虚礼廃止の時節柄



普段でさえ 専業主婦でありながら 暇を持て余すと言うことはない一日24時間の  どこに年賀状作成の時間を繰り込むか 今年も悩むところ

先日 偶然に docomoショップ でバッタリ出会い 待ち時間の会話の中で 「今年は喪中ハガキにしようと思ったんだけど ・・・ 」 と言う私に 素っ頓狂な声を上げた知人
月に1~2度は顔を合わせる間柄だから 我が家の訃報を知らないはずはなく その驚きの声は無理もない

トトロが虹の橋を渡ったから ・・・

「あぁ そうだったわね」 と 納得はしていたけど やっぱり そういうわけにもいかず そのうちに取り掛からないといけません

いつも この時期になると 師も走るほど慌ただしい時期に なぜ明けてもない年を祝わなければならないのか という疑問
こんな虚礼は廃止して 年が明け ほとんどの日本人が ゆったりした時を過ごすであろう三ヶ日に 本当の 「明けましておめでとう」 である年賀状を認めるべきではないか という 私の長年の持論

最近は 元旦に届いた年賀状へ返信するスタイルのかたも ちらほらのようですが  私は まだ その勇気がなく 日本古来の伝統を守っている次第

季節の花 シクラメンが 届きました

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「 おばあちゃんから 」  と


今年の春 「おばあちゃんが入院した」 とは聞いていましたが 近親者でお見送りしたと だいぶ後になって知りました
「 100歳を超えて 大往生よ 」 と 微笑みはしても いくつであろうと親との別れは辛かったことでしょう

たまたま ご近所だった 夫の会社の同僚の奥様
お互いの2児の 下の子が同じ年齢の男児で  そのダイちゃんと息子は同じ幼稚園に通いました

何度かお会いした事もあった おばあちゃんと二度と会えなくなった知らせを 聞き流すには寂しく 遅ればせのお悔やみに伺いました

そのような経緯による  おばあちゃんから届いたシクラメン

「いろいろ考えたんだけど Mさんは お花を喜ばれるかと思って」  というダイちゃんのママの心遣いは 地味な包装紙で覆った お決まりの虚礼の品とは違って ラッピングも赤で統一した 真っ赤なシクラメン


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「 ダイちゃんと息子のことを これからも ずうっと見守ってくださいね 」 と 在りし日の おばあちゃんを偲ばれる贈り物が 嬉しかったです





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コメント

麦さん、こんばんは。

歴史夜話16から大楠公こと楠木正成の登場です。


日本が1945年(昭和20年)8月の敗戦の日を迎えるまで、楠木正成の悪口を言う人は国賊扱いされた。戦後はその反動もあってほとんど無視され、「正成は偉い立派な人だ」と言おうものなら右翼と呼ばれかねない状況になった。歴史の眺め方と価値判断がこれほど大きく変わった人物も珍しい。

二重橋を正面に見据えるところに大きな騎馬像がある。この像は、楠木正成が1333年(正慶2年)隠岐の島から帰還する後醍醐天皇を兵庫の道で迎えた時の勇姿をかたどったものだ。その象の視線は皇居に向けられている。幕末、横井小楠が「小楠」と名乗ったのは、大楠公・楠木正成を尊敬心酔したことによる。

武家に奪われた権力を取り返し、天皇自らが政治を行う事を夢見て、何度も倒幕の計画を立てる第96代後醍醐天皇でしたが、世は、まさに鎌倉幕府の第14代執権・北条高時が実権を握っています。悲しいかな、幕府に匹敵するような軍事力を持たない天皇でしたが、そこへ、登場したのが、楠木正成です。


歴史夜話16
楠木正成が記録として残っているのは「太平記」という軍記物ですが、その中では天才戦術家として描かれています。しかしこれには相当大きな誇張があると考えられています。しかし少なく見積もっても正成は日本史上指折りの戦術家であったと思われるし、戦略的にも時勢をよくわきまえていたことは後醍醐天皇に足利尊氏と和睦すべきだという進言からも判断できます。

しかし、楠木正成、実は、もともとは、正式な武士ではありません。河内・和泉を本拠地とする「悪党」であったという説が有力です。「悪党」とは、鎌倉幕府の傘下に属さない野党集団です。その多くは野伏やあぶれ者で、強盗、ばくち、押買いなどを常習としており、幕府には手におえぬ存在でした。おそらく、楠木正成はそういった「悪党」をまとめ上げたリーダーでした。なぜ、そんな男が歴史を変える程の人物になったのか?それは後醍醐天皇の引き立てによって、鎌倉幕府打倒計画に加わったことから始まります。

