて褒め讃えたという伝説の武将とは誰でしょう?

・ 那須与一


問題八十三
御醍醐天皇の皇子。世が世なら天皇の皇子として何不自由のない生活を送れるはずだったが、時は南北朝時代で皇子が身を置く南朝方は劣勢にあった。皇子は各地を流転し、南朝方の勢力を挽回するべく奮闘、生涯を戦乱の中に身を置くことを余儀なくされた。しかし、状況悪化のなか、それまで皇子に媚びいっていた連中が次々と皇子のそばから離反した。
そうした状況で皇子が謳った和歌がいまに伝わっている・・・・
偽りの 言の葉にのみ ききなれて 人のまことぞ なき世なりける
さて、この皇子とは?

・ 宗良親王


問題八十四
「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」

 出家した人たち、自分は世捨て人だといいながら、それでも悟りとか救いとかいろいろ求めたりしているから本当は世捨て人だとは言えないな、世を捨てられずでも生きなければならない人こそ世を捨てているのだと思う・・・・・さて若くして出家したこの歌の作者は誰でしょう?

・ 西行法師


問題八十五
紀元前219年、中国は秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団の先導者とは誰でしょう? 彼が行きついたとされる場所はどこでしょう? そして彼の目的は達せられたのでしょうか?

・ 徐福
・ 富士山
・ 仙薬が見つかったかは不明。
  始皇帝が命じたのは不老不死の仙薬探しでも、実は亡命が目的だったわけで、2度と秦に戻らなかったことから、徐福本人の目的は達成した?


問題八十六
江戸時代、品川の漁民は、徳川家康から将軍家に毎日新鮮な魚を献上することを命じられ ました。そのため、漁民たちはいつでも新鮮な魚を献上できるように、 魚を生かしておく「生簀(いけす)」を考え出しました。そのとき生簀を囲う柵(ひび)として使用した竹笹にあるものが付着していました。この発見をヒントに浅草の弥平という人物が養殖をはじめました。当初、江戸幕府はこれを保護し江戸漁民の独占漁業としました。この海産物とは何でしょう?

・ 海苔


問題八十七
源平一の谷の戦いで、副大将として東の前衛基地であった生田の森の守りを固めていた。しかし源氏の激しい攻撃に総崩れになった平家の軍勢は退却を余儀なくされました。そんなときに味方の船に乗り退却しようとしましたが、須磨寺の近くで馬を射られ生け捕りになりました。その後、鎌倉に引き渡されましたが、その器量に源頼朝は感心し厚遇されたと言われている平家の武将とは誰でしょう?

・ 平重衡


問題八十八
豊臣家の跡継ぎとして秀吉から関白職を譲られて豊臣二世となったが、秀頼誕生後に謀反の疑いをかけられ伏見城から高野山へ追放され、1595年に自刃。妻子一族三十九名は京都三条河原に集められ、そこで処刑された。この人物は誰でしょう? また秀吉とはどういう関係だったのでしょう?

・ 豊臣秀次
・ 甥 


問題八十九
ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

現代にも伝わる名うてのプレイボ-イであり、また超一流の歌人でもあった。享年55歳、当時としては決して短命とはいえませんが、死を自分のこととして捉えることは死の直前までできなかったようです。この「ついに行く」で始まる辞世で有名なこの中世の人物とは誰でしょう?

・ 存原業平   私は、原業平の印象が強いです


問題九十
江戸幕末は敵味方とも動乱のなかでさまようという時代でもあった。そのなかでも、みずからを正規の江戸討幕軍と信じながら、行軍途中で偽官軍とされる事件があった。
1868年1月8日に近江国松尾山の金剛輪寺において結成された。隊長は相楽総三で、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主としていた。隊は一番隊、二番隊、三番隊で構成されていた。
部隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら行軍したが、なぜか新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。同年2月部隊は信濃国へ進み、2月6日には中山道と甲州街道の分岐点である下諏訪宿を拠点とし、碓氷峠を占拠して北陸雄藩と江戸の連絡を遮断すること計画した。

しかし、新政府の本体東山道軍は信濃各藩に先方部隊の捕縛の命令を下した。これに及んで、部隊は崩壊した。そして、1868年3月3日、下諏訪宿の外れで隊長の相楽総三ら8名が処刑された。この相楽総三を隊長とする部隊は何と呼ばれていたでしょう?

・ 赤報隊




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コメント

麦さん、こんばんは。
やっとこさ、百問に到達できそうです、お疲れ様です。
歴史に出会う場所は人の足跡ですからいたるところにあります。花の写真を撮るように歴史も撮ってみてはいかがでしょうか?


問題八十一
正解!頼光が酒天童子駆除に用いた名刀「童子切安綱」は有名です。武将が功績をあげると武具も名をあげるということで「童子切商法」と言われています。それにしても頼光の大江山の鬼・酒呑童子を退治したという活躍は世に鳴り響くことになりましたが、真実は何だったのでしょうか?


