おおぉ! 一位!  &  戦国時代限定  歴史問題 Ⅱ


選考基準は不明のランキングですが  <今年の紅葉 見納めかな>  の 記事が 発信したすぐから 鯉の滝登り

で 今朝から ずっと一位の座を確保中

ごく普通の紅葉狩りでしかないので  その注目の意味はハテナ

でも
別に 何か問題視されるような内容ではないので 素直に喜んで良いかと

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で 


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<晩秋の茶会> が 17位
<ラン ラン ラン> は 20位

と みごとに評価されている ここのところの 麦の発信
これもひとえに 私のガンバリのオカゲ なわけですが  ← ここ笑うとこです (^-^;

<なんちゃって歴女> を磨いて <なんちゃって> を 取り除こうとする? 軍師  

先の <おおぉ!  ふたつ> より  再びブログジャックによって始まった 歴史問題 パートⅡ 


問-5

◎信長の大うつけの決定的なことはなんだったと思いますか?

・ 父、信秀 の葬儀の時に取った態度 とするのが一般的のようですが、「うつけ」の意味を、 「まぬけ」と解釈したとしたら、光秀の気持ちを見抜けなかった、こと。


◎信行との稲生原の戦いは終始信長劣勢のまま経過しますが、信長のある行為で形成が入れ替わったと言われていますが、それはどういう行為だったのでしょうか?

・ 信長の大声。


◎また、稲生原の戦いのなかで信行の家臣で信長に寝返った武将にはどういう人がいますか?

・ 柴田勝家  (林秀貞、津々木蔵人ら)


◎これより後、信長は最終的に信行を滅ぼすことになりますが、その手口というか事件とはどういうことだったのでしょうか?

・ 信長が病気と偽り、清洲城へ呼び寄せて家臣(河尻 秀隆)に命じ謀殺。


◎当時、麦さんだったら信長の見方につくことが出来るでしょうか?

・ 信長に逆らったら、死刑ですよね。切腹する勇気はないですね。


では、麦からの 問-2
 ◎ 柴田勝家は尊敬できる武将ですか?




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コメント

こんにちは。

麦さんのブログ、人気があるのはうなづけるものがあります~♪ わたしも毎日お邪魔させていただいております。


さて、総選挙ということで身の回りが俄かに忙しくなってきました。てか、まだ公示前なんですが選挙の眺め方がいままでと違うので戸惑いがちです。
そうそう、つるんぼしが色づいて少しずつ柔らかくなってきましたよ。そして12月になると、魚の飼育実験が始まります。


問-5 お答えお疲れ様です。
 うつけとは、当時の常識知らずという意味合いかなと思います。父の葬儀ではおかしなお参りの仕方をした話は有名ですね。日常生活の信長は、背中に大きな男根を描いた着物を着ていたという話も伝わっています(笑)。また生活スタイルもラフであったようです。このうつけということの意味は、1553年、信長の数少ない味方であった傅役の平手政秀が、信長を諌めるために割腹自殺を遂げてしまったという伝説と大きな繋がりがあります。織田家の跡取りとしての立場が危うくなる危険性とうつけ的行動との結びつきは、今のわたしたちには理解できないこともあるように思います。

信長の常識外れとして、大きなことは、家来を職業軍人にしようとしたことです。そのためには兵農分離を進める必要がありました。「武士は武士、農民は農民」というわけです。そのためには、家臣たちを父祖伝来の土地から離れざるを得なくしました。こうした戦略の結果、織田軍は、農繁期でも平気で戦争ができるようになりました。尾張兵は弱いとして知られていましたが、「一年中、戦闘態勢が可能で間断なく敵地に攻め込める」という手段を手に入れ、有利に戦えるようになりました。また常備軍の維持には、費用がかかるので、商業の発展に力を入れることも忘れなかったのです。うつけという話の中にはこうした隠された秘密もありました。

大声というのは、特技というか武器の一つだったのですね。いまでいう拡声器なんかない時代だし、戦いのど最中で規律が乱れたときには、狼煙や旗よりも声が役に立ったようです。



麦さんの問-2 柴田勝家のことですが・・・・

尊敬できるかどうかと、好きか嫌いかとは違いますよね。勝家は信長の弟の信行の家老の身分でしたから信長の部下になったときの覚悟はそうとうなものだったでしょう。家来になって成果をあげるというか認めてもらうためには、死にもの狂いで何事も引き受けようという気持ちだったと思います。