「太平記」には後醍醐天皇と楠木正成の出会いについて以下のようにあります。ある日、後醍醐天皇がまどろんでいると、夢の中に宮殿の庭先に大きな樹木があらわれた。その樹木の下には百人の神官が並んでいたが南側の玉座には誰もいなかった。不思議に思っていると童子が現れて天皇を玉座に招いた。その瞬間に後醍醐天皇は目覚め、「木の南の玉座か!」 木の南といえば、楠ではないか・・・・ちょっと出来過ぎ(笑)・・・・何か思い当たることがある者はいるか?と尋ねると、ある者が「河内国金剛山の西麓に楠木正成という者がおります」と答えたため後醍醐天皇は楠木正成を呼び寄せたことになっています。

1324年(正中元年)後醍醐天皇は鎌倉幕府に反旗をあげようとしました。しかしこの目論見は幕府の京都監視役の六波羅探題によって未然に察知されます(正中の変)。天皇は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流されました。その後、後醍醐天皇は、処分を免れた側近の日野俊基や真言僧の文観らと再び倒幕計画を進めることになります。

1331年(元弘元年)9月、後醍醐天皇は、力を弱めていく鎌倉幕府を打倒するため再挙兵します。鎌倉幕府は元寇によって幕府内に大きな分裂の危機を生じていました。この機会攻め時として、世に「元弘の変」と呼ばれる一連の朝廷と武家との権力闘争の始まりでした。公家側にとっては武家に奪われた権力の復興でした。この二度目の打倒幕府のための挙兵に呼応したのが楠木正成でした。

笠置山に陣をおく後醍醐天皇に呼応して、正成は河内赤坂に城を築きます。ところが集めた兵はなんと悪党わずか500人です。これに対し幕府は、数万にも及ぶ大軍を派遣します。さらに、相手は武家の棟梁、正式な武士なので甲冑や刀もそれなりに良いものをもっていますが、正成軍は「悪党集団」の他、ほとんど戦ったことも無いような農民上がりの地侍たちで、中には裸の者もいたと言われています。

通常の戦い方では勝てるわけがありません。ということで正成は幕府軍相手に、「なんでもあり」のゲリラ戦を展開します。城壁の外から攻める幕府軍に対して、城の中から、岩石に大木、さらには煮え湯やウンコさんなどを投げ、時には藁人形で虚勢をして相手をあざむきました。まさに、できる限りの、数々の奇想天外な戦術を繰り出し続けたのです。

手を焼いた幕府軍は戦の手段として、城を囲んでの兵糧攻めに切り替えました。その結果、正成軍は20日で兵糧は尽き、正成は赤坂城に火を放ち、自害したと見せかけたのです。武将が自ら城に火をかけることは降参の証であり、自害するものなので、幕府軍の多くの武士は騙されました。なんと正成はそのスキをついて城から逃げ出すことに成功したのです。

しかし、後醍醐天皇の笠置御所は一日で陥落し、山中を逃げ回っていた天皇は捕らえられてしまいます。翌年1332年(元弘2年)3月、後醍醐天皇は隠岐(おき)へ流され6月には天皇の側近・日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)が処刑され、この戦いは終結してしまいました。

それから1年後、もはや後醍醐天皇の夢も潰えたかというとき、あの笠置御所から脱出して、奈良や和歌山を点々としていた後醍醐天皇の息子・護良親王(もりながしんのう)が、各地の反幕府勢力をまとめて、再び倒幕ののろしを挙げ、吉野山に立てこもったのです。護良親王は、各地の武士に令旨を発し、倒幕を呼びかけます。このタイミングで再び登場するは、あの赤坂城の戦いで死んだと思われていた正成です。

当時、後醍醐天皇を中心とした勢力には、北畠親房といった武士たちがおり、正成も天皇側の一員となりました。「太平記」には正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいないと刻まれています。

