今年は <熱> かな 


どちらの化粧仮面も好きになれなかった二人の女性のコントによる 流行語の <ダメよ! ダメダメ~!> が 壊れた人形という設定と知って 真っ白い顔面に納得
 
独創的なユーモアセンスも評価されたようで 遅ればせながら エレキテル連合 に拍手です

私が子供のころ  年末に社会を賑わす話題と言えば レコード大賞くらいしか記憶にないけれど 最近は漢字一字で この一年を表すのも恒例となったようで 聞くところによると とあるジャンルでは デング熱 エボラ出血熱 錦織選手のプレーや消費税8%に纏わる熱い思いなどから 今年は <熱> か という予想もあるらしい

さて その予想は当たるかどうかですが 相変わらず 私の 種まき熱も 健在

DSCN3534.jpg


一時は限界を感じて挫折したけれど もしかしたら私にも あの透き通る音が出せるかもしれない という期待から再燃した 二胡の熱 と言うことで 私も <熱> の一年だったかもしれません

中でも もっとも高熱に侵されたのは 信長への 熱い思い ・・・ 

歴女さんに聞こえたら 微熱 いえ 小学生の社会科にも及ばない平熱程度と笑われそうですが もしも脳が透けるメカがあったとしたら きっと今の私の脳をマッカッカに燃やしている熱は 戦国時代

いくつもの戦いがあって 後に続いた江戸の開幕は喜ばしいところだけど もしも秀吉が家康を滅ぼしていたら?


歴史相聞 問-10
秀吉が家康を滅ぼすチャンスは さて あったでしょうか  

難しい ・・・
 
秀吉の家臣の中にも 家康を慕う武将がいたかもしれません
農民からの信望も厚い家康
本能寺の後の光秀の思惑が外れた例もあるし 家康自身の謀反も有り得る としたら 秀吉が家康を滅ぼすチャンスには恵まれなかった ・・・ かな ?




昨夜、送信を繰り返しても更新が反映されないので、管理画面を彷徨っていたら、拍手に伴うコメントが表れました。
ありがとうございます、と共に、長い間、気付かずに申し訳ありませんでした。
歴史問題についてのコメントも、確かに拝見しましたよ (^^♪
私も、今ごろになっての挑戦です。
よろしかったら、ご意見、ご参加、ご一緒に (*^-^*)v




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コメント

今晩は(^-^)
今年の一言「税」でしたね

私の今年の熱…
後半は麦さんのブログ探しでしたね*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

麦さんの二胡聞いて見たいですね

2014.12.12   h.j   編集

h.j さん

税、でしたね~!
8%のプンプン熱、ちょっとだけ関係ありましたね。

おぉぉ、ブログ探し熱、ありがとうございます♪♪♪
お熱が出る前に、引っ越し先を公開すればよかったです、、、、

どっちみち早々と検索されたダレカ、、、
今日も、お見えのようですし、、、(≧▽≦)

私の二胡ですか!
麦も、おだてられると木に登りますので(*^-^*)
いつか動画で公開できますように、頑張りますね!

2014.12.13   麦   編集

麦さん、こんにちは。

何とかして自民党与党を打ち負かしたいと思うのですが・・・・・


さて、歴史相聞続けましょう。  そうそう歴史相聞の輪っかが大きくなると楽しそうです。

>秀吉が家康を滅ぼすチャンスには恵まれなかった・・・

これは歴史的事実だとは思います。ただ、チャンスらしきはありました。
年譜順では、最初は「小牧長久手の戦」、次は「小田原征伐」のとき、その次は「朝鮮出兵」時、 最後は秀吉亡き後の「大阪冬・夏の陣」。

「小牧長久手の戦」は、織田家の跡目争いの代理戦争で、秀吉、家康とも覚悟を決めて雌雄を決する気持ちはなかった。ただ、秀吉が天下人となった証としては、家康より上位にいることを示す必要だけの意味でしかありませんでした。家康を倒すという気持ちがあれば、そもそも陣立てから変わっていたと思います。そして、家康を倒すことは不可能ではなかったと思います。

「小田原征伐」のときは、歴史的に見てこの時が最大のチャンスだったと思います。何せ、家康は北条氏直に娘を嫁がせていたのですから、いちゃもんをつける理由がありました。そして、何よりも秀吉軍22万の軍勢が関東に集結したのですからね。北条氏が降伏した瞬間に家康を攻めれば勝機はあったと言えるでしょう。また秀吉の家臣の中には家康討伐を進言する武将もいたはずです。北条氏は秀吉にとって、天下人になる最後の敵で300万石の敵雄でしたから、その後の大戦は考えにくかったのだと思います。

「朝鮮出兵」は豊臣家滅亡の元凶でした。これにより秀吉家臣団は分裂し、家康の思う壺になりました。この時の強大な軍事力を徳川家に対峙させれば徳川家滅亡の危機になったことは間違いないでしょう。秀吉を諌める家臣はいましたが、その多くは家康の政治力に影響されて、命がけで止めるようなことはなかったのです。

「大阪冬・夏の陣」では、10万に余る兵が大阪城に集まりました。十分な蓄財もありました。また日本一の比類なき堅城でしたから、十分に勝機はありました。惜しむらくは戦略においても戦術においても意思統一が無かった。集結した武将の実力本位の戦になってしまったことが敗因だと思います。家康は野戦の神様でしたから、堀をほとんど埋められた大阪城はもはや落ちたも同然だったと思います。ただ、冬の陣の手打ち文書を保護にして夏の陣となりましたから、家康の謀反だったことは間違いありません。





問-11
信長、秀吉、家康から少し離れた話題になりますが・・・・
徳川家は、家康、秀忠、家光の三代でほぼ完全な徳川幕府体制を構築しました。家康は創業者としての権威があり、また長生きしたことが幕府にとって大きなプラスになりました。
ところで、秀忠、家光の果たした役割とは何でしょう。

問-12
家光のころの徳川家の石高はいくらぐらいだったのでしょう?

2014.12.17   えんてつ   編集

えんてつ さん

地球の敵ですね。
私も参戦しますよ~! 

歴史に興味があっても、私も含めて、苦手な女性が多いかもしれませんね。
問題と解答をご覧くださって居られるようですので (*^^)v
間違った回答でも解説があるから安心です。


忘年会で、、、
飲み過ぎ、食べ過ぎ、歌い過ぎ、、、?
昨日、コメントは拝見していましたが、、、、(^▽^;)
問ー11 問-12
これから取り掛かりますね。



秀吉の朝鮮出兵は、やはり失敗でしたか。

淀が和議を受け入れれば、大阪城は残ったでしょうか?
それとも、淀の性格を思えば、家康・秀忠は淀を生かしておくわけにはいかなかったのでしょうか?

2014.12.18   麦   編集


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