信長が尾張の地固めをし京都をめざそうと決めたころから勝家が重用されました。そして信長の軍事奉行格を務め鬼柴田と呼ばれるほどになりました。軍事という面では、部下の教育にも熱心でした。秀吉との比較では政治力がなかったというのが言われます。歴史的にはその通りなのですが、秀吉は信長の子飼いの家来であったことで信長のご機嫌取りを通じて人との機敏さを身に付けて、恥も外聞もなくみさかいなしに振る舞えるという力量というか特技がありました。勝家は無骨もので、正しいと思われる答えが出せないと敗北者になるという気持ち、根っからの武人で、でも器量の大きい人でした。

金沢百万石の祖である前田利家は勝家の盟友であり家来筋にも当たっていました。勝家が秀吉と雌雄を決した賤ヶ岳合戦では、この利家が敵と一戦も交えないで逃亡というか戦線離脱したことが大きな敗因でしたが、勝家は北の庄への退却の途中で利家と会ったときに、恨みごとは言わずに、お礼とこれからは秀吉を頼りにしていくようにという助言をしています。加賀百万石は、この勝家の器量で成ったといわれています。

で、わたしの答えは、尊敬できるとまでは言い難いですが、好きな武将の一人です。

2014.11.26   えんてつ   編集

えんてつ さん

私は、「人気ブログ」には参加してないんですよ。
この順位は、ブログ村様が、選抜基準を、頑なに公開されない注目記事ランキングなので、残念ながら人気とは無縁です~(^▽^;)

この記事に目を通してくださった方より、「ランキングを意識しているのですね。」というご意見がありました。
ランキングを記事にしたのは2度目ですから、ね、、、(-_-;)

マイページにログインし、上位に私の記事があると嬉しいのはもちろんですが、
このたび、ランキングに触れたのは、歴史問題の再開が、前回、「おおぉ!」というタイトルによるランキングに絡んだ記事だったので、今回も、タイトルと内容に、関連性を持たせたかっただけなんですけどね、、、。



いよいよ魚の飼育実験、楽しみですね。
食べられる魚ですよね(笑)

信長のうつけ、そんなに単純な答えではなかったでしたか(*´▽`*)
兵農分離は、戦には有利な政策だと思いましたが、信長のうつけ、になるのですね。

私もイメージでは柴田勝家が好きです。
では、武将としては、どうだったのかなと思ったのですが、「いい人」なんですね。良かった(*^-^*)

問-3
では、石田三成 については?



2014.11.26   麦   編集

こんにちは。

麦さんのブログ人気があってもおかしくないと思います~♪

>兵農分離は、戦には有利な政策だと思いましたが、信長のうつけ、になるのですね。
うつけのやることは、みんなうつけみたいな~
敵を欺くにはまず味方を・・・という言葉がありますが、信長の傅役の平手政秀の自決に関しては相当なショックだったろうと思います。

麦さんの問-3は、石田三成ですね。
三成は長浜生まれで、秀吉が長浜城主になったときに家来になったといわれています。それ以来、ただ一筋に豊臣家にご奉公する人生でした。戦場においては計算づくで兵站を支えるというのが特技だったようで、秀吉の天下統一の下支えの功労者でした。太閤検地で使用された長さの単位も三成考案のものでした。

現代社会においても部下を持つなら三成ではないですか! 首尾一貫主上のために尽くすという姿勢でした。秀吉の側近として秀吉の夢を実現する過程においては、軍事的采配にも関わらずにはいられないことで、前線の現場武将たちからは憎まれることもありました。そして、残念なことに、関ヶ原のあと徳川家の社会になりましたから家康の宿敵三成はさんざんにこき下ろされることになりました。

近江佐和山城19万4000石の領地では善政を敷き、領民からは、関ヶ原の敗北後も慕われ続けられ、いまでも滋賀県ではかなり人気のある武将です。で、わたしは、元滋賀県人ということもありますが、三成はぜんぜん嫌いではありません。悲しいのは、正しい計算の出来る人でしたが、役に立つ計算の出来る人ではなかったと思えることです。


では、こちらから三問。

問-6
古今東西、戦のかなめと思われる大場面では、大軍勢を常識外れのスピ-ドで移動させ勝利を得る作戦が功を奏する場合がある。もち戦国時代にもそうした記録がある。後の歴史家はそうした軍の動きに「神速」という言葉を当てはめることがある。信長、秀吉、家康の戦のなかで「神速」だと呼ばれた例をあげてみてください。

問-7
 本能寺の変の頃は、全国各地で信長派と反信長派の戦いが行われていた。そうした接点では信長斃れるという変事をどちらが先に察知するかということが戦の流れに大きく影響した。中国地域では羽柴勢が毛利より先に変事を察知し、有利な判断が行われた。

では、東国はどうだったのか? 信長から東国管理の命令を受けていた河尻秀隆や滝川一益らの運命はどうなったのでしょうか、秀吉活躍の影であまり話題になりませんが調べてみてください。

問-8
秀吉が亡くなったころの家康の禄高はおおよそ何万石だったのでしょうか?