正成は、先の戦いで鎌倉幕府側に奪われていた下赤坂城を奪回し、その勢いのまま、和泉から摂津へ進攻し、翌1333年年(元弘3年)1月、天王寺の戦いで六波羅探題に勝利します。これを知った幕府は鎌倉から20万の大軍を畿内へ向けて発進するとともに、悪党・正成の首に多大なる恩賞をかけて士気をあおり、再度の全面戦争となりました。幕府軍は護良親王の籠る吉野方面と、正成らが守る河内方面、反幕府派が点在する紀伊方面の三方面に攻め上がりました。

これを聞いた正成は、北方の最前線である上赤坂城を弟の正季(まさすえ)に300の兵をつけて守らせ、自らは、その南東に築いた千早城(ちはやじょう)にて、幕府の大軍への備えを計りました。幕府の河内方面・先鋒である阿蘇治時(あそはるとき)率いる8万の軍勢が、下赤坂城に迫ったのは、2月22日の事でした。

三方を山に囲まれた天然の要害・上赤坂城では、日頃から鍛えられた士気の高い正成軍はゲリラ作戦で敵をまどわせ、少ないながらも善戦に次ぐ善戦で、8万の大軍相手によく戦いましたが、2月27日、水の補給路を断った事により、ついに落城してしまいます。そして正季は、ギリギリで脱出に成功し、金剛山へと敗走しました。

一方、護良親王の籠る吉野方面を攻撃したのは、大仏家時(おさらぎいえとき)率いる吉野方面軍でした、こちらでも、下赤坂城同様、大軍相手に奮戦してはいましたが、なにぶん手勢は、わずかに1000人、しかも、その中の多くが僧兵ですから、鎌倉武士による総攻撃にはひとたまりもありませんでした。陥落も時間の問題となったとき、覚悟を決めた側近の村上義光(よしてる)は、護良親王の鎧・直垂を身につけ、親王の身代わりとなって切腹し、敵の目を惹きつけ、その間に親王は吉野を脱出し高野山へと逃れたのでした。

その後、しばらくの間、護良親王の行方を探索する家時でしたが、見つける事ができず、幕府三軍は合流して正成の籠る千早城へと進軍しました。幕府軍20万は、そのすべてをかけて、千早城への総攻撃へと突入しました。この戦いが、正成の一番の見せ場である千早城の戦いでした。

随分と長くなりましたので、この続きは、歴史夜話17へ飛ぶことにしましょう。

2016.06.07   えんてつ   編集

えんてつ さん

e-496

たくさんのお話を、ありがとうございます。
PCを開くたびに読ませていただいていましたが、このところ何かと現実が慌ただしく、深夜にPCを立ち上げても、My‐Blogのペースが優先で、今頃、まとめて、じっくり読ませていただいています。

楠木正成は、名前は子供のころからインプットされていますが、歴史上に何が残されているのかは、まったく知りませんでした。

読み進んでいくと、次々と展開する情景に、まるで講壇を聞いているようですが、ご飯を食べたかどうかも分からなくなりかけた脳で、内容をつかむのは至難の業ですね (*´▽`*)
大まかなところを把握して、次に進もうと思います。

2016.06.08   麦   編集

麦さん、
順不同になりますが、37番目を送ってみます。

歴史夜話37
徳川幕府10代家冶のお側用人田沼意次は賄賂政治を行った。この時代に「田沼折紙」という言葉が生まれた。賄賂が全盛となるとすべては贈り物で「カタ」が着くと云う非常に分かりやすい時代でした。とはいえ、もろの金品授受はご法度でした。ではどういう方法で行われたかといえば、「武士の表道具」のプレゼントでした。この贈答ならOKとなり刀剣や馬や鷹がやりとりされました。この「田沼折紙」は今で言うプレゼントの目録でした。刀の場合は折紙は「刀剣鑑定書」ということになりました。

1784年(天明4年)田沼意次の息子の田沼意知は親の七光りで若年寄りとなっていた。3月24日のこと、意知は同輩の酒井忠休、米倉昌晴、大田資愛、らと共に肩を並べて江戸城中の桔梗之間に差し掛かった時、新番士の佐野善左衛門政言に呼び止められ脇差で袈裟懸けに斬りつけられた。トドメは太々(お臍のあたり)を切られてほぼ即死だった。同輩の3人は仰天して逃げ出した。その現場を遠巻きに見ていた松平対馬守忠郷は、政言が抜刀したのを見ながら、意知を倒すまでは知らぬ顔をして、政言がトドメの二の太刀を浴びせた事を見届けてから、初めて組み付いた。そこへ柳生主膳正が駆けつけて、政言の刀を奪い取った。この時の脇差が狆の血を塗った一尺七寸五分の「村正」であった。