問題八十二
正解! 那須与一の活躍した時代は、勝ち負けよりも正々堂々と一対一で対峙して戦うという姿勢が重要視されていました。与一とは十一番目の男子を表していると言われています、で、下野国の人、本名は那須資隆。平家物語ではお見事、絵になる場面、情景ですね。


問題八十三
正解! 南北朝時代は、結果的に両統送立のあと北朝が主流となりました。南朝の後醍醐天皇は武家の手から政権を取り戻そうと画策します。一時は建武の中興として政権奪回に成功しますが、ついには吉野に逃れることになります。御醍醐天皇の皇子の宗良親王は一度は仏門に入りますが、還俗し、南朝方の勢力挽回に奮闘し、生涯を戦乱の中に身を置くことになりました。しかし南朝を裏切る者が続出しました。
「偽りの 言の葉にのみ ききなれて 人のまことぞ なき世なりける 」 この歌は現代にも通じるものがあるように思います。


問題八十四
正解! 佐藤義清は22歳の時、超エリ-ト集団であった「北面の武士」の立場を捨てて、また妻子をも捨てて出家しました。その理由は「日本史の謎」です。極楽浄土は西にあるということで「西行」と名乗ったとか。 西行さんの歌は分かりやすくて意味深いと思います。


問題八十五
正解としておきましょう(笑)。徐福伝説は日本各地にあります。あるとき、京都の新井崎というところへ釣りに出かけた時に、着飾った船が太鼓や笛を鳴らしながら海岸線を行き来して釣りにならなかった経験がありました。徐福の祭りだということでした。仙薬を求めるという名目で中国を脱出しようとしたのではないかという説が多いです。


問題八十六
正解! 海苔は江戸時代の発明品の代表ですね~♪


問題八十七
正解! 平重衡は平氏が公家化するなかでも武辺を守り通した人で、源平合戦の場面では平家の守刀であった人物です。清盛の長男の重盛が若くして亡くなったことが平氏が源氏に破れる下地になったという考えが多いですね。重衡は清盛の命令を受けて南都と呼ばれていた奈良県にあった寺院を焼き払いました。清盛が大和を領地にしたときに南都の寺院の反抗にあい苦労したことが原因であったと言われています。信長の叡山焼き討ちと良く似ていると思います。


問題八十八
正解! 麦さんもご存知の近江八幡に43万石の領地を封じられていましたが、秀頼の誕生とともに危うい立場になりました。享年28歳で切腹し、妻子は三条河原で打ち首になりました。謀反の罪ということですが・・・・。家臣の田中吉正は、関ヶ原のあと伊吹山に潜んででいた石田三成を捕えました。


問題八十九
正解! 在原業平でいいんじゃないですか! 伊勢物語の主人公だと言われています。伊勢物語は紀行文に和歌が散りばめられていて現代に伝わっています。超遊び人間だったということですが、モテモテになるほど自分を磨いていたとか・・・・笑。


問題九十
正解! 偽官軍とされた赤報隊は昭和3年になって名誉回復された。赤報隊は官軍本体の先方の役目を担っていたが、年貢半減というスロ-ガンを掲げていたことが問題になったようだ。明治新政府には年貢半減する気などなかったからだ。
1987年5月3日、赤報隊と名乗る人物が朝日新聞阪神支局を襲撃するという事件が起こった。「赤報隊」という名前を使ったことから色々な推論がでたが、事件は解決せず時効となった。


百問までもう少しですね。謎というところまで行き着いていませんが、それはこの次の機会にしましょう。歴史は有名な人物や事件うんぬんではなくて、その時代を切実に生きた人たちのものだということを忘れてはなりませんね。


では、ラストスパ-トです~♪


問題九十一
 1608年近江国高島郡小川村に生まれる。名利を避け、清貧の中で求道生活を続けた高徳の人として広くその名を知られた。彼の教えは近隣の農民にも及び、その感化力に驚いた熊沢蕃山が入門を請うた。また老いた母のために職を辞し、母の喜びをわが喜びとした逸話は、近代になってからも孝の道徳をあらわす典型として、国定教科書に収められた。内村鑑三は日本史上最も理想的な教育者として『代表的日本人』の中でその求道生活を紹介した。さて、この日本陽明学派の祖といわれている人物とは?


問題九十二
貴族や皇族のためであった仏教を庶民に開いた人。1186年、京都大原勝林院での問答(談義)では、居ならぶ各宗の碩学を前にして、諸宗の法門、修行の方軌、得脱の有様についてのべ、さらにこれに対して浄土の法門こそ現今、万人に適したただ一つの教えであることを示した。
この大原談義において浄土門を示し知恵第一と称された人物はだれか?
また、この時、この人物に仕えていた人に蓮生という人がいたが、この人物の経歴は非常に有名である、これについて答えなさい。


問題九十三
明治新政府時代の軍人の妻。名前を「七」といったが結婚に際して、「七」は八百屋お七を連想させるということで、「静子」に変名した。姑の寿子との折り合いが悪く、二人の男児が生まれたあとでついに別居した。明治45年7月30日の明治天皇の崩御のあと、9月13日の大喪の礼の当日、夫と共に自害・殉死した。この夫婦とは誰でしょう?