2014.11.27   えんてつ   編集

えんてつ さん

あら!
えんてつさんらしくないですね。
人気者なら嬉しいですけど、ブログが人気って言われても、嬉しくないかな、、。

ランキング記事は、やっぱりタブーですね。



石田三成は、そうでしたか。
官兵衛の脚本家は、やや悪役に描いていますね。

問-6
本能寺の際の「中国大返し」
賤ヶ岳の戦いの 「美濃大返し」
他には・・・???
突然、姿を現した一夜城も書いておこう・・・(-_-)

問-7
河尻秀隆 = 武田遺臣による国人一揆が起こり、本能寺の変から二週間後、武田遺臣の三井弥一郎に殺害された。

滝川一益 = 河尻秀隆とは違って、その後の活躍もあったけれど、清州会議に参加できず、織田家臣の中で弱い立場となる。賤ヶ岳の戦いののちに蟄居、小牧・長久手の戦いののちに62歳で死去。

問-8
255万石で、断然トップ。

2014.11.28   麦   編集

こんにちは。
きょうはとっても良い天気、小春日和です。

うちの普通のシャコバさんも今が絶好調です。

ランキングと人気とは別物なんですか~笑  まぁ、わたしにとっては楽しい憩いの場所に違いありません~♪

物語になると三成は悪役にならざるを得ない・・・物語を面白くするのは悪役ですもん!

鳴かぬなら別のをさがせホトトギス ~元佐和山城主


問-6
 徒歩中心の前近代の軍隊は、季節にもよりますが、通常の状態(戦闘能力を維持した状態)で、一日6キロ以上の行進速度を維持できれば並以上の組織、一日10キロ以上の行進速度を維持できれば優れた組織、一日20キロ以上の行進速度を維持できれば最高水準の組織であるといえます。そして一日50キロ以上の行軍ができれば、その指揮官は軍隊の能力を限界まで引き出している最高の用兵家の一人になると思います。
本能寺の際の「中国大返し」・・・・・・秀吉
賤ヶ岳の戦いの 「美濃大返し」・・・・・秀吉
本能寺の際の「伊賀越の御難」・・・・家康
関ヶ原の際の「赤坂城入城」・・・・家康
朝倉攻めの際の「朽木越え」・・・・信長
近江六角攻めの「近江侵攻」・・・・信長
突然、姿を現した一夜城も書いておこう! これも重要なこと。
小田原攻めの石垣山城・・・・・秀吉
美濃攻めの墨股城・・・・・秀吉(信長)

秀吉は信長の家来でしたから、信長の戦法を経験値にできたのが大きいでしょう。
信長の朝倉攻めの際の「朽木越え」は浅井長政の叛旗によりますが、朽木元綱の助けがなければ、秀吉もろとも死んでいた可能性が大きいです。


問-7
河尻秀隆は撤退しなかったために旧武田勢の餌食になりました。
滝川一益は織田四天王といわれた武将でした。関東の実力者の北条氏の制圧にとりかかっていましたが、命からがら信州経由で美濃まで脱出しました。 
この二人は敵方のほうが先に信長の死の情報を知られたため結果は悲惨なことになりました。
秀吉も毛利側が先に情報を得ていたならどうなったかわかりません。


問-8
255万石で、断然トップ。 このあと旧武田領も支配します。どうしてここまでの勢力を拡大できたのかといえば、中央政治の第一線から距離をおいて自らの領地政策に励んでいたからでしょう(笑) 関ヶ原のころの「官兵衛」もこのころの家康のような感じに見えます。

2014.11.28   えんてつ   編集

えんてつ さん

こちらも昨日からの小春日和りが、夕方から小雨で、今は星空です。

シャコバサボテン、クリスマス前に咲いてしまいましたね。


> ランキングと人気とは別物なんですか〜笑 

軽く考えたら似たようなものでしょうけれど、ブログに拘りのある私には、まったく別物なんですよ。
「人気」と「評価」の違いでしょうか。

社会問題を閲覧者に問いかけるブログは別として、私のような勝手なつぶやきのブログで、他人と人気を争うことの意味を感じません。
閲覧者にポチッ!の協力を得て、人気ブログの上位を目指すのも楽しみのうちでしょうね。
でも、ポチッ!は裏技があるそうですし、交友関係も影響するので、私は、もし上位になっても喜べないと思います。
ネットの専門家による注目記事の評価は、嬉しいですね。


> まぁ、わたしにとっては楽しい憩いの場所に違いありません〜♪

ありがとうございます~♪♪♪
ポチッ!はポチッ!でも、私のブログ記事の下の方にあるアイコンの「拍手」は、だれと争うのでもなく、私への評価ですから重要なんですよ。
えんてつさんも、もし、お気に入りの記事がありましたら、ポチッ!に、ご協力くださいね (^^ゞ

問-6 神速は、そんなにたくさんありましたか!