当時、江戸城内では一尺八寸(約60センチ)以上の刀は携帯禁止であった。また殿中での抜刀は理由の如何を問わず「お家は断絶,其の身は切腹」という事になっていた。政言は意知ではなく父の意次を切りたかったのだと思うが、政言の贈った「田沼折紙」が過小評価された恨みだった。結局、意知は4月2日に落命し、政言は城中の揚げ屋敷で翌3日に切腹となった。狆は江戸城中で愛玩用に飼われていたが、狆の血を刃に塗った刀で切ると助からないという噂があったようだ。


 1823年(文政6年)4月23日の午後、江戸城中の書院番詰所で大事件が起こった。下手人は新任の書院番であった松平外記忠寛で、彼は若年ながら旧弊な部屋の空気の変革を試みた為に何かにつけて古参武士と意見が異なった。それは(1)勤務の順番、(2)婚儀の鞘当て、(3)将軍臨席の鳥追いの拍子木役(指揮)、などの見直しだったが、これらが原因で常に古参達のイジメにあっていた。

 当日,彼は蒼白な顔で登城をして、塞ぎ込んでいるので同輩が早退を進めても取合わず、午後になる益々酷くなって油汗を滲ませ耐えていた。突然、本多伊織に斬つけその頸をぶらさげて、伊丹甚四郎の前に立った。帳面付けをしていた甚四郎は異様な物音を聞いて顔を上げると、そこに伊織の頸が揺れていた。驚き叫んで甚四郎は階下に飛び降りた。間部源十郎は前日の鳥追いで疲れて、横臥している時に斬りつけられそのまんま絶命した。神尾五郎三郎も寝ていたが飛び起きて逃げ臀部を斬られたが、2階から階段を転げ落ちて一命をとりとめた。戸田彦之進は深手を負いながら障子を持ち防いでいたが、二の太刀で絶命した。沼間右京は外記を取り押さえ様としたが、一刀の元に斬り伏せられ絶命。侍として勇敢に立向ったのはこの二人だけで、その他の者は、布団部屋、厠、縁の下などに逃げ込んで息を殺して潜んでいた。井上政之助の如きは無刀のまま、袴もはかずに自分の屋敷まで逃げ帰り、父に叱られ帰城したという腰の抜けようであった。

外記は二階に人影が無くなると、階下に下り縁側に出て手水鉢の水で血刀を洗いながら、悲痛な声で「安西を討ち漏らしたのは残念」とひとりごとの後、しずくの垂れる刀を2、3回打ち振った後、懐紙を取り出し静かに拭い、刀にキリキリと巻き付けたと見るや、掛声もろとも刀を頸に突立て、身体をくの字に折り曲げて倒れた。時刻は丁度七つ時(午後4時)の頃であった。

 この時の刀も「村正」だったといわれている。元来この松平家にはかねてから「村正」が伝来していて、父親の忠順は「村正は血を見ねば鞘に納まらぬというが、そんな刀は当家には無用なり」と帯刀を禁止していた。その日の外記はこの教えを守らず、敢えてその「村正」を帯びて登城をしたと云う。これはまさに覚悟の上の事だった。この刀は事件後に菩提寺である、深川の「霊厳寺」に納められた。明治14年の大火に同寺が類焼した際に灰塵の中に焼身となった脇差が一振りあったそうだが、住職は気にも留めず古鉄類と一緒に売り払ってしまったらしい。

 「村正」の妖刀伝説を眺めてきたが、江戸も末期になると庶民の刀工の知名度としては、「村正」は群を抜いていた。その理由は数々の伝説・事件のほかに、庶民の大好きな娯楽であった芝居のなかで、「村正」が取り上げられたからだった。主な演題をあげると「八幡祭小望月賑」・「木間星箱根鹿笛」・「青楼詩合鏡」・「敵討天下茶屋聚」・「籠釣瓶」・「切籠形京都紅染」・「籠釣瓶花街酔醒」・「花菖蒲佐野八橋」・「赤格子血汐船越」などである。