問題九十四
江戸城内での刃傷事件は元禄赤穂事件が有名だが、赤穂事件以外にも記録がある。1684年、淀川河川工事のいきさつから、ときの大老・堀田正俊を江戸城内で刺殺した大名とは誰でしょう?


問題九十五
徳島県出身、明治から昭和の婦人活動家。徳島の小学校などで代用教員をしていたが1909年上京した。病気の弟との貧困の中での生活苦から勤務先での社長のセクハラ行為を拒否できない状況を雑誌に投稿して議論となる。1914年12月号の雑誌「青鞜」は「生きるために女が自分の性を売ることは許されるのか」という、当時としてはショッキングな問いかけで始まる。このとき論戦を張った安田皐月には、生きるために女が自分の性を売ることがとうてい理解しがたいと主張した。安田皐月は日本女子大を卒業して、親の支援を得て独立した販売店を経営するという、当時としては進んだ女性でしたが、貧困の中で生きるために苦しんでいる女性が、自分と同じ『青鞜』の一員であることが許せなかったようだ。さて、この論争において「私たち女に財産と職業がない事は本当に忘れぬ事の出来ぬ災害である」と主張し、貧困の中を歩み、昭和の戦後の時代まで生き抜いたこの女性とは誰でしょう?



問題九十六
今年の夏は各地で豪雨水害が発生しました。近畿では、京都・福知山も被害があった地域でした。
さて、この福知山は城下町で知られていますが、江戸時代、ある魚をめぐって城主は自害、お家断絶という血生臭い事件が起こりました。さて何という魚をめぐる事件だったのでしょう?


問題九十七
幕末の思想家。
1854年、ペリ-が日米和親条約締結の為に再航した際に、金子重之輔と二人で伊豆下田港に停泊中のポ-ハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。のち自首し、下田で取調べを受けた後、江戸伝馬町の牢屋敷に送られたが、罪人として国元へ送られ野山獄で幽閉された。翌1855年放免となり出獄し塾を開いた。1858年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画するが藩により逮捕された。翌1859年、老中暗殺の企てが幕府に露見し安政の大獄に連座、幕府の命により江戸に護送され斬首された。享年30歳。
この思想家とは誰でしょう?


問題九十八
日本にそろばんが伝わったのは14世紀だといわれています。そして、そろばんの普及と共に計算技術も発達してゆきました。江戸時代の初めごろに、日常生活に必要な計算の方法を書いた参考書が編纂されました。そして、この本によって日本独自の数学である「和算」の基礎が築かれました。著名な和算学者の関孝和や貝原益軒もこの本を手に取りました。さて、この本の題名と著者は誰でしょう?


問題九十九
江戸時代、摂津の人。俗姓下川氏。若い時に真言宗の僧として高野山で修業し、大坂生玉の曼陀羅院住職となる。その間に、下河辺長流と出会い、学問的な示唆を受ける。その後は遍歴を重ねる。和泉国池田万町・伏屋重賢宅に仮寓し、古典を渉猟する。仏教書や和漢の古書に精通した学識で古典を研究し、「勢語臆断」、「古今余材抄」などの古典の注釈や、仮名遣い研究で優れた業績を残した。人となり清介、貧に安んじ、素に甘んじた人柄で、水戸徳川光圀の命で執筆した『万葉代匠記』(『万葉集』注釈書)は、実証的で緻密、しかも創見が多く、後世に大きな影響を与えた。「国学」は本書の成立を以て始まったとされる。この人物とは?


問題百
1854年生まれ、佐賀県唐津出身の建築家。17歳の時に唐津藩の英語学校に入学、明治5年、上京(当時、唐津から東京までは、船を乗り継ぎ、開通したばかりの横浜~新橋は鉄道を利用し、それでも唐津から12日間もかかる旅だったそうです)。20歳の時、工部省工学寮第1回入学試験があり、やっとのことで末席、しかも再試験で合格します。当初、造船を志望しますが、教養課程終了後、造家科、今の建築学科に進みます。 明治10年、建築学科に英国から25歳の若さでジョサイア・コンドルが教授として着任します。 明治12年、末席で入学ながら、何と工部大学校を首席で卒業します。この頃、首席で卒業した者には官費で英国留学がご褒美としてありました。さらに帰国後には英国からの教授に替わり教官となって後輩の指導に励みました。
この建築家とは誰でしょう? また彼の建築物を三ヶ所あげなさい。


天と地と人の間で一休み   ~おつかれさん



麦さん注目の官兵衛さんから離れてしまいましたが、100問達成ということで、良い時、良い季節に官兵衛さんを探しに出掛けることにしましょう。

2014.11.03   えんてつ   編集

えんてつ さん

今回は優秀でしたね  ^^v
残念、問題八十五は、手放しの正解とはいかないですか!
いよいよゴール目前です、よく頑張りました。

今日は奥多摩の「むかしみち」を歩いて来ました。
紅葉は、まだ少し早かったですが、暑くなく寒くなく、山歩きを楽しめましたよ。

では、ラストスパートは、明日は用事があるので、明後日か、、、
楽しみながらテープを切りましょう~ (*^‐^*)

2014.11.04   麦   編集


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