問-7 本能寺のあと、毛利に知られる前に安国寺恵瓊に申し入れした官兵衛の動きも神速のうち? ( ̄▽ ̄)

問-8 いよいよ、「官兵衛」も関ヶ原ですね。伏見で家康に助けて貰った三成でしたが、裏切るんですね~。やっぱり悪役(笑)


2014.11.28   麦   編集

麦さん、こんにちは。
ややこしい空模様です。あすからまた一段の冷え込みとか、ご自愛くださいね。

>現代のドラマで涙を流すなんてことはなく 400年前のドラマで泣いてる私って 

麦さん、幸せじゃないですか。

「天下泰平のためには戦わなければならない戦がある」というのは、「戦は天下泰平のためにある」と同じなのでしょうか? それとも「天下泰平のため以外にも戦いはある」ということかな~。

戦はいったい何のためにあるのでしょうね。相手を打ち負かして支配することだとしたら、欲望を満たすためのように思えます。もしかして天下泰平も欲望なのか!それとも相手の考え方ややり方が気に入らないからでしょうか? もしかして、どちらが正しいのか戦で決めようというのでしょうか、勝ちが正義?

戦は、具体的には殺し合いだと思います。なので、「理由はともかく」戦を始めたら勝たなくてはひどい結果になります。そう考えるとまず第一感は「理由はともかく」仲良くなって戦はやめとこうということになるかと思います。

戦を仕掛ける側と、戦いを受ける側の個別の事由というのがあって初めて戦いになる?
それとも片方だけの個別事由で戦になる?

では、大坂夏の陣は、誰が誰を攻めたのでしょうか? 400年後のわたしたちにはそれが見えなくてはなりません、というか歴史を読む観るとはそういう部分も重要かと思います。正義や平和のためという旗印で行われる戦いの多くの「ほんとうの理由」は、追い詰められたものが追いつめたものに戦いを挑むか、相手にあって自分にないもの、自分の欲しいものを手に入れるために戦いを挑む。話し合いの余地が無くなったり、話し合いを放棄したときが開戦の熟期となるでしょうが、大きな意味ではまさしく経済活動ですね。

忘れてならないのは、400年前も現代も同じかもしれませんが、戦いで一番多く被害を受け泣くのは庶民です。

フランス人の詩にこんなのがあるとか・・・・
敵など、気にしなさんな!
一笑に付したまえ!
相手にしないことです。
敵は、君が悩み、君が悶えるのを見たくて、やっているのです。
その思うつぼに入って、敵を喜ばしてはいけません!
楽しく、朗らかにしていることです。
世の中の騒ぎなんか見下ろして。
強く、強く生きるのです!
笑い飛ばしてしまうのです!




では問-9
1549年、斎藤道三の婿となった信長と道三は富田の正徳寺(現在の一宮市)というところで面会した。この会見でこのご両人のなにがどう変化したと思いますか?

2014.12.04   えんてつ   編集

えんてつ さん

いよいよ寒さも本格的ですが、まだ冬眠には早いですね(*^-^*)

「戦」を「たたかい」と読むか「いくさ」と読むかで違ってきますよね。
なんちゃって歴女は、秀吉は天下泰平と銘打って、豊臣の天下取りのために、家康そして秀忠は本当の天下泰平を求めて、豊臣(石田三成)と戦ったのだと思いますが、、、。

フランス人の詩は、平和な時代に暮らす私たちへの教訓ですね。
今、私に敵は一人もいない、つもり(≧▽≦)
逆に、もしも誰かが私を敵だと思って戦いに挑んで来たら、敵とは、しつこくて、うっとうしいものです、、、と言うしかありませぬ。


問-9
何がどう変化したか、は、二人の関係ということですか?
うつけ者と噂されていた娘の婿に会ってみたところが、想定外の立派な武将だったのですね。
信長は、マヌケのフリをしていたのではないかと、周りから見直され、舅と婿の関係でありながら、信長の立場が強くなった?


では、問-4

清州会議で、織田家の後継者を三法師と挙げ、途中で秀吉は席を外しますが、仮病ですか?
仮病だとしたら、それはなぜですか?


2014.12.04   麦   編集


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