麦さん、「妖刀村正」の話はこの辺でお仕舞としよう。

2016.07.02   えんてつ   編集

ありゃ~上手くいきました♪

では、36番目を送ります。

歴史夜話36
江戸時代の武器の保管記録のなかには、かなりの武家の蔵刀の中に「村正」又は「村正銘」を改ざんして、正広や広正、村忠、などに直した銘の刀が多い。これらは幕府がいくら村正を禁令?としても実質的には依然として村正の愛好者が数多くいた証拠だろう。
 
時代に関係なく「村正」を愛好した武将を見ると・・・・
豊臣秀吉は「正宗」を好んだが、戦さ働きの論功行賞として多くの「村正」を与えている。 形見としては、堀内安房守氏善、赤松上総介則房、加加江孫八郎重望などへ下賜している。

「村正」を好んだ武将は、関白豊臣秀次、前田利家、佐久間盛政、長束大蔵正家、宇喜多秀家、足利政知(堀越公方)、蜂須賀小六、福島政則、鍋島勝茂、石田三成、木村長門守、真田幸村、松平光通(家康の孫,越前福井の藩主)、松平定信(老中)などそうそうたるメンバ-が並ぶ事になる。

「村正」は刀としての実力が抜群の為に愛好者が多く、家康の廃棄命令後も各地で秘蔵された。なかにはご本人の遺品の中に目録として「村正」が記録されていたりした。尾張家の刀剣台帳には「潰し物になるはず、用たち難き部類に入れ置く事」と書き込みがされている「村正」が、現物は潰されずに今日まで残っているものがある。仙台藩の三好家の「狐切り村正」、肥前小城藩主・鍋島家の「題目村正」、これ等は当時から有名であったが、何の咎めも無く現在まで継承されて来ている。

だが、逆に運の悪い人もいた。1632年(寛永9年)豊後府内の城主、竹中采女正重次は長崎奉行となって、切支丹禁令の時に威力を発揮した「踏み絵」を発案した。この重次と堺の商人で長崎に移住してきた平野屋三郎右衛門とが、その妾を巡り大騒動となった。平野屋は江戸に登り奉行所へ訴え出た。そして取り調べが始まると重次の密貿易他の悪行が次々に暴かれた。その中に徳川家に「廃棄せよ」と云われた「村正」が大小24腰も隠匿されていたのが露見した。1634年(寛永11年)不届千万ということで、お家は断絶、家財は没収、重次は息子の源三郎共々切腹という重罪になってしまった。

妖刀と噂されるとなると巷でも話題になる。妖刀村正の禍は日本各地でおこった・・・・歴史夜話37に続く

2016.07.02   えんてつ   編集

では、35の上を送ります。

歴史夜話35の上
日本刀には名刀と呼ばれる逸品ばかりではない。相手を殺傷するという性質上、いわく付きの日本刀というものも登場する。その中には「妖刀」として伝わるものも存在する。

戦国時代になると戦の規模も大きくなり、日本刀の需要も大きく増加する。そして「折れず、曲らず、良く切れて、安い」という日本刀が求められるようになったのは当然だろう。そうした状況に中で人気を博したのが「村正」という日本刀だった。「村正」は「焼き蛤」で有名な伊勢の桑名(三重県桑名市内)周辺の刀鍛冶集団によって製造が始まった。そして江戸時代初期には桑名城周辺も整備され村正の一族も城下片町に居を構えていたらしい。

しかし、今から200年ほど前に村正家は断絶し無縁となり墓碑も撤去されてしまったため村正家の歴史は闇に包まれていた。ところが昭和9年に桑名市の仏眼院の墓域に於いて、「千子宗入禅定門承応四乙亥年正月十六日」という千子新右衛門の墓が土中に半ば埋もれているのを刀剣研究家の水谷長之助氏が発見し、それを契機として長らく不明であった村正家の自暦が解明され公式に認知される事となった。

「妖刀村正」この言葉、麦さんも一度ぐらいは耳にしたことがあるかと思う。これは徳川家で起こった事件や災いに「村正」が関係することが多かったことから来た言葉です。家康が「村正廃棄令」を出すに至るまでにどんな事件があったのでしょうか?

2016.07.02   えんてつ   編集

麦さん
35の下が上手く送れません。
また明日、時間のあるときに挑戦します。

2016.07.02   えんてつ   編集

えんてつ さん

v-278

7月に入り、もしかしたら梅雨明けと思いそうな晴れです。

お忙しい中を、ありがとうございます。
PCかブログか、何が原因か分かりませんが、うまくいきませんね。

2016.07.02   麦   編